月と富士山

29日の朝、富士山の上方に月が見えたので、急いでカメラを持って撮影に行きました。
そして、ちょど富士山の「真上」に来たときを捉えます。
それがこちらの写真。

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月と富士山のツーショット。
ちょうど一週間前の22日に亡くなった伯父の通夜が行われる日の朝の写真です。
伯父には中学生のとき二回ほどスキーに連れて行ってもらったことがあります。
自由放任主義で私は勝手に滑らせてもらっていたのですが、宿屋からスキー場までは40分ほど山の中を歩かないといけなかったんですね。行くときは伯父が付いていましたから道を教えてもらいましたが、帰りは一人で道なき道をスキーを履いて歩いて宿屋に帰らなければなりませんでした。ところが私は、途中で谷を一つ間違えて道に迷ってしまったんですね。幸いまだ体力は残っていたので、もう一度尾根まで登り直して道を修正、何とか日暮れまでには宿屋に戻ることができました。伯父からは「遭難したかと思って今から探しに行こうかと思っていた」とちょっと叱られたことがありました。

で、実はこの時の「遭難体験」を高校生のときに「冬の花」というタイトルで作文で書いたんです。
この作文が高く評価されて現代国語は5を取りました。
思えばこの時、物書きになる自信が付いたのではないかと思うんですね。
同時に作文の書き方の極意の一つを会得したように思います。
つまり人に伝えたくなるような経験や体験をすることが、作文の上達には不可欠だということです。
これは新聞記者の心得でもあります。いい記事を書くためには足で稼いで取材するしかないんですね。
つまり机上の空論ではいけないんです。とにかくたくさん取材(体験や経験)をする。それが良い文章を書く一番の近道でもあります。

そうこう書いているうちに今年も暮れて行きます。
もうすぐ日没。古い年は過ぎ去り、新しい年がやって来ます。
どうぞ良いお年をお迎えください。
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タラの丘と同心円のシンボル

同心円のマークはスコットランドのキルマーティン渓谷の岩絵が有名ですが、それよりも前に紹介しておきたいのは、実はアイルランドのタラの丘です。

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ここはただの丘ではないんですね。
ケルト族がアイルランドに進出する前(5000年以上前とみられます)に巨石文明を築いていたダナン神族の聖地なんです。
そのことは既に説明しましたね。

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丘の上に立石が二つ見られますが、左側が歴代の王たちが即位するときに使われた立石だとされています。

これも既にご紹介してあります。

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では、これがなぜ同心円と関係があるかと言うと、空からタラの丘を見ればわかります。
その上空から見たタラの丘の模型がこちら。

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見事な同心円マークが二つ丘の上に描かれていることがわかりますね。
エネルギーを安定させる力が同心円のシンボルに宿るのであれば、歴代の王の即位式がこの同心円の中心で行われたことには大いなる意味があったわけですね。

模型は、私の記憶が正しければ、ダブリン市の国立考古学・歴史博物館の中にあります。

アムール河の岩絵に描かれた同心円とシャーマンのマスク

同心円の紋様は、お隣のロシアの岩絵にも描かれています。
ちょうど横浜ユーラシア文化館でロシア・極東の村シカチ・アリャンのアムール川のほとりの岩に刻まれた岩絵の展覧会をやっていたので、先日見に行きました。

注目されるのはヘラジカの岩絵です。

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上の写真は企画展の解説図録『岩に刻まれた古代美術 アムール河の少数民族の聖地』からの転載ですが、ヘラジカに同心円紋が刻まれていることがわかりますね。胸のあたりの線はあばら骨でしょうか。背中には渦巻きのように見える弧状の模様も見えます。学芸員の方に質問したのですが、なぜ腰のあたりに同心円が描かれているのか、わからないとの事でした。同心円は静的なエネルギーの象徴ですから、おそらくこの岩絵を描いた人は、留めておきたい対象としてヘラジカを描いたということになるのではないでしょうか。同心円は「的」と同じですね。「まと」の「と」には留めるという意味が含まれているように思われます。

同じく図録からですが、「シャーマンのマスク」と呼ばれる人面の絵です。

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歌舞伎の隈取りのような人面ですね。
ここにも同心円的な弧が描かれています。

これらの岩絵が描かれた時代ですが、よくわかっていません。
近くのガーシャ遺跡からは1万3000年前の平底土器が出土しています。
ということは、岩絵も古ければ1万3000年前の作品になります。ただ残念なことに確証はありません。日本海を隔てた対岸の青森県津軽半島にも同じく1万5000~1万3000年前の土器が出土していますから、当時既に環日本海の文化圏があったことが推定されるわけです。まあ、氷河期時代は陸続きでしたから当然と言えば当然でしょうか。
同心円紋の話はまだ続きます。
(続く)

縄文土器に見られる渦巻き紋と同心円紋

特別展「縄文の美」から最後にご紹介するのは、同心円のシンボルです。

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長野県富士見町にある縄文時代中期の藤内遺跡から出土した「区画文深鉢」です。
これも特別展の冊子からの転載ですが、コピー機の調子が悪いので、色調がちょっとオレンジっぽくなっています。
それでも、渦巻き紋に混ざって同心円紋があることが確認できますね。
渦巻きが動的なエネルギーの流れを象徴するものだとしたら、同心円は静的なエネルギーでしょうか。同心円には安定感があるように思われます。

アイルランドやスコットランドでも、この同心円紋はよく見受けられます。
何かを安定させて留めたいときに使われるシンボルではないかと考えています。
次回からは縄文の紋様からちょっと離れて、世界の古代の紋様を見て行きましょう。

明日は猿田彦の誕生日?

今日の我が家の食卓です・・・

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・・・というのは嘘で、横浜山手西洋館めぐりをした時の写真です。
毎年クリスマスが近づくと、イギリス館やベーリック・ホール(カナダ)など7館の西洋館でクリスマスシーズンの飾りつけを展示しているんですね(25日まで。入館無料)。

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明日はキリストこと猿田彦の誕生日ということでしょうか。猿田彦はイセツヒコ(伊勢の国司のような身分・役職。イスズヒコと同じとみられる)でもあったそうです。猿田彦はアメノウズメと結婚して、子供を産んだようです。アメノウズメは猿女君・稗田氏の祖ですから、『古事記』編纂者の一人である稗田阿礼は、もしかしたらキリストの子孫? 道理でギリシャ神話やシュメル神話に詳しいわけです。

で、猿田彦であるかもしれないキリストは、有名な青森のキリストの墓がある戸来村を経て、遠く北米大陸に渡って行ったとの口伝が正統竹内家に残っているそうです。
それを受けるかのようにモルモン教の教え(「モルモンの書」)では、復活したキリストが古代アメリカ大陸にやって来たことになっているんですね。今年7月にロンドンで見たミュージカル『ブック・オブ・モルモン(モルモンの書)』で初めて知りました。

異形の顔をしていたという猿田彦は、私の中ではサンタクロースのイメージと重なります。
たまにはクリスマスに猿田彦のことを思うのも、いいかもしれませんね。

「世界最古の音符」ーー縄文時代には既に音符があった

再び「縄文の美」にテーマを戻します。

今日ご紹介する一品はこちら。

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縄文中期の遺跡である山梨県笛吹市の一の沢遺跡から出土した人体文土器です。
これも冊子に掲載された写真を転載しているものですが、この写真が実にいいんですね。
撮影したのは、小川忠博氏。
普通に写しただけでは、なぜこれが人体文土器なのかわかりませんが、小川氏は縄文土器の紋様だけを取り出して360度の紋様を一枚の連続写真にしてくれました。それがこちらです。

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4パターンの人体のような模様がクルクルと踊りを踊っているように見えますよね。
まるで音符か記号のようにも見えます。

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この写真を見てもわかるように、縄文土器の四方向に、人体を表わしたような紋様のパターンが四つ施されています。
しかもどのパターンもとてもお洒落です。四神の原型と見ることもできます。
ここまで洗練された紋様となると、もはや文字か音符と同質のものであるとしか思えませんね。
縄文時代の人々は、この土器を回しながら眺めて、歌でも歌いながら楽しんでいたのではないでしょうか。

ニギハヤヒにスサノオの神器が渡った理由についての考察

さて、出雲国(葦原中国)の正統な王位継承者はスサノオの末子のスセリビメであるはずなのに、なぜスサノオの四男の大年が神器を持っていたのかという問題があります。おかしいですよね。本当だったら、スセリビメに渡るはずの神器です。

その前になぜ大年に神器が渡ったことがわかるのか、という話をしなければなりません。
理由の一つ目は、さすがの記紀編纂者もそれだけは認めざるを得なかったらしく、ちゃんとニギハヤヒが神器「十種神宝」を持っていたと明記していることです。
二つ目はニギハヤヒの正式名称が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命となっていることです。天照、国照という祭祀王の称号だけでなく、「櫛」「玉」「火」などの神器が渡っていることがすぐにわかる名前になっています。

なぜ大年がニギハヤヒと同一人物であるかは既に説明しましたが、『古事記』に御諸山(三輪山)の神である大物主が大年であることが明確にわかるように書かれているからですね。当時、大和地方の王になった人物と言えば、ニギハヤヒしかいませんから、大物主はニギハヤヒであることがわかるわけです。

ではなぜ神器が渡ったのか。
私は何か大きな理由があるのだと思って、正統竹内家の口伝継承者である竹内氏に聞いてみました。
すると答えは「スサノオと大年の間で大げんかがあったからだ」というものでした。

これが本当だとすると、親子喧嘩の果てに大年が神器を持って大和地方に”家出”してしまったことになりますね。親子で袂を分ったわけです。何とも複雑なスサノオ家の実情です。大年が持って行ってしまったから、正統な王位継承者であったスセリビメには神器がなかったことになります。

しかし、いつ神器が大年の手に渡ったかについては、次のようなケースも考えられます。
大年ことニギハヤヒは一度、スセリビメの婿養子である大国主ことオオナムヂを助けたことがあるんですね。ナガスネヒコ軍に追い詰められたナムヂを窮地から救ったのが大年でした。ナムヂを補佐していたスサノオの兄とみられるスクナヒコナは、どうやらナガスネヒコとの戦闘で命を失ったようです。で、大年はナムヂを助ける条件として三輪山に祝い祀ることを挙げています。「三輪山に祝い祀る」とは、ナムヂが神器を大年に渡した上に、大年を正式に大和の王と認め、従えということだったのかもしれませんね。

このことを知っていると、『古事記』の出雲神話がよく理解できるようになります。今の話を念頭に置いて、もう一度よく『古事記』を読んでみてください。

アシナヅチ、テナヅチと隠されたスセリビメの子の物語

縄文の紋様の話はまだ続きますが、ここで一息休憩を入れて、飛騨や諏訪地方のアシナヅチ、テナヅチの話をしましょう。

ずっと前に紹介したことがありますが、岐阜県高山市にはヤマタノオロチ神話で有名なアシナヅチとテナヅチをモデルにした像が宮川に架かる鍛冶橋の欄干に立っています。

こちらがテナヅチをモデルにして手長。

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で、こちらがアシナヅチをモデルにした足長です。

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何でも嘉永元年(1848年)に当時の名工が高山祭屋台のひとつ「恵比須台」にアシナヅチを足長、テナヅチを手長として彫刻したのが、由来だとか。
でも、なぜテナヅチ、アシナヅチを彫刻の題材にしたんでしょうか。
というのも、神話を読んでもわかるように、アシナヅチとテナヅチは出雲の船取山の麓にある鳥髪にいた老夫婦でしたよね。
そしてその8番目の末娘であるクシナダヒメを、オロチを退治する代わりに妻としてスサノオが娶ったわけです。
出雲の鳥髪のそばの祭りであれば、足長、手長を取り上げるのは当然ですが、高山の祭ではなにか変ですよね。

さらに言えば、アシナヅチとテナヅチを祀った足長神社と手長神社というのがあるんですが、場所は長野県の諏訪にあります。
つまりアシナヅチとテナヅチは、当初考えられていた出雲よりずいぶんと東に移って祀られているんですね。

なぜ移って来たか。
もうだいたい想像できますよね。
そう、タケミナカタと一緒に逃れてきたと見るのが理に適っています。

スサノオは越の王オロチを退治して、おそらく玉(ヒスイ)と剣(草薙の剣)の越王の神器を手に入れます。
そして山の神であるオオヤマツミの子孫であるクシナダヒメと政略結婚することで、もう一つの神器である「櫛」を手に入れたわけですね。で、クシナダヒメとスサノオの間に生まれた正統な王位継承者が末子のスセリビメでした。そのスセリビメと結婚したのが、大国主ことオオナムヂ。

で、記紀神話では、スセリビメとオオナムヂの間に生まれた子供は巧妙に隠されています。わざと二人の間には子供がいなかったことにしているんです。
なぜ子供が隠されたことがわかるかと言うと、出雲の国譲り神話では事実上、事代主とタテミナカタが正統な後継者として描かれているからです。
正統な継承者であれば、それはスセリビメの子であること以外に考えられません。
だって、そうでしょ。大国主が正統な王位継承者であれば、タキリビメとの間に生まれたアヂスキタカヒコネが正統な王位継承者となるはずですが、国譲り神話ではひと言も言及がありません。彼はスセリビメの子ではなかったから、正統な継承者ではないことを記紀編纂者は当然知っていました。

だから、日向族の武将であるタケミカヅチが事代主とタテミナカタに国を譲れと迫ったことは当然だったわけです。
彼らが正統な後継者であることを知っていたからですね。
だけど正統な後継者が出雲国にはいなかったことにするために、あるいは曖昧にするために、記紀編纂者が彼らがスセリビメの子であることをわざと隠したというのが真相ではないでしょうか。つまりカムヤタテヒメはスセリビメのことで、タテミナカタの母とされるヌナカワヒメも、タテミナカタが東に逃げたことで、越の国の王女の名前がふさわしいと考えた記紀編纂者がスセリビメと名前をすり替えただけであると考えることができるんですね。

こうして日向族に惨敗した出雲族の正統な王位継承者であるタテミナカタは、アシナヅチ、テナヅチとともに越・飛騨の彼方の諏訪に封じ込まれたのではないでしょうか。いつか諏訪市にある手長神社、足長神社にも参拝しようと思っています。

美しいフォルムに秘められた渦巻きのエネルギー

山梨県立考古博物館の特別展「縄文の美」では、ほかにもいくつか非常に興味深い展示がありました。

その中でもお気に入りがこちら(冊子からの転載)です。

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これも渦巻き紋をモチーフに使っていますが、印象が全く違います。
これまでご紹介した渦巻き紋はむき出しのエネルギーという感じでしたが、こちらは秘められたエネルギーのような感じを受けます。フォルムも洗練されていて、美しいですね。現代アートの作品だと言われても、違和感がありません。
縄文時代中期末の山梨県北斗市の小屋敷遺跡から出土しました。

縄文の渦巻き紋と隼人の盾の紋章について

昨日最後に紹介した群馬県渋川市の道訓前遺跡から出土した焼町式土器。

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この土器の渦巻き文様に注目してみましょう。

注目する紋様のパターンはここです。

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どこかで見たことがありますよね。
そう、隼人族の盾に使われている紋章(模様)と同じなんですね。
こちらがその盾の模様。

隼人の盾

私が最初にこの盾の紋様を見たとき、ただの渦巻き文様の一パターンにしか見えませんでした。
ところが、友人のひめのゆめさんによると、敵のエネルギー(想念?)攻撃を取り込んで、そのエネルギーを敵にはね返す(倍返しする?)力がこの文様にはあるみたいなんですね。詳しくはこちらのブログをお読みください。

確かに逆回転する渦巻き紋の組み合わせは、そう見えなくもありません。
時計回りが取り込みで、反時計回りが開放であるとすると、上の渦巻きで取り込んだエネルギーを下の渦巻きで開放するということになるでしょうか。

だけどもしそうならば、この縄文土器の渦巻きパターンを上手に使う方法もありますよね。
良い想念や良い感情を渦巻き紋に取り込めば、それが増幅されて還元される装置にすることができるからです。
結局、火も水も紋様も、それを使う人間によって、破壊する道具になったり、創造する道具になったりします。

ということは、それをつくった人の、その時の想念(心の状態)が非常に大事になる、ということですね。
同じ模様のパターンであっても、すべてを破壊する武器にもなれば、幸せをもたらす道具にもなるわけです。
縄文時代の人々は、そのことに気付いていたように思います。
この縄文土器を見て、そのようなことを考えました。
(続く)

火と水と神を表わす三つの渦巻き紋

渦巻き紋は、縄文土器の主要モチーフでした。

山梨県甲州市の安道寺遺跡から出土した水煙紋土器。

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縄文時代中期の作品で、渦巻きや形が水煙のように見えることから名づけられました。確かに柔軟で丸みのある造形からは、水のエネルギーが感じられますね。

次は有名な火焔型土器。

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新潟県十日町市の笹山遺跡から出土した、やはり縄文時代中期の作品です。ちょっとチクチクするような尖った感じは火のエネルギーでしょうか。

もう一つ紹介するのは、群馬県渋川市にある縄文時代中期の道訓前遺跡から出土した焼町式土器です。

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この形式の土器が、長野県の焼町遺跡から出土したことにちなんで名付けられました。
丸と尖った形の組み合わせは、水と火を合わせたエネルギーを表そうとしたのでしょうか。
古神道ではよく、火(か)と水(み)を併せて「神(かみ)」になると言います。
まさに神のエネルギーを表現しようとしたのだと解釈することもできますね。

写真撮影が禁止されていたため、写真はいずれも「第33回特別展『縄文の美』」の冊子「展示図録」から転載させてもらいました。
(続く)

縄文土器に見る世界共通言語としての渦巻き紋

山梨県立考古博物館では、第33回特別展「縄文の美ーー世界に誇るJOMON芸術」を開催しておりました。

世界的にもその芸術性が高く評価されている縄文土器の「美」が一堂に集められたような、すばらしい展示でした。
残念ながら特別展の写真撮影は禁止されておりましたので、特別展の冊子からのコピーをご紹介します。

新潟・十日町市の火炎型土器のコレクションなど目を見張るような土器の数々が展示されておりましたが、その中でも特に目を引いたのは、山梨県笛吹市の桂野遺跡から出土した縄文時代中期の渦巻紋土器です。

こちらがその土器。

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何とも言えない、すごい渦巻き模様です。渦巻き紋だけの土器は、ほかに見つかっていないそうです。

この文様を見てすぐに思い出したのが、こちらです。

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まるで同じ作者が作製したみたいに見えますね。
でも、これはアイルランドのボイン渓谷にある、約5000年前の古代遺跡ニューグレンジの入口前の巨石なんですね。

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渦巻きは世界共通の言語のようなもので、エネルギーの流れを示した文字であると私は考えています。
(続く)

東日本最大級の前方後円墳に登ってわかったこと

山梨県立考古博物館は、甲府市下曽根町の曽根丘陵公園の中にあります。
その公園には、4世紀後半に建造された東日本最大級の前方後円墳である「甲斐銚子塚古墳」があり、見学できるようになっています。

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上の写真は後円の部分ですね。
全体としてはこうなっています。

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前方後円墳であることがわかります。
でも意外だったのは、前方部が後円部に向かってなだらかな下りになっていることです。

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上の写真は前方部の上に立って、下り坂の斜面を撮影しています。
ここでは実際に古墳に登って、それを確認できるようになっているんですね。

御旅山の斜面(滑走路)を思い出しました。何か関係があるかもしれませんね。

甲斐銚子塚古墳の全長は169メートルで、後円部は直径92メートル、高さ15メートルの3段築成。
前方部は幅68メートル、高さ8・5メートルの2段築成となっています。
丸(後円)と四角(前方)で天と地を表します。
そこに人がかかわって、天地人となるわけですね。

この古墳は、規模だけでなく、石室の形態(小口積み)や豊富な出土品から、畿内との結びつきの強い古墳として注目されました。というのも、代表的な出土品に三角縁神獣鏡があるのですが、備前車塚古墳(岡山市)や群馬県三本木所在の古墳(藤岡市)、そして藤崎遺跡(福岡市)出土鏡と同型の鋳型をもとに作られていたことがわかったんですね。さらに背面部の年号や全国的な広がりから、卑弥呼の鏡(『魏志』倭人伝、「銅鏡百枚」)と考えられ、邪馬台国畿内説の有力な根拠となったそうです。

隣接する丸山塚古墳も見学できます。

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5世紀初めに造られました。山梨県では最大の円墳です。
墳丘の直径72メートル、高さは11メートルあります。
4500年前に建造された古代イギリスのマーリンの丘のほぼ半分強ぐらいの大きさですね。
(続く)

縄文時代の「ムンクの叫び」と渦巻き文様

金生遺跡から車で10分ほど離れたところには歴史民俗資料館があり、金生遺跡から出土した土器などが展示されています。

その中で特に注目されるのが、こちらの土偶です。

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祈りや儀式に使われた土偶ではないかとみられています。
ちょっとムンクの「叫び」に似ていますね。
中央下に見られる渦巻き模様がとても象徴的です。
渦巻き文様は、縄文の人々が目に見えないエネルギーを感じ取っていた傍証になるのではないかと思っています。

で、私は、この資料館の駐車場で会った人(わざわざ出てくるまで?、私たちを待っていてくれました)から聞いた情報で、急きょ甲府市の山梨県立考古博物館に向かいました。
(続く)

金生遺跡とタカミムスビ

今日紹介するのは、山梨県北杜市大泉町にある金生(きんせい)遺跡。
昨日紹介した大日留(女)石からそれほど離れていない場所にある縄文時代後期の遺跡です。

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独特の配石遺構と住居跡が見つかっています。

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復元された住居跡が右に、配石遺構が左に写っています。
住居群と配石遺構のある祭祀場は、写真のように分けられていたとみられます。

で、こちらが配石遺構のある祭祀場址。

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いわゆる「男根」を模したとみられる石棒もあります。

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そして遠くには八ヶ岳。

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八ヶ岳がくっきりと見える高台に位置しています。
これもタカミムスビの法則に則っていますね。
(続く)

「大日留(女)石」はパン文明継承の証であった(かもしれない)

八ヶ岳山麓の古代遺跡めぐりは続きます。

まず見つけたのは、こちら。

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宮下文書の研究家・加茂喜三さんの『日本のトーテム文化』にも紹介されていましたが、「大日留(女)石(おおひるめいし)」です。
山梨県北杜市下井出にあります。加茂さんは、大日留女尊こと天照大御神は、日をとどめる、日を留める、日を保つ力を持つと考えられたため、表面を研磨された球形の石、すなわち日輪として表現されたのではないか、と考えていました。

秋山氏は巨大石球を台座に置くという形は、古代ピラミッドの原型とも言えるものだとの考えを明らかにしています。
おそらく球体を地面に直接置いてはいけないというパン(レムリア、ムー)文明と関連があるのだと思われます。
なにしろ『オアスペ』によると、ジャパン(日本)はかつてパン大陸の一部で、パン文明の正統な継承者がいることになっていますからね。

こうした台座の上に置かれた球体の巨石遺構は富士山や八ヶ岳周辺で多く見受けられます。河口湖・浅間神社の駐車場そばにも、ほとんど同じ「大日留(女)石」が鎮座しています。
(続く)

八ヶ岳は縄文文化の聖地であった

尖石遺跡を後にして、次に向かったのは、八ヶ岳山麓にある宿泊先です。
ここに泊まるのは二回目。

周りを森に囲まれた静かなホテルです。

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翌日(10月24日)は快晴。
ホテルの屋上からは八ヶ岳が目の前にはっきりと綺麗に見えました。

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別に八つの峰から成るので八ヶ岳と名付けられたわけではないんですね。
数え方にもよりますが、主要峰だけでも13峰はあります。

上の写真で説明すると、左から、なだらかな斜面上にあるちょっとしたコブのように見える編笠山(あみがさやま、2524メートル)、写真中央左の尖って大きい峰の三ツ頭(みつがしら、2580メートル)、その三ツ頭の右肩の奥にちょこっと見える権現岳(ごんげんだけ、2715メートル)、谷になったところで頭を出している阿弥陀岳(あみだだけ、2805メートル)、その右の大きな峰で八ヶ岳最高峰の赤岳(あかだけ、2899メートル)、そして横岳(よこだけ、2829メートル)、牛首山(うしくびやま、2280メートル)と続いています。

ちょっと拡大すると、こうなります。

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三ツ頭(左)と赤岳(右)がつくる谷間の奥に阿弥陀岳が顔を出しています。
権現岳と横岳はそれぞれ、三ツ頭の右肩と赤岳の右手奥に見えています。

八は地のエネルギー。火山地帯であることや、「三」や「赤」の峰の名からは火のエネルギー、なだらかな峰の裾野には湖沼が多いことから金のエネルギーもあるでしょうか。山麓には伏流水が湧くため、特に西南側の裾野一帯にかけて縄文時代の遺跡が濃密に分布しています。八ヶ岳山麓は、風水的にも恵まれて、まさしく縄文文化の聖地でもあったんですね。
(続く)

磐境のある住居跡と縄文の美術・芸術作品

尖石遺跡周辺からはこれまでに219軒の住居跡が見つかっています。
全体を調査すれば、400軒を超える住居跡が埋設されているのではないか、と考えられています。
いずれも縄文時代中期、いまから4000~5000年前の住居跡で、当時としてはかなりの大規模縄文集落があったわけですね。

そのうちの一つが、この33号住居跡です。

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住居の境にはちゃんと環状に石が並べられています。
おそらく住居自体を神聖な祭祀場と考えていたのではないでしょうか。
でなければ、このように磐境を造ったりしないと思います。

ヘンジのような構造も見受けられました。

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そしてこちらは、復元された住居。

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秋の日差しの中、紅葉が綺麗です。

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尖石遺跡には尖石縄文考古館が併設されています。

そこに展示されているのが、先に紹介した仮面の女神と縄文のビーナスです。

縄文のビーナス。

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そして仮面の女神。

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前者は茅野市の棚畑遺跡から、後者は茅野市の中つ原遺跡から出土しています。
尖石遺跡から3~6キロほど離れたお隣村からの出土品です。
(続く)

遺跡名の由来となった尖石

御座石神社を参拝した後は、長野県茅野市の尖石遺跡へ。
八ヶ岳山麓を代表する縄文時代中期の大規模集落遺跡です。

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そして「尖石」という名前が付いた理由がこちらにあります。

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集落のすぐそばに三角錐の形をした安山岩の岩があるんですね。

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このピラミッド型の石は、古くから地元の人々に「とがりいしさま」と呼ばれ、祀られてきたそうです。この岩の上部には人工的な磨り跡が見られることから、縄文時代の人々が磨製石斧を作る際に砥石として利用した痕ではないかと考えられています。

笠置山のピラミッド石を彷彿とさせますね。
(続く)

越のヌナカワヒメと御座石神社

神代文字碑の後は縄文時代の遺跡がある尖石に向かいました。

その途中に立ち寄ったのが、長野県茅野市の御座石神社。
ちょうど尖石遺跡に行く道沿いの大きな交差点そばに位置しています。

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名前からして巨石を連想させますが、実際「御座石」がご神体のようです。
ただしその御座石は、どこにあるのかわかりません。
祭神は、建御名方命(タテミナカタ)の母である「高志沼河姫命(ヌナカワヒメ)」。
タテミナカタはオオクニヌシことナムヂの息子。異母兄の事代主はすぐに降参したようですが、最後まで天孫(日向)族の「国譲り」に抵抗した武将とされています。

境内にはこのような石がありました。

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いくつか小さなくぼみが付いています。

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このくぼみがヌナカワヒメが乗ってきた「鹿の足跡」なのだそうです。

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案内板には、ヌナカワヒメが大門峠を越えてこの地に来た際に、腰かけ休息したと伝わる石であると書かれていました。

境内にはほかに穂掛石などの巨石も鎮座しております。

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この神社は4月27日のどぶろく祭でも有名です。
何でも母神のヌナカワヒメが息子のタテミナカタにどぶろくでもてなしたことに由来するお祭りだそうです。

クナトノカミの道祖神と神代文字碑

皆神山から次に向かった場所は、長野県安曇野市本村の道祖神と神代文字碑です。

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主要道路沿いにあるので、比較的簡単に見つけることができます。

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この真ん中にあるのが、神代文字碑ですね。

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説明が書かれた案内板も設置されています。

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神代文字の中でも阿比留(アヒル)文字とされるものですね。
一行ずつ、ヤチマタヒコノカミ、ヤチマタヒメノカミ、クナトノカミと書かれているそうです。
アヒル文字はハングル文字と似ていることから、神代文字の真贋論争にまで発展しています。
それについての私の見解は、『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド2』の149ページに書かれています。
結論だけを簡単に説明すると、竹内睦泰氏が言うように、ハングル文字のほうが神代文字のパクリであるとする主張も成り立つけれども、仮にハングルがアヒル文字をパクったのだとしても、あくまでも形を参考にしただけではないか、ということです。

それにしても、主に九州地方に散見されるアヒル文字が、信州にまで来ているというのが面白いですね。
案内板には、「平田国学の影響下、江戸時代末に造立されたと考えられる」と書かれています。

その神代文字で書かれたヤチマタヒコノカミとヤチマタヒメノカミでしょうか。
道祖神として睦まじい夫婦神として祀られています。

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ヤチマタヒコもクナトノカミも、天孫降臨の道案内をしたサルタヒコの別名として使われることもあります。
すると、ヤチマタヒメノカミはアメノウズメだったりするのかな、などと考えながら撮影しました。
(続く)

聖なる山を開く人たち

皆神山の岩戸神社から話が岩戸隠れ神話に飛んで、戸隠山、位山、そして御旅山へとつながったわけですが、再び皆神山です。

皆神山には多くの宗教家の方が訪れているようです。
たとえば、この石碑。

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凄いですよね。16菊花紋とダビデの星(六芒星)と日の丸(中央の丸)が合体したようなシンボルが描かれています。
字が小さくて読みづらいと思いますので、全文を掲載しておきましょう。

『天地カゴメ之宮建立由来
昭和四拾九年一月二三日、旧暦一月元旦、国常大神お立ち上りの神示あり。諏訪大神より、二月五日節分から信州神業に発てと神示を受け、二月六日大雪の聖山神社へと向う。 「皆神山へ行け、元の元の大元の大神様のお立ち上りと成りた。コトの大事の秘められし、その頂上なるの神のご出現じゃ。」と神示あり。ついで戸隠中社に於いて「この信洲、神の洲と書いて、神洲と読むことを知っているか、皆神山へ参れよ。」と神示を受け、翌二月七日積雪の皆神山に初登山をする。皆神山神前にて午前十時入神状態となる。大勢の神々参集されたなか、神業は新しい大神様地上神界天降りを出産の型で示され、戴冠式の形となり全ての神儀終りは正午、この皆神山は古代より地球上において、神界で選ばれた唯一の聖地であり、宮も又同じなり。天地カゴメ之宮は、上に元津御祖大神、また、ヒマラヤから国常立大神の元津神霊を宮の御大将と迎え、日之出大神はじめ天地八百万の神々、竜神眷族、モーゼ、キリスト・ギリシャ神話の神々に至るまで参集され、現在は伊都能売神業にあり。此度神々守護のため宮の建立を許され、ここに謹んでお受け致した次第を印す。  平成元年十月十日  天地カゴメの宮斉仕 神宮 一二三』

同じように皆神山に呼ばれた有名な宗教家と言えば、出口王仁三郎さんですね。
出口さんの碑もあります。

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同様に全文を記載しましょう。

『地質学上 世界の中心山脈の 十字形せる 珍の神山 天霊の 聖地に 些しも 違はざる 尊き神山 皆神の山 出口王仁三郎』

位山の都竹峰仙さんにしろ、皆神山にしろ、必ずこのように聖なる山を開くために呼ばれる方が出てくるように思われます。白山は『神々の黙示録』を出された金井南龍さんでしたね。

こういう方々は、何かのご縁で、ある特定の山に呼ばれます。

で、その皆神山から下界に下って、次は信州の道祖神を尋ねます。
つまり段々と縄文の時代へと遡っていくわけです。
(続く)

位山への旅で思い出したこと

さて、今回の「位山に呼ばれた(ような気がした)」ので急きょ旅立った飛騨の高山ツアー。
その目的の一つは、「皆神山ばかりに行っておらんで、たまには位山に顔を見せんかい」ということで、位山をご神体とする水無神社に参拝・報告に伺ったわけです。

これが、その水無神社。

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境内もとてもすがすがしいです。

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位山に登るときは必ず立ち寄る神社です。
報告と同時に、「七宝の宝」をいただいたことに、改めて感謝の意を伝えます。
「七宝の宝」については『異次元ワールドとの遭遇』の第三章をお読みください。

今回はあまり天気がよくなかったので、位山には登りませんでしたが、近くまで行ってごあいさつします。

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確か祭壇石は左側の7~8本目かのリフト塔のそばにあり、ちょうど霧で隠れている辺りに鎮座していると思います。

位山への報告が終わった後、御旅山と船山の取材をしました。
「前に位山に登った時の事を思い出せ」と言われた(ような気がした)ので、思い出した場所に出かけたわけです。

そしてもう一つ思い出したのが、崇教真光です。
私は信者でも関係者でもありませんが、約32年前に富山の尖山を最初に案内していくれた人が、「竹内文書」について詳しい崇教真光の方でした。
これが崇教真光の「神殿」です。

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鼎談本『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド1』(ヒカルランド刊)の203~207ページにも、真光系教団の教祖岡田光玉氏が竹内睦泰氏の母方の祖父や秩父宮親王らと陸軍士官学校第34期生の同期であったことなどが紹介されています。
確かに「神殿」は、竹内氏が言うように「かっこいい」ですね。

最後は高山市の「宮川の朝市」。

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ここでお漬物とリンゴを買うのが習慣化してきています。

さて、これで11月19~21日の高山取材旅行の報告は終わりです。
次回からは「縄文の旅」に戻りましょう。

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