記紀および口伝と「魏志倭人伝」との事象の整合性について

「魏志倭人伝」の次の記述にも着目してみましょう。

「・・・邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、・・・」

この「いきま」「みましょう」「みまかくき」「なかてい」に該当する人物は実在するのでしょうか。
調べたところ、実際にこの名前に近い人物が何人か浮かんでくるんですね。

口伝継承者の竹内氏は、このうち「いきま」はイクメイリヒコ、すなわち垂仁天皇ではないかと言います。「いきま」と「イクメ」、確かに似ています。すると、「みまかくき」はミマキイリヒコでしょうか。崇神天皇の別名です。垂仁は崇神の息子ですから、時代考証的には合っていますね。

「なかてい」はわかりません。「みましょう」はミマツヒコカエシネ、つまり孝昭天皇(西暦140~170年ごろ在位したとみられる第5代天皇)の可能性がありますが、時代的に離れすぎていますから、別の人物であったかもしれません。

それでも四人中二人に該当者がいる、しかも時代考証的にも間違っていないというのは、傍証ぐらいにはなるでしょうか。

また「魏志倭人伝」に記されている、卑弥呼が女王になる前に起きた「倭国大乱」についてはどうでしょうか。
正統竹内家の口伝では、「卑弥呼」とみられる倭迹迹日百襲姫の兄に当たる孝元天皇の時代に、東国反乱に破れ、いったん九州に落ち延びたことになっているそうです。するとこのとき、倭迹迹日百襲姫が祭祀王に立ち、統治王の兄とともに反撃、再び大和を奪還したのだと解釈することもできますね。ここでも口伝と「魏志倭人伝」の記述が一致するわけです。

では「魏志倭人伝」に247年ごろに卑弥呼が死去して男王が立てられると、再び内乱となり、壹與(トヨ)が王に立てられてようやく国は治まった、と記されている点はどうでしょうか。

既に触れましたが、247年の当時の統治王は崇神でした。統治王になってから既に10数年は経っていたでしょうか。だから、おそらく「魏志倭人伝」に記録されている「男王」とは第九代祭祀王の彦太忍信であると考えられます。230年ごろに亡くなったとみられる開化天皇の異母弟です。

記紀には彦太忍信の事績に関する記述がありません。でも『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫が箸で陰部をついて死んでしまってからしばらくして、崇神が群臣に対して次のようなことを言ったと書かれています。

「今は叛いていた者たちはことごとく伏した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐに出発せよ」

確かに倭迹迹日百襲姫の死後、国内に内乱があったことが示唆されていますね。
そして崇神の娘(口伝によると、実際は姪=姉・倭迹迹姫の娘)に当たるトヨスキイリヒメ(トヨ)が伊勢神宮祭主になったときに、その内乱が収まったと解釈することができます。

口伝及び記紀と「魏志倭人伝」の記述との間に整合性があるわけですね。
(続く)
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