卑弥呼は二人いた!

『魏志倭人伝』に記された卑弥呼とは誰だったのかーーー正統竹内家の口伝によると、卑弥呼の候補者は二人います。一人は第七代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)です。箸墓古墳に埋葬されているのではないかと考えられている人物ですね。孝霊天皇は、そのひ孫とされる崇神から逆算すると、だいたい2世紀半ば~3世紀前半(160~210年ごろ)の人物である計算になります。その娘であれば、2世紀後半の生まれとなりますから、247年に亡くなったとしても、時代的には合っています。

ところが、口伝では時代的、事跡的に『魏志倭人伝』の記述とはどうしてもそぐわない面が出てくるのだそうです。その矛盾を埋めるのが、第8代孝元天皇の皇女・倭迹迹姫(やまとととひめ)だと口伝継承者の竹内氏は言います。孝元天王の皇女(孝霊天皇の孫)でも、2世紀末~3世紀初めの生まれでしょうから、時代的に卑弥呼と合致します。竹内氏の説では、卑弥呼と呼ばれた女王は二人いたことになります。その二人を同一人物であると『魏志倭人伝』の編者が勘違いしたというんですね。確かにどちらも非常によく似た名前で、叔母と姪の関係にあるので、外国から見れば区別がつかなかったことも考えられます(実際、江戸時代の国学者本居宣長の『古事記伝』ですら、二人は同一人物ではないかとする説が紹介されているそうです)。

ところでその根拠ですが、倭迹迹日百襲姫が第八代祭祀王であったという口伝があるからだと竹内氏は言います。卑弥呼は第八代目の祭祀王であったと聞いて、驚かれる方もいるかもしれませんが、口伝では西暦56年に大和国に統一王朝(大和王朝)が誕生して以来、必ず統治王と祭祀王を共立したというんですね。

具体例を挙げると、第一代統治王(天皇)は神武、第一代祭祀王(祭主)はイスズヒメでした。統治王は天皇と同じですから、記紀の記述通りです。一方、記紀には記録されていない歴代祭祀王は次のようになります。

第二代祭祀王・神八井耳(綏靖天皇の兄)、第三代研耳(タギシミミの息子、『古事記』では神武の子になっている)、第四代師木津彦(懿徳天皇の弟)、第五代武石彦奇友脊(孝昭天皇の弟)、第六代天足彦国押入(孝安天皇の兄)、第七代大吉備諸進(孝霊天皇の兄)、第八代倭迹迹日百襲姫(孝元天皇の妹)。

お分かりになりましたでしょうか。第二代から第七代までは基本的に、兄弟で祭祀王(祭主)と統治王(天皇)を分けていたんですね。長子相続が前提なら、祭祀王に兄がなったなら、弟は統治王に、兄が統治王になったら、弟は祭祀王になったのではないかと思われます。統治王と祭祀王は共立していた、つまりセットだったわけです。

そこで思い出すのは、『魏志倭人伝』の記述です。

倭国の混乱を鎮めるために、卑弥呼という一人の少女を女王に「共立」したと書かれていましたね。あまり注目されていませんが、女王のほかに王がいたことが間接的に記されているわけです。それが統治王と祭祀王であったとすると、辻褄が合います。

で、第一代祭祀王のイスズヒメ以来、久しぶりに王女が祭祀王になったのが、第八代倭迹迹日百襲姫であったというわけです。
(続く)
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