「倭の五王」は誰であったのか、という問題

「倭の五王」についても言及しておきましょう。
倭の五王とは中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武のことです。

『古事記』では第十代崇神天皇以降は天皇没年の干支が記されるようになったことは既に述べました。私はこれがかなり現実的で正確ば記述なのではないかと思っています。少なくとも『日本書紀』の干支よりもはるかにましです。

讃が中国に朝献したのが西暦413、421、425年ですから、この時代の王(天皇)は398~427年の間に在位したとみられる仁徳になります。ただし、仁徳の本名は大雀命(おほさざきのみこと)ですから、なぜ中国側が「讃」という字を充てたのか不明です。美徳や仁徳を褒め称える「讃」という意味でしょうか。

珍は438年に「倭王讃没し、弟珍立つ」として紹介されています。ところが438年は非常に微妙な年で、『古事記』ではその前年の437年に反正天皇が亡くなり、仁徳はさらにその10年前の427年に亡くなったことになっています。ということは、438年から過去を振り返って、「仁徳が10年前に亡くなって、弟の珍が王位を継いだらしい」という意味でしょうか。

この珍に該当するのは、おそらく433~437年の間在位した反正天皇です。記紀の記述では仁徳の弟ではありませんが、428~432年の間在位したとみられる兄の履中天皇の後を受けて第18代天皇に就任しています。次の允恭天皇も兄の反正から王位を継承していますから、珍の候補になりえますが、在位期間は次の王「済」と一致しますから、必然的に候補から外れます。

つまり、消去法で行くと、珍の候補は反正天皇しか残らないんですね。中国側では履中など途中経過を省略して、仁徳(讃)が死んだ後、前王(履中)の弟の反正(珍)が王位を継いだらしい、という意味で書いたのではないでしょうか。

でも、なぜ「珍」なのでしょうか。反正の本名は、水歯別命(みずはわけのみこと)、あるいは多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)です。「瑞」と「珍」は似てなくもありませんが、「瑞歯」など珍しい名前だから付けたのかななどと想像してしまいます。

済は既に紹介したように438~454年の間在位したとみられる允恭天皇しかありえません。『宋書』夷蛮伝では、443年に宋・文帝に朝献して「安東将軍倭国王」とされ、451年には「安東大将軍」に進号しています。本名は、男浅津間若子宿禰王(おあさづまわくごのすくねのみこと)、あるいは雄朝津間稚子宿禰尊とも書きます。「津」が「済」になったのでしょうか。

『宋書』孝武帝紀、倭国伝に、「462年、済の世子の興を安東将軍倭国王とする」と書かれている「興」は、安康天皇でまず間違いありません。兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)との間で王位継承争いがあったため、即位したのは何年かよくわかりませんが、父・允恭の死後から466年まで在位したとみられます。本名は穴穂皇子(あなほのみこ)。国が安穏になり栄えたので「興」なのでしょうか。

最後の武は、明確に雄略天皇とわかります。本名の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)に「武」そのものが入っているからです。在位期間は安康天皇が亡くなった466年から489年までとみられます。『宋書』夷蛮伝に書かれているように、兄の「興」が死去して王となりました。478年には「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」、479年には鎮東大将軍(征東将軍)に進号しています。

こうしてみると、『古事記』の天皇没年の干支はかなり正確で信頼がおけるのではないかと思われます。
(続く)
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