ふたりの「コトシロヌシ」ーークシヒコとツミハ

神武の側室イスケヨリヒメの父親がオオクメ、神武の正妃イスズヒメの父親が「大和のコトシロヌシ」ということで議論を進めます。

この大和のコトシロヌシが、アマテラスの玄孫の子である神武とほぼ同世代と見なせるのは、オオナムヂの息子であるコトシロヌシ(出雲のコトシロヌシ)の子の世代ぐらいでしょうか。その世代なら、スサノオのひ孫となるので、段々とつり合いが取れてきます。ただし既に50歳ぐらいになっていたとみられる神武の正妃となるぐらいですから、イスズヒメは若かったのではないかと思うんですね。すると、「大和のコトシロヌシ」は「出雲のコトシロヌシ」の孫(スサノオの玄孫)か、ひ孫(スサノオの玄孫の子)の世代である可能性すらあります。
 
一体何世代分、記紀編纂者がコトシロヌシの系図を削ったのかはわかりませんが、議論を進める上で、便宜上「大和のコトシロヌシ」をスサノオの玄孫の世代と位置づけ、イスズヒメはスサノオの玄孫の子の世代であると仮定しましょう。

すると、ちょうど都合のいいことに、古史古伝に分類される『ホツマツタヱ』にはスサノオの玄孫にツミハという「コトシロヌシ」が出てくるんですね。加えて、そのツミハと三島のタマクシヒメとの間には、タタライソスズヒメが生まれたことになっています。イソスズと言えば、「五十」と「鈴」でイスズヒメとなりますね。

『ホツマツタヱ』によると、ツミハは、オオナムヂの子であるクシヒコ(出雲のコトシロヌシ)の子コモリの息子ということになっています。コトシロヌシとは、「大物主」の業務を代行・補佐する役職で、「ツリ(連)」とも呼ばれ、オホナムヂがクシヒコを初代「コトシロヌシ」としたことに始まったというんですね。

これって、結構面白い話だと思いませんか。神武がアマテラスの玄孫だとすると、ちょうど時代考証的に話が合っちゃうんです。しかもこれは『古事記』に書かれている話とも矛盾しません。

思い出してください。日向族の精鋭部隊の奇襲攻撃でオオナムヂが降伏した際、オオナムヂが提示した降伏条件の中に、自分のために「大空に千木を高々とそびえさせた神殿」を建造することと、「わが子コトシロヌシを神々の前に立ち後ろに立ってお仕えできるようにしてくれ」というものがあったことです。「神々の前に立ち後ろに立ち」とは、コトシロヌシの血統を新しくできるであろう統一王朝の王統の前後に組み込むことであるとも解釈できますよね。「出雲のコトシロヌシ」のひ孫に当たるイスズヒメが神武の正妃になることで、この約束は守られたことになります。

これでなぜ『先代旧事本紀』では「事代主」の別名を「都味歯八重事代主」と書いてしまったのか、という理由もわかったのではないでしょうか。『日本書紀』が2~3世代分出雲国の系図を省略して、「出雲のコトシロヌシ」クシヒコの孫に相当する事代主の「都味歯(ツミハ)」を同じ人物であるかのように記しているからです。もちろん『日本書紀』の編纂者にも言い分はありますね。「だって嘘は書いてないもん。ちゃんと事代主って書いたじゃん」と反論する姿が目に見えるようです。

つまり記紀編纂者は、日向族の系図はかなり真面目に、端折らずに記録している反面、出雲族の系図は3世代ぐらい省略したり、捻じ曲げたり、出自をわからなくしたりして、隠してしまっているということになりますね。
(続く)
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