5000年前の古代人の完璧な測量技術20(屈折ピラミッド)

メイドゥームのピラミッドの後、同じスネフェル王の時代に「屈折ピラミッド」が建造されました。
ピラミッド第五号ですね。

屈折ピラミッドはジョセル王のピラミッドと小山群2の中心を結んだ直線上で、その直線を3対1に分割する地点付近に造られました。かつその場所は、ジョセル王のピラミッドとメイドゥームのピラミッドを結んだ直線上で、その直線を1対5に分割する点でもあります。
つまりかなり綿密に距離と方角を定めて、建造場所が決定されたことがわかるわけです。

でも実は、ジョセル王のピラミッドと屈折ピラミッド、それにメイドゥームのピラミッドは直線上にあると言っても、微妙にずれているんです。ジョセル王のピラミッドとメイドゥームのピラミッドを結んだ直線は、厳密に言うと、屈折ピラミッドの基底部北西端を通っているんですね。

その理由はこちらのイラストをご覧ください。
専属のイラストレーターさんに書いてもらいました。

img021-1.jpg

このイラストは、ジョセル王のピラミッドの頂上から南のメイドゥーム方面を見たときの風景を描いたものです。ただし、このイラストの視点の位置は、ジョセル王のピラミッドの頂上の少し上の空間です。だから本当はピラミッド頂上からの風景は、もうちょっと低い位置となります。それでも計算上、ジョセル王のピラミッドの上からなら、メイドゥームのピラミッドはこのように見えたはずです。中央の線は、ジョセル王とメイドゥームのピラミッドを結んだ直線です。
なお上の図の白いピラミッドと赤いピラミッドは後の時代に造られたものですから、ここでは説明しません。

注目してほしいのは、その直線が屈折ピラミッドの基底部北西角を通っていることです。
先ににメイドゥームのピラミッドが造られていますから、ジョセル王のピラミッドから見てメイドゥームのピラミッドが見えなくならないように注意深く屈折ピラミッドが建造されたことがわかります。

ちなみに上のイラストは、実際のピラミッドの高さや方位角などを計算して紙でミニチュアのピラミッドを作って、実際にそれらを縮尺に応じて床の上に並べてみて作製しました。
そのときの風景がこちらです。

DSC_0300-11.jpg

安上がりの紙のピラミッドですから、角度までは縮尺しませんでしたが、高さや距離は正確に計算して縮尺しました。
で、この時配置されたピラミッドの見え方を参考にしながら、イラストを描いてもらったわけです。
地形などを考慮に入れず、ほぼ平坦であると仮定していますから必ずしも正確とは言えませんが、予算の範囲内で努力して作図したわけですね。
こうした作業を重ねて、本書258ページの図6-2や265ページの図6-3が作成されたました。
(続く)
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5000年前の古代人の完璧な測量技術19(メイドゥームのピラミッド)

再び古代エジプトのピラミッドの話に戻ります。
夏至の夕陽が小山群1の中央に沈むのが見える場所にジョセル王は、ピラミッド第一号を造りました。

第二号ピラミッドは、同じ第三王朝のセケムケト王の時代です。
小山群2の東端の真北かつジョセル王のピラミッドから600メートルほど離れた地点で、夏至の太陽が小山群1の南の小山に沈むのが見えるライン上に、「セケムケト王のピラミッド(別名崩れピラミッド)」が建造されています。

第三号ピラミッドは、同王朝のカーバー王の時代です。小山群2の中心と小山群1の中心付近を結んだ直線上で、小山群1の中心までの距離が、小山群1とジョセル王のピラミッドを結んだ直線の距離と等しくなる地点に、「カーバー王のピラミッド」が建造されたました。

これで小山群1、2と夏至の日の出ラインを使って、三つのピラミッドが建造されたわけです。

で、面白いのはここからです。

第四号ピラミッドは、次の第四王朝のスネフェル王の時代に造られました。
ジョセル王のピラミッドから54キロも離れた場所に建造されたメイドゥームのピラミッドです。
元々は第三王朝のフニ王の時代に首都カイロから100キロ離れたメイドゥームで建造が始まったのですが、完成したのがスネフェル王の時代だったんですね。

残念ながら行ったことがないので写真はありません。
ちょっと変わった形をしていて、一応階段ピラミッドに分類されていますが、一部に階段構造の段差をなくして壁面を滑らかに加工しています。このため真正ピラミッドへの過渡期を示す建造物として注目されているんですね。

で、例によってグーグルの衛星写真を使って、メイドゥームのピラミッドがどこに建造されているかを見てみましょう。

img020-11.jpg

元々は第31号の「ハワラのピラミッド」の位置を説明するために作成・加工した地図なので、かなりわかりづらいと思いますが、中央上にジョセル王のピラミッドがあり、中央下に4のメイドゥームのピラミッドがあります。その距離は約54キロ、正確には5万3833・1メートルです。

写真には記されていませんが、カーバー王のピラミッドからほぼ真南に引いた直線と、ジョセル王とセケムケト王のピラミッド、および小山群2の西端を通る直線の交点に建造されています。
その際、ジョセル王のピラミッドと小山群2の中央を結んだ直線の距離である12キロを基線として、その4・5倍の距離の場所に建造されました。
かつては93・5メートル(現在は崩壊して65メートル)の高さがあったとみられていますから、54キロ離れていても、階段ピラミッドの頂上からなら視認できる高さと場所が選ばれたのだと思われます。

つまり、ピラミッドの建造地の距離と方角、そしてピラミッド自身の高さには意味があり、完璧な国土測量によってすべてのピラミッドが計画通りに配置されたことがわかってきます。
それは次に紹介する屈折ピラミッドによってより鮮明になります。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術18(ハトシェプスト女王葬祭殿)

まずは昨日紹介したテーベのグーグル衛星写真の再掲です。

img018-k2.jpg

この中で、5のハトシェプスト女王葬祭殿についてちょっと説明しておきましょう。
王家の谷の南南東、アル・クルンのほぼ真東にある建造物です。
葬祭殿およびその敷地全体の傾きは、やはり夏至の日の入りラインと平行となっています。
つまりルクソール神殿やアメンヘテプ3世の葬祭殿などの中心軸の傾きとも一致していることになりますね。
ほとんどすべての建造物が、夏至の日の入り方向を基準にして造られていることがわかります。

で、面白いのは、ハトシェプスト女王葬祭殿の本殿の位置です。
メムノンの巨像とアメンホテプ3世の座像という二つの巨像が作る「門」の中央とハトシェプスト女王葬祭殿本殿の中央を結ぶと、王家の谷の中央部を指し示していることです。上の写真のラインを参考にしてください。
このラインは6のラメシアムの西の角も通っています。

また二体の巨像と王妃たちの谷の中心付近を結んだ直線は、王家の谷の中央付近と王妃たちの谷の中心付近を結んだ直線の長さとほぼ同じです。こうして出来上がる三角形は正三角形に近い、6:6:7の二等辺三角形になりますから、これも計算した結果なのかもしれませんね。

ところで、ハトシェプスト女王葬祭殿は、古代エジプトでは数少ない女性ファラオの一人、ハトシェプストが造営した葬祭殿です。後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊されたとされています。1997年11月に日本人新婚旅行客を含む62人が殺されたルクソール事件の現場でもあります。

私が訪れたのは、1984年。そのときの写真です。

神々のライン 003(ハトシェプスト葬祭殿)11

80年台のファッションが蘇ってきますね。
次回は再びピラミッドの話に戻ります。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術17(カルナック神殿とアメンホテプ3世の葬祭殿)

グーグルの衛星写真を使って、テーベの都がどのように建造されているか見て行きましょう。
まずは全体像を見てください。

img018-111_201605261652227de.jpg

簡単に説明すると、写真右上から左下に向かって続いている黒い部分がナイル川です。川自体は写真上の方向に向かって流れています。
写真右下のナイル川の右岸に、私が鉛筆で囲っている部分がカルナック神殿。
これに対して、ナイル川左岸には、手書きなのでわかりづらいかもしれませんが、3のアル・クルン、2の王家の谷、4の王妃たちの谷、5のハトシュプスト葬祭殿、6のラメシアム、7のメムノンの巨像などがあります。

まず注目されるのは、右下のカルナック神殿です。
その部分を拡大しましょう。

img018-c.jpg

鉛筆で記してある四角い部分がカルナック神殿の敷地で、その中の長方形の部分が神殿の本体部分です。
神殿の本体はご覧のように南東から北西にかけての傾きがあります。
その中心軸となる直線を鉛筆で書いたように北西の方に延ばして行くと、その先に王家の墓があるわけです。
そしてそれが夏至の日の入りラインとなります。

同様に、昨日ご紹介したアメンホテプ3世の葬祭殿と二体の巨像があるのがこちらの写真です。

img018-a.jpg

ご覧のように葬祭殿自体がやはり南東から北西へと傾いていますね。
二体の巨像は黒く丸した部分に建造されています。
この葬祭殿の中心軸がやはり夏至の日の入りラインとなり、そのラインの示す先が王妃たちの谷となっています。

そして一番重要なのは、アル・クルンですね。

img018-k2.jpg

上の写真でわかるように、ちょうど王家の谷と王妃たちの谷の中間地点にあり、二つの谷を見下ろす位置に、しかも二つの谷が左右対称となる位置に君臨していることがわかりますね。

私は最初にこの作図を、大英博物館が出版した「Dictionary of Ancient Egypt(古代エジプト事典)」という本の325ページにあるテーベの地図を使ってしようと思いました。ただ残念なことに、アル・クルンの位置が間違っていたんですね。アル・クルンよりも奥にある山をアル・クルンであると記しています。正確には私が記した3の位置がピラミッド山ことアル・クルンがある場所です。どうしてそれがわかるかというと、これもグーグルアースのお蔭です。グーグルアースでかなり拡大できるため、どの山か確認できるんですね。一応ご参考までに記しておきます。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術16(アル・クルンと二体の巨像)

古代エジプトの都テーベにおいては、平安京の船岡山に相当する山がアル・クルンです。
テーベの中心から見ると、ちょうど夏至の日の入りの方角にあります。

この山は王家の谷からよく見えます。
かつて王家の谷を訪ねたとき、地元のガイドがピラミッド山であると説明していました。
そのときの写真がこちら。

神々のライン 003(アル・クルン)

まさに王家の谷に君臨する偉大なる山という感じがします。
で、実際にテーベはアル・クルンを中心軸にして都が造営されました。
どうしてそれがわかるかというと、いくつか根拠があります。

まずアル・クルンに向かって右側(アル・クルンの北東)に王家の谷、左側(アル・クルンの南西)に王妃たちの谷がほぼ左右対称形に配置されていることです。
この王家の谷の最深部と、ナイル川をはさんだ右岸にあるカルナック神殿の中心軸を結ぶと、夏至の日の入りラインとなります。
一方、王妃たちの谷とアメンヘテプ3世の葬祭殿を結ぶと、これも夏至の日の入りラインとなります。
そしてテーベ全体の遺跡群の配置を見たときに、最も古くからの聖なる領域とされる「女神ムトの神域」からアル・クルンに向かう夏至の日の入りラインは、まさにテーベ全体の中心軸になっているわけです。

実際、テーベにあるほとんどすべての神殿や葬祭殿が夏至の日の入りラインの方角を向いています。
つまりテーベにあるすべての遺跡が、アル・クルンから下ろした夏至の日の入りラインを中心軸に据えながら、夏至の日没方向を意識した場所に建造されたとみることができるんです。

たとえばメムノンの巨像とアメンヘテプ3世の座像。

神々のライン 003(メムノンの巨像)1

この二体の巨像も、この巨像があるアメンヘテプ3世の葬祭殿も、夏至の日の入りラインに沿って建てられており、写真に見える遠くの山の先には王妃たちの谷があります。つまりこの二体の巨像は、王妃の谷を守っている狛犬的な役割をしているとも考えられますね。

次にグーグルアースを使いながら、説明していきましょう。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術15(日没と日の出、陰と陽)

ジョセル王のピラミッドは、夏至の日の入りライン上で、小山群1の中央に太陽が沈むのが見える場所で、かつ小山群2の中心を結んだ直線が南北の中心軸となる場所に造られたわけですが、5000年前の古代ブリトン人の遺跡建造法とは少し違うことに気が付きますね。それは古代ブリトン人が夏至の日の出ラインを意識して建造物を造っていったのに対して、古代エジプト人は夏至の日の入りラインを意識して建造物を造ったことです。日の入りと日の出。陰と陽。正反対な考え方です。

『あなたの自宅をパワースポットにする方法』(成甲書房刊)の上級編でも触れましたが、これには理由があります。
おそらく古代エジプトは陽のエネルギーが非常に強かった。だから逆に陰のエネルギーを求め、日の入りに安らぎを得ようとしたのではないでしょうか。それはそうですよね。砂漠では昼間は灼熱の太陽がじりじりと体を焦がします。あまりにも強い陽のエネルギーには陰が必要です。だから夕陽が重要視されたわけです。

これに対して古代イギリスにおいては、陰のエネルギーが強かった。確かにイギリスは雨がよく降るので、ジメジメいしていますよね。だから陽のエネルギーを求め、日の出に生命力を得ようとしたのではないでしょうか。

古代エジプト人が日の入りを重視した証拠に、ピラミッドはすべてナイル川の左岸、すなわち西側の日没が見える側に建造されていることはよく知られた事実です。

ということで、今日の写真は日没。

DSC_0361-11.jpg


そしてこの日没を崇める哲学を実践して造られた都が、かつてテーベとよばれた都市です。現在はルクソールと呼ばれています。
ピラミッドから少し離れて、このテーベの都を古代エジプト人がどのように設計して造ったかを見てみましょう。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術14(ジョセル王のピラミッドと夏至の日の入りライン)

ジョセル王のピラミッド(サッカラの階段ピラミッド)の南北の中心軸が、南にある小山群2の中心を目印(測量点)として作られたとしたら、当然北にも何かしら目印があったはずですよね。ところが、サッカラの階段ピラミッドの北はカイロの市街地が広がっています。つまり既に開発されてしまったので、仮に当時山があったとしても、今では跡形もなくなっているんですね。でも平安京に船岡山があったように、必ず測量山もしくは測量点が設けられていたはずです。

その測量点が何であったのかについては、何となくここではないかという場所もあることにはあります。でも、ここではこれ以上踏み込まないことにしましょう。

しかしながら、問題はまだあります。南北の中心軸が決まったからと言って、ピラミッドの位置が決まったわけではありませんね。
ピラミッドはもう一つの直線との交点に造られたはずです。平安京の場合は、大文字山と嵐山を結んだ直線との交点でした。その交点に平安宮(大内裏)の朱雀門が建てられたのは本書で紹介したとおりです。

ではジョセル王のピラミッドの場合は、何の直線との交点でしょうか。
そこで登場するのが、小山群1です。

このピラミッドの北西に巨大な小山群1があるんですね。
再びグーグルアースを使って見てみましょう。

img017-11.jpg

砂漠の中にかなり大きな小山群があることがわかります。
縦の黄色い線は気にしないでくださいね。ただのノイズです。
で、この小山群と階段ピラミッドがどのような関係にあるかというと、実はこのピラミッドがある緯度における、夏至の日の入りライン上にあるんです。つまり夏至の日の夕方、ジョセル王のピラミッドの頂から小山群1の方を見ると、ちょうど小山群の中央辺りに日が沈んで行くのが見えるわけです。すなわち、小山群1を通る夏至の日の入りラインと小山群2を通る南北中央軸ラインの交点にジョセル王のピラミッドが建造されたことが、測量上わかるわけです。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術13(ジョセル王のピラミッドの南北軸の傾き)

ジョセル王のピラミッド(サッカラの階段ピラミッド)の軸がなぜ4度、南北線からずれているかについては諸説あります。単純に古代エジプトの初期のピラミッド建造時代には、まだ東西南北線を正確に測ることはできなかったのではないかとする説もあれば、当時の北極を示す北極星が地球の歳差運動で実際の北とズレが生じていたのではないかとする説もあります。

しかし、既に私たちは、5000年前の古代ブリトン人があれだけ高度な測量技術を持っていたことを知っています。正確に南北線を測れなかったなどと考えるのは、古代エジプト人に対してあまりにも失礼ですよね。つまり4度の傾きには意味があるんです。

そこで思い出してほしいのは、時はさらに下って、今から約1200年前に造営された平安京です。
平安京の軸も南北線から0・38度反時計回りにずれています。
だけど、平安京の造営者が正確に南北線を測れなかったからこのズレが生じたわけではなくて、船岡山と甘南備山を結んだ直線を南北の中央の軸としたから生じたものでした。

同じことが古代エジプトのピラミッド建造者にも言えるはずですよね。
彼らもまた、古代ブリトン人と同様に山と山を結んだ直線を基線として、ピラミッドを建造したはずです。
そこで、やはりグーグル・アースを使って、この4度ズレた南北線の軸がどこを指しているか調べてみました。
でも、砂漠の真ん中に山などあるはずはないと、普通なら思いますよね。
ところがちゃんとあるんですね。
それが次のグーグルの衛星写真です。

img016-11.jpg

砂漠の中にひときわ目立つ、岩山のような塊があることがわかりますね。
これがジョセル王のピラミッドの4度傾いた南北軸の南の延長線上にあります。
これを「小山群Ⅱ」(「小山群Ⅰ」は後で出てきます)と名付けます。
まさにこの小山群Ⅱの中央をジョセル王のピラミッドの南北軸線が指し示しているわけです。
これは偶然ではありません。
その証拠に、実はこのライン上に、後にスネフェル王の屈折ピラミッドが建造されているからです。
本書258ページの図6-2ですね。
これについては次の機会に説明しましょう。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術12(ジョセル王のピラミッド)

5500~5000年前の古代ブリトン人が、聖なる山や目立つ山、その地域の最高峰を結びながら、聖マイケルラインやストーンヘンジなどの古代遺構を次々と建造して行ったことはわかってもらえたでしょうか。

さて、時代は500年ほど下って、今から4600年前の紀元前2600年ごろ。今度は古代エジプトにおいて、同じような測量法により次々とピラミッドが建造されはじめます。最初はサッカラ地方に建造された階段ピラミッド。エジプト第三王朝第二代の王ジョセル(ジェゼルとも読む)が宰相イムホテプに造らせたピラミッドで、「ジョセル王のピラミッド」とも称される第一号のピラミッドです。

残念ながら私は階段ピラミッドを直接見たことはありません。
しかしながら、現在ではグーグルアースという文明の利器を使って、この階段ピラミッドを衛星写真でかなり詳細に調べることができるんですね。

とりあえずグーグルで見たジョセル王のピラミッド(階段ピラミッド)を見てみましょう。

img015-22.jpg

必ずしも真上から撮影した写真ではないので正確ではありませんが、それでも十分分析が可能です。
衛星写真でも階段構造がよくわかりますね。
階段構造は六層で、高さは62メートルあります。

で、すぐに気づくのは、遺跡全体の傾きです。
実は軸が南北線からずれています。
南北線(経線)からは4度ほど時計回りに傾いているんですね。
ここが面白いところなんです。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術11(トーニー・リトルトン・ロング・バローとウェスト・ケネット・ロング・バロー)

グラストンベリー・トールの山頂、ハンブルドン・ヒルの山頂北側の周壁遺構の中心付近、及びロビンフッズ・ボールの中心の三点が描く直角二等辺三角形が偶然の産物ではないことを示す別の証拠が、ハンブルドン・ヒルと既に紹介したマーリンの丘を使って、もう一つの二等辺直角三角形を描けることです。その二等辺直角三角形のもう一つの頂点が、サマーセット州ウェロー村にあるストーニー・リトルトン・ロング・バローという、紀元前3500年ごろに建造されたとされる新石器時代の石室古墳です。

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牧草地の真ん中にあります。

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この遺跡がストーンヘンジが建造される500年前に造られたというところがポイントです。
つまり5500年前には、既に古代ブリトン人が壮大な国土計画に基づいて拠点を配置した、すなわち「国の地理的な骨格」をデザインしていた可能性が出てくるからです。

おそらく聖マイケルラインはかなり古い時代には既にあったのでしょう。
その後、グラストンベリー・トールとハンブルドン・ヒルという巨大な加工丘を基線として、6000年前にはロビンフッズ・ボールを建造、さらに5700年前に最高峰のウォルベリー・ヒルから昇る夏至の日の太陽を目印にして、その夏至の日の出ライン上にコーニーベリー・ヘンジを造り、5600年前にはウィンドミル・ヒルとナップ・ヒルを使ってウェスト・ケネット・ロング・バローを、5500年前にはウォルベリー・ヒルのほぼ真西にトーニー・リトルトン・ロング・バローを築いた。

5000年前になると、グラストンベリー・トールとウィンドミル・ヒル、ミルク・ヒルといった目立つ丘を利用してストーンヘンジとエイヴベリーの大ヘンジを構築。続いてシルベリー・ヒル、マーリンの丘などの周辺拠点を造っていったのではないかと推察されます。

今日のもう一つの写真は、トーニー・リトルトン・ロング・バローとほぼ同時期の紀元前3600年ごろ建造されたとみられるウェスト・ケネット・ロング・バローです。

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中はトーニー・リトルトン・ロング・バローと同様に石室になっています。

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ウェスト・ケネット・ロング・バローは、ウィンドミル・ヒルとナップ・ヒルを結んだ直線上にあります。
同一直線上にある、もう一つの遺跡シルベリー・ヒルが、ウェスト・ケネット・ロング・バローから見えます。

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シルベリー・ヒルが邪魔になって見えませんが、シルベリー・ヒルの向うにウィンドミル・ヒルの山頂があるわけです。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術10(ロビンフッズ・ボール)

昨日紹介した二等辺直角三角形の一点である古代遺跡「ロビンフッズ・ボール」について説明しましょう。
ロビンフッズ・ボールは、ストーンヘンジよりも古い紀元前4000~3500年ごろ、今から6000~5500年前に建造されたとされる、新石器時代のヘンジ状構造物です。円形の土手と溝からなっています。

周りに障害物がないことから、4キロ離れたストーンヘンジも十分に見える距離だったと考えられています。つまりストーンヘンジが造られる1000年ほど前から、既に古代人の拠点であった場所なんですね。この時代の他の古代遺跡としては、ストーンヘンジの南東1・4キロの場所にあるコーニーベリー・ヘンジがありますが、コーニーベリー・ヘンジとウォルベリー・ヒルを結んだ直線が、ウィンドミル・ヒルとエイヴベリーの大ヘンジの中心とサンクチュアリーの三点を結んだ直線と直角で交わっていることも偶然ではないわけです。つまり、かなり古い時代において既にグランドデザインに基づいた測量が行われたということを示唆していることになります。

で、ロビンフッズ・ボールの遺跡ですが、現在一般の人は見ることができません。というのも、英軍の演習場になっているから立ち入りが禁止されています。

それでもグーグルを使えば、どのような遺跡であるのか、少しだけ見ることができますね。
次の写真はグーグルの衛星画像でロビンフッズ・ボールを捉えたものです。

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環状の構造物がほのかに浮かび上がっていますね。
この中心と、ハンブルドン・ヒルの頂上にある北側周壁構造の中心付近、それにグラストンベリー・トールの山頂が、完璧な直角二等辺三角形をイギリスの大地にえがいているわけです。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術9(ハンブルドン・ヒル)

約5000年前の古代遺跡によってできる、いくつもの直角三角形のうち、一番驚かされたのが、グラストンベリー・トール、ハンブルドン・ヒル、ロビンフッド・ボールの三点によってできる二等辺直角三角形です。というのも、二等辺の長さの誤差が、まったくないからです。

最初は私も偶然、そうなったのかとも思いましたが、直角三角形の頂点が、ちょうどハンブルドン・ヒルの山頂北側の周壁遺構の中心となることを考えると、どうも正確に測量したのではないかと思われてきます。なにしろ、既に緯度を秒単位で正確に測ることができた古代測量師たちですから、二等辺直角三角形など、訳なく造れたのかもしれませんね。ちなみに二等辺の一辺の長さは、42・0296キロです。誤差はわずか2・3センチ。ちょうどマラソンコース位の距離を十センチ単位で正確に測ることができた可能性があります。

で、何度も例として挙げてしまうのが、2015年の横浜マラソンです。フルマラソンで186・2メートル、10キロマラソンでは94・1メートル長さが不足していたため、日本陸連公認コースとは認定されなかったんですね。
つまり、現代においても、40キロ離れた距離を誤差なく計測するというのは、大変な事なんです。
それを2・3センチの誤差(といっても、測量点が数ミリ、あるいは座標でコンマ何秒ずれただけで、この2・3センチの誤差は解消しますから、事実上誤差ゼロセンチです)で42キロを測量してしまうのは、もはや神業と言っていいでしょう。
でも、それを5000年前の古代人が成し遂げていた可能性が強いんです。

ということで、今日ご紹介するのは、その「頂点」のハンブルドン・ヒルです。

IMGP3119-11.jpg

山頂にはこのような周壁遺構がいくつかあります。

IMGP3110-11.jpg

そのうちの北側の周壁遺構の中心付近が測量点ということになります。
山(丘)自体も幾重もの人工の周壁が建造されています。

IMGP3107-1.jpg

最初にこの丘の上に周壁遺構が造られたのは、紀元前2850年ごろではないかとみられています。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術8(ウォルベリー・ヒルとサンクチュアリー)

ビーコン(のろし台)となるような、遠くからでも目立つ山と山を結び、拠点やラインを作っていく5000年前の古代人の手法は、当然のことながら、ストーンヘンジ複合体遺跡など、当時の構造物を建造する基本となっています。

既に挙げたこの地方の最高峰であるウォルベリー・ヒルと、ストーンヘンジ複合体遺跡、それにウィンドミル・ヒルを測量点として造られたエイヴベリー複合体遺跡を結ぶと正三角形が浮かび上がってくるのも、偶然ではありません。適当に造っているのではなく、ちゃんと測量しているんですね。

本書29ページの図1-2に、それを簡単に示した地図が掲載してあります。
本当はもっと複雑な設計図になっているのですが、ラインが多くなるとわからなくなるので、簡素化した地図です。

その作製した地図を見てもらうと、ウィンドミル・ヒル、ストーンヘンジ、ウォルベリー・ヒルの三点が、一辺が約30キロのほぼ正三角形となっていることがわかるはずです。

なぜ正三角形になるかは、それは三角測量を実施したことと密接に関係してきます。
既に説明したように、グラストンベリー・トールとストーンヘンジの中心点、それにエイヴベリーの大ヘンジの中心を結ぶと直角三角形になります。そのストーンヘンジとウィンドミル・ヒルを結んだ直線と直交するラインがウォルベリー・ヒルと先日紹介したマーデン・ヘンジを結んだ直線です。また、ストーンヘンジの中心とマーリンの丘の頂を結んだ直線は、ウォルベリー・ヒルとシルベリー・ヒルを結んだ直線と直交します。さらにウィンドミル・ヒル、エイヴベリーの大ヘンジの中心、サンクチュアリーという紀元前3000年ごろ造られた環状構造物のある遺構の三点を結んだ直線は、ウォルベリー・ヒルとコーニー・ヘンジを結んだ直線と直角で交差するんですね。
これらはすべて三角測量の結果であるのは間違いないと思われます。

今日の写真は、イングランド南東部の最高峰として知られるウォルベリー・ヒル。

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私の予想に反して、なだらかな丘のような山でした。それでもこの地方の最高峰ですから、見晴らしはよかったです。

そしてエイヴベリー複合体遺跡のサンクチュアリー。

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今はほとんど何も残されていませんが、二重のストーンサークル(当初はウッドサークル)と回廊があったと考えられています。

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ウィンドミル・ヒルの頂とエイヴベリーの大ヘンジの中心を結んだ直線と、ウォルベリー・ヒルとシルベリー・ヒルを結んだ直線の交点に建造されています。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術7(ブレント・トールとハーラーズ・ストーンサークル)

聖マイケルラインは5000年前の古代ブリトン人が作ったものですが、その後3000~4000年以上経って、キリスト教がブリテン諸島に流入すると、そのライン上の拠点に聖マイケル教会や礼拝堂を建造して再利用したことは既に述べました。
その再利用の記録は残っていて、特にビーコン(のろし台)として使われたのが、ブレント・トールです。
前にも書きましたが、尖がった帽子のような山なので、10キロ以上離れた場所からでも、こんなにはっきりと見えます。

IMGP2977-1_20160516165300db0.jpg

写真一番奥の単独峰がブレント・トールですね。
麓まで行くと、このように見えます。

IMGP2971-11.jpg

ローチ・ロックからの距離が3K、バロー・マンプからの距離が6K、ワウルズ・バンクまでの距離は17Kです。
Kはバローマンプとグラストンベリー・トール間の距離17・3キロですから、当然、グラストンベリー・トールまでの距離は7Kになりますね。

次の写真も、同じライン上にあるハーラーズ・ストーンサークルです。

DSC_0294-22.jpg

三つのストーンサークルと、2本の立石(門柱石)などから成っています。
その門柱石から見えるのが、「チーズリング」という名の奇岩が山頂付近にある岩山(下の写真の中央奥の山)。

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門柱石の中央に見えることからもわかるように、この岩山とハーラーズ・ストーンサークルは密接に結び付いた複合施設です。
というのも、この岩山はこの地域で一番目立つ山だからですね。

その岩山のチーズリングから見た風景がこちら。

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ブレント・トールに勝るとも劣らない、測量山であったことは明白ですね。
このような測量点によって、ラインは築かれたわけです。
ちなみにハーラーズ・ストーンサークルは、セント・マイケルズ・マウントから5K、エイヴベリーの大ヘンジから12K、ワンドゥルベリー・リングから22Kの距離にあります。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術6(ワウルズ・バンクとマーデン・ヘンジ)

聖マイケルライン上のほかの古代遺跡も写真で紹介しましょう。

まずはワウルズ・バンク。

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ベッドフォードシャー州ルートンのそばにある、紀元前3000年ごろの新石器時代に造られたとみられるヘンジ(環状の土塁と溝)状の構造物です。でも写真で見てもわかるとおり、大きすぎてフレームには収まりません。
道路に付けられた遺跡名の標識で、辛うじてワウルズ・バンクであることがわかります。
この土手がヘンジ状構造物(周壁遺構)の一部です。土手と堀で囲まれた面積は7万平方メートルといいますから、東京ドーム二つ分くらいでしょうか。特徴は形が円や楕円ではなく、D字形をしていることです。

このワウルズ・バンクとワンドルベリー・リングを結んだ距離が3K(Kは17・3キロ)で、さらにワウルズ・バンクとブレント・トールを結んだ距離は17Kとなります。昨日紹介したローチ・ロックまでの距離は20K、ラインの南西端にあるセント・マイケルズ・マウントまでの距離は24Kです。見事に配置されていることがわかりますね。

で、このD字形のワウルズ・バンクに似ている形のヘンジが、エイヴベリーとストーンヘンジの中間地点付近にあります。
それが「ハット・フィールドの土塁」とも呼ばれているマーデン・ヘンジです。

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やはり大きすぎて、ヘンジの一部しか写りません。
今のところ、イギリス最大のヘンジとされています。
ヘンジに囲まれた面積は約15万平方メートル。東京ドーム四つ分ですね。

案内板を見ると、ようやくおおよその形がわかります。

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上の写真の矢印のところから、ヘンジの土手を撮影しました。
紀元前2400年ごろ造られたとみられる新石器時代の周壁遺構です。
かつては周壁内に巨大な円形マウンドや立石があったとみられますが、農地開墾などにより、破壊されてしまいました。
この地域の最高峰であるウォルベリー・ヒルと結んだ直線は、ストーンヘンジの中心とウィンドミル・ヒルの山頂を結んだ直線と直交しますから、やはり壮大なグランドデザインの下に、正確に測量して位置が決められたのではないかと思われます。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術5(セント・マイケルズ・マウントとローチ・ロック)

既にお気づきのように、5000年前の古代人は、その地域で最も目立つ山、あるいは最高峰の山同士を直線で結んで、それを三角測量の基線として距離を測り、ラインを作って行きました。昨日、ご紹介した聖マイケルライン上のグラストンベリー・トールとバロー・マンプがいい例です。この二つの山を結んだ距離である約17・3キロが聖マイケルラインの基線となっているからです。

どうして基線だとわかるかというと、このライン上の他の遺跡が、すべて17・3キロの整数倍に配置されているからです。
17・3キロを「1K」としましょう。すると、ローチ・ロックとブレント・トールの距離およびワウルズ・バンクとワンドゥルベリー・リングの距離は「3K」で表せます。セント・マイケルズ・マウントとハーラーズ・ストーン・サークルの距離およびバロー・マンプとエイヴベリーの大ヘンジの中心の距離は「5K」、ブレント・トールとバロー・マンプの距離は「6K」で表すことができるなど、ライン上にある主要10遺跡間の距離がすべて「K」の整数倍で表わすことができるようになっているんですね。基線でないはずはありません。グラストンベリー・トールとバロー・マンプという二つの加工された姉妹丘の距離が基準になっているわけです。27ページの図1-1と、334~335ページの表を参照してください。

で、同じことはエイヴベリーの複合体遺跡でもやっていましたね。
既に説明したように、その地域の最高峰であるウィンドミル・ヒルと、加工して目立つ山にしたナップ・ヒルの頂上を直線で結んでそれを基線にして、まさに誤差の無い距離の場所に、シルベリー・ヒルとマーリンの丘という人工姉妹丘を建造していました。しかもシルベリー・ヒルは、ウィンドミル・ヒルとナップ・ヒルを結んだ基線上に設置されたのです。まさに完璧な測量の結果、古代人が人工丘を造ったことがわかります。

今日ご紹介する写真は、聖マイケルラインの南西端にあるセント・マイケルズ・マウントという島と、ローチ・ロックです。

まずはセント・マイケルズ・マウント。

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英国版モン・サン・ミッシェルですね。フランスの有名なモン・サン・ミッシェルとは姉妹島です。

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この島の頂上とハーラーズ・ストーン・サークルの中心を結んだ距離が5Kとなります。

次にローチ・ロック。

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ひときわ目立つ、高さ約20メートルの花こう岩の岩山です。頂上には15世紀に岩山を一部加工して建造された聖マイケル礼拝堂(現在は廃墟)があります。

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頂上付近まで登れるようになっており、そこからの景色はなかなかの眺めです。
このローチ・ロックとバロー・マンプを結んだ距離が3Kとなります。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術4(グラストンベリー・トールとバロー・マンプ)

ここで、聖マイケルラインについての誤解を正しておきましょう。
今でこそ「聖マイケルライン」と名付けられていますが、元々はキリスト教の聖マイケル教会とは関係のないラインでした。

すでにあった古代遺跡のライン上に、後に流入したキリスト教徒がその古代遺跡の上に聖マイケル教会を建造しただけなんですね。
だから「聖マイケルライン」と名付けられました。
まあ、古代人のラインに気が付いただけでも凄いことですが、元は5000年前から存在したラインを再利用したにすぎません。
では、誰が作ったのか。
古代ケルト人?  いいえ、違います。
既に説明したように、ケルト人がイギリス諸島に流入してきたのは、どんなに早くても紀元前1000年ごろ、今から3000年前にすぎません。聖マイケルライン上の古代遺跡は5000年以上前に造られたものです。

そのころ誰がいたのかわかっていません。ただ何となくわかっているのは、ケルト神話で「ダナン神族」と呼ばれる神のような魔力(おそらく科学技術)を持つ古代人がいたのであろうということだけです。

アイルランドのニューグレンジを見てもわかるように、彼らは巨石神殿のような構造物を建造しました。
ナウスやダウスのように大きな人工マウンドを造るのもお手の物。
イギリスのエイヴべりーの大ヘンジやシルベリー・ヒル、ソールズベリー平原のストーンヘンジもおそらく彼らの一族か、もしくは彼らと何らかの技術的交流のあった人たちが建造したのではないかと思われます。

特に丘を加工する彼らの土木技術は非常に優れたものがあります。
その最たる例が、グラストンベリー・トールですね。
左右対称的な七段の階段構造に丘を加工しています。

しかも、聖マイケルラインの傾きと、グラストンベリー・トールの丘の中心軸の傾きは一致しています。
これは、聖マイケルラインの傾きに合わせて、この丘を加工したか、あるいはこの丘を基準にして聖マイケルラインを作ったのかのいずれかであることを示しています。

グラストンベリー・トールの中心軸の傾きとは何かというと、この丘を上から見ると、よくわかります。左右対称で、ちょっとくびれた瓢箪の形をしているんですね。このため、側面を見ると頭のないスフィンクスのように見えますが、正面、もしくは背面からこの丘を見ると、綺麗な三角錐に見えます。本書221ページの図5-3を参照してください。つまり、中心軸があるような形に加工されていると考えられるわけです。

参考として、グラストンベリー・トールを横から見たイラストが描かれた案内板の写真を掲載します。

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意図的に中心軸が造られた証拠に、17・3キロ離れた、聖マイケルライン上にある、バロー・マンプの頂上からグラストンベリー・トールを見ると、円錐形の山に見えることが挙げられます。以前にも紹介しましたが、こちらがその写真です。

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この写真を撮った日は雨で煙っていましたが、それでもはっきりと円錐形のグラストンベリー・トールを捉えることができました。

で、こちらがバロー・マンプと呼ばれる加工丘。

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グラストンベリー・トールのミニチュア版のような姉妹加工丘で、同様に4~6段の階段構造が造られていることが写真からもわかりますね。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術3(ストーンヘンジ)

ストーンヘンジは、既に多くの研究家が指摘しているように、夏至の日の出を意識して建造された、約5000年前の遺跡です。

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ストーンヘンジの中央から夏至の日の出を見ると、ちょうど北東の「通路」に置かれているヒールストーンから日が昇ります。
こちらがそのヒールストーン。

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ここまでは、普通に観察すればわかります。
しかし、面白いのはこれからなんですね。
その夏至の太陽が出る方角、すなわち夏至の日の出ラインをずっと延ばして行くと、そこにウォルベリー・ヒルというその地域の最高峰があるからです。

伊勢の二見が浦にある夫婦岩と似ていますね。
夏至の日の朝、沖合の二つの岩(夫婦岩)の間の先にある最高峰の富士山から日が昇るのが見える場所に、神社が置かれ、神事が執行されるようになったわけです。

同様にストーンヘンジはカレンダーでもありますから、夏至の日の朝には何らかの儀式をやったのだと考えられますね。
彼らはどの岩と岩の間から日が昇るかによって、季節を知ったわけです。まさに暦。この暦に従って、それぞれの季節の神事を行っていたのではないでしょうか。

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さて、そのストーンヘンジですが、聖マイケルラインと密接に関連していることはあまり知られていません。
既に説明したように、5000年前の人々はかなり高度で、精密な計算をしたうえで、ほとんど誤差なく距離と方角を決め、遺跡(重要拠点)を配置していきました。
つまり、三角法を使って、距離を測っていた可能性が極めて高いんです。

その証拠が、5000年前にはあったであろう遺跡を結んだことによって浮かび上がる直角三角形です。
ピタゴラスの定理ぐらいは知っていないと、このような正確な測量はできません。

ではどの遺跡によって直角三角形ができるかと言うと、昨日紹介した、聖マイケルラインの中心地である、加工丘グラストンベリー・トールの山頂と、ストーンヘンジの中心、それに同じく昨日紹介した、エイヴベリーの最高峰であるウィンドミル・ヒルの山頂です。
すると、グラストンベリートールとウィンドミル・ヒルの両山頂を結んだ直線を基線として、その基線を斜線として直角三角形ができる位置にストーンヘンジの中心を置いたことがわかります。しかも、ストーンヘンジの中心は、夏至の朝ウォルベリー・ヒルから太陽が昇る「夏至の日の出ライン」上の点でもあるわけです。

二重三重に意味のある場所として、ストーンヘンジは綿密に測量され、建造されたことになります。
(続く)

5000年前の驚異の古代測量術(その2)

エイヴベリー周辺の遺跡群を見てわかるように、5000年前のイギリス諸島では、9キロ離れた場所でも、緯度なら秒単位まで正確に測量でき、なおかつ誤差1メートル未満という制度で距離を測れる測量集団が既に存在していたわけです。ならば、他の同時期の遺跡群も、同様な測量やグランドデザインに従って、綿密に計算され、配置されていったことが推論できます。

それを裏付ける、新しい発見が、エイヴベリーおよびストーンヘンジの複合体遺跡と、聖マイケルラインで知られる測量ラインの、切っても切れない関係です。

聖マイケルラインとは、イギリスで最も有名なレイラインの一つです。
そのライン上に聖マイケル教会や礼拝堂などが立ち並ぶことから、そのように名付けられました。
ちなみに次の写真は聖マイケルラインの中心点ともいえるグラストンベリー・トールの頂上に立つ聖マイケル教会です。

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エイヴベリー複合体遺跡の中心である巨大ストーンサークル・大ヘンジも、聖マイケルライン上にあります。

こちらがエイヴベリーの大ヘンジとストーンサークルです。

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巨大なヘンジ(環状の溝と土塁)の内側に、巨大なストーンサークルが二つあります。

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一部道路で寸断していますが、大ヘンジはエイヴベリーの村全体を囲っています。
いかに巨大な建造物であるかわかります。

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そしてこの物語のもう一つの主役が、ストーンヘンジです。
(続く)

5000年前の古代人の完璧な測量技術

2003年の出版以来、ロングセラーとなっている『竹内文書の謎を解く』(成甲書房刊)を著す際に、大きな動機付けとなったのは、東経137度11分の羽根ラインを発見したことでした。で、昨年出版された『竹内文書と平安京の謎』(同)を出版する際に、大きな動機付けとなったのは、イギリスのエイヴベリーにある、先史時代におけるヨーロッパ最大の人工丘シルベリー・ヒルと、その姉妹人工丘ともいえるマーリンの丘が織り成す完璧な緯線、すなわち北緯51度24分59秒のラインを見つけたことでした。

羽根ラインを作った古代日本人が、現在信じられている当時の科学技術では不可能な測量を成し遂げていたのと同様、約5000年前の古代イギリス諸島にいた、名前すら付けられていない古代民族もまた、現在信じられている当時の科学技術では不可能な測量を成し遂げていたんですね。しかも私が知る限り、私がその本で指摘するまで、そのことをだれも知らなかったわけです。

まずはそのシルベリー・ヒルの写真をご紹介しましょう。

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2010年5月に撮影しました。綺麗な円錐形の人工マウンドで、高さは約40メートル、直径は約167メートルあります。
この人工丘の北辺(中心の真北の外縁部)の緯度が北緯51度24分59秒。そしてこの人工丘から約9キロ離れた、マルボロー大学構内にある、同時代の人工丘「マーリンの丘」の南辺(中心の真南の外縁部)が北緯51度24分59秒なんです。つまり秒数まで一致してしまいます。
ちなみにマーリンの丘の高さは約20メートル、直径は約83メートルと、シルベリー・ヒルのほぼ半分の大きさに造られています。

さて、この秒数まで一致する緯線がどれだけすごいことかと言うと、信じられないほどの凄さです。
仮に現在の測量師が、当時の人間が使っていたと思われる器具を使って測量しろと言われて測量したとしても、おそらく9キロで数十メートルは狂うはずです。下手をすると、数百メートルくらいは狂うでしょう。
ところが秒数まで同じにすると言うのは、その誤差がほとんどないことを意味します。つまり数メートルと狂っていないんですね。

読者の中には、シルベリー・ヒルの北辺とマーリンの丘の南辺がたまたま同じ秒数だけだったのではないか、と考える人もいるかもしれません。本当は両人工丘の中心と中心を同じ緯度にしようと思ったのに、120メートルほどマーリンの丘を北に造ってしまっただけではないか、と。

そのように考えることもできます。
ところが、実は次の事実によって、その誤差説は否定することができます。

シルベリー・ヒルは、エイヴベリー地域の最高所でウィンドミル・ヒルの丘頂と、砦状に加工されたナップ・ヒルの丘頂を結んだ直線上にあります。その直線の距離は8493メートル。この直線上には、同時代の遺跡であるウェスト・ケネット・ロング・バローもありますから、間違いなく意図的に作られた直線です(35ページの図1-4)。

それで、シルベリー・ヒルとマーリンの丘の中心を結んだ直線は8368メートルです。
なんだ、シルベリー・ヒルとマーリンの丘の中心を結んだ直線のほうが、125メートルも短いではないか、と思われるかもしれません。
でも、そうではないんですね。
シルベリー・ヒルの半径は83・5メートル、マーリンの丘の半径は41・5メートルであることを考慮する必要があるんです。
この二つの半径の和は、125メートルになりませんか。つまり、シルベリー・ヒルとマーリンの丘の中心を結んだ直線を、そのままそれぞれの丘の外縁まで延ばした直線の距離が、ぴったりウィンドミル・ヒルの丘頂とナップ・ヒルの丘頂を結んだ直線の距離8493メートルと全く誤差なく一致するわけです。

つまり彼らは、二つの人工丘の外縁部を測量の基準に使っていたことがわかるんですね。
偶然の一致ではありえません。二つの人工丘の大きさや体積を含め、すべてが完璧な測量によって生まれた産物であったわけです。

ウィンドミル・ヒルの山頂付近です。

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中央に写っているのは、同時代の円墳です。

次は砦のように加工されたナップ・ヒル。

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いずれの丘の周辺からも約5000年前の遺跡が見つかっています。

上の二つの丘の頂を結んだ直線上に、シルベリー・ヒルとウェスト・ケネット・ロング・バローがあります。

ウェスト・ケネット・ロング・バロー。

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最後はマーリンの丘。

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シルベリー・ヒルと瓜二つの形。大きさは二分の一です。
これらの同時代の遺跡は、壮大なグランドデザインの下に、完璧な測量で配置されていることが浮き彫りになります。

春のバラの季節の到来

春のバラの季節がやって来ましたね。
4~5年前までは、「バラを愛でる会」というオフ会を定期的にやっておりましたが、今は引っ越してしまったこともあり、開催しておりません。
いつか再開したいと考えております。

今日、お届けするのは、イギリスのバラです。

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しばらくは国内外で撮影した写真を通して、拙著『竹内文書と平安京の謎』を解説しようと思っております。

美しい富士山と浅間神社の参拝

忍野八海の後、ニュージーランドの客人が神社をお参りしてみたいというので、河口湖浅間神社を案内します。
神社の聖域を示す鳥居の前で一礼することや、御手洗所の作法、お参りの仕方などを、私の知るやり方で教えます。
私の神社の参拝の仕方は、少し変わっていますから、普通の人が聞いたらビックリするかもしれません。
でもまあ、それなりに神社の参拝の仕方を客人に伝授できたのではないか、と思っています。
おまけとして、神社奥の「トトロ」が住む「ご神木の杉」にも案内しました。

この日は鳥居からも富士山が拝めました。

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浅間神社参拝の後は、河口湖畔で富士山の撮影会です。

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山腹の凹凸もはっきりと見えます。

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次はほぼ満開の枝垂れ桜を使って撮影します。

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この日の私のベストショットは次の一枚でしょうか。

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芝桜と富士山。

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本当に美しい富士山でした。

桜と富士山

11日から15日にかけての長野旅行が終わった後、週が変わって19日。
今度はニュージーランドからやって来た客人を連れて、山中湖の忍野八海や河口湖を回って来ました。

まずは忍野八海。
逆さ富士ならぬ、逆さ桜です。

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忍野八海の水面が鏡のように澄んでいるからこそ撮影できる桜ですね。
この日は素晴らしく晴れて、富士山がくっきりと見えました。

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この日はコンパクトデジカメしか持って行かなかったのですが、富士山がこのように撮れました。

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今まで何度も忍野八海に来ていますが、こんなに富士山が綺麗だったのは初めてです。

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桜と富士山を堪能しました。

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向原遺跡の環状列石と「おじいさんの古時計」

井戸尻考古館には民族資料館も併設されております。
その中から写真を一枚。

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つい子供のころに見た「おじいさんの古時計」を思い出してしまいました。
こういう振り子時計は今では骨董品になってしまいましたね。

最後に、井戸尻考古館に訪れた際に是非忘れずに見てもらいたいのが、こちらの環状列石です。

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井戸尻遺跡群の一つである向原遺跡で発掘された環状列石を復元したものです。
縄文中期末に造られたとみられているストーンサークルです。

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青森県の小牧野遺跡と同じように、二重の同心円状に列石が配置されています。
私はこれを立体地図と暦(天体観測)の特性を持った環状列石ではないかと見ています。
大町の上原環状列石といい、この向原環状列石といい、東北・北海道の古代巨石遺構とのつながりを強く感じる遺跡が信州や八ヶ岳周辺に多いことがわかりました。

これで今回の長野ツアーの報告はおしまいです。

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