神仕掛けの中で登場した竹内文書と正統竹内文書

天津教教祖・竹内巨麿が生まれたのは、1875年であると言われています。ちょうど、正統竹内家が秘蔵していた神宝・古文献類が盗掘され、第72世武内宿禰こと第12代竹内三郎太郎がそのショックから立ち直れなかったため、次の世代に秘儀・伝承を伝授することが出来なくなっていた時期とほぼ合致します。結局、次の武内宿禰が継ぐはずだった秘儀・伝承は、竹内睦泰氏が19歳になる時まで、すなわち1985年か1986年まで、12の長老家によって分散・相承されることになります。

一方、富山の小作農・竹内三郎右衛門に引き取られた孤児の巨麿は17歳のころ、養祖父の三郎右衛門から「先祖伝来」の古文書と神宝類を譲り受けます。これが後に「竹内文書」と呼ばれるものです。巨麿は京都の大悲山での修行などにより「神通力」を得て、1910年に茨城県磯原で皇祖皇太神宮天津教(後に天津教)を創設。1922年ごろから竹内文書の整理を始め、徐々にそれを公開していきました。ところが、この神宝類・古文献公開が、当局による弾圧を招きます。巨麿は1936年、神宮神祠に対する不敬罪、文書偽造などの容疑で逮捕され、古文献・神宝類も証拠として押収されます。1944年12月17日に巨麿は無罪になりますが、押収されていた数千点に上る古文献・神宝類は翌45年の東京大空襲で大半が焼失してしまいました。

戦後も巨麿の受難は続きます。GHQによって教義が非民主的で不健全であるとして一時活動停止処分を受けたこともあったそうです。それでも巨麿は残された古文献と神宝類を守りながら天津教を再興、既にお話ししたように1965年1月27日に亡くなりました。

と、ここまで書いて、何かシンクロニシティ―を感じる人がいたとしたら、かなり勘の鋭い人です。
既に述べたように、ちょうど武内宿禰職が不在だった時期、竹内巨麿が表舞台に立ち、竹内文書を公開しました。
しかし本当のシンクロニシティはここからです。
巨麿が1965年1月に亡くなり、竹内睦泰氏が1966年12月に生まれます。
65年1月と66年12月と言うのは、何か意味深だと思いませんか。
古い竹内文書から新しい竹内文書への移行期間を象徴しているようでもあります。
また睦泰氏は12月17日生まれですが、それは奇しくも巨麿が無罪の判決を受けた日と同じです。無罪判決のちょうど22年後に睦泰氏が生まれているんですね。同時にそれは拙著『竹内文書の謎を解く2―古代日本の王たちの秘密』が発売された日でもあります。

そして今回また、シンクロニシティが発生しました。
私が今年書いた二冊の本は、一冊が正統竹内文書を中心にして書いた『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』で、もう一冊は竹内文書と正統竹内文書の双方を取り上げた『竹内文書と平安京の謎』でした。別々の出版社に別々の時期に原稿を送ったにもかかわらず、同じ7月に二冊とも発売されました。別に示し合わせたわけではありません。むしろ出版社は同一作者の著作は時期を離して出版したいものなんですね。だからこの二冊が7月に発売されたのは、まさに偶然でした。

ところがもう一つ「偶然」が重なりました。
巨麿の孫で、茨城の皇祖皇太神宮の管長である竹内康裕氏が別の出版社から、何と同じ月に『竹内文書と神秘秘伝の術事』という本を出版したんですね。私は康裕氏とは会ったことはありませんが、2003年に一度電話で話をしたことがあります。しかも、康裕氏が当時住んでいた場所は、私が当時住んでいたところと同じ駅のご近所さんでした。

こうしたシンクロニシティが発生するのは、このタイミングを計っていた「神様」がいるということにほかなりませんね。
竹内文書の本と正統竹内文書の本、それにその二つを合わせた本という三冊の本が同じ年の同じ月に発売されるというのは、神仕掛けとしか思えません。

つまり神様から見れば、竹内文書も正統竹内文書も、どちらが本当で、どちらが正しいというものではないんです。
どちらも神仕掛けの中に出てきた「本物」です。ただ、それぞれの役割があり、「コーヒー党か紅茶党の違い」と言うだけの話。
すべてが神のプログラムによって出てきています。

だからこそ巨麿の亡くなった日に、神事と占いの真の意味を知る天皇が皇祖皇太神宮に密使を派遣したのだと、私は思っています。
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