船山にまつわる竹内文書の記述と、飛騨の伝説

これが船山神社です。

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小さな祠のような神社ですが、なかなかの風格があります。
「竹内文書」の研究家上原清二によると、オシホミミの神陵がここにあるそうです。
ただし、『神代の万国史』を読むと、オシホミミの三番目の妻である日玉久久野姫が久久野山、すなわち船山に葬られたとも解釈できます。
いずれにしても「竹内文書」では、天神第五代の霊が滞在した場所であると同時に、オシホミミともゆかりのある聖なる山とされています。

また、「両面宿儺」の伝説にも、船山は登場します。

「位山の主(注:両面宿儺のこと)は、神武天皇へ位を授けるべき神である。身体一つにして顔は二面、手足四つの両面四手の姿である。天の叢雲をかき分け、天津船に乗って山の頂に降臨した。神武天皇に位を授けたので位山と呼び、船の着いた山を船山という。」

まあ、とにかく飛騨地方には、現在の天皇家の「大御先祖様」に位を授けるぐらいのすごい神様がいたわけです。
古代飛騨・越ヒスイ王朝があったということですね。その末裔が、記紀神話で怪物扱いされている越王ヤマタノオロチで、その8番目の末娘、つまり末子相続による王位継承者がクシナダヒメであったというのが私の見解です。政略結婚によりスサノオの正妃となりました。櫛と玉(ヒスイ)の神器は、スサノオからその四男の大年ことニギハヤヒの手に渡ります。だからニギハヤヒの別名が『先代旧事本紀』に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と記されているのではないでしょうか。

それはともかくとして、社殿に向かって右奥には、「イルカ石」と名付けられた、線刻を施された大きな石が鎮座しております。

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石の上部に波模様が刻まれているからイルカ石と呼ばれるのでしょうか。イルカに見立てるにはかなり想像力が必要ですね。
「イルカ」にはほかの意味があるのかもしれません。

社殿の周囲にも磐座らしき巨石遺構が点在しています。

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厚みのないピラミッドのような石が台座に載せられている巨石の組石も見受けられました。

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現在では雨乞いの神社として、地元の方々によって大切に保存されています。
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天神霊が降臨・滞在したという船山に登る

久久野の船山に登るのは、二回目です。
初めて登った時も、狭くて凸凹で、ヘアピンカーブが続く道に苦戦したことを思い出します。

やがて頂上付近まで登って来ると、山肌に磐境のような石組みがちらほらと見えてきます。
印象としては、船山の頂上全体をストーンサークルのように巨石遺構がぐるっと囲んでいる感じでしょうか。

下山する時に撮影した「磐境」の写真です。

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三角点を示す巨石のようなお結び型の巨石ですね。
このような巨石遺構もありました。

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角度を変えてみると、ピラミッド型の巨石のようにも見えます。

やがて頂上に到着。
頂上部にはテレビ局などの電波通信施設が建っています。

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標高1479メートルと書かれていますね。

船山は飛騨富士とも呼ばれており、山頂部は長さが2キロほどの比較的平坦な部分が続いています。その山容が船の甲板を連想させることから船山と名付けられたのではないか、との説もあります。

山頂の標識があったところから、クマザサに囲まれた道を少し歩いて行きます。

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ほどなく船山神社に到着。

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ここに船山の磐座が鎮座しております。
(続く)

「竹内文書」に記された位山と船山の記述について

位山に比べて船山は、それほど注目されていません。
だけど非常に重要な聖山であることは間違いありません。
というのも、「竹内文書」で最初に出てくる固有名詞の山の名前が船山だからです。

時は大昔、「地美(地球のこと)」が誕生して、その地球に天神第五代天一天柱主大神躰光神がやってきた時代です。
この神を祭ったという巨石が富山県平村の天柱石ですね。

この神の霊が滞在した場所が、「竹内文書」の『神代の万国史』には次のように書かれています。
「久久野山大宮舟山宮天神霊ませる」

久久野は現在でも地名が残っています。岐阜県高山市久久野町です。
で、この久久野町にあるのが船山です。

これを読むと、天神第5代の神は霊体として船山に降臨したとも読めるんですよね。そして地球は修理固成された、と書かれています。

で、しばらく時間が経過して、天神第7代天御光太陽貴王日大神の時代に、位山に皇太子のための大宮ができたことになっています。その場所を日玉国と名付けています。日玉、つまり現在の飛騨のことであると推定されます。

で、位山の大宮にいた皇太子というのが、上古第一代の天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇というわけです。

前置きが長くなりましたが、船山へ進みましょう。船山は位山のお隣の山です。
車で頂上まで行けますが、幅が狭くて凸凹も多い悪路の山道となります。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その9:古代王朝と記紀神話)

ちょっとここで論点を整理しておきましょう。
飛騨の位山と、信州の皆神山、戸隠山が結びつく根拠は次の通りです。

まずは、どちらにも天の岩戸伝説が残っていること。位山には水無神社の奥宮ともいえる「天の岩戸」という巨石群があり、皆神山の中腹には岩戸神社が鎮座し、戸隠山の戸隠神社には天の岩戸伝説が残っています。

次に戸隠神社にも、皆神神社にも鶏を使った神事や神楽が残り、実際に例祭などで奉納されています。これを補強するかのように、一神会の浅見氏が「神通力」によって、オモイカネが岩戸隠れしたアマテラスを探すために位山山頂で「鶏占い」を執行し、「皆神山の先の山(戸隠山)」に隠れていることを言い当てた出来事があったのだと主張していますね。

もう一つの根拠が、水無神社の例祭で神輿が山頂に運ばれ一時的に安置される御旅山の参道である、明らかに加工された「滑走路」の方位角が皆神山と戸隠山を指し示している、というわけです。

そしてもう一つ付け加えるなら、皆神神社の神官の家系の方の証言です。神官の家には代々、神々が位山に霊体として降臨し、皆神山で物質界や人類を創造したという話が伝わっているというんですね。正統竹内文書の口伝でも、位山で神を降ろす神事を行うことが、神主に取っての最高の神事であることになっています。「竹内文書」でも、位山三山の一つ船山に天神霊(天神第五代の時代)が降りて来ています。そして皆神山は、大本の出口王仁三郎によると「世界の中心」であり、先の大戦の終盤では、わざわざ天皇家が皆神山のそばに引っ越すことを考えていたわけです。

神州の皆神山・戸隠山と、飛騨の位山は間違いなく深い関連があり、連動していると私は見ます。
だから皆神山ばかりに行っていた私も、位山に呼び出され、「参拝(ご報告)」をしなければいけなくなったとも考えられますね。

おそらく浅見氏が主張しているように、太陽神と関係する巫女か祭祀王がいなくなる出来事があり、そのとき戸隠山に隠れていることが鶏を使った神事によって判明した、というような物語が実際にあったのではないでしょうか。これがもう一つの岩戸隠れの物語です。あるいは、皆神神社の神官の家に伝わっているように、神々が霊体として位山に降臨し、皆神山で物質界を造ったとする物語が天の岩戸神話の中に隠されているのかもしれません。

そして、ここでは書きませんでしたが、富士王朝に伝わる天岩戸神話もあります。お知りになりたい方は、『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』の131ページのコラムをお読みください。

このように少なくとも3つの天の岩戸物語が、『古事記』の天岩戸神話の中に隠されているのだと私は考えています。
飛騨・信州王朝、富士王朝、日向王朝のそれぞれに、天の岩戸神話があり、それをギリシャ神話とダブらせながら一つの物語に取り込んだのが、記紀の岩戸隠れ神話です。

その理由はわかりますよね。すべての古代王朝の系図を天皇家につなげ、天皇家に正統性を持たせるためです。もちろん他にも理由があったことでしょう。でも、記紀編集者の一番の狙いはそこにあるように思われます。

今日の写真は、位山の山頂付近にある天の岩戸です。

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次回は位山三山の一つである船山の話をしましょう。

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その8:御旅山の「滑走路」)

御旅山の「滑走路」をそのまま西方面に延ばして行くと、位山の頂上ではなく、北麓の、強いて挙げれば、位山登山口の駐車場辺りを指し示しています。また、御旅山からは位山の山頂は見えません。位山の遥拝所とされているのに、ちょっと変ですよね。

もちろんタカミムスビの法則から言えば、見えなくとも構いません。ちゃんと位山山頂と祭壇石を結んだ直線上にあれば、祭りごとの儀式や儀礼をするにも問題はないはずです。なにしろ幽斎は「心眼」で執行しますから、イメージが出来さえすればいいわけです。

でも「滑走路」の直線が、位山の祭壇石や天の岩戸といった巨石群も、位山の頂上のどちらも向いていないのは、やはりおかしいですね。

そこで今度は、その「滑走路」を東方面に延ばして行くことにします。まずすぐに見つかるのは、国の天然記念物に指定されている有名な臥龍桜です。龍が地に臥しているように見えることからその名が付いた、樹齢1100年超の老樹です。

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さすがにこの季節では桜は咲いておりませんが、立派な枝を広げています。花が咲いたら素晴らしいでしょうね。

この臥龍桜は、実は御旅山から600メートルほどのご近所にあるんです。しかも「滑走路」のライン上にあります。
ただし、臥龍桜は1100年前からあっても、御旅山はもっと古いはずです。臥龍桜がそこにあるのは、偶然か、あるいは「タカミムスビ」のライン上で「気」が良かったので長命となったからではないでしょうか。

その臥龍桜を飛び越して、国土地理院の地図を使って、「滑走路」をさらに延ばして行きます。すると、信州の長野市に至るんですね。長野市と言えば、皆神山と戸隠山です。

そう、御旅山の「滑走路」のラインは皆神山か、戸隠山に続いている可能性が強いんですね。
では、どちらを指しているのかという問題が発生します。

その前に、こちらを見てください。

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御旅山を東方面から撮影した写真ですが、鳥居までの「滑走路」と、鳥居から少し入ったところからの「滑走路」では、微妙に角度が異なっていることがおわかりになりますでしょうか。つまり「滑走路」の方位角が二つあるんですね。
厳密な計算ではありませんが、一つの方位角は皆神山を、もう一つの方位角は戸隠山を指しているのではないでしょうか。

どうしてそう思うかと言うと、イギリスの巨石遺構である「デヴィルズ・アローズ」がそうなっているからです。
既に以前のブログで説明したと思いますが、デヴィルズ・アローズは数十メートル離れた三柱の立石から成っており、ほぼ一直線上にありながら、微妙に角度を変えているんですね。三本の立石がつくる二つの方位角はそれぞれ、別の巨大ヘンジを指し示していました。これと同じことが御旅山の「滑走路」にも当てはまるのではないかと思います。

この「滑走路」を通って、神様を乗せた神輿が水無神社から運ばれて、御旅山の山頂に鎮座するわけです。
そして鶏を使った神事を行う。
同じく、戸隠神社でも鶏を使った神事をするわけですから、この二つがつながらないはずはありませんね。

大昔に、岐阜県の位山と長野県の戸隠山、皆神山をつなぐ何か大きな出来事があったのではないか、ということが推察されるわけです。そして、それが儀式として残ったのではないかと私はみます。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その7:御旅山)

2004年に岐阜県庁や高山の地元の方々に御旅山に連れて行ってもらったときは、こんなに大事な山だとは思っていませんでした。
当時の説明では、御旅山が位山の遥拝所になっており、どうやら御旅山と位山中腹の祭壇石を結んだ直線上に位山山頂か天の岩戸が位置するのではないか、ということでした。私は当時、「タカミムスビの法則」が存在していることを知りませんでしたから、「ふ~ん、そういうものなのかな」ぐらいにしか理解していなかったんですね。

しかしながら今は、地元の方々の説明が非常に重要な意味を持っていたことがわかります。

国土地理院の地図で調べてみました。すると、当時の説明通り、御旅山と祭壇石を結んだ直線上に位山の山頂があり、水無神社と祭壇石を結んだ直線上に、頂上付近にある最も大事な巨石遺構と思われる「天の岩戸」があることがわかります。ちゃんと「タカミムスビの法則」通りに、御旅山、祭壇石、天の岩戸が意図的に配置されていることがよく理解できます。

そしてここが一番のポイントなのですが、御旅山自体が人工山、少なくとも加工された山であるということです。

まずは御旅山の全体像を見てもらいましょう。

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山と言っても、高さ20メートル、周囲一キロほどのなだらかな独立丘です。
南側から撮影した写真で、何の変哲もない丘に見えます。

だけど、東側から見ると、実によくできた「丘」であることがわかるんですね。
東から見ると、こうなっています。

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つまり、非常に細長い、まるで飛行場の滑走路のようななだらかな丘陵になっていることがわかります。

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で、写真に写っている鳥居をくぐって、このなだらかな滑走路のような坂道を登って行きます。
まさに整地された丘であることがよくわかると思います。自然の丘陵ではこうはなりません。

極めつけは頂上です。

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ご覧のように平らな広場になっているんですね。
昔は神楽岡とも御座山とも呼ばれ、水無神社の例祭では、神輿が中央右に見える台座に置かれ、里神楽が奉納されるそうです。
昔から非常に大事な丘として崇められ、使われてきたことがわかります。

次の写真は北側から撮影した写真です。

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ご覧のように左(東側)からなだらかな坂道が続き、頂上が平ら(中央右の木の茂っている部分)で、右(西側)が崖のように急な斜面になっている「人工丘」の構造がよくわかりますね。

ところが面白いことに、この丘の滑走路のような「参道」は位山の山頂を指しているわけではないんですね。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その6:鶏占いの神事)

位山と御旅山の話は置いておいて、物語を先に進めましょう。
浅見氏が「神通力」で知ったという天の岩戸神話によると、オモイカネが位山の頂上で執行した「鶏を使った神事(鶏占い)」によって、アマテラスが「信濃の皆神山の先の山」に隠れたことがわかった、というところまででしたね。

それを知った神々は早速、現在は戸隠山として知られている岩戸隠れの山に集まり、アマテラスが籠った岩戸の前で岩戸開きの祭典を行ったそうです。それが今にまで伝わる戸隠神社のお祭りの原型ということになりますね。そのお祭りによって、アマテラスが顔を出し、光がこの世界に戻ったという話はだいたい記紀神話と同じです。

で、この浅見説の面白いところは、鶏の占いによってアマテラスの居場所を突き止めたとしている所です。
再び、戸隠神社に伝わる天の岩戸神話の「岩戸前で行われた祭り」の描写を見てみましょう。

「天八意思兼命のお考えにもとづいて、神様たちは準備をしました。まず鶏を沢山集めて鳴かせました。火之御子社に祀ってある天鈿女命(あめのうずめのみこと)の命は大変踊りの上手な神様ですが、この神様が伏せた桶の上にのって足拍子も面白く「とんとん、とととん、と」と踊りました。大勢の神様も「やんや、やんや」と手拍子をうってこれに応えました。
天八意思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏の鳴き声をまねると、沢山の鶏は一斉にコケコッコーと鳴きだしました。天鈿女命の踊りがあまりに面白いので、神様たちも「わっははは」「おっほほほ」と笑ったりつられて踊りだしたりしました。 」

この祭でも鶏が重要な役割を果たしていますね。少なくとも、この描写からは鶏を鳴かせることによって神事が執行されたことがわかります。ということは、まんざら浅見氏の説も間違ってはいないかもしれないということになります。

そこで登場するのが、昨日「番外」で紹介した御旅山です。
水無神社の5月2日の例祭には、御旅山で神興の御神幸があり、伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽が執行されるんでしたね。ここでも鶏が出てくるんです。

そしてこの御旅山こそ、位山と皆神山、戸隠山を結ぶ「証拠」となりうるんですね。
それを次回のブログで説明しましょう。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(番外:位山登山と御旅山)

「(今月末までに)位山に行け」と言われた(ような気がした)ので、19日から昨日(21日)まで飛騨の高山へ行っておりました。
その際、「過去に位山に行った時の事を思い出せ」と”指示”があった(ような気がした)ので、これまで位山に行ったときのことを思い出します。

第一回目が共同通信社富山支局時代の1984年でした。当時の富山県高岡市役所の知り合い数人と、日本経済新聞富山支局記者の「逆鉾さん」(関取の逆鉾に似ているため、こっそりあだ名をつけていました。ごめんなさい)と一緒に初めて位山に登りました。そのとき回った場所は水無神社と位山。登山ルートは、位山中腹にある駐車場から山頂に向かう通常ルート。蔵立石とか天の岩戸といった巨石群を見た後、下山ルートはスキー場の祭壇石へと降りるルートを使いました。そうすると、位山全部の巨石群が見ることができるんですね。だけど、このルートを使うと、中腹の駐車場に置いた車を誰かが取りに行かなければならなくなります。高岡市役所の関係者の方がわざわざ車を取りに行ってくれて、スキー場の駐車場で再び合流しました。その際はお世話になりました。ありがとうございました。

その後、位山とはご無沙汰しておりましたが、おそらく2003年ごろ、再び位山に登っています。これが二回目。その時は船山にも登りました。

三回目は、2004年。このときは当時の岐阜県知事の梶原氏のご招待で、高山市で「位山・羽根ライン」についての講演会を開催してもらいました。およそ200人の方が講演会に来られて、大変盛況でした。ありがとうございました。お蔭様で15年ぶりの再会もありました。この時は位山山頂には上らなかったのですが、講演会の後、位山の遥拝所となっている御旅山に連れて行ってもらったことを思い出しました。

この山は名前通り御旅所(神社の祭礼に、神輿が本宮から渡御して仮にとどまるところ)となっており、飛騨一ノ宮である水無神社の5月2日の例祭には、神興の御神幸があるんですね。そして伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽、獅子舞の奉納が行われ、御旅所での神事のあとに御神酒のどぶろくが参拝者に振る舞われるとのことです。

で、御旅所のことを思い出したことによって、今回の位山行きの意味の一つがはっきりしたんですね。もう一度、御旅山に行け、ということです。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その5:柏手によりアマテラスの居所を知る)

浅見氏によると、スサノオが高天原で乱暴狼藉を働いたというのは、真っ赤なウソであるといいます。
アマテラスが岩屋戸に隠れた理由は、せっかくアマテラスやスサノオといった神々が礼儀作法や畑作、家造りなどいろいろ教えたにもかかわらず、第三世代の人間が次第に慢心し、偉ぶり始め、やがては神様をないがしろにしはじめたからであると浅見氏は言います。

その様子を見たアマテラスは、本当の神様がいなくなるとどうなるかを第三世代の人間にわからせるために、わざと「天に輝く大日輪の光を地球上に届かぬようにする神秘秘事のために、お姿を天之岩戸にお隠しになられた」のだそうです。

面白いのはここからです。
当時、アマテラスら神々は飛騨の位山にいたのですが、突然、アマテラスが姿を消したから大変です。世の中は暗くて長い夜だけが続くようになりました。見兼ねた他の神々はアマテラスがどこに隠れたのか見つけ出そうと、オモイカネノミコトに所在を探してくれるように頼みます。

そのときオモイカネは、アマテラスの使いである鶏を一羽連れてきて、真っ暗闇の中、手の平を打ち鳴らしながらその鶏を位山の頂上へと誘導したそうです。現在でも鶏のことを「かしわ」と呼びますが、このことの名残で「柏手」と言うようになったそうです。それで、頂上に到着すると、手の平を打ち鳴らしながら北から時計回りに鶏の首を回させ、導きます。すると、鶏の首がちょうど北東に来たときに鶏が大きな声で「ココ―、ココ―、ココ―」と勢いよく長く泣いたというんですね。オモイカネがその方角の彼方を見ると、ピカッと光が十字になって輝きました。それで、オモイカネは「神州信濃の皆神山の先の山に」アマテラスがいることを知り、他の神々にそのことを伝えたのだそうです。
(続く)


天の岩戸神話に隠された三つの物語(その4)

戸隠神社に伝わる岩戸神話では、次のように書かれています。

「昔、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へお入りになってしまわれました。世の中は真っ暗闇になり、いろいろの悪い神々が出てきて、恐ろしいことや、悲しいことが次々におこりました。

 大勢の神様たちは、岩屋の前に集まって、天照大神に岩屋から御出でになっていただくにはどうしたらいいだろうかと、相談をしました。その時、戸隠神社の中社にお祀りされている天八意思兼命が「良いことを思いついた。私たちが岩戸の前で踊ったり歌ったりして楽しそうにしていると、きっと天照大神様は、『あの者たちは何をしているのだろう』とおのぞきになるにちがいありません、・・・」と知恵をしぼって考えをだされました。

 天八意思兼命のお考えにもとづいて、神様たちは準備をしました。まず鶏を沢山集めて鳴かせました。火之御子社に祀ってある天鈿女命(あめのうずめのみこと)の命は大変踊りの上手な神様ですが、この神様が伏せた桶の上にのって足拍子も面白く「とんとん、とととん、と」と踊りました。大勢の神様も「やんや、やんや」と手拍子をうってこれに応えました。
天八意思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏の鳴き声をまねると、沢山の鶏は一斉にコケコッコーと鳴きだしました。天鈿女命の踊りがあまりに面白いので、神様たちも「わっははは」「おっほほほ」と笑ったりつられて踊りだしたりしました。

 岩屋のなかの天照大神は何事がおきたのかと、そっと岩戸をあけて外をご覧になりました。(以下略)」

この後、岩戸をタヂカラオが投げ捨て、その戸が落ちた場所が戸隠山であったとなることは前回、説明した通りです。

でも、岩戸が落ちた場所だから戸隠とは、ちょっと唐突ですよね。
高天原と戸隠の間には、もっと深い因縁があるはずです。

それをある意味において説明してくれるのが、竹内巨麿が死去した後、勅使が直々にやって来たという浅見宗平氏が説いている説です。説と言っても、ご本人の言葉を借りれば、「真理の差金を以って計り出し”眼光紙背に徹する”仕方で古文献、古文書を整理して、判り易く解き分け」した結果、到着した結論です。すなわち竹内文書などの古文献に書かれていることを、真実かどうか確かめるために霊視などの「仙人」の力を使って審神者をした結果であるというわけですね。

それによると、太古の昔、神々は人間を創って共に楽しく暮らそうと思っていたそうです。ところがたびたびの大地震などのために、地球は土の海となり、五色人は全滅してしまいます。これが第二世代の人類の時代の終わりだそうです。

で、イザナギノミコトの時代と共に、第三世代の人類の時代が始まります。
人間世界の秩序を回復させるために、イザナギは世界中を回って、いろいろな教育をしました。
そしてイザナギは、娘のアマテラスに日本を、息子のスサノオに外国を任せることにしたといいます。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その3)

中社を訪れた後は、戸隠神社の奥社へと向かいます。

奥社へと続く参道を歩いて行くと、雲間から太陽の光が差し込み始めました。

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この後、天気は快晴になります。
茅葺の随神門をくぐって、樹齢400年という巨大な杉並木を進みます。

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この門から奥社まではだいたい20分ぐらいかかります。
参道はやがて登りになりますが、登り道が始まるぐらいの辺りには、磐座らしき巨石の配石も見られました。

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こういう磐座があるということは、非常に古い聖地であることを意味します。

奥社に到着。

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ご祭神はアメノタヂカラオ。

社伝によると、アマテラスが岩屋から顔を出したところを、岩戸の陰で待ち構えていたアメノタヂカラオが「岩戸に手を掛けて一気にガラガラと渾身の力を込めて、岩戸をあけてしまわれ、天照大神を岩屋からお出し」しました。この時、再び天照大神が岩戸に入っては困るので、岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へ投げ捨てました。岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちましたが、そこが戸隠山であったのだそうです。

面白い神話伝説です。高天原の岩屋の岩戸が投げ捨てられた先が戸隠山であったわけですね。
岩戸を隠したから「戸隠し」ですか。
次回はこの神話伝説の謎に迫りしましょう。

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帰り道に撮影した杉並木と随神門です。
(続く)

天の岩戸神話に隠された三つの物語(その2)

信州に関係があるという天の岩戸隠れの話は、実は鼎談本の『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』にも出てきます。72ページおよび128~132ページです。ギリシャ神話と日本神話の類似性の話の中で、私が天の岩戸神話を持ち出したところ、「むっちゃん」こと竹内氏がいきなり、「岩戸隠れは長野の戸隠しです」と発言したんです。

これは私には意外でした。というのも、天の岩戸隠れの話は「高天原」で起きた物語です。
既にこのブログをお読みの方はご存知でしょうが、出雲族のスサノオが記紀で「高天原」と記されている日向国(今の九州・高千穂の辺り)に進軍してきたとき、日向族の女王アマテラスが恐れおののいて和議に応じ、スサノオとの政略結婚である「誓約」に応じたわけです。この政略結婚により、アマテラスは事実上の人質として別の場所に連れていかれました。おそらくその政略結婚によって生まれた宗像三女神が祀られている福岡県宗像市の宗像大社あたりか、山陰地方で結婚生活を強いられていたのではないでしょうか。その後、本当にロマンスが芽生えてしまった可能性があることは、『竹内文書の謎を解く2--古代日本の王たちの歴史』に書いた通りです。

この政略結婚が続いている間、日向国からアマテラスという太陽神がいなくなってしまったわけです。
つまり人質として囚われの身となった。それが太陽のように照り輝く祭祀王が岩屋戸に隠れてしまったようなものだった、というのが、岩戸隠れの真相であったのではないかと解釈しました。

しかしアマテラスは、スサノオとの間に女の子しか生まれなかったことから、結婚を解消して、日向国に戻ります。岩屋戸から出てきたわけですね。太陽神が帰って来ました。そしてそこで、スサノオの出雲攻略の作戦を、日向国の夫の高木神(タカミムスビ)と練るわけです。

あとは、記紀神話とほぼ同じです。つまりニニギの天孫降臨とは、実は日向国で行った高木神からの王位継承式みたいなものだったことが、『日本書紀』の「真床追衾」の儀式をしたという記述からもわかります。

それはさておいて、天の岩戸隠れがどうして信州の戸隠なのか。その理由を調べるために、戸隠神社に参拝して来ました。

まずは中社にお参りします。

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ご祭神はオモイカネノミコト。高木神の息子であるとみられます。ただしアマテラスとの子ではないはずです。

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なんともすがすがしい滝が流れておりました。
(続く)

岩戸神社の秘密ーー天の岩戸神話に隠された三つの物語(その1)

天皇の御座所を見学した後、前回見落としていた皆神山の中腹にある岩戸神社にお参りに行きました。

狭い登山道路のすぐ脇に鎮座しているのですが、参道は大きくなく、神社も山の斜面の林の中にあるので見落としやすいんですね。
今度は注意して場所も確認してありましたから、すぐに見つけました。

道路から階段を上って、岩戸神社へ。

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登った先には、このような石室のある古墳があります。

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ここを神社として祀ってあるのですね。
ご祭神は天照皇太神。天照大御神のことです。
立札には「皆神山ピラミッドの入り口ではないかと言われている」との旨が書かれていました。

ところで、どうして皆神山が天照大御神と結びつくのでしょう。
次回はその謎に迫ります。
(続く)

天皇の御座所から延びる地下壕への階段

天皇家と竹内文書の話に時間を使いましたが、再び信州・松代の大本営に建造された天皇御座所の話に戻します。

天皇御座所と賢所、それに伊勢の皇大神宮が一直線上に並ばなければならないとの宮内庁のお達しがあったことは、当時の工事主任の証言でわかりました。

それを受けて1945年7月23日、賢所を新たに建設する工事が始まりました。伊勢の皇大神宮は天皇の御座所から南南西の方角ですから、ちょうど舞鶴山と御座所を結んだライン上に建設すればよかったんですね。でも技術的な問題もあったようですので、実際に地図上で確認すると、ラインよりもちょっとだけ西に外れた弘法山の東の陽が当たる山麓が選ばれたそうです。ちなみに弘法山は、皆神山と舞鶴山を結んだ、ほぼ直線上にあります。

賢所の建設も進み、後は天皇が御座所に引っ越しすればいいだけにはなっていました。天皇の移動用に特殊装甲護衛車も用意されていたそうです。

で、今日の写真は、空襲があったときに天皇が御座所から地下壕へ避難するための階段です。

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同じような階段が皇后の御座所からも延びており、途中でその二つの階段が合流、さらに奥へと下って行く構造になっていました。
奥の方は現在、松代地震観測所として使われており、関係者以外立ち入り禁止となっています。
見学コースの行き止まりの壁にはびっちりと、コオロギが蠢き合っていました、

次の写真は舞鶴山地下壕の出入り口。

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奥の山が舞鶴山です。天皇の御座所は写真右奥にあります。

神仕掛けの中で登場した竹内文書と正統竹内文書

天津教教祖・竹内巨麿が生まれたのは、1875年であると言われています。ちょうど、正統竹内家が秘蔵していた神宝・古文献類が盗掘され、第72世武内宿禰こと第12代竹内三郎太郎がそのショックから立ち直れなかったため、次の世代に秘儀・伝承を伝授することが出来なくなっていた時期とほぼ合致します。結局、次の武内宿禰が継ぐはずだった秘儀・伝承は、竹内睦泰氏が19歳になる時まで、すなわち1985年か1986年まで、12の長老家によって分散・相承されることになります。

一方、富山の小作農・竹内三郎右衛門に引き取られた孤児の巨麿は17歳のころ、養祖父の三郎右衛門から「先祖伝来」の古文書と神宝類を譲り受けます。これが後に「竹内文書」と呼ばれるものです。巨麿は京都の大悲山での修行などにより「神通力」を得て、1910年に茨城県磯原で皇祖皇太神宮天津教(後に天津教)を創設。1922年ごろから竹内文書の整理を始め、徐々にそれを公開していきました。ところが、この神宝類・古文献公開が、当局による弾圧を招きます。巨麿は1936年、神宮神祠に対する不敬罪、文書偽造などの容疑で逮捕され、古文献・神宝類も証拠として押収されます。1944年12月17日に巨麿は無罪になりますが、押収されていた数千点に上る古文献・神宝類は翌45年の東京大空襲で大半が焼失してしまいました。

戦後も巨麿の受難は続きます。GHQによって教義が非民主的で不健全であるとして一時活動停止処分を受けたこともあったそうです。それでも巨麿は残された古文献と神宝類を守りながら天津教を再興、既にお話ししたように1965年1月27日に亡くなりました。

と、ここまで書いて、何かシンクロニシティ―を感じる人がいたとしたら、かなり勘の鋭い人です。
既に述べたように、ちょうど武内宿禰職が不在だった時期、竹内巨麿が表舞台に立ち、竹内文書を公開しました。
しかし本当のシンクロニシティはここからです。
巨麿が1965年1月に亡くなり、竹内睦泰氏が1966年12月に生まれます。
65年1月と66年12月と言うのは、何か意味深だと思いませんか。
古い竹内文書から新しい竹内文書への移行期間を象徴しているようでもあります。
また睦泰氏は12月17日生まれですが、それは奇しくも巨麿が無罪の判決を受けた日と同じです。無罪判決のちょうど22年後に睦泰氏が生まれているんですね。同時にそれは拙著『竹内文書の謎を解く2―古代日本の王たちの秘密』が発売された日でもあります。

そして今回また、シンクロニシティが発生しました。
私が今年書いた二冊の本は、一冊が正統竹内文書を中心にして書いた『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』で、もう一冊は竹内文書と正統竹内文書の双方を取り上げた『竹内文書と平安京の謎』でした。別々の出版社に別々の時期に原稿を送ったにもかかわらず、同じ7月に二冊とも発売されました。別に示し合わせたわけではありません。むしろ出版社は同一作者の著作は時期を離して出版したいものなんですね。だからこの二冊が7月に発売されたのは、まさに偶然でした。

ところがもう一つ「偶然」が重なりました。
巨麿の孫で、茨城の皇祖皇太神宮の管長である竹内康裕氏が別の出版社から、何と同じ月に『竹内文書と神秘秘伝の術事』という本を出版したんですね。私は康裕氏とは会ったことはありませんが、2003年に一度電話で話をしたことがあります。しかも、康裕氏が当時住んでいた場所は、私が当時住んでいたところと同じ駅のご近所さんでした。

こうしたシンクロニシティが発生するのは、このタイミングを計っていた「神様」がいるということにほかなりませんね。
竹内文書の本と正統竹内文書の本、それにその二つを合わせた本という三冊の本が同じ年の同じ月に発売されるというのは、神仕掛けとしか思えません。

つまり神様から見れば、竹内文書も正統竹内文書も、どちらが本当で、どちらが正しいというものではないんです。
どちらも神仕掛けの中に出てきた「本物」です。ただ、それぞれの役割があり、「コーヒー党か紅茶党の違い」と言うだけの話。
すべてが神のプログラムによって出てきています。

だからこそ巨麿の亡くなった日に、神事と占いの真の意味を知る天皇が皇祖皇太神宮に密使を派遣したのだと、私は思っています。

竹内文書に関連する「神のプログラム」についての考察

ここでちょっと、時代の流れと論点を整理しておきましょう。

19世紀後半にアメリカを中心にして日本の近辺、あるいは日本を含む太平洋に謎の大陸があることが話題になりました。
それがパン大陸とかムー大陸と呼ばれている大陸ですね。

時を同じくして、『古事記』『日本書紀』などの官製の歴史書以外の古史古伝の存在が日本で明らかになってくるという動きがありました。一種の日本古代史見直し運動みたいなものですね。その動きの中から、大本や天津教が生まれ、日本は神々が最初に降臨した地で、古代文明の中心であったとする見方が流布されていくわけです。しかもその思想は軍部にも入り込みます。

で、このアメリカと日本で起きた二つの動きはうまく連動します。
どうやら日本と言う国は、失われた超古代文明を継承した「神の国」ではないか、という思想が広まったわけですから。

それを知ってか知らぬかはわかりませんが、戦後GHQは竹内文書と関係する場所を実際に発掘調査した節があるわけです。
結果、天皇制は象徴として残され、天皇家は天津教教祖の巨麿が亡くなったときに、勅使を派遣して神事・占いを行った。

大本教祖の出口王仁三郎が亡くなった時も勅使が派遣されたのかどうか知りません。でも、少なくとも竹内文書を世に出した巨麿に勅使を出したというのは、かなり意味が深いと思っています。私には、ここには神のプログラムが働いていた、つまり神のシナリオがあったように思えてならないんですね。

つまりすべてが出来過ぎているわけです。

そこにもう一つの占いが加わります。
それが正統竹内文書の口伝継承者を誰にするか、という占いなんですね。

竹内睦泰氏によると、第73世武内宿禰を継ぐように言われたとき、長老メンバーは次のように竹内氏に告げたそうです。
「1767年に亡くなった武内宿禰(注:おそらく第68世か67世とみられる)は次のように予言した。『100年後に王政復古を成し遂げたのち、99年後に蘇る』と」

で、その予言通りに、1867年に明治維新があり、その99年後の1966年12月に竹内睦泰氏が生まれ、第73世武内宿禰に選ばれたわけです。

その明治維新のころ、正統竹内家に大事件が発生しました。当時は第12代竹内三郎太郎が富山で第72世武内宿禰を継いでいたのですが、その富山県の二上山山頂付近にあった武内宿禰歴代の墓に隠してあった神宝・古文書のすべてが何者かに盗掘されたというんですね。

神宝・古文献を盗まれたショックから、第72世は日嗣の儀式を執行できなくなってしまったそうです。そのせいで、武内宿禰は3代100年近くにわたり、祭主職が中絶してしまうんですね。竹内氏はこの期間を盗難欠世期三代と呼んでいます。

ところが、この欠世期の「穴」を見事に埋めたのが、天津教の竹内巨麿であったわけです。
(続く)

天皇制存続の背後に「竹内文書」の存在があったとする説について

天皇家が竹内文書を知っていたとする仮説に関連して、次のような「噂」もあります。
この「噂」も、皆神山の神官の家系だという方から聞いた話です。ご存知のように、第二次大戦で無条件降伏した日本において戦後、天皇家をどうするかという大問題が浮上しました。結局、GHQ(連合国軍総司令部)は天皇制を残すことを決めたわけですが、その背景には、竹内文書があったというんですね。

これはかなり突飛な話です。だけど一応その可能性についても、論じておく必要がありそうです。

その「噂」はこういうことです。
竹内文書では、神々が最初に降臨したのは日本の位山(あるいはその周辺の山)であったことになっています。そしてそこで人類(五色人)が誕生した。つまり日本が人類発祥の地であり、古代文明の中心であったわけです。そのため竹内文書では、モーセや釈迦、孔子やキリストまで来日して、古代日本で神の道、すなわち古神道を学んだのだとすら書かれています。

で、その「噂」では、GHQの初代最高司令官であるマッカーサーはアメリカの秘密結社の幹部であったといいます。
マッカーサーは古代日本に伝わるという、その伝承に興味を持ち、竹内文書と関係のある遺跡を調べさせました。
石川県の宝達山山麓にあるモーゼの三つ子塚や、古代ユダヤの契約の箱があるという四国の剣山ですね。
その結果、どうやらの日本の天皇家は、太古からの地球の歴史や儀礼、儀式を継承する一族である可能性があると判断されたというんですね。
それで、天皇制を残すことにした、と。

確かにこの説を採用すると、なぜ戦後すぐに、GHQがモーゼの三つ子塚や剣山を発掘調査した(と地元で伝えられている)かがわかります。「竹内文書」の真偽のほどを確かめたことになりますね。

で、何度も言いますが、これはコーンフレークで有名な米ケロッグ社と関係の深いジョン・ニューブラウフの『オアスペ』に記された「パン文明の継承一族」の話とも矛盾しないわけです。そして『オアスペ』が出版された1882年からほどなく、太平洋に沈んだ幻のムー大陸の伝説を広めたチャーチワード親子が日本のそばにあったという謎の大陸について公言しはじめ、1931年にはその集大成として 『失われたムー大陸』(The Lost Continent of Mu)という本がニューヨークで出版されています。

こうした一連の動きは、怪しいですね。マッカーサーが秘密結社の幹部だとしたら、こうした動きに一枚噛んでいたように思われます。
(続く)

天皇家は「竹内文書」を知っていた

竹内巨麿が亡くなった後の勅使による神事を含む一連の動きは、非常に興味深いことを物語っています。

まず一番大事なことは、天皇が竹内文書のことを知っていた可能性が極めて高いことです。
一体どういう基準で勅使を天津教の皇祖皇太神宮に派遣したのかわかりませんが、少なくとも勅使を出すからには、天皇は竹内文書と巨麿のことを知っていないとお話になりません。実際に巨麿の生前、皇族が茨城の皇祖皇太神宮を訪れ巨麿と会っていることは、写真(天神人祖皇太宮所蔵)に残っていることからも紛れもない事実です。

ということは、天皇および皇族にとって、竹内文書は周知の事実であったことがうかがえますね。
別の言い方をすれば、竹内文書は学界からは偽書扱いされていますが、天皇家からは一種のお墨付きをもらっていたことになります。
もちろん竹内文書の細部は、明白な「間違い」が随所に見られます。
だけど大筋は天皇家に伝わる秘儀・伝承と一致していたのではないか、ということが考えられるんですね。

もう一つの大事な点は、現在もそうなのかどうかはわかりませんが、少なくとも1960年代においては、天皇家と宮内庁では神事の「お告げ」によってものごとの段取りが決まっていた可能性が強いということです。

まさか科学の発達した現代においてそんなことが行われているはずはない、と思われることでしょう。でも現代の我々が知る科学など、「神仕組み」の中においては、非常にちっぽけな一分野にすぎないのも事実です。そもそも現代の科学をもってしても宇宙に存在する5%ほどの物質がわかった(と思い込んでいる)だけ。95%は「ダークマター」「ダークエネルギー」で片づけてしまっている有様でしょ。その5%であっても、今後の大宇宙の解明が進めば、もっと他に物質があることが判明するかもしれないわけです。

神事をバカにすることはできませんね。

実際、何度かこのブログに登場する皆神山の神官の家系の方の話によると、ある日突然、天皇家からの使いが自宅にやって来て、御神事で決まったので決められた皇族の侍従になるよう告げられることがあるのだそうです。

そこで思い出すのが、皇室に嫁いだ二人の女性の名前のアナグラムです。秋山眞人氏の『実際に起きた驚異の偶然の一致』で紹介された有名な話ですから、知っている人も多いでしょう。すなわち二人の旧姓である小和田雅子(おわだまさこ)と川島紀子(かわしまきこ)の名前をひらがなにして並べてみると、それぞれタスキがけのように交差しながら読んでも、「おわだまさこ」と「かわしまきこ」が現れるアナグラムになっているんですね。

おわだまさこ
X X X X X
かわしまきこ
(順番に上、下、上、下とたすき掛けのように読むと、「おわだまさこ」となり、下、上、下、上とたすき掛けのように読むと「かわしまきこ」となる)

非常に呪術的です。つまり言霊の力で二人の運命を誘導した可能性すらあるんですね。
こうした、一般人から見たらオカルト的な世界が、天皇家の「御神事の世界」でもあるわけです。
(続く)

竹内巨麿の死去を知った天皇家が派遣した二人の神主

1965年1月27日未明。天津教教祖で「竹内文書」を世に出した竹内巨麿が亡くなりました。
ここからは、その巨麿の葬儀に参列した自由宗教一心会の浅見宗平氏が『自由宗教えの道 ふしぎな記録第四巻』の中で書いていることの要約となりますが、巨麿が亡くなった27日、天津教の皇祖皇太神宮を勅使(天皇の意思を伝達するために派遣される特使)が訪れたのだそうです。

どうして天皇家が巨麿の死去を知ったのか、わかりません。天津教関係者が知らせたのか、あるいは別のルートで知ったのか。いずれにしても、巨麿の死を知った天皇家が勅使を茨城県磯原の皇祖皇太神宮に派遣したわけです。勅使は二人で立派な装束の神主さんであったと言います。

で、その勅使(神主)が何をしたかというと、皇祖皇太神宮において「皇祖皇宗にお伺いを立てた」というんですね。皇祖皇宗とは天照大御神に始まる天皇歴代の祖先のことです。つまり二人の神主が、皇祖皇太神宮で神事によって「天皇の祖先のお告げ」を聞いたということになります。

そしてその「お告げ」の内容を、皇祖皇太神宮近くの宿屋「磯原館」で休憩を取っていた浅見氏のところに勅使が知らせに来たのが同日午後7時半ごろであった、と浅見氏は言います。同氏は、そのときの様子を次のように書いています(句読点など一部改訂してあります)。

「夜7時半ごろでした。磯原館の前に自動車が止まったと思いましたら、突然大きな声で『勅使』と言って、立派な装束の神主さんが二人入って来ましたから、旅館の人たちはビックリして頭を床に擦り付けるように下げていました。そして二階へ上がって来るとまた『勅使』と大声で言いながら足早に来ますので、山根先生(注:『キリストは日本で死んでいる』などを著した竹内文書研究家・山根キクのこと)はてっきり自分たちの部屋来るものと思って、急いで部屋に戻りました。山根先生の部屋を通り過ぎて私の部屋の前に立った神主さんが『勅使』と言って入って来ました。立派な姿の神主さんでした。部屋へ入ると着座して『本日皇祖皇太神宮に於いて皇祖皇宗にお伺いをたてましたるところ、一神会会長の指図に従えとのことであります。これにて勅使は戻ります』と言って、神主二人は戻りましたが、山根先生や文献学者が驚いて、私の部屋へ入って来ました。そして急に言葉使いを改めて『一体どうなっているのですか。会長先生は文献も宝物(注:いわゆる「竹内文書」のこと)も見ていないそうですが、どうも私にはわからない。今の勅使のことにしましても驚きましたよ。これからどうなるのですか。知らない人ばかりで心配はないのですか』と言いましたので、私は『神様の御意(みこころ)のまにまにやりますよ』と言っておきました。」

面白いでしょ。次回、この「神仕組み」「神のプログラム」について私なりに説明いたしましょう。
(続く)

天皇家と祈りの儀礼について

松代大本営工事の当時の工事主任だった吉田栄一の証言を分析しましょう。

まず驚くのは、天皇よりも皇位継承の「証拠」でもある三種の神器のほうが大事だと考えられていたことです。
天皇に何かあっても、神器だけは守らなければならないというのは、非常に興味深い考えです。
つまり、このことから、実は天皇家とは神器を守るための役目を担っていた一族であるとみなすことができますね。

では、神器を守るとはどういうことでしょうか。
私はそれを、古(いにしえ)からの祭祀、儀礼、儀式、言霊を守り、祈ることであったと解釈します。
そう考えると、パン大陸が沈没した際、パン大陸の一部であった日本に漂着した特別な部族だけが、パン文明の儀礼と儀式と言霊を守る役割を担ったと『オアスペ』に記されていたことと符合するわけです。

もっとも、その「特別な部族」が天皇家であったのかは議論が分かれるところですが、少なくともパン文明の遺産の一部は天皇家に引き継がれたのではないかと私は見ています。

もう一つの大事な点が、既に指摘したように、天皇の御在所と賢所と伊勢の皇大神宮を一直線に配置しなければならなかったと書かれていることです。これって、まさに「高み結び」のことですよね。ということは、天皇家、もしくは宮内庁の神官に「タカミムスビの法則」を知っている人がいたのではないか、ということが考えられます。そうでないと、一直線上に配置する意味がありません。

一直線上に配置することによって、祈る際、非常にイメージが強く持つことができることは既に述べた通りです。イメージを明確に持てると、その祈りのエネルギーを強めることができるんですね。彼らはそのことを知っていた可能性があります。祈りという儀式を最重要事項にしていたかもしれない、と。

もしそうだとすると、天皇家は祈りという神事によって生きている一族である、ということも考えられます。
そのことを如実に物語っているエピソードが、「竹内文書」を世に出した竹内巨麿が亡くなったときにやって来た勅使が語ったとされる言葉にあります。
(続く)

舞鶴山、皆神山、象山の三山の関係と、天皇御座所

松代遷都計画で選ばれた三つの山、すなわち皆神山、舞鶴山、象山について語りましょう。

偶然か意図的かはわかりませんが、この三つの山を結ぶと、舞鶴山を頂点とする完璧な二等辺三角形になります。
具体的には、国土地理院の1万5000分の1で調べると、皆神山と象山の頂上と舞鶴山の頂上を結んだ距離はそれぞれ1575メートルで、皆神山と象山との距離は2550メートルです。

二等辺三角形となる3つの山と聞いて、何か思い出さないでしょうか。
そう、大和三山ですね。新著『平安京と竹内文書の謎』でも紹介しました。
畝傍山、耳成山、天香久山は、畝傍山を頂点とする完璧な二等辺三角形でした。

大和三山が作る二等辺三角形の頂点から引いた垂直二等分線が藤原宮の大極殿付近を通るように、舞鶴山から引いた垂直二等分線を南に延ばせば、大極殿に相当する「天皇御座所」の付近を通ります。

偶然にしてはよくできているでしょう。陰陽道の臭いすら感じられます。
さらに舞鶴山の地下壕出入り口と、象山の地下壕出入り口を結んだ直線を北方向に延ばして行くと、神話にも登場する戸隠山に至るんですね。

確実に偶然ではない直線もあります。それが「天皇御座所」と「賢所(かしこどころ)」(神器の鏡などを祭ってある場所)と伊勢神宮を結んだ直線です。
原山茂夫氏の著作からの孫引きになりますが、当時工事主任だった吉田栄一氏が『軍事史学』に発表した『松代大本営工事回顧』には次のように書かれています。

「当初の計画では賢所は陛下専用の地下壕三号舎の中に、陛下のご座所の隣室を物置として準備したが、陛下には万一のことがあっても、三種の神器は不可侵である。同じ場所しかも物置を充てることは許されない。陛下の常の御座所と伊勢の皇大神宮を結ぶ線上に南面して、造営し、然もその掘削には純水の日本人の手によること」

これは突っ込みどころの多い、かなり面白い証言です。
次回はこの証言を深く掘り下げましょう。

舞鶴山の麓に建造された「天皇御座所」です。

IMGP7624-1.jpg

外からしか見学できませんが、堅固な造りになっており、建物の裏と上はコンクリートの厚さが80~90センチもあるそうです。
そうした説明が書かれている案内板。

IMGP7623-1.jpg

ちょっと離れたところから撮影すると、こうなります。

IMGP7631-1.jpg

当時はこの建物の上に土が盛られ、半地下壕建築となっていました。そして裏山と一体となることで、上空から視認できないようカモフラージュされていたそうです。
(続く)

皆神山=世界中心遷都論が背景にあった

要塞の地ということ以外に信州松代が選ばれた理由は、宗教的な知識や儀礼と関係があったのではないか、と思われます。
言霊的には信州は「神州」ですから、まさに「現人神」である天皇にふさわしい名前の地であるわけです。

加えて、軍部の人間に「竹内文書」や新宗教「大本」のシンパがいたことも関係してくるのではないかと思われるんですね。
私が調べたところでは、陸軍には「竹内文書」の信奉者が、海軍には「大本」の信奉者が多くいた節があります。
そしてそのどちらも、皆神山を神々がこの世界を物質化するときに拠点とした神聖な場所だと主張していた可能性があります。
既にご紹介したように、大本の教祖・出口王仁三郎は戦前、皆神山のことを『月鏡』で次のように書いています。

「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。四囲は山が十重二十重にとりかこんで、綾部、亀岡の地勢と些しも違はぬ蓮華台である。唯綾部は日本の山脈十字形をなせる地で、これは又世界的であるだけの違ひである。大石凝真素美翁は、此地に帝都をおかれたなら万代不易の松の代を現出することが出来ると主張し、世界中心遷都論を唱へて囹圄の人となつた事実がある。真素美翁ばかりでなく外にもさういふ説を唱へた人があるが、最近飛行機が盛になるにつれて東京は安全の地でないと云ふ見地から、信州遷都論が一時或有志によつて伝へられた事があるが、全く此皆神山は蓮華の心に当つて居るのだから、四方の山々に砲台を据ゑつけてさへ置けば、如何なる飛行機をもつてしても襲ふ事は出来ぬ安全地帯である。こんな要害のよい所は、世界中外にない。」

ちなみに出口がここで紹介している大石凝真素美とは、「天津金木学」「天津祝詞学」「天津菅曾学」という、いわゆる「三大皇学」を確立したことで知られる、幕末から明治・大正にかけての言霊学者、国学者です。

このことからもわかるように、皆神山は一部の神道家たちによって、神の山として、世界の中心として君臨すべきであるとの考えがあったわけです。当然のことながら、軍幹部にもそういう考えがあって、信州・松代遷都を決断したと見るべきではないでしょうか。

IMGP7620-1.jpg

向かって左が皆神山、中央の尖った山がノロシ山でその中腹にある、色の濃く見える山が舞鶴山(白鳥山)です。
(続く)

大本営移転、信州遷都(首都松代)計画

「縄文の美」の続きをやる前に、今回の信州甲州第二回取材旅行(10月22-24日)の最初の目的地であった松代の話を紹介しましょう。

縄文時代からずっと時代は下って、太平洋戦争末期のころです。
本土大決戦をもくろむ軍部の最後の拠点として、信州松代に大本営および政府各省庁を移転しようという計画があり、極秘裏に建設が開始されました。

つまり東京から信州への遷都、首都を松代に置く構想ですね。具体的には、既に紹介した皆神山、象山、舞鶴山(別名・白鳥山)の三つの山の地下に大地下壕(松代大本営地下壕)を建設し、舞鶴山に皇居と宮内庁と大本営を、象山に各省庁と通信、放送施設、皆神山に測量庫(当初の計画では皇族の住居を造る予定だったが、岩盤が弱く断念された)を造ることになりました。それぞれの地下壕は碁盤目のように掘り抜かれ、総延長距離は10キロを超えました。

写真は象山の地下壕の出入り口です。

IMGP7614-1.jpg

見学できるようになっており、ヘルメットを被って入っていくと・・・・

IMGP7610-1.jpg

このような地下通路が碁盤目のように張り巡らされておりました。
この通路上に、各省庁の間仕切りと通り道が建設されたそうです。

工事は、主に強制連行された朝鮮人労務者約6000人が中心となって、1944年11月11日から翌年の8月15日の終戦まで9か月の間、突貫工事で行われ、全行程の約8割が完成しました。工事期間中の犠牲者は約210~250人ではなかったかと推定されています。

そうした事実関係について知りたい方は、原山茂夫氏の『新てさぐり松代大本営』(定価1000円)がお勧めですので、是非現地等で入手してください。

それはそれとして、問題はなぜ松代が遷都地候補になったか、です。

一般的には、松代が地質学的にも固い岩盤地帯となっており、海からも遠く、自然の要塞のように四方を山で囲まれていること、などが理由として挙げられています。

しかしそれとは別に、何かもっと重大な理由があったのではないか、と言うのが私の考えです。それは次回、ご紹介しましょう。

IMGP7619-11.jpg

上の写真の左端に写っている山が皆神山、その右のやや尖った山(のろし山)の中腹にあるのが舞鶴山、そして右端の均整のとれた小さな山が象山です。
(続く)

縄文のビーナスと仮面の女神

先日、山梨県立考古博物館で開催されている特別展「縄文の美」を見に行く機会がありました。
当初はまったく訪問予定に入っていなかったのですが、八ヶ岳の麓のとある駐車場でまったく見ず知らずの人に呼び止められて紹介されたことから訪問を決めたという、いつもながらの出たとこ勝負的な参観です。

その特別展は、とにかく素晴らしかったです。
6000年前の遺跡であるアイルランド・ニューグレンジの巨石に刻まれたのと同じような渦巻き文様のある渦巻紋土器(山梨県笛吹市の桂野遺跡出土)、まるで現代の芸術作品を彷彿させるようなフォルムももつ深鉢(山梨県北斗市の小屋敷遺跡出土)、トロフィーか王冠のような形の台付き鉢(長野市の松原遺跡出土)など初めて見る縄文の芸術品の数々に圧倒されました。

その「縄文の美」の中から今日はとりあえず二つだけ、土偶を紹介しましょう。
最初は「縄文のビーナス」です。

IMGP7774-1.jpg

長野県茅野市にある棚畑遺跡の集落の中央部の穴から、ほぼ完全な姿で出土した高さ27センチの土偶です。
約4000年から5000年前ぐらいの縄文時代中期の作品。
渦巻き文様が刻まれた帽子のようなものを被っています。

後ろ姿はこんな感じ。

IMGP7745-1.jpg

「帽子」の上が渦巻きになって、中心には穴が開いています。
パリコレに出しても、遜色のないデザインです。

もう一つはこちら。

IMGP7776-11.jpg

その名も「仮面の女神」。長野県茅野市にある中ツ原遺跡から出土した高さ34センチの土偶です。
約4000年前の縄文時代後期前半の作品。
仮面を被ったように見えることから、祭りの祭具として使われたと考えられています。
渦巻きと直線が見事に配置されており、仮面の逆三角形にも象徴性が感じられます。
三角形ですから火のイメージでしょうか。

山梨県立考古博物館ではどちらもレプリカの展示ですが、茅野市尖石縄文考古館に行けば、どちらも国宝に指定された本物が展示されています。
写真は尖石縄文考古館で撮影しました。
(続く)

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