神武は何年に何歳で逝去したのか、という問題

「神話の時代(神武以前の神代)」から「伝承・歴史の時代(神武以降)」に突入すると、決定的な証拠とはならなくとも、ようやく歴史的な資料により、口伝や伝承の内容が本当なのかどうか、ある程度の裏付けを取ることができるようになります。

たとえば、後漢書倭伝(『後漢書』「東夷傳」)に「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり、光武賜うに印綬を以ってす」という記述があります。これが九州の志賀島で発見された「漢委奴国王」であるとすれば、「金印を授与される一年前に神武が即位した」という正統竹内家の口伝と照合することにより、神武の即位年が西暦56年であったのではないか、と推論できるわけです。

ところで、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」がなぜ神武と結びつくのかというと、神武の諱が「神倭磐余彦(かんやまといわれびこ)」であることと、神武の幼名が「狭野(さの、さぬ)」であることだと口伝継承者の竹内氏は説明します。確かに神武の諱と幼名を合体させると、「かんやまとぬこくおう」となりますから、かなり似ています。決定的な証拠とは言えませんが、一つの説として説得力が出てきます。少なくとも、神武の在位期間を紀元前660~同585年としている『日本書紀』よりはるかに現実的で意味がありますよね。

で、神武紀元=西暦56年説を突破口にして、他の歴代天皇や王たちの系図が歴史的資料と整合性があるかどうかをチェックして行けばいいわけです。

正統竹内家の口伝を参考にすると、神武は23年在位して西暦78年ごろ74歳で逝去、その二年後の80年(庚辰)に統一王朝の王に綏靖が即位しているようです。おそらく、この空白の二年間に「タギシミミの反逆」があったわけですね。

次に安寧ですが、安寧が即位した二年目に中国に遣使したという口伝があるそうです。「後漢書倭伝」には安帝の永初元年(107年)に後漢に朝貢した倭国の帥升(すいしょう)という王が登場します。安寧の諱は「師木津日子玉手見」ですから、「師」と「帥」で極めて似ていますよね。ということは、安寧元年は西暦106年ではないかと推察することができます。

こうした作業を続けて行けば、神話や伝承がより現実味を帯びてくるわけですね。それが可能になるのが、神武以降ということになります。
(続く)
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