竹内巨麿の死去を知った天皇家が派遣した二人の神主

1965年1月27日未明。天津教教祖で「竹内文書」を世に出した竹内巨麿が亡くなりました。
ここからは、その巨麿の葬儀に参列した自由宗教一心会の浅見宗平氏が『自由宗教えの道 ふしぎな記録第四巻』の中で書いていることの要約となりますが、巨麿が亡くなった27日、天津教の皇祖皇太神宮を勅使(天皇の意思を伝達するために派遣される特使)が訪れたのだそうです。

どうして天皇家が巨麿の死去を知ったのか、わかりません。天津教関係者が知らせたのか、あるいは別のルートで知ったのか。いずれにしても、巨麿の死を知った天皇家が勅使を茨城県磯原の皇祖皇太神宮に派遣したわけです。勅使は二人で立派な装束の神主さんであったと言います。

で、その勅使(神主)が何をしたかというと、皇祖皇太神宮において「皇祖皇宗にお伺いを立てた」というんですね。皇祖皇宗とは天照大御神に始まる天皇歴代の祖先のことです。つまり二人の神主が、皇祖皇太神宮で神事によって「天皇の祖先のお告げ」を聞いたということになります。

そしてその「お告げ」の内容を、皇祖皇太神宮近くの宿屋「磯原館」で休憩を取っていた浅見氏のところに勅使が知らせに来たのが同日午後7時半ごろであった、と浅見氏は言います。同氏は、そのときの様子を次のように書いています(句読点など一部改訂してあります)。

「夜7時半ごろでした。磯原館の前に自動車が止まったと思いましたら、突然大きな声で『勅使』と言って、立派な装束の神主さんが二人入って来ましたから、旅館の人たちはビックリして頭を床に擦り付けるように下げていました。そして二階へ上がって来るとまた『勅使』と大声で言いながら足早に来ますので、山根先生(注:『キリストは日本で死んでいる』などを著した竹内文書研究家・山根キクのこと)はてっきり自分たちの部屋来るものと思って、急いで部屋に戻りました。山根先生の部屋を通り過ぎて私の部屋の前に立った神主さんが『勅使』と言って入って来ました。立派な姿の神主さんでした。部屋へ入ると着座して『本日皇祖皇太神宮に於いて皇祖皇宗にお伺いをたてましたるところ、一神会会長の指図に従えとのことであります。これにて勅使は戻ります』と言って、神主二人は戻りましたが、山根先生や文献学者が驚いて、私の部屋へ入って来ました。そして急に言葉使いを改めて『一体どうなっているのですか。会長先生は文献も宝物(注:いわゆる「竹内文書」のこと)も見ていないそうですが、どうも私にはわからない。今の勅使のことにしましても驚きましたよ。これからどうなるのですか。知らない人ばかりで心配はないのですか』と言いましたので、私は『神様の御意(みこころ)のまにまにやりますよ』と言っておきました。」

面白いでしょ。次回、この「神仕組み」「神のプログラム」について私なりに説明いたしましょう。
(続く)
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