「魏志倭人伝」と『日本書紀』の記述はかなり一致する

どうして第八代祭祀王(祭主)に倭迹迹日百襲媛が選ばれたかは、定かではありません。おそらく倭迹迹日百襲媛の母親が重要な意味を持っていたのだと思われますが、残念ながら母親の倭国香媛(やまとのくにかひめ)の出自はよくわからないんですね。

でも日向国の女王アマテラスも祭祀王であったことは間違いないと思われますし、口伝が正しければ神武の正妃イスズヒメも祭祀王になっているわけですから、孝元天皇の妹が、他の弟を差し置いて、祭祀王になっても問題はなかったはずです。

実際『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛媛が崇神天皇の時代に「巫女」として大活躍したと記されています。また「三輪山の大物主」の妻になったとも書かれていますから、イスズヒメと同様、出雲系古神道の祭祀や秘儀を受け継いでいたことが示唆されていますね。祭祀王の資格や資質が十分にあったことが、こうした記述からもわかります。

さて、その『日本書紀』によると、例によって大物主は倭迹迹日百襲媛に夜這いをかけます。しかし夜では顔がよく見えないので、倭迹迹日百襲媛は夫の大物主に姿を見せてくれと頼みます。大物主は驚かないことを条件に了承するのですが、いざ蛇の姿を現したところ、姫は約束に反して驚いて叫んでしまうんですね。それを見た大物主は怒って三輪山に飛んで行ってしまいます。大物主が去ったことに落胆した姫はその場にドスンと座り込むのですが、その際、箸が陰部に刺さって死んでしまった、というんですね。

機織りの道具がアマテラスの機織り女の陰部に刺さって死んでしまった話や、イスズヒメの母親が厠で用を足している時に朱塗りの矢に刺された話、それに今回の箸が陰部に刺さって死んでしまった話は、どれもとてもよく似ています。巫女が祭祀王になるときに必ず出てくる話なのかなとも思ってしまいますね。

それはさておき、この話の重大な点は、その後の『日本書紀』の記述です。「それで(倭迹迹日百襲媛を)大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という」と書かれているんです。これがどうして重要かというと、この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致するからです。しかも当初は卑弥呼の時代と合致しないとみられていた箸墓古墳の築造年代は、最新の科学年代推定により、卑弥呼の時代(3世紀半ば)の古墳であることがようやくわかって来たんですね。

これは倭迹迹日百襲媛=卑弥呼説を裏付ける、かなり有力な証拠ではないかと思うんですね。

既に指摘したように『日本書紀』では、倭迹迹日百襲媛は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしています。一方「魏志倭人伝」には、「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)と記されています。卑弥呼が倭迹迹日百襲媛で、男弟が崇神天皇だとすると、その関係は極めてよく似ていますよね。

しかしながら、ここには問題もあります。記紀によると、倭迹迹日百襲媛は崇神天皇の「大叔母」であって、姉ではないからです。
でも、ご安心ください。正統竹内家の口伝を読み解けば、この矛盾も解消してしまうんですね。
(続く) 
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