柏森の神社の神・加夜奈留美命

亀石の後、向かったのは、明日香の山の中です。

山道を登っていく途中、畝傍山と二上山がよく見える場所に来たので撮影します。

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右が畝傍山。左奥に見えるのが二上山ですね。

山道を車で進むこと15分。
ようやく目的地に着きました。

明日香村柏森(かやもり)にある加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社です。

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元々は葛神社と呼ばれていましたが、地名の柏森(かやもり)から、カヤナルミを主祭神とする神社になりました。
単なる語呂合わせのようですが、こうしたシンクロニシティには意味があります。
飛鳥坐神社と同様、「出雲国造神賀詞」に根拠があります。
オオナムヂが国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすることを誓いますが、その中に「加夜奈留美命の御魂を飛鳥の神南備に坐わせ」と記されていることから、この山に違いないと考えてカヤナルミを祀っているわけです。

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ここにもうっすらとですが、加夜奈留美命神社と彫られているようです。

神社本殿。

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加夜奈留美命はオオナムヂとヤシマヂヌミの娘の子なのですが、謎の神でもあります。
別名が鳥鳴海神で、男神なのか女神なのかよくわからないんですね。
私は女神説で、しかも「加夜」から「カグヨヒメ(香用姫)」、「タカテルヒメ(高照姫)」説を採っています。
別名が天道日女。オオトシ(天火明)と結婚してアメノカグヤマを生んだ女神ですね。
アマテラス、スサノオ、オオナムヂの直系ということになります。
その女神とオオトシことニギハヤヒが結婚して生まれたアメノカゴヤマは、超優良ハイブリッドです。
その超優良ハイブリッドと、ナガスネヒコ一族のミカシキヤヒメとオオトシの間に儲けた異母妹ウマシホヤヒメが結婚して生まれた孫がヨソタラシヒメ。孝昭天皇妃となりました。
当時、いかに多部族間・多民族間の結婚が重視されたかがよくわかりますね。
それが統一王朝を作るための唯一の手段だったからです。
(続く)
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明日香の亀石

奈良県高市郡明日香村にある亀石。

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益田岩船や酒船石と並び、飛鳥の石造物の代表的な遺跡です。
二度目の訪問。
この石を見ると、岐阜・船山の山頂にあるイルカ石を思い出します。
シンプルさに共通点がありますね。

飛鳥社に鎮座する神様たち

丸山古墳の次に向かったのは、飛鳥社です。
奈良県高市郡明日香村飛鳥にある神社です。

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正式には飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)。

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どの神が鎮座しているかというと、八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)、飛鳥神奈備三日女神(アスカカンナビヒメノカミ)、大物主神(オオモノヌシノカミ)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)です。

このコトシロヌシは、オオナムヂ(大国主)の息子のコトシロヌシです。
オオモノヌシはオオトシのことですから、オオナムヂを助けた「大国主の奇魂」ですね。
でもここでは、オオナムヂのことをオオモノヌシとしているように思いました。

では、アスカカンナビヒメが誰かというと、実はよくわかっておらず、『出雲國造神賀詞』 に 「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天(賀夜奈流美の御魂の飛鳥の神奈備に坐て)」との記述があることから、「賀夜奈流美乃御魂カヤナルミノミタマ」とされています。
賀夜奈流美(カヤナルミ)は、オオナムヂがヤシマヂヌミの娘・鳥耳神(トリミミノカミ)と結婚して生まれた女神(鳥鳴海神の別名)とされています。
ヤシマヂヌミは、スサノオとクシナダヒメとの間に生まれた長男ですから、「神族」の直系ということになりますね。
ただし、カヤナルミは、同じオオナムヂの娘でも、高照姫(タカテルヒメ)、あるいは香用姫(カグヨヒメ)ではないかとの異説もあります。賀夜も香用もカグヤと読んだり、カヤと読んだりしますからね。
そうだとしたら、なぜオオナムヂとオオナムヂの子供たちと一緒にタカミムスビが祀られているかも納得できます。
なぜなら高照姫は、タカミムスビのひ孫(アマテラスの孫)に当たるからです。

どのような意味があるかわかりませんが、変わった顔の木彫があったので撮影しました。

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様々な異名を持つ神様の仮面なのかもしれませんね。
(続く)

奈良県最大の前方後円墳「丸山古墳」

藤原京資料館でふと目に留まった写真パネルは、奈良県最大の前方後円墳で、6世紀後半に築かれたと考えられている丸山古墳(まるやまこふん)。

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この古墳はあまりにも大きいため全体像が分からず、円墳と考えられていた時代もありました。
だから、前方後円墳であるにもかかわらず丸山古墳と呼ばれているのだそうです。

早速現地に飛んでみました。
こちらがその時の写真。

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確かに円墳部分が突出していました。
全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると全長約420mにもなる超大型の前方後円墳です。日本最大の横穴式石室があることでも知られています。
被葬者は不明ですが、欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙げられているようです。
(続く)

藤原京資料室の模型

藤原宮跡を訪れたときに、磐境か磐座のような石組みが残っていることに気がつきました。

その写真がこちら。

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南北方向に列になって並べられておりました。
城壁のような役割をしていたのでしょうか。それなら磐境と呼んでもいいかもしれません。
奥の中央やや右には三輪山が見えています。

畝傍山を背景にして磐境を撮影します。

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右の岩には楔の跡も付いていますから、建造物に使われた可能性もあります。

藤原宮跡に隣接して橿原市藤原京資料室があります。
そこには藤原京の立体模型が置いてありました。

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南から北に向けて撮影しましたが、中央奥の耳成山が中央線よりやや西に位置しているのがよくわかりますね。
左端の山が畝傍山で、右の山が天香山です。
天香山と耳成山を結んだ直線に対する畝傍山から引いた垂直二等分線が藤原宮の大極殿を通ることもこの模型から確認することができますね。
(続く)

藤原京の造り方

翌3月15日。
この日は寒く、小雪が舞う天気でした。

最初に向かったのは、藤原宮跡です。
初めて首都として計画的に造られた都市が藤原京です。
藤原京は日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」と呼ばれています。
その大極殿があった場所が藤原宮。

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北西方向の入り口から撮影したものですが、天香山が奥に見えますね。

藤原宮の大極殿があった場所付近から北の耳成山を撮影。

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右のこんもり茂った森が大極殿が建っていた場所だとみられます。

東北東の夏至の太陽が昇る方角にあるのが、三輪山。

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そして夏至の太陽が沈む方角にあるのが、二上山です。

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冬至の太陽が沈む方角にあるのは、畝傍山ですね。

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大極殿は畝傍山から、耳成山と天香山を結んだ直線に引いた垂直二等分線上に建造されました。
すべてが計算されて、配置されていることがわかりますね。
これが後に平安京にも使われた「タカミムスビ」による都建造法の原点とも言えるものです。
詳しくは拙著『竹内文書と平安京の謎』をお読みください。
(続く)

耳成山、畝傍山、二上山

昨日ご紹介した大歳神社のそばに、宿泊先のホテルがあります。
ホテルからは畝傍山や耳成山がよく見えます。
こちらが耳成山。

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本当に綺麗な円錐形の山ですね。
人工の山であることは間違いないと思います。

そしてこちらが畝傍山。

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左奥に見える山が二上山ですね。
この二上山と畝傍山を結んだ直線が、おおよそ夏至の日の入りラインとなるわけです。
(続く)

大歳神社と隠された神名

橿原神宮の比較的そばに大歳神社があります。

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小さな小山の頂上にあるのですが、神社の名前は見当たりません。
地図の上では大歳神社と記されているだけです。
名前を隠しているところがいいですね。
ご祭神の大歳神とは、もちろんニギハヤヒのことです。
スサノオの四男で、事実上の大和王朝の初代統一王です。
それまで大和の王であったナガスネヒコと和睦し、ナガスネヒコの妹のミカシキヤヒメと結婚しました。
それ以降、オオトシの名前は消されて、オオモノヌシとかニギハヤヒと呼ばれるようになりました。
オシホミミの息子として系図に入れられている天火明も、もちろん大年神の日向族からみた呼び名です。
ニニギの兄とすることによって、ニギハヤヒが大和に、ニニギは日向にそれぞれ天降ったことにしたんですね。

もちろんニギハヤヒは正統な王ですから、本来なら神武天皇はお呼びではありませんでした。
だけど和平派のニギハヤヒは、日向族の王子を、自分の孫かひ孫のイスズヒメの婿養子にして、真の統一王朝を建国しようとしたわけです。
これに不満だったのが、ナガスネヒコです。
この政略結婚自体を破たんさせようと、神武の兄イツセ(五瀬命)を殺しました。
大和国は蜂の巣をつついたような情勢になりました。
(続く)

畝傍山、神武天皇、そして八咫烏

崇神天皇陵の次は、三輪神社に行こうと思ったのですが、畝傍山の方角に日の光が降りているような感じだったので、畝傍山の橿原神宮に向かうことにしました。

橿原神宮に到着。

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橿原神宮と、その背後にそびえる畝傍山です。

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橿原神宮の主祭神は、もちろん「神倭野国王」こと神武天皇です。
中国からの金印には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれていました。
西暦57年のことだそうです。
そして神武天皇を道案内したのが八咫烏ですが、ちょうど橿原神宮の上空を飛んでいたので撮影します。

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八咫烏はカモタケツノミ、別名迦毛大御神(アヂスキタカヒコネ)とも言います。
その証拠写真がこちら。

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橿原神宮の池に、まるで神武天皇を先導するかのように鴨が泳いでおりました。
(続く)

『古事記の邪馬台国』の感想

面白いですね、15日に発売された竹内睦泰氏の『古事記の邪馬台国』。
誓約で生まれたとされる五柱の神のうちオシホミミを除く四柱はオシホミミとアマテラスの息子であるとしているんですね。
すると神武はアマテラスの孫になってしまいます。
しかも賀茂別雷神と神武は同母異父兄弟であるとしています。

この竹内氏が継承した口伝が本当かどうかはわかりませんが、これによってオオトシ(オオモノヌシ)の系図も圧縮しなければならなくなります。
これまではオオトシの息子オオヤマクイが丹塗り矢でその子がツミハヤエコトシロヌシとしていましたが、オオヤマクイがツミハヤエコトシロヌシと同一人物である可能性が出てきます。
同時に賀茂別雷神は鴨王ことクシミカタと同一人物と言うことになります。
クシミカタの父親とされる火雷神はオオヤマクイであると同時に鴨都味波八重事代主ということになるわけですね。

すると、ミゾクイミミとかスエツミミと言われているのは、タケチヌツミことタケツノミということになりますが、タマヨリヒメがミゾクイの娘だとすると、世代が合わなくなってしまうんですね。というのも、タケツノミがアマテラスの孫に当たるからです。
竹内氏の口伝では、タマヨリヒメはタケツノミの娘ではなく、妻であったといいます。しかも神武の育ての親である乳母であるともしています。これなら確かに何とか可能です。

そこで考えられるシナリオとしては、神武の乳母である、琉球の王女タマヨリヒメとタケツノミは結婚したが、そのとき既に火雷神ことオオヤマクイの子(別雷神)を宿していたというのが一つ。ただしこの場合、二人目のイスズヒメはタケツノミの子か、オオヤマクイの子かという問題が出てきます。

次の可能性としては、タケツノミがオオトシの養子となって、オオヤマクイとかスエツミミ、山末の大主神、ツミハヤエコトシロヌシなどと呼ばれたというのが二つ目。

そして、最後のシナリオとしては、タケツノミはタマヨリヒメと形式的に結婚(偽装結婚)したが、実際はタマヨリヒメとツミハヤエコトシロヌシとの間にクシミカタとイスズヒメが生まれた。そこでタマヨリヒメはタケツノミの養女ということにした。

この三つくらいのシナリオが考えられます。
果たして口伝が正しいのか、神のみぞ知る神の話ではありますね。

ナガスネヒコが徐福の子孫で、日ノ本将軍と呼ばれていたという話も面白かったです。
その徐福の血を引くミカシキヤヒメとオオトシの子孫が、開化天皇であり崇神天皇であり、私が陰の祭祀王と呼ぶヒコフツオシノマコト、そして武内宿禰に続いていくわけです。
今回初めて竹内一族の事務局長さんの名前まで出ていて、興味深かったです。

崇神天皇がオオタタネコを抜擢した理由

卑弥呼の墓・箸墓古墳の次に訪れたのは、崇神天皇陵です。

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崇神天皇はヤマトトトヒモモソヒメの義理の甥、ヤマトトトヒメの義理の弟ということになります。

ところで、『日本書紀』 によると、ヤマトトトヒモモソヒメはオオモノヌシの妻になったことになっています。
ところが、その結婚生活は、オオモノヌシの正体が小オロチであったことを妻が知ってしまったことによって破たんします。
自分を置いて出て行ってしまったオオモノヌシが三輪山に登って行くのを見たヒメは、がっくりしてドスンとへたり込みます。
その際、箸で陰部をついてしまった傷が原因で死んでしまったというんですね。
そこで姫の墓を箸墓と呼んだと書かれていますが、なんともひどい物語です。

でもこの物語の大事なところは、「オオモノヌシの正体」なんですね。
つまりオオモノヌシの血統を知ってしまうと、ヤマトトトヒモモソヒメではオオモノヌシを祀ることができないわけです。
というのも、ヤマトトトヒモモソヒメの母親ハエイロネが師木一族系だからです。

そこで崇神はオオモノヌシの直系であるオオタタネコを祭主にしたわけです。
私はかつて、崇神天皇はオオモノヌシに祟られたから「崇神」なのかと思っていました。
ところがそうではなくて、神を崇拝したから崇神なんですね。
「神」とは何かというと、スサノオの直系であるニギハヤヒとスセリビメのことです。
ニギハヤヒはオオモノヌシのことでしたね。

オオモノヌシをオオナムヂと同一視する人が多いと思いますが、実は違います。
それは『日本書紀』に明確に書かれています。
オオナムヂが国譲りして常世の国に隠れた後、コトシロヌシと共に帰順した神がオオモノヌシと書かれています。
明らかにオオナムヂとは別人ですね。
つまり櫛玉ことニギハヤヒのことです。
ただし、オオモノヌシは「オオナムヂの奇魂」とも呼ばれていますから、間接的にはオオナムヂも三輪山に祀られている神の一人です。
では「オオナムヂの幸魂」は誰かというと、オオナムヂに幸せをもたらした姫・スセリビメのことですね。
だからスセリビメも、『先代旧事本紀』に書かれているように、三輪山に祀られている神の一人です。
つまり三輪山には、スサノオ(ニギハヤヒ、スセリビメ)、オオナムヂ、ナガスネヒコの三部族の血を持つ神が本来祀られていなければならないんです。
でも再三お話ししているように、スサノオとナガスネヒコは名前を変えるなどして消されてしまいました。
スサノオの直系は、すべてオオナムヂの「魂」と言い換えられています。
ナガスネヒコに至っては、まったく祀られてもいません。
それを正したのが崇神天皇の宗教改革です。
だからオオタタネコを祭主に抜擢しなければならなかったんです。
ヤマトトトヒモモソヒメでは駄目だったんです。
それが『日本書紀』に記された奇妙な物語に隠された真実です。
(続く)

勘違いが生み出した「倭人伝の”卑弥呼”」

陶荒田神社でオオタタネコに思いをめぐらせた後、再び葛城山系を東に越えて、奈良県桜井市の箸墓古墳に向かいます。

箸墓古墳の埋葬者は、卑弥呼の可能性が高いヤマトトトヒモモソヒメですね。
オオタタネコと同じ時代に活躍した巫女です。

こちらがその箸墓古墳。

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左が後円部分で、右が前方部分です。
前方部分の右奥に見えるうっすらとした山が耳成山です。

ヤマトトトヒモモソヒメは、箸墓古墳が建造された時代から見ても、まず間違いなく『魏志倭人伝』に記された「卑弥呼」です。
ただしいくつかの勘違いが重なって、「継姪」という言葉があるのかどうか知りませんが、義理の姪(異母兄の娘)に当たるヤマトトトヒメと同一人物視されて、崇神天皇が「男弟」とされ、ヒコフツオシノマコトを卑弥呼の死後立った「男王」だと思い込んだ結果、『魏志倭人伝』のような記述になったとみられます。

実際は、第8代祭祀王ヤマトトトヒモモソヒメの死後、第9代(第101代)祭祀王に「継甥」のヒコフツオシノマコトが就任し、「継姪」のヤマトトトヒメは伊勢大神を祀る祭主に任命されています。
ではなぜ、崇神天皇が卑弥呼の男弟になるかというと、ヤマトトトヒメが崇神天皇にとって実の叔母であると同時に、同母兄のヒコフツオシノマコトの異母姉になるからです。
つまりヤマトトトヒメの義理の弟(継弟)が崇神天皇なんですね。
しかしながらこのことは、記紀の専門家でもあまりわかっている人はいません。
だからいまだに間違って、崇神天皇がタケハニヤスの反乱の際、オオビコに向かって「私の継兄」と言っているのに、「汝(オオビコ)の継兄」と誤訳しています。
あれは『古事記』に書かれているままが正しいんですね。
このように記紀の専門家でも間違える、複雑な人間関係が当時あったわけです。
中国の歴史家がヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメを同一人物であると勘違いしても、致し方ないことであったということになります。
(続く)

陶荒田神社とオオタタネコの秘密

葛木の賀茂氏の神社めぐりの後は、金剛山系を越えて西の大阪に出ます。

そこで立ち寄ったのが、こちらです。

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陶荒田神社。
大阪・堺市の須恵器(日本の陶器の祖)発祥地に鎮座する神社です。
お参りして空を見ると、太陽の光が燦々と降ってきました。
そのとき撮影した写真がこちらです。

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ご祭神は、高魂命(タカミムスビ)、劔根命(ツルギネノミコト)、八重事代主命、菅原道真公。

どうしてここを訪れたかというと、オオタタネコの出身地とされているからです。

そのオオタタネコを祀った摂社がこちら。

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太田社です。

このオオタタネコは謎の人物です。
『先代旧事本紀』によると、鴨王ことクシミカタの6世孫ということになっています。
だけどネコ(根子)という称号をつかっていますよね。
これは当時、王族、特に天皇にしか許されない称号でした。

おかしいでしょ。
ここにも秘密が隠されています。
隠さなければならない理由があったんですね。

オオタタネコは崇神天皇の時代に、オオモノヌシを祀る神主に抜擢されました。
それ以後、疫病は止み、国は安らかに、平らかになったといいます。
古代の日本を救ったスーパー神主です。
なぜその出自を隠す必要があったのかがポイントですが、それはいずれお話ししましょう。
(続く)

一言主大神と迦毛大御神

葛木一言主神社です。

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ご祭神は当然、葛木一言主神なのですが、一体誰のことなのか、記紀には出自については何も説明されていません。
ただし、どんな神であったかは書かれています。

『古事記』(712年)によると、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いていたそうです。そこで雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたというんですね。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に献上します。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送ったといいますから、雄略天皇よりかなり偉い神様として描かれています。

ただし、その後に書かれた『日本書紀』(720年)では一言主と雄略天皇は同等になり、さらに797年に書かれた『続日本紀』では高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれています。

ということは、一言主神は賀茂一族の地位を象徴する神様であったことがわかりますね。
「高鴨神」が一言主であるということは、『続日本紀』が書かれた時代には、迦毛大御神ことアヂスキタカヒコネと同一視されていたこともわかります。

葛木一言主神の出自を唯一記しているのが『先代旧事本紀』です。
それによると、スサノオの子供ということになっています。
でもこれはスサノオの直系であることを意味する方便で、実際はスサノオの娘(タギリヒメ)とオオナムヂが結婚して生まれた御子をスサノオの子として系図に入れたのだと思います。

このような系図の入れ替えは、頻繁に行われています。
オオナムヂもスサノオの息子であると『先代旧事本紀』には書かれていますが、オオナムヂはスサノオの娘スセリビメと結婚した婿養子です。
天火明ことオオトシも、高木神の娘と結婚した際に、オシホミミの息子として系図に入れられています。
一言主神も、養子縁組により、系図が意図的に差し替えられているケースと見てよさそうですね。

ということで、一言主神は賀茂一族の隆盛を象徴する神であり、具体的には鴨の祖神アヂスキタカヒコネの「神名」であったと私はみています。
(続く)

天香山神社のご祭神・櫛真智命は誰なのか

高天彦神社参拝の後は、葛木一言主神社に向かいます。
その途中、大和三山が見渡せる場所があったので、車を路傍に止めて、撮影しました。

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写真中央に畝傍山。その陰に隠れるように奥に耳成山がみえます。
右手はおそらく手前が貝吹山で、その奥やや左に天香久山があります。
その天香久山のさらに奥には三輪山があるはずですが、この日はよくわかりませんでした。

ところで大和三山の一つである天香久山は、天火明の子・天香山(アメノカグヤマ)と密接に関係していると思われます。
ただし麓にある天香山神社のご祭神である櫛真智命(クシマチノミコト)は謎の神で、出自不明とされているんですね。
だれも素性を知らない、記紀にも記されていない神です。
そこで名前から読み解くと、「櫛」とあるからには、ニギハヤヒの直系です。
ニギハヤヒの直系で、天香久山と関係があると言えば、天香山しかおりません。
しかも「クシマチ」の「マチ」は「ミチ」と音が似ていますよね。
天香山の母の名前はアメノミチヒメでした。
おそらくオオトシの「櫛」とミチヒメの「ミチ」をもらって、「クシミチ」「クシマチ」となったのではないでしょうか。
名前をクシマチにしたのは、スサノオの直系であることを隠すためですね。

畝傍山と耳成山だけアップにしましょう。

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手前が畝傍山で、その左奥に隠れるようにして見える円錐形の小山が耳成山です。

そして葛木一言主神社に到着。

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次はこの神社のご祭神である一言主神について紹介しましょう。
(続く)

高天彦神社のご祭神・高天彦

高鴨神社の後に参拝したのが、高天彦(たかまひこ)神社です。

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なかなか素敵な雰囲気の神社です。
言い忘れましたが、この日の朝、鴨都波神社(下鴨社)で偶然お会いした宮司さんに紹介してもらったので、お参りしました。

ご祭神はタカミムスビノカミ。
日向族の王・高木神ですね。

高木神の娘ミホツヒメが天火明ことニギハヤヒ(オオトシ)と結婚して、オオヤマクイ(火雷神)が生まれました。
ニギハヤヒの家系に「雷(いかずち)」をもたらしたのが、高木神ということになりますね。
雷神の菅原道真が一緒に祀られているのも、このためとみられます。
さらに「鴨」がもたらされて生まれたのがツミハヤエコトシロヌシで、その娘がヒメタタライスズヒメ。
統一大和王朝の初代祭祀王となるわけです。

つまり初代祭祀王イスズヒメや神武天皇から見れば、「高祖父(祖父母の祖父)」がこの神社のご祭神・タカミムスビとなるわけです。
まさに「高天彦」と呼ぶにふさわしい神であることがわかります。
(続く)

神の名を捨てた神の社

中鴨社の次は、上鴨社です。

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正式名称は高鴨神社。
鳥居をくぐって境内に入ると、左手に氷室池があります。

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鴨の棲む池です。
とても綺麗ですね。

さて、この神社のご祭神はアヂス(シ)キタカヒコネです。
言わずと知れた、オオナムヂと、宗像三女神の一人タギリヒメ(タゴリヒメ)との間に生まれた王子です。
スサノオとアマテラスが母方の祖父母というわけです。
いわゆる超名門の息子。

アヂスキタカヒコネの娘タマヨリヒメが、ニギハヤヒの息子オオヤマクイに見初められて結婚。生まれたのが、下鴨社のご祭神です。
京都では下が父親で上が息子でしたから、上下が逆転しているんですね。

高鴨神社では、ほかにアヂスキタカヒコネの妹シタテルヒメと、その夫アメノワカヒコ、そして母親のタギリヒメも祀られています。
タカミムスビの返し矢によって暗殺されたアメノワカヒコの喪屋を切り倒して蹴飛ばしたのが、アヂスキタカヒコネです。
その伝承を残すために、美濃に移った賀茂氏によって、喪山という名が山に付けられました。
アメノワカヒコは文学的に読むと、アヂスキタカヒコネの出雲族の分身ということになります。
喪屋を切り捨てるとは、出雲族との決別を意味したことは既に説明しましたね。

その証拠は『先代旧事本紀』に書かれています。
アヂスキタカヒコネが祀られている高鴨神社の別名が記されていて、「倭国葛上郡高鴨に坐神捨篠社(やまとのくにかつらきのかみこおりたかかもにますかみすてしののやしろ)」というんですね。
神捨篠社ですよ。すごいと思いませんか。神を捨てた篠社と書きます。
出雲族のスサノオの直系を表わす名前の頭の文字が「神」でした。
本来ならカムアヂスキタカヒコネと呼ばれてもおかしくないわけです。
その「神」を捨てたのがアヂスキタカヒコネであるとしたら、神捨篠社の名前の意味もわかってきますね。

だから京都ではタケツノミとして生きているんです。
(続く)

葛木坐御歳神社(中鴨社)のご祭神

中鴨社とも呼ばれる葛木御歳神社。

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正式には葛木坐御歳神社(かつらぎにいますみとしじんじゃ)。

拝殿です。

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その後ろに本殿があります。

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その本殿の背後に御歳山があります。

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御歳神社のご祭神は御歳神で、相殿(あいどの)として大年神と高照姫が祀られています。
御歳神はオオトシとカグヨヒメの間に生まれた神で、オオヤグヤマトオミの実兄です。
ですから、相殿に父神オオトシが祀られているのはわかりますよね。

ではなぜ、高照姫が一緒に祀られているの? と思うはずです。
高照姫はオオナムヂとタキツヒメの間に生まれた娘ですが、誰とも結婚したとは書かれていません。

ここがポイントです。
じつはオオトシと結婚してカグヨヒメと呼ばれた可能性があるんですね。
つまりオオトシと高照姫は、御歳神のご両親神ではないかということが推察されるわけです。
そう考えると、なぜ御歳神と一緒にオオトシと高照姫が相伝となっているかが理解できます。

そもそも結婚もしていないし、子供もいないことになっている高照姫の正式名称が「高照光姫大神」と「大神」と付いている理由が全くわからないんですね。
ところが、高照姫が天道日女であり、カグヨヒメであり、カヨナルミの別名であるならば、大神であっても不思議はありません。
なぜなら天香山(アメノカグヤマ)の母親ですから、孝昭天皇妃を出した尾張連の祖神ということになる「大神」です。

そのように思いをめぐらすことができるヒントを、神社は教えてくれるわけです。
(続く)

鴨都波神社に伝わった本当の神の名

翌14日は、葛木山麓にある賀茂氏ゆかりの神社をめぐりました。

最初は鴨都波神社。

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奈良県御所市にあります。
高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社と呼び、この鴨都波神社は下鴨社と呼ばれています。

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この神社の凄いところは、ご祭神であるツミハヤエコトシロヌシの正式名称が伝わっていたことです。
その正式名称は「鴨都味波八重事代主命」。だから鴨都波神社と呼ばれるようになったわけです。

この正式名称の意味は、ツミハヤエコトシロヌシがアヂスキタカヒコネ(鴨)の直系であることを示しています。
だからツミハヤエコトシロヌシの息子クシミカタが「鴨王」と呼ばれたわけです。
父親に賀茂の血が入っているから「鴨王」と呼ばれたんですね。

同じように父親に賀茂の血が入っているから賀茂と呼ばれた神がいましたね。
そう、京都の上賀茂神社のご祭神です。
勘のいい人ならわかりますよね。
そうです。それが正解です。

記紀をよく読んでください。
神武妃となったヒメタタライスズヒメの父親は、「コトシロヌシ」と呼ばれたり、「オオモノヌシ」と呼ばれたりしています。
はっきり書けない事情があるわけです。
その事情とは、何度も言いますが、スサノオの直系であることを明らかにできないというルールです。
だけど滅茶苦茶間違ったことも書けない。
そこで折衷案として、イスズヒメは「事代主の娘」(『日本書紀』)とか、「大物主の娘」(『古事記』)と書いたわけです。

『日本書紀』はある意味あっていますよね。なぜならオオナムヂの息子のコトシロヌシとは別人の、アヂスキタカヒコネの直系のコトシロヌシがいて、それがカモツミハヤエコトシロヌシだからです。
コトシロヌシには「三種類の事代主」がいることは『日本書記』にもきちんと示唆されています。
機会があれば詳しく説明しますが、「天の事代、虚空の事代、玉櫛入り彦・厳の事代」って、まさに書いたまんまの三種類の事代主です。

では『古事記』はどうして「オオモノヌシの娘」としたのでしょうか。
でも『古事記』をよく読んでください。
オオモノヌシが丹塗り矢に変身して、さらにハンサムな若者に変身してイスズヒメが生まれたと書かれているでしょう。
丹塗り矢がオオヤマクイでハンサムな若者がツミハなら、すべて辻褄が合いますよね。
でもそんなことは書けませんから、わざとイスズヒメの曽祖父であるニギハヤヒことオオモノヌシが「見初めて生まれた娘」と書いたわけです。
オオモノヌシのことをオオトシだと知っている人はほとんどいませんから、まさかスサノオの直系だとはバレないわけです。しかも大筋において嘘は書いていない。
『古事記』や『日本書紀』の編纂者は非常にクレバーですよね。実に賢い。しかもウィットに富んでいます。
記紀はこのように読んで行けばいいわけです。
(続く)

ミカシキヤヒメと崇神天皇

先日ご紹介した夫婦塚がミカシキヤヒメのお墓なのかどうかは定かでありませんが、ミカシキヤヒメは初期の大和王朝で重要な役割を果たしたことは間違いありません。
ニギハヤヒとの間には少なくとも一男一女を儲けています。
一人がウマシマヂ。もう一人はウマシホヤヒメですね。

ウマシマヂの子孫に穂積臣の祖であるウツシコオの妹ウツシコメがおり、第八代孝元天皇妃となりました。
第九代開化天皇の母親ですね。
で、その開化天皇は、同じくウマシマヂの子孫であるイカガシコメと結婚して、崇神天皇が生まれました。
崇神天皇は「神」を崇拝した天皇です。
すなわち、神族・スサノオ系の子孫を重用してバランスを取った天皇である可能性が強いということです。
ニギハヤヒとミカシキヤヒメの直系ですから、当然と言えば当然ですね。

もう一人のウマシホヤヒメは、尾張連の祖である異母兄のアメノカグヤマ(天香山)と結婚して、その直系子孫のヨソタラシヒメは第五代孝昭天皇の后となっています。

ところが、ミカシキヤヒメにはもう一人子供がいた可能性があります。
それが「シコマミ」。
『先代旧事本紀』には名前だけ紹介されていて、「正体」がありません。
元々いなかったのか、それとも記録から消されただけなのか。
この辺になると、超極秘伝となるとみられるので、公にされることはまずありませんね。

さてこの日(3月13日)は、京都の下鴨神社、上賀茂神社をお参りした後、大阪の磐船神社、奈良・登美(鳥見)のニギハヤヒの墓、ナガスネヒコ本拠址、ミカシキヤヒメの墓とされる「夫婦塚」を回りました。
すっかり日も落ちてきたので、宿泊先の橿原神宮そばのホテルに向かいます。

ホテルから見た大和三山の一つ畝傍山です。

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左奥には二上山が見えます。

そしてこちらの山は・・・

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奥の山の右が葛城(木)山で、左が金剛山ですね。
翌日は葛城山の鴨社を訪れました。
(続く)

ナガスネヒコとミカシキヤヒメ

ニギハヤヒが降臨したという奈良・白庭には、ナガスネヒコの根城(拠点)があったとみられています。
現在の生駒市白庭台に行くと、「長髄彦(ナガスネヒコ)本拠」と書かれた碑があります。

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奥に見える丘が矢田丘陵の端ですね。
この丘陵の左奥の山中ににニギハヤヒの墓の碑があります。

そのニギハヤヒの墓から南東に二キロほど離れた、生駒市上町の田んぼの中には、人知れず「夫婦塚」の碑があります。

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奥に見える丘陵がニギハヤヒの墓のある矢田丘陵です。
で、この夫婦塚が誰の塚かというと、ニギハヤヒの妃となったミカシキヤヒメ(御炊屋姫・別名トミヤビメ)だとされています。

ただし、いずれも推測です。
でも当たらずとも遠からずというところでしょうか。

本当はどこにあるかは、もしかしたら物部氏の末裔の方なら知っているかもしれません。
なにしろミカシキヤヒメは物部氏の祖神ですからね。

ニギハヤヒとミカシキヤヒメの間に生まれたウマシマヂの直系が崇神天皇の母親(イカガシコメ)であり、開化天皇の母親(ウツシコメ)でもあります。
また、ヒコフツオシノマコトの母親もイカガシコメ。
ヒコフツオシノマコトのひ孫(あるいは孫)が武内宿禰です。
武内宿禰にもナガスネヒコ一族(ミカシキヤヒメ)の血が流れていることになりますね。
そのことは、『古事記』にも「穂積の臣の祖」として、ちゃんと書かれています。
ここに私は三輪山の「和」の精神を見るわけです。
(続く)

ニギハヤヒの後を継ぐ王

ニギハヤヒの墓がある奈良・生駒市の矢田丘陵から大阪・交野市の磐船神社にかけては、ニギハヤヒが天磐船に乗って降臨したイカルガ岳と、都を築いた大倭国鳥見白庭山(やまとのくにとみのしらにわやま)の辺りの地ではないかとみられています。
そしてこのとき、ニギハヤヒが天磐船からこの地を見て「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたと、『日本書紀』と『先代旧事本紀』に書かれています。
ニギハヤヒが「日本国」の命名者であったことになりますね。
それは彼が統一大和王朝初代の王であるから、当然と言えば当然ですね。

どうして統一王朝の王になれたかというと、それはそれまで大和地方を支配していたナガスネヒコ一族の王の妹ミカシキヤヒメを正妃に迎え入れたことによって実現したことが、記紀の記述を読むとわかります。
当然、ニギハヤヒが亡くなった後は、ミカシキヤヒメとの間に生まれたウマシマヂが王位を継ぐはずです。
ところがそうはならなかった。
そこにはニギハヤヒによる、ナガスネヒコに対する止むに止まれぬ”裏切り”があったように思うんですね。

というのも、ニギハヤヒは日向族の王族(タカミムスビ)の娘ミホツヒメとも結婚しています。
その子オオヤマクイと賀茂一族の娘から生まれたツミハヤエコトシロヌシも有力な王位継承者になりえたはずです。
なにしろ、オオナムヂとアマテラスとスサノオの直系ですから。

もう一人の王位継承者候補は、アメノカグヤマ(天香山)です。こちらもアマテラスとスサノオ(ニギハヤヒ)、それにオオナムヂの直系であると思われます。ただし天道日女がタカテルヒメである場合ですが。

もし出雲族と日向族の双方が納得のいく統一王朝を作ろうとした場合、誰をどう立てればいいか、という問題に突き当たります。
で、王位継承者候補を比べてみると、ニギハヤヒとナガスネヒコ一族の血しか入っていないウマシマヂでは、日向族が納得できないわけです。
かと言って、いきなりイツセノミコトを王に据えたら、ナガスネヒコ一族が納得しませんね。

ニギハヤヒは悩むわけです。
そもそもニギハヤヒがかつて属していた出雲族では、末子相続が基本で、王となるのは女でも男でもよかったわけです。
そこで、おそらくニギハヤヒはツミハヤエコトシロヌシの娘イスズヒメに白羽の矢を立てました。
彼女が統一王朝の正統な王と考えたわけです。
その婿養子が日向族の王子でした。

ニギハヤヒはその後のことも考えていたと思います。
たとえば、天香山とミカシキヤヒメの娘ウマシホヤヒメを結婚させて、その子孫を統一王朝の王統に入れるとか、あるいはウマシマヂの子孫を王統に入れていけば、アマテラス、スサノオ、アヂスキタカヒコネ、オオトシ、オオナムヂ、ナガスネヒコ一族の血が混ざって、名実ともに統一王朝が生まれると考えたのではないかと思います。
実際、その後の系図を見ると、そうなりました。
ただし、完全に軌道に乗せるには、崇神天皇の時代まで待たなくてはなりませんでしたけどね。
というのも、崇神天皇自身が開化天皇とともに、アマテラス、スサノオ、アヂスキタカヒコネ、オオトシ、オオナムヂ、ナガスネヒコ一族の直系だからです。

しかし、短期的に見れば、日向族の王をいきなり統一王朝の女王の婿に据えることには、ナガスネヒコが異を唱えるのは当然ですね。そこで、日向族王子殺害事件が起きるわけです。
(続く)

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