池間島のユタが語った慶良間の海底遺跡の本質

ある日、一向に治らない頭痛に文字通り頭を痛めていた谷口さんが家に戻ると、ユタ(沖縄・奄美地方において神に仕える霊媒者のこと)が自宅で祈祷を上げていたというんですね。驚いている谷口さんにユタは「もう頭の痛みがとれたでしょ」と告げます。すると、不思議なことにその瞬間から頭の痛みが消えたんだそうです。ユタは谷口さんに「次に海底遺跡に潜って調査するときは島の竜宮神にお参りしなさい」と告げて、去って行きました。

話はかなり怪しくなって来たでしょ。もちろん谷口さんは、これは本当の話だと言います。実際に、それ以降、ユタの言うとおりにしたら、何の異変も起こらなくなったと言います。

ユタの力に感服した谷口さんは、池間島に住む別のユタに海底遺跡について聞いてみました。

次がその一問一答です。

問:センターサークルについて教えてください。
答:神々の会議の場であり、まわりの6個の石に6人の神が座し、真ん中の六角形の石には母なる神が座るのよ・・・・・・。この溝は、世界に通ずる方位を表わす路(みち)だよ。それぞれの路をずーっとどこまでもたどっていくと、やがてここと同じような場所に着くさぁ。

このユタの話が本当かどうかはわかりません。でも、結構面白いことが示唆されていますね。
一つは「神の座」という表現。思い出してください。秋山氏が催眠中に語ったパン大陸においては、ある特定の場所から太陽が昇るある時期においては、この島全体を「神とその座」という意味で、レムリアと呼びました。「神の座」はパン大陸と響き合いますね。少なくとも、沈没したパン大陸においては、「神の座」が非常に重要な意味があった、しかもユタによると、その「神の座」が沖縄・慶良間諸島の海底に沈んでいたことになるわけです。

もう一つの示唆は、六角形、6個の石、6人の神、6つの路、六方位などと6にまつわる構造です。
新著をお読みいただいた方ならすぐに気づくと思いますが、6つの点と言えば、それは六芒星を意味します。
それが出雲の亀甲紋につながり、オオナムヂ、賀茂氏を介して陰陽師に引き継がれたと見ることもできますね。

もう一つの大きな示唆は、この6つの路をたどっていくと、世界にも同じものがあるとユタが言っていることです。

まさか、そんなものあるわけないだろう、と思いますよね。
でも、あるんですね。
残念ながら、私は慶良間諸島の海を潜ったことはないので、写真を持っていないのですが、作家のグラハム・ハンコック氏のサイトに載っています。まずは慶良間のセンターサークルは、こちらのサイトをご覧ください。

そしてこれとほぼ同じ構造を持つストーンサークルが、眠れる予言者エドガー・ケイシーがアトランティスが浮上すると予言した年(1968年)に見つかったバハマ・ビミニ沖の海底遺跡とされる「ビミニ・ロード」にあるんですね。

その写真も同サイトに掲載されています。こちらのサイトをご覧ください。一番下に出てくる写真です。

同じ構造を持った海底遺構に見えますね。
池間島のユタは、かなり正確に慶良間の海底遺跡の本質を見抜いていた可能性があるように思います。

で、これと同じ構造が『オアスペ』のイラストにも描かれているんですね。
(続く)
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阿嘉島沖の海底に眠るストーンサークルの謎

阿嘉島沖の海底に眠るストーンサークルは1976年ごろ、当時潜水漁業に従事していた谷口光利氏が偶然にトムモーヤ礁と呼ばれる岩礁付近の水深20~30メートルの海底で見つけました。奇妙な石の配列で、六角形に削られた高さ3メートルほどの石柱を中心に、円形状に石が並んでいたんですね。谷口氏はその石の配列の形から「センターサークル」と名付けました。

その「センターサークル」からは6本の溝のような道路が外に延び、そのうち南西に伸びた「道路」は別のストーンサークル群とつながり、北西に伸びた「道路」は別の小さなセンターサークルを経て、祠のような岩穴に続いていました。さらに南東に伸びた「道路」をたどっていくと、別の小さなセンターサークルを経て、「鏡岩」やピラミッド形の石に至ったのだそうです。

ここまで聞いただけでも、かなり怪しい海底の構造物だという感じがします。
しかし、この海底のストーンサークルを含む謎の海底遺跡はその後、もっと怪しさを増すんですね。

この”最初の発見”から18年経った1994年のことです。再びこの海底の構造物を調べていた谷口氏に大変なことが起きるんです。その時は海底遺跡の写真を撮るとき、サークルの石を少し動かしてしまったのだそうです。異変が起きたのは、その日の晩のことでした。民宿で打ち上げをしている時、用を足しに外に出た谷口氏が突如意識を失って倒れてしまったんですね。幸い、間もなく意識を取り戻し、大事には至りませんでした。まあ、こういうことは脱水症状や貧血などでも起きることです。一般的にはお酒を飲み過ぎたんだろう、で片づけられてしまいますね。

最初は本人を含めだれもが、谷口氏の症状について、そう思ったに違いありません。ところが、翌日宮古島の自宅に戻っても谷口氏の頭の痛みは一向に消えません。那覇の病院で精密検査を受けましたが、やはり異常なしです。だけど谷口氏の頭痛は続きます。

変化が訪れたのは、10日ほどしてからでした。
(続く)

『オアスペ』」が描く人類の歴史と竹内文書的歴史との相関関係について

『オアスペ』に記された人類の歴史が本当なのかどうかはわかりません。
でも、とんでもない物語を展開しながら、結構、整合性が取れてしまうところが面白いんですね。

2万4000年前にパン大陸が二つに割れて沈没したとして、そのパン大陸の一部であったとみられる日本では、1万6500年前には世界最古級の土器が出土しているわけです。続いて1万2000年前ごろから海水面の上昇し始め、陸地が水没します。与那国には海底に沈んだ「遺跡」が見つかっていますし、北海道や北東北の縄文遺跡群はその水没の直後ぐらいから人々が大規模集落を形成し、定住を始めたことが示唆しています。

また『オアスペ』の歴史は、「竹内文書」とも符合します。というのも、「竹内文書」ではこの地球は何度も天変地異に見舞われ、そのたびに日本を中心にして文明が復興したことになっているからです。「正統竹内文書」も然りですね。ただし「正統竹内文書」は日本から西に向かった部族がシュメル文明を築いたことになっているところが特異な点です。もっとも「竹内文書」も、世界16方位に王子・王女を派遣して文明を再興したことにしていますから、似たようなものと言えば似ています。

そうしたプロットとは別に、私は『オアスペ』に描かれたイラストにも注目しています。地球が形成される際の図として描かれたイラストが、沖縄の海底遺跡のフォーメーションに非常によく似ているからです。その遺跡は慶良間諸島の阿嘉島沖にあるストーンサークルです。
(続く)

パン文明の伝統を古神道の中に伝えたのではないかとする仮説

昨日のブログの記事中に書き間違いが二か所ありました。
(正)パン大陸の北部に漂着したグループは「イスタ」と名付けられたが、ワガ語では「ザ・パン」と呼ばれた。
(誤)パン大陸の北部は「イスタ」と名付けられたが、ワガ語では「ザ・パン」と呼ばれた。

もう一か所は文中最後のほうで、「24000年前」と書く所が「2400年前」となってしまいました。
もう既に直してありますが、念のために訂正しておきます。

さて、なぜ今から2万4000年前に天変地異があったことがわかるかというと、『オアスペ』では「神仕組みが明らかになる時代」とも言うべき時代のことを「コスモン時代」と呼んでいますが、その「コスモン時代」の2万4000年前に大洪水があったと書かれているからです。で、その「コスモン時代」は1848年に始まっているというんですね。今はそれから167年経過していますから、今から約2万4167年ほど前、『オアスペ』に書かれているところのパン大陸が二つに裂けて沈没するほどの大洪水を伴う天変地異があったことがわかります。

つまり『オアスペ』に記されている人類の歴史では、大洪水は一般的に言われている約1万2000年前ではなく、2万4000年前にあったとしているんですね。2万4000年前と言えば、約7万年前から約1万5000年前まで続いた氷河期の最中でもあります。氷河期と言っても気温の変動はあったでしょうから、温暖化により洪水が生じたケースもあったかもしれません。でも、どちらかというと、氷が融けたことによる大洪水ではなくて、大規模な地殻変動によって大洪水が生じたのであると『オアスペ』では言っているようです。確かにそれでないと、パン大陸が二つに裂けた理由が説明できませんね。

そうした事実が本当にあったかどうかはさておき、『オアスペ』によると、我々日本人のご先祖さまと思しき「ザ・パン」の人々は、神の儀礼と儀式の名を守り、大地と水、大空と船の名前を保持する役割を担ったようです。これが古神道の儀礼と儀式であり、記紀神話に伝わっている、大地の神様(国常立やウマシアシカビヒコヂ)、水の神様(ウヒジニやイザナミ、イザナギ)、空の神様(天常立や豊雲)の名前だったのかなと考えたりすることができます。船の名とは天空浮舟のことでしょうか。「竹内文書」には「天浮船大空乗公運尊」という神様が出てきます。

そして最も興味を引かれるのは、人間の喉から発せられるすべての音を保存せよと言われていることです。すべての音の保存とは、すべての言霊と音霊を理解して、それを後世に伝えよ、という意味にも取れますよね。それはまさしく古神道の奥義でもあります。

で、原日本人と思われる我々のご先祖様は、今から約2万4000年前に起きた大洪水の後、かつてのパン大陸の一部であった北の島「日本」に上陸、「世界最古の土器」や「世界最古の漆器」、それに石と土の文明の象徴である縄文土器や環状列石などを造りながら、パン文明の伝統を今日に至るまで古神道の中に伝えたのだという筋書きが浮かび上がってくるわけです。
(続く)

「原日本人は非常に特別な、神に選ばれた古い民族であった」という主張についての考察

仮に与那国の海底遺跡がパン大陸の痕跡であったとしても、それだけでは本当にパン大陸があったかどうかの証明にはなりません。大陸と言うからには、もっと大きかったはずですよね。『オアスペ』には次のように書かれています。

・パン大陸は二つに裂けて沈み、水没を免れた北の一部は現在の日本として残った。
・パン大陸の北部に漂着したグループは「イスタ」と呼ばれたが、ワガ語では「ザ・パン」と呼ばれた。「ザ・パン」は「パン大陸の名残(遺物)」という意味である。

つまりパン大陸は日本を北にしてそこより南側にあった「大陸」ということになります。どのくらいの大きさだったかはわかりませんが、イメージ的には日本海溝やマリアナ海溝を挟んで、ミクロネシアからフィリピン、台湾を含んだくらいの地域でしょうか。また「ワガ」というのは、どうやら原日本人のことのように思われますね。だから「我が」というのかと妙に納得したりして(笑)。

しかし面白いのはここからです。『オアスペ』で神の使いは、沈没を免れたパン大陸の北、すなわち日本に漂着した二隻の船団の人々(原日本人?)に対して、こうも言っているんです。

・あなた方はすべての人類の中で最も古い人たちであり、かつすべての国と民族の中で特別な種族であるがゆえに、2万4000年後に訪れるであろう「神仕組み(The Labors of Heaven)」を開くカギとなるであろう。
・それゆえに、あなた方は、神の儀式と儀礼の名を守り、とりわけ大地と水、大空と船の名前を保持し、人間が発するすべての音を保存せよ。そうすれば、神の栄光の時が来たときには、あなた方も光り輝くであろう。
・あなた方はまた、平和な心と高潔さと勤勉さを持ち続けなさい。そうすれば、後に私の威光と偉大なる精霊が現れたときに、証人となることができるからだ。そのように日本は決められ、今日に至っている。

まあ、こんな感じで原日本人は選ばれた民ととして特別扱いされているんですね。ユダヤ人もビックリの選民思想です。
それを”敵国”(当時は一応敵国ではありませんでしたが)のアメリカ人の歯医者が真面目に語っているところが実に面白いです。

それはそれとして、上で語られたことを詳しく見て行きましょう。
まずパン大陸が水没した時代です。
文脈から読み取ると、どうやら2万4000年ぐらい前に起きた天変地異であると言っているようです。
(続く)

で、今日の写真は水没した「パン大陸の名残」です。

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有名な「メイン・テラス」ですね。非常に整然とした印象を受けます。
次は「亀のレリーフ」と呼ばれる石。

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ペルーのマチュピチュにあるコンドルのレリーフにちょっと似ています。

与那国の海底に眠る「太陽石」はパン文明の痕跡か

太平洋にかつて謎の大陸があったとするのは、「竹内文書」も「正統竹内文書」も同じです。
ただし呼び名は違います。「竹内文書」ではミヨイ、タミアラという国が太平洋上にあったことになっています。一方、「正統竹内文書」では、かつて「あー大陸」「うん大陸」があったと伝わっているそうです。竹内氏はこの口伝について、おそらく「あー大陸」が大西洋にあった比較的小さなアトランティス大陸で、「うん大陸」が太平洋上にあったムー大陸ではないかと話しています。

しかしながら、ここには大きな問題があるんですね。
かつて太平洋上にそのような「大陸」があったことを示す決定的な証拠がないことです。

もっとも、『オアスペ』によれば、ジャパンこそ沈没を免れたパン大陸の一部であるわけですから、日本そのものがパン大陸があった「証拠」になりえますね。でも、それでは沈没したパン大陸の痕跡がどこにあるのか、という話になります

これに対して、与那国島の海底遺跡が水没したパン大陸の痕跡であると主張することもできます。この与那国海底遺跡は、私も15年前に潜ったことがあります。現在でも人工物なのか、自然の摂理によるものなのか結論が出ていないようですが、実際に見た印象から言えば、楔の跡のある二枚岩や整然としたテラス構造を見ればわかるように、あれは間違いなく人工的に加工されています。その決定的な証拠は、「太陽石」です。直径2メートルほどの丸い巨石が海底の五角形の巨大な台座の上に乗せられて、台座にはいく筋もの線が彫られたようになっています。この筋は、ある一定時期の太陽の日の入りと日の出の方角を刻んだ線であると考えられます。つまり巨石カレンダーとして使われた形跡があるんですね。

この太陽石は、「ある特定の場所から太陽が昇る、ある時期において、この島全体を『神の座』という意味で、レムリアと呼ぶ」とする、退行催眠中の秋山氏の言葉とイメージ的に符合しますね。また秋山氏によると、パン文明においては、丸いものを直接地面に置くことは厳しく禁止されていたそうですから、丸い巨石が台座に乗せられていたことも、説明がつくわけです。

実はこれと同じような巨石が陸上にあります。
久米島で「石時計」と呼ばれている500年前の「太陽石(ウティダイシ)」です。県指定史跡で、村人は、この石で日の出の位置の移り変わりを定点観測し、それを元に、農作業や航海の時期などを設定していたとされています。

年代こそ異なりますが、陸上にあるものは遺跡として認められ、海底にあるものは認められないというのはおかしな話です。たとえば、もし与那国の海底遺跡が陸上にあれば、古代の巨石神殿跡か祭祀場、あるいは石切り場として、県指定史跡になってもおかしくないと思うんですけどね。少なくとも海底の太陽石は、「太陽石(ウティダイシ)」として認められたはずです。まあ、県が指定しようがしまいが、遺跡は遺跡です。

ということで、今日の写真は与那国海底遺跡の太陽石。

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上から見ると、五角形の台座の上に設置されていることがわかります。

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(続く)

人類の集合無意識が持つ「パン大陸の歴史」についての考察

「ザ・パン」と呼ばれる最も古くて特別な部族が乗り込んだ船団は、沈没したパン大陸の一部であった日本に漂着し、失われたパンの文明と精神を継承したーー『オアスペ』が伝える超古代の歴史は、そう語っています。これは日本語に訳しているので、それほど奇異に響かないかもしれませんが、英語の原文で読むと大変なことになります。だってそうでしょ。スペルこそ「ZHA」と「JA」で違いますが、「ザ・パン」が漂着した、かつての「パン」大陸の一部は現在の「ジャ・パン」と呼ばれている国である、と読めるからです。「パン」と「ザパン」、それに「ジャパン」じゃ、まるでオヤジギャクですよね。

こんなオヤジギャクのような物語を信じることはできない、と多くの人が思っても、それは無理からぬことです。ニューブラウフに啓示を与えた「天使さん」には悪いですが、私も最初にその話を聞いたときは正直「勘弁してくれよ」と思いました。

ここで『オアスペ』を偽書として放っておいてもよかったわけです。だけどそうではないかもしれない可能性もあったんですね。その点は「竹内文書」も同じです。

ではどうして『オアスペ』を真面目に取り上げようと思ったかというと、私の取材先であり、何冊かの本の共著者でもある秋山眞人氏が、かつて退行催眠を受けた際に見た「前世」において、実際に「パン」という大陸が出て来たからです。秋山氏は催眠中に「パンは海に囲まれた巨大な島」であり、「ある特定の場所から太陽が昇る時期においては、この島全体を『神とその座』という意味で、レムリアと呼ぶ」と語っているんですね。レムリアの「レ」は土地とか座という意味で、「ム」は神、そして「リア」はそこで一致するという意味であるとも秋山氏は催眠中に言っています。

とは言っても、そのような退行催眠中に話したことなんか信用できないと考えるのも、無理からぬことです。実は私も退行催眠を試しに受けてみて、自分の「前世」に遡る実験をしたことがあります。退行催眠といっても、リラックスして潜在意識に浮かぶ映像を見るだけの話なんですが、その映像が本当に「前世の自分が見たり感じたりしたもの」なのかどうかなんてわからないんですね。

でも、とにかく私は催眠中に見た映像を施術者に語りながら説明し、それを自分が持ち込んだテープに取ったわけです。

その数週間後だったでしょうか、その内容を全く明らかにしないまま、秋山氏の事務所を訪ね、私の「前世」をリーディング(霊的な能力で読み取ること)してもらいました。すると私が催眠中に見た「前世の映像」など全く知らないはずなのに、秋山氏が読み取った「私の前世」は、細部にわたるまでほぼ完璧に一致してしまったんですね。この詳細は拙著『異次元ワールドとの遭遇』(成甲書房刊)に詳しいですから、興味のある方はお読みください。

ここに至ってとうとう私も、秋山氏には何か我々の知らない、潜在意識とか集合無意識の情報を読み取る能力があるのではないかと確信するようになったんですね。

で、その秋山氏の前世に「パン大陸」が登場し、ジョン・ニューブラウフというアメリカの歯医者の「啓示」にも「パン大陸」が出てくるのなら、人類の集合無意識が持つ情報の中に、「パン大陸」の歴史が眠っているとも考えられるわけですね。

今日の写真は、伊豆半島の下田富士。

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鋭角なピラミッドの形をしています。これも日本に残るパン文明の痕跡でしょうか。
(続く)

「失われた超古代文明とその精神は主に日本に残された」

19世紀にアメリカの歯科医ジョン・ニューブラウフ(1828~1891年)が「天使による啓示」を自動タイプ書記したという本『オアスペ』について説明しましょう。かつて太平洋には「パン大陸」があったとするなど、地球創世の歴史を描いた壮大な「歴史・啓示書」で、「米国版古事記」あるいは「米国版竹内文書」などとも呼ばれています。

どうしてこのような「壮大な歴史物語」が世にでるようになったか、ですが、ちょっと変わったいきさつがあります。
ニューブラウフは元々霊媒体質で、体重が122キロもある巨漢であったそうです。その時出会ったのが、コーンフレークで有名なケロッグ社の前身である「サニタス食品会社」の創立者ジョン・ケロッグです。ニューブラウフはケロッグの指導を受け、一種の「菜食修行」をします。すると、体重はみるみる下がり、当初のほぼ半分の68キロまで落ちたそうです。

そのころからニューブラウフは、「天使」から啓示を受けるようになったと言います。1880年12月31日には天使から当時開発されて間もないタイプライターを買うように指示され、すぐに購入。翌81年1月1日から12月15日までの毎夜明け前に天使が現れては彼の指を勝手に動かし、啓示をタイプ打ちさせたというんですね。自動書記ならぬ、自動タイプです。そしてその膨大な量の啓示をまとめたのが、1882年に自費出版された『オアスペ』です。

それによると、太古、現在の太平洋には「パン」と呼ばれる大陸がありました。人類はパン大陸に住み、首都ペニを中心に高度な文明を築きます。ところが文明が”進歩”するにつれ、人類は肉食や姦淫の罪を犯すなどして堕落しはじめます。これを見た「神」は、地上の人間を滅ぼすため大洪水を起こしたというんですね。神はその際、堕落していなかった一部の人間には大洪水が発生することを事前に教え、船を建造するように指示します。この辺りは、シュメル神話や『旧約聖書』、ギリシャ神話と同じプロットですね。

で、神から啓示を受けた一部の人々は、部族ごとに船を建造、大洪水が起きたときには5つの船団に分かれて地球の各地に散りました。そのうち4つの船団はそれぞれ、現在の中米、中国、インド、エジプト(アフリカ)に流れ着きます。そしてすべての部族のうち「最も古くて特別な部族」を乗せた「ザ・パン(ZHA’PAN)」の船団は、沈没したパン大陸の一部である現在の日本に定着しました。「啓示」は、失われたパンの文明と精神は主に日本に残された、と言うんですね。

さて、今日ご紹介する写真は富山の尖山。

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人工ピラミッド説がありますね。失われたパンの文明の痕跡の一つでしょうか。
(続く)

「大洪水」の前と後を結ぶ三つの物語

正統竹内文書の口伝継承者の竹内睦泰氏によると、世界的な大洪水の後最初に文明が開けたのが日本でした。その証拠に青森の大平山元遺跡から1万6500年前の世界最古の土器が出土しているからだと言います。ただし最近、中国でそれより古い土器片が出土したとの報告があり、現時点では「放射性炭素年代測定では世界最古の土器」あるいは「世界最古級の土器」という言い方が使われています。

さらに、ここで注意しなければならない点はもう一つありますね。1万6500年前では、まだ「大洪水」が始まっていなかった可能性が強いからです。ただ言い換えれば、大洪水前には既に日本には土器を製造する技術を持っていた人たちが住んでいたことになりますね。しかも大平山元遺跡のように、比較的長期にわたって「準定住」していた形跡すらあるわけです。

で、1万2000年前に「大洪水」があったのだとします。そのすぐ後にギョベクリ・テぺの巨石文明が誕生しますね。それよりやや遅れて、世界最古の漆製品が出土した北海道の垣ノ島遺跡に定住が始まります。ということは、大洪水後、最初に文明が開花したとは断言できなくとも、かなり早い段階で日本でも「土と石の文明」が既に始まっていたと言うことができるのではないかと思います。

一方、「竹内文書」の主張はすごいです。これまで何度も大洪水が世界で発生しますが、そのたびに日本が最初に復興し、文明が再び開化し、スメラミコトが世界を復興させるんですね。極端に言えば、スメラミコトはスーパーヒーローで、世界はスメラミコトを中心にして回ります。日本人でも、ちょっとそれはなんでも言い過ぎじゃない、って思いますよね。手前味噌もいいところです。

ところが、です。それを裏付けるような「文献」が19世紀に出てきてしまうんですね。しかも、手前味噌にはならないアメリカから、です。その文献が『オアスペ』です。

『オアスペ』の話は次回にするとして、本日ご紹介する写真は、1万6500年前の日本最古の土器片です。

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大平山元I遺跡から出土しました。縄文などの模様の無い、一見すると何の変哲もない土器片ですが、土器の内側に付着していた炭化物が、食料の煮炊きに使ったものであることを示しています。ということは、世界でもっとも古い煮炊きの痕跡を示す「証拠」であると考えることもできるようです。
(続く)

大洪水の前と後をつなぐ「土と石の文明」

紀元前9000~1万年に建造されたとみられる、トルコのギョベクリ・テぺの「巨石神殿」の発見により、シュメル文明以前の人類史の見方が大きく変わりました。「大洪水」を生き延びた人々は、かなり早い時期に農耕・定住生活を始め、巨石神殿を建造できるほどに高度な技術を持っていたことになるからです。つまり、何らかの文明の継承が大洪水の前と後にあったのではないかと見ることができるんですね。そうでなければ、これほど早く巨石構造物を建造できなかったのではないか、ということです。

その文明にはどのような特徴があったかというと、前回のブログに書いたように「土と石の文明」です。既に何回も紹介しているように、『旧約聖書』にそのヒントがあります。バベルの塔の物語の中に、世界に一つの言語しかなかった時代は、漆喰(土)と石が使われていたことが示唆されているからです。それが煉瓦とアスファルトに取って替わりバベルの塔を造ったときに、塔は崩れ、言語はバラバラになった、と。「言語」を「文明」ととらえれば、バベルの塔の話は非常に象徴的に人類史を物語ったエピソードであると考えることができます。

で、前回言及し忘れたのですが、5000年前のブリテン諸島と縄文時代の遺跡の間には、驚くべき相関関係があるように思われます。それが「土」で作られたヘンジ(土塁・盛り土遺構)です。こちらも既に紹介しましたが、約4000年前に構築された垣ノ島遺跡の「U」字形の盛り土遺構(ヘンジ)は、長さ120メートルと規模はブリテン諸島のものよりも小さいですが、マーデンヘンジやワウルズ・バンクの「D」字形ヘンジによく似ています。そして今回の北海道縄文遺跡取材でわかったのですが、紀元前1200年ごろ造られたとみられるキウス周堤墓群の周堤は、まさにヘンジそのものでした。

まずは写真をご覧ください。

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結構大きな「ヘンジ」であることがわかります。実は道路で一部分断されていますが、ちゃんとサークルになっているんですね。このような「ヘンジ」が8基あります。大きい「ヘンジ」の直径は75メートルありますから、まさにストーンヘンジ並みの大きさです。高さも一番高いところで5・4メートルあるそうですから、エイヴベリーの大ヘンジ並みの高さです。

ただ、ブリテン諸島のヘンジと違うところは、このサークルの中に複数の墓穴があることです。だから、「周堤墓」と名付けられたんですね。でも、用途はたとえ違っても、構造はヘンジです。墓穴には立石が伴うものも見つかっていますから、少なくとも「土と石の文明」の痕跡がこの遺跡からも見て取れます。

話を元に戻します。「大洪水」の前と後の文明について、でしたね。

「土と石の文明」は大洪水後も、トルコのギョベクリ・テぺ、ブリテン諸島、それにマルタ島に引き継がれ、シュメル文明やエジプト文明でも開花したと私は考えています。また、縄文文明も「土と石の文明」であることは明らかです。

実はこうした超古代史的な文明の流れを主唱している「文献」があるんですね。それが「正統竹内文書」と「竹内文書」、それに『オアスペ』です。
(続く)

5000年以上前までには既に地球規模の一大文明が栄えていたという仮説

古代ブリテン諸島においては5000年ほど前から、古代日本においてもおそらく5000年前には、既にその地域の最高峰と目立つ山、あるいはその目立つ山と遺跡(拠点)を結んだ直線上に次々と拠点を意図的に配置した測量技術集団がいた可能性があることがわかってきました。しかも、黒又山とグラストンベリー・トールのように山(丘)を7段のテラス構造に加工するなど、非常に似通った土木技術を持っていたことがわかります。

これをただの偶然として片づけることもできます。たとえば、たまたま5000年前に、同じような土木技術と測量方法が偶発的にアジアの東端に位置する日本とヨーロッパの西端に位置するイギリスで発生したと考えることも可能ですね。

だけど私には、この世界の東の果ての島国と西の果ての島国において、たまたま同じ特徴を持つ「石と土の文明」が同時発生したとは思えないんですよね。不自然でしょ。むしろ同じ文明から派生したのではないかと見たほうが理に適っています。もちろん理屈ではすべてを説明できないのがこの世界ですから、「100匹目の猿」のように、テレパシーか何かで同時派生したのだと考える人がいても、私は否定しません。

それはそれとして、私の説では、5000年以上前までには既に、この地球に世界共通の一大文明があったことになります。問題はそれがどこか、ですよね。

一つの可能性が、既に見てきたヨーロッパ文明の源泉とされるシュメルですね。ところが、トルコのギョベクリ・テぺに紀元前9000年か、それよりも古い「世界最古の巨石神殿」が発見されたことにより、シュメルより数千年も前に既に巨石文明が開花していた可能性も出てきました。巨石文明発祥の地は、もしかしたらアララト山からそう遠くないこのギョベクリ・テぺであったかもしれませんね。ちなみに、気づかれた方もいると思いますが、新著でもギョベクリ・テぺの遺跡については281ページに少しだけ触れています。ちょどギザ台地の第二ピラミッドと第三ピラミッドを結んだ直線が、ギョベクリ・テぺとアララト山方向を指し示しているんですね。

しかしながら、その超古代のギョベクリ・テぺ遺跡をもってしても、おそらく伝説の大洪水の後に発生したとみられる石の文明です。
というのも、世界各地に大洪水をもたらしたとみられる海面の上昇は、紀元前1万2000年ごろから急激に始まったとされているからです。それまでは、現在の海面より少なくとも100メートルは低かったと考えられています。100メートルも海面が上昇したら、確かに世界各地で洪水伝説が残っていても不思議はありませんね。

今日ご紹介する写真は、代表的な「石と土の文明」の遺跡であるエイヴベリーの大ヘンジです。

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巨大なストーンサークル(石)の外側が、さらに巨大な周壁盛り土構造を持つヘンジ(土)に囲まれています。
(続く)

謎の交点Xとピラミッド石

昨日は京都で五山送り火が行われましたね。陰陽師が秘した古代の五芒星に、いったい何人の方が思いを馳せたのでしょうか。

さて、新著『竹内文書と平安京の謎』にも書きましたが、「飛騨王朝」の霊峰・位山は、「富士王朝」と「越王朝」、それに「白山王朝」や「古代大和王朝」を結びつける非常に重要かつ神聖な山であったのではないかと思われます。その位山・飛騨王朝を中心とする古代通信網の推測図が182ページの図4-6です。

たとえば、白山と位山を結んだ直線は、羽根のある神奈川県秦野市の大山に至ります。地図には示せませんでしたが、位山と船山を結ぶと、それは富士山に向かう直線となります。また、天空浮舟が飛び立った鑓ヶ岳と位山を結んだ直線は、吉野の船岡山を結んでいます。

越王朝から富士王朝へ直接、伝わる相互通信網もあったように思われます。というのも、越国の二上山、富山市の羽根、尖山を結んだ直線は、明確に秦野市の大山を指し示しているからです。緊急用の北アルプス越えの通信網ではないでしょうか。

こうした北陸・中部地方から近畿地方、関東地方にかけて縦横無尽に引かれたと思われる古代通信網の中で、興味深いのは夏至の日の出ラインと日の入りラインを使った妙です。伊勢の二見ヶ浦にある夫婦岩は、夏至の日にその夫婦岩の間に見える富士山から日が昇ることで知られています。つまり富士山と夫婦岩は夏至の日の出ライン上にあるわけですね。一方、夏至の日の入りのライン上にあるのが、岐阜県の笠置山、伊豆の下田富士、それに鵜渡根島です。

この後者のラインが思いつきでも偶然でもないことがわかるのが、笠置山山中に置かれた謎のピラミッド石の配置です。山中に置かれた高さ2メートルほどもある巨大な3つのピラミッド型の石は、笠置山の山頂に向かってまさに夏至の日の入りライン(冬至の日の出ライン)上に配置されているからです。このピラミッド石を置いた古代人は、夏至の日の入りライン(冬至の日の出ライン)を意識していたのは明明白白なわけです。また、下田富士の山頂に立てば、夏至の日の入りライン(冬至の日の出ライン)をよりはっきりと感じることができます。夏至の日に真後ろに沈んだ夕陽が、寝姿山の武山越し、はるか遠くの水平線上に浮かぶ鵜渡根島を赤く染める光景を目撃できるからです。また冬至の日にはその鵜渡根島から昇る日の出を見ることができますね。そしてこの直線の延長線上に笠置山があるわけですから、偶然のはずはありません。

さらに面白いのは、富士山と夫婦岩の結んだ夏至の日の出ラインと、笠置山と下田富士を結んだ夏至の日の入りラインは、静岡県の大井川の峡谷で交差することです。図4-6の「X」の位置です。ちょうど大井川の峡谷で交差するというのは、非常に怪しいです。しかも、下田富士からこのXまでの距離は、下田富士から大山までの距離にピタリと一致するんですね。近畿地方では、こうした謎の交点にはスサノオを祀った出雲系の神社がありました。でも、この「X」に何があるのか、私もわかりません。

測量上は夏至の日の出ラインと日の入りラインという左右対称線が交差する場所ですから、極めて重要です。
それ以外にどのような意味が隠されているのか、今後の調査・研究が注目されますね。

今日の写真は、以前にも掲載しましたが、下田富士から見た鵜渡根島と利島。

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手前の山は寝姿山の女性の頭に当たる武山です。武山越しの水平線に二つの綺麗な円錐形の山(島)が見えますが、左が利島で、右が鵜渡根島です。
(続く)

ひな人形の位置が関東と関西で逆になる理由

エイヴベリーの大ヘンジやニューグレンジのような左右対称ラインの交点に相当する日本の縄文遺跡が、黒又山です。
既にご紹介したように黒又山は、岩手県の御所野遺跡と秋田県の伊勢堂岱遺跡を結んだ、北緯四〇度一二分の緯線を底辺とする二等辺三角形の頂点に位置しているわけですから、完璧な左右対称ラインの交点です。しかも、北東北の縄文遺跡や目立つ山を結ぶと、私が確認しただけでも少なくとも7つの二等辺三角形の頂点に黒又山は位置していますから、間違いなく同時刻相互通信の中心地(中心施設)であったと考えられます。

だけど、古代日本にあったと思われるこうした同時刻相互通信の中心地は黒又山だけではありませんね。
岐阜県高山市の位山もそうです。「竹内文書」では「神々の降臨地」とされているところでもあります。
実際に、位山から正射図法を使って16方位線を引くと、見事に「羽」という地名や目立つ山がその直線上に並んでいました。
『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』(ヒカルランド刊)の26ページの図がそうです(それについての解説は『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド3』の308ページのコラムをお読みください)。

この位山にはどうやら秘密が隠されています。
正統竹内文書の口伝継承者竹内睦泰氏によると、位山のイチイの木で作った笏に「ス(主)の神」を降ろす「位山の神事」は、神主にとっての「最高の神事」「究極の神事」なのだそうです。

と、ここまで書いて思い出すのが、京都大学名誉教授宮崎興二氏からいただいた『江戸の<かたち>を歩く』(祥伝社黄金文庫)です。宮崎氏はその本の「祈りの形」の中で、関東と関西では、ひな人形の位置(関東では男びなが向かって左、関西では右)が逆になることに着目、何か特別な意味が隠されているのではないかと考えました。結局諸説あり、明確な理由はわからないのですが、私は位山がその理由じゃないのかなと思うんですよね。

天皇はいまでこそ統治王ではありませんが、祈ることは今でもやっていますね。つまり祭祀王として活躍されているわけです。で、もし天皇が祭祀王(神主のトップ)で、位山の神事が最高の神事であるならば、位山が「神座」になるわけです。つまり関西から見れば東、関東から見れば西です。

そう考えると、なぜ関西では大和の二上山のように東側に男山、西側に女山が来て、関東では筑波山や日光山のように西側に男山、東側に女山が来るのかも何となく納得してしまうから不思議です。当初私は、標高が高い方が男山なのだろうぐらいにしか思っていませんでした。ところが、筑波山では標高が高いほうが女体山になっているんですね。では、位山の北にある富山の二上山はどうかというと、男女別がないんですね。位山の真北の呉羽丘陵にもありません。

まあ、これは単なる私の勘ですから、本当の理由はわかりません。
しかし位山を中心にして、左右対称になるのは偶然ではありえませんね。
少なくとも同時刻相互通信の中心となる「神聖な山」として鎮座していたはずです。
(続く)

左右対称のラインに隠されている同時刻相互通信の秘密

再びブリテン諸島のレイラインに話を戻しましょう。
アイルランドのレイラインは、エイヴベリーの大ヘンジにおいてイングランドの聖マイケルラインと交差し、しかもその交点を中心として左右対称のレイラインとなることを紹介しました。そしてアイルランドのニューグレンジにおいても、同じような左右対称のレイラインが交差する、と。

この対称性に何か秘密が隠されているのではないか、と思いませんか。

そこで私はこう考えたんですね。既に説明したように聖マイケルラインは5月のある日の「日の出ライン」に相当します。ということは、アイルランドのレイラインとエイヴベリーの大ヘンジを結んだ直線は、5月の同じ日の「日の入りのライン」とほとんどイコールになるんですね。

たとえばエイヴベリーにおける5月8日の日の出の方位角を求めると、60度とほぼ聖マイケルラインの方位角と一致します。
同じ日の日の入りの方位角を求めると、300度となりアイルランドのレイラインとほぼ同一となるんですね。

同様なことは11月19日の日の出と日の入りについても言えます。この日の日の出ラインは、アイルランドのレイライン上で見れば、エイヴベリーの大ヘンジから日が昇ることになります。で、この日の日没ラインは、エイヴベリーの大ヘンジから見ると、聖マイケルライン上のグラストンベリー・トールに日が沈むことになるんですね。

この基本的なことさえわかっていれば、一年のほとんどの季節において、同時刻相互光通信が可能になるはずだというのが私の仮説です。

それは、こういうことです。古代においてはおそらく精密な時計などなかったでしょうから、太陽の角度、つまり日時計が大事な時を告げる装置であったはずです。ブリテン諸島のストーンサークルや日本の環状列石にも日時計の組石が付属していますから、それが証拠となりますね。

ではたとえば、聖マイケルライン上のグラストンベリー・トールと、そこから17・3キロ離れた同ライン上にあるバローマンプの間で光通信をするにしても、いつも丘の上にいて相手が合図を送るのを待っているのでは効率が悪いですよね。ということは、時間をある程度決めたのではないかと思うんですね。その時間とは、日の出と日没と南中の時刻です。

5月8日、夜明けの少し前にバローマンプの丘に登った人は、遠くグラストンベリー・トールから日が昇るころに、グラストンベリー・トールの住民から狼煙か何かの光通信を受け取ります。で、こちらも同じ方法で通信を送る。すると、同時刻相互通信ができるわけです。逆に言うと、グラストンベリー・トールから日が昇る日が5月のある特定の日、すなわち「5月8日」であると古代人は知っていたことにもなりますね。

で、同じ相互光通信を、南中時までの時間を使いながら聖マイケルライン上のそれぞれの拠点で行います。そして日没時間近くになって、それらの意見を集約した結果をエイヴベリーからアイルランドのレイラインに乗せて、アイルランドに伝えることも可能だったのではないかと私は考えています。その逆もまた然りです。

ただし、日の出ラインはいつも通信ラインと一致するわけではありませんね。秋分と春分の日には真東から日が昇り、真西に日が沈みます。すると、それぞれの拠点にカレンダーがないと同時刻相互通信は難しくなります。そこで彼らはストーンサークルというカレンダーを造ったんですね。中心から見て、どの岩と岩の間に日が沈むかによって季節を知ったはずです。そしてライン上に日が昇るころが5月8日と11月19日であると知っていた。夏至と冬至、春分の日と秋分の日は簡単にわかります。加えて、5月と11月の特定の日をお互いに知っていれば、ほとんどどの季節においても、同時刻相互通信が可能だったのではないかと思います。

ということで、今日の写真は以前掲載しましたが、バローマンプから見たグラストンベリートール。

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17・3キロも離れ、しかも小雨で煙っていましたが、はっきりとグラストンベリー・トールを確認することができました。
しかも綺麗な円錐形の山に見えるところがミソです。というのも、新著221ページの図5-3を見てもらえばわかるように、グラストンベリー・トールの左右対称軸は聖マイケルラインと一致しているからなんですね。横から見たグラストンベリー・トールは、図に示されているようにスフィンクスの形に似ています。
(続く)

縄文時代の測量技術者にとっては緯線を引くことはわけもないことであった

秋田県・黒又山周辺の神社群が緯線(東西線)を含む測量線上に並んでいたり、82キロ離れた秋田県と岩手県の縄文遺跡が完璧な緯線上にあったりするように、北海道の縄文遺跡と目立つ山を結んでもやはり完璧は緯線ができます。

たとえば、千歳東インターのそばにあるキウス周堤墓群は、約86キロ離れたニセコ連峰最高峰のニセコアンヌプリと同緯度(北緯42度53分)にあります。厳密には30秒ほどニセコアンヌプリのほうが南にあるのですが、86キロの距離で30秒のずれは極めて少ない誤差の範囲です(実際、ニセコ連峰のイワオヌプリを測量山とすれば、数秒の誤差すら完璧に解消されます)。

同様に、羊蹄山から11キロほど西に離れた同緯度(北緯42度49分)には、曽我北栄環状列石が配置されています。こちらも厳密には5秒ほど羊蹄山山頂(最高点)より北にありますが、ご存知のように羊蹄山の頂上は平らに見えますから、現在の最高点でない山頂部なら5秒の誤差は完全に解消されます。

ということは、縄文時代の北海道の測量技術者にとっても、緯線を引くことはわけもないことだったということがわかりますね。
しかも距離を計算できていた可能性が強いことが、新著239ページの図5-10を見るとわかってきます。さらに241ページの図5-11を見れば、三角測量をして距離を測っていた痕跡すらあることがわかるんですね。

そんなのは偶然の一致ではないかと思う人もいるでしょう。そりゃ、たくさん遺跡があれば、数撃ちゃ当たるでそうなる可能性もあるでしょう。だけど、ここでは北海道や北東北の限られた主要縄文遺跡しか選んでいないわけです。その位置関係が測量的に意味のある配置にあるということは、測量して配置されたとしか言いようがないわけです。

今回の北海道縄文遺跡の取材でも、面白いことがありました。余市町から小樽市にかけては、大谷地貝塚、西崎山環状列石、地鎮山環状列石、忍路環状列石といった縄文遺跡群があることで有名です。この中で重要なのは、現地に行けばすぐに気が付くのですが、船取山が重要な測量山として利用されたということです。今は樹木がうっそうと茂っているので、意識しなければまず気が付きませんが、忍路環状列石は船取山と環状列石のある地鎮山が見える場所に位置しています。地鎮山の頂上にある環状列石からも木立の陰から船取山が確認できます。で、その船取山と西崎山の山頂にある環状列石を直線で結ぶと大谷地貝塚に至るように設計されているんですね。

このように縄文時代の環状列石が配置されていることは、実は地元の人もまずわかっていません。実際、船取山の位置を確認しようと地元の人に聞いても、わからない人が多かったです。だけど船取山は、目の前に見える目立つ山なんです。そう指摘しても、「あの山に名前なんてあったのかな」という返事が返ってきたこともありました。でも、それは仕方のないことでもあるんですね。

思い出してください。ケルト人はブリテン諸島に先住民が巨石文明を築いてから2000年後にやってきて、辛うじて神話の中でその巨石文明の建造者が何者であったかを「ダーナ神族」などとして残しました。北海道の人たちも、アイヌ民族以外は、縄文時代が終わって2000年以上経ってからやって来た人が大半です。そのアイヌ民族にしても、ケルト人と同じで、もしかしたら環状列石を縄文時代に造った人たちとは別の民族かもしれないわけです。そんな昔のことを覚えているはずはありませんよね。

今日の写真は小樽市の忍路環状列石。

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中央奥の木の向うに見えるのが、船取山です。
地鎮山は向かって右手の方角にあります。
(続く)

縄文・環状列石ネットワークを構築していた古代測量技術集団

垣ノ島遺跡が縄文時代の重要な情報・通信センターであったことがわかるのは、他の縄文遺跡群との位置的関係です。
新著『竹内文書と平安京の謎』の235ページの図5-9をご覧ください。
噴火湾の対岸に室蘭市の測量山や、北黄金貝塚のある伊達市が望めるうえ、近くの500メートル級の山に登りさえすれば、遠く津軽海峡を越えた対岸に下北半島の恐山山地を見ることができたからです。つまり、ちょうど北東北と北海道の内陸部を結ぶ中継地であったことがわかるんですね。

そして事実、垣ノ島遺跡と、北海道および北東北の縄文遺跡を結ぶと、何本もの直線が引くことができ、垣ノ島遺跡がその中心点であることがはっきりします。そのことを示したのが、新著235ページの図5-9です。縄文遺跡群と目立つ山を結んだ、意味のある測量上の直線7本の交点にあるのが垣ノ島遺跡です。

その中でも最も注目に値する直線が、岩手県の樺山遺跡、湯舟沢環状列石、青森県の大石神ピラミッド、下北半島の恐山、そして海を渡って北海道・亀田半島の垣ノ島遺跡を通り、そのまま噴火湾の対岸の北黄金貝塚、洞爺湖、羊蹄山の東麓を抜けて、余市町の西崎山環状列石を結ぶ「環状列石ライン」です。樺山遺跡にも環状列石がありますから、北東北と北海道の3つの主要環状列石を一本の直線で結んでいます。大石神ピラミッドも環状列石に近い構造を持っていますから、4つの特殊構造を持つ石組み遺構を結ぶ直線であると言うこともできますね。

もちろん重要な中継所として使われた遺跡はほかにもあります。北海道洞爺湖町にある入江・高砂貝塚は、羊蹄山と北海道駒ヶ岳を結んだ直線上にあるだけでなく、余市町の大谷地貝塚と函館山を結んだ直線など合計8本の意味のある測量上の直線の交点にあります。道内最大規模の環状列石を有する森町の鷲ノ木遺跡も、ニセコアンヌプリ(南麓に環状列石)と津軽平野にそびえる岩木山(北東麓に環状列石)を結んだ直線、環状列石のある樺山遺跡、岩手山、岩手県八幡平市の釜石環状列石を結んだ直線、湯舟沢環状列石と八甲田大岳を結んだ直線、それに大湯環状列石と、3重の環状列石で知られる小牧野遺跡を結んだ計4本の環状列石に関連する直線の交点となっています。

これらの直線を偶然として片づけることはできませんね。間違いなく、縄文時代の日本にいた測量技術集団は、北東北と北海道の環状列石や主要集落を結ぶネットワークを構築していました。

今日の写真は北海道伊達市の北黄金貝塚。

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非常に見晴らしのいい高台にある縄文遺跡でした。
(続く)

縄文時代の文化センターは北海道の垣ノ島遺跡にあった

黒又山が北東北の中心に存在したピラミッド型の神殿であるとしたら、津軽海峡を隔てた北海道の縄文遺跡群の中心は垣ノ島遺跡であったことはまず間違いないと思われます。

垣ノ島遺跡は、函館市の太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代早期前半から後期後半(紀元前7000年~紀元前1000年頃)にかけて、約6000年もの長期にわたり縄文時代の人々が定住していた集落遺跡です。

すごいですよね。6000年間も彼らの「文明」が続いたわけです。これは青森県の三内丸山遺跡に匹敵する、あるいはそれを上回る縄文時代の文化センターであったことを物語っていますね。お恥ずかしいことに、私もこの本を書き始めるまで北海道にそのような大規模縄文遺跡が存在することは知りませんでした。それを考えると、北海道の縄文遺跡はもっと脚光を浴びてしかるべきです。

隣接する垣ノ島B遺跡の土坑墓からは、7000年以上前に作られたみられる世界最古の漆製品も出土しています。その後、縄文時代早期後半(紀元前5,000年)の土坑墓群から副葬品とみられる17点の足形付土版、後期後半の漆塗り注口土器や香炉形土器などが数多く出土しています。足形付土版などはどこかシュメルの円筒印章などの粘土板を彷彿とさせます。

ここにはまた、4000~5000年前に構築されたとみられる長さ120メートル以上の「コ」(U)の字形をした、国内最大級の大規模な盛土遺構が見つかっています。つまりイギリスで言うところの「ヘンジ」ですね。普通ヘンジは環状に構築されますが、イギリスでもマーデンヘンジ、ワウルズ・バンクのように「D」の字形のヘンジが同時期にあったことがわかっています。ヘンジを造ることが、当時の世界的流行であったとも言えるわけです。

で、私が着目したのは、垣ノ島遺跡の位置でした。
(続く)

垣ノ島遺跡の詳細はこちらをご覧ください。

黒又山はピラミッド型の古代神殿であった

実は黒又山は、1990年代の調査によって、あと一歩で人工的な山であったことが立証されかけた山でもあるんですね。
1980年代にも一時期、古代日本にピラミッドとも呼べる人工山や加工山があったのではないかというブームが起こりました。
これには私も、火付け役として一役買っております。
その後、日本のピラミッドブームは下火になったのですが、それでも黒又山に関しては、当時同志社大学教授だった小川光陽氏が会長を務める環太平洋学会が中心となって、「ピラミッド型の古代神殿ではないか」という仮説を唱えて、90年代に本格的な学術調査を開始したんですね。

その結果わかったのが、黒又山には階段構造があることと、頂上付近の地下に立方体型の空洞があることです。
その際、周辺の神社の位置関係も調査され、黒又山の真東と真西の東西の麓にそれぞれ神社があることが指摘されていました。
それが新著225ページの図5-5に記されている「根一の神社」と「風張の神社」です。当時の調査担当者も黒又山と周辺神社の配置には、太陽信仰など何か関連性があるのではないかと考えていました。だけれども、明確な結論は出ませんでした。

今回、私なりに明確な答えを出しています。神社は、間違いなく黒又山を中心とする測量ライン上の重要な三角点、あるいは「聖地」として残された可能性が高い、ということです。

その議論を始める前に知っておかなければならない事実は、「根一の神社(出羽神社)」と「風張の神社(愛宕神社)」の緯度が北緯40度16分51秒と秒数まで一致する緯線上にあるように、縄文遺跡である伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡の緯度が、同一緯線上にあるということです。前者の中心は北緯40度12分04秒、後者の中心は北緯40度11分52秒と12秒ほどズレがありますが、伊勢堂岱遺跡の南部分と御所野遺跡の北部分は完全に緯度が一致します。しかも、それは82キロの距離の完璧な東西線となるわけですね。

面白い測量の痕跡はそれだけではありません。この二つの縄文遺跡は黒又山からほぼ等距離にあります。ということは、二つの縄文遺跡と黒又山を結ぶと、82キロの緯線を底辺とする巨大な二等辺三角形が出来上がるというわけです。

もう一つの考え方として、伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡のそれぞれの中心と黒又山の間にも測量の痕跡が残っているのではないかと見ることもできます。それが225ページで紹介している図5-5です。二つの縄文遺跡の中心と黒又山を結ぶと、御所野遺跡のほうが1キロほど距離が長いんですね。だけど、もし、完璧な測量ができる技術集団が縄文時代にいたとしたら、伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡の中心からピッタリ等距離になる場所になんらかの痕跡を残した可能性があると私は考えました。それが図5-5の点Pです。黒又山と御所野遺跡の中心を結んだ直線上にあり、かつ伊勢堂岱、御所野の両遺跡から完璧に等距離になる点です。

そのような点Pに本当に何か意味があるのか、と訝る方もいると思います。ところが驚いたことに、まったく意図せずに純粋に測量上の点として設定した点Pと伊勢堂岱遺跡を結ぶと、その直線に沿うようにして、わずか600メートルほどの区間に4つの神社が並んでいたんですね。そしてさらにその直線を点Pから北東方向に延ばして行くと、根一の神社があるわけです。

しかも、点Pから根一の神社までの距離は、点Pと黒又山までの距離、それに黒又山から風張の神社までの距離とまったく等しくなります。ということは、黒又山の周辺にある神社はすべて、意味のある測量線上に設置された重要な測量点、もしくは聖地であったと考えることができるわけです。

これらのことから推論できることは、黒又山を「神殿」として加工・建造した縄文時代の古代人は、42キロの距離を正確に測れただけでなく、82キロの正確な緯線を引くことができる、極めて高度な測量土木技術を持っていた可能性が高いということです。
(続く)

黒又山はグラストンベリー・トールのように意図的に加工された山であった

まずは新著220ページの秋田県・黒又山の写真を見てください。そして次に221ページの英国グラストンベリー・トールの断面図を見比べてみてください。

どうです。よく似ているでしょ。
ただし前者が高さ約80メートルで後者は高さ約160メートルですから、黒又山はグラストンベリー・トールの約半分のミニチュア版に見えます。

でも、そっくりなのは外見だけではありません。構造も似ているんです。
実はグラストンベリー・トールには七層のテラス構造、つまり7段の階段構造が人工的に造られていることがわかっています。220ページの上から見た図を見ればよくわかりますね。左右ほぼ対称にテラス構造が築かれていることがわかります。同様に黒又山にも、七段の階段構造があることが地中レーダーを使った元東北大学教授らの調査で分かっているんです。

次に着目すべき点は、中心軸の傾きです。再び220ページの図を見ればわかるように、グラストンベリー・トールの傾きは聖マイケルラインと一致しています。これは夏至の日の出ラインではありませんが、5月のある時期の日の出ラインと関係するのではないかと考えられています。

これに対して上から見た黒又山の中心軸の傾きも、ほぼグラストンベリー・トールや聖マイケルラインの傾きと同じになっているんですね。つまり東北東方角から南西南方角に向かって楕円形のような形をしています。グラストンベリー・トールとは緯度が違いますから、意味も違ってきますが、223ページの図5-4に示したように、縄文遺跡である長七谷地貝塚と結んだ直線は夏至の日の出ラインと一致し、是川石器時代遺跡と結んだ直線はおそらく5月のある時期の日の出ラインとなるのではないかと考えられます。

しかし、黒又山の本当に凄いところは、現存する主要縄文遺跡と結ぶと、扇の要のような位置に配置されていることです。
しかも正確に距離を測定していた形勢があるんですね。

たとえば、黒又山の山頂から御所野遺跡の中心と釜石環状列石の中心までの距離はそれぞれ42・4キロとまったく同じ距離にあります。しかもその誤差は、国土地理院の距離測定ソフトを使うと、42キロという距離でわずか3メートルしかないんですね。つまり測量点が私が想定している黒又山の山頂と遺跡の中心点でなかったならば(たとえば、黒又山の山頂から数メートルずれた地点が測量点であったならば)、誤差がまったくない完璧な測量であった可能性も出てくるわけです。

こんなことを言うと、横浜マラソンの関係者の方に怒られてしまうかもしれませんが、今年3月15日に開催された横浜マラソンはフルマラソンで186.2メートル、10キロ部門で94.1メートル距離が不足していたことが三週間ぐらい後の4月7日に発表されました。フルマラソンは42・195キロですから、42キロという距離で186メートルの「誤差」を出してしまったことになりますね。まあ高速道路の部分の計測が難しかったという事情もあります。それに比べて縄文時代には高速道路はなかったでしょうから、測定も正確だったのかな、と意地悪に考えたりしてしまいます。

21世紀の現代と縄文時代の測量技術の比較はこれぐらいにして、次に黒又山と伊勢堂岱遺跡、それに御所野遺跡を結んだ精密無比な二等辺三角形に言及しましょう。
(続く)

大湯環状列石から見た黒又山。

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閉塞的で硬直化した古代史論を根底から覆すパワーとアイデア

たいていの皆さんは、縄文時代に現代科学に匹敵するような高度な測量土木技術があったなどと言うと、信じません。そりゃそうですよね。縄文時代の人々は採集・漁労・狩猟生活が主で、穴倉みたいなところに住んでいた原始的な人々であると学校で教えられてきましたから。

実は同じことがイギリス人にも言えます。今回の旅行でも、行く先々で私は、ケルト民族がブリテン諸島にやってくる2000年も前に、かなり高度な科学技術を持った、ケルト人が言うところの「ダーナ神族」がいて、「巨石文明」を築いた可能性があると主張すると、目を丸くして「そんなことは学校で習わなかった」などと言って驚きます。一般的にイギリスでは、5000年前に巨石文明を築いた人たちは、採集・漁労・狩猟生活が主で、穴倉みたいなところに住んでいたとしているところまでは同じですが、さらに異教徒で野蛮な人々であったと考えられがちなんですね。多神教のような宗教は原始的で、キリスト教が世界に文明をもたらしたと思い込んでしまう傾向が、残念ながら一部にあります。

現在「イスラム国」の過激派勢力が世界遺産級のシュメルの遺跡や発掘物などを破壊していますが、それと同じようなことが西洋のキリスト教徒らによって、これまでなされてきました。エイヴベリーのストーンヘンジなども、野蛮人である異教徒の建造物だということで破壊の憂き目にあっていますね。巨石遺構を邪悪なものを崇拝する異教徒の施設と考えて目の敵にした「石殺しのロビンソン」らによって巨石は破壊され、巨大ストーンサークルの内側にあったはずの二つのストーンサークルなどは、ほとんど原形をとどめていません。別に一神教を信じる人々を批判しているわけではありません。だけど紅茶(あるいはコーヒー)が好きだからと言って、コーヒーカップ(あるいは紅茶カップ)を次から次へと壊すことはないでしょと思うだけです。

現代人と5000年前の古代人のどちらがより「文明的」であったかは、実際のところ私にはわかりません。しかし、シルベリー・ヒルという先史時代におけるヨーロッパ最大の人工マウンドと、マールバラ大学構内にある4400年前の人工丘であるマーリンの丘が、起伏の多い地形を越え、8・5キロも離れているにも関わらず、正確な距離の測定だけでなく、緯度の秒数まで一致する配置で建造されている事実(33ページの図1-3と35ページの図1-4)を目の当たりにしたとき、少なくとも我々の頭からは、「原始的」とか「野蛮な」という古代人に対して持っていた形容詞は消え去るはずです。

そして日本に目を転じると、5000年前のブリテン諸島の測量土木技術に匹敵する遺跡群が縄文時代にあったのではないかということが、秋田県の黒又山と縄文遺跡の関係を調べるとわかってくるんですね。

その話は次の機会ににするとして、新著『竹内文書と平安京の謎』がアマゾンのオカルト部門でもランクインしましたね。これまでは発売直後に古代史部門で1位に輝き、その後もトップ3の座を維持してきました。数日前からオカルト部門にも参入したことによって、現在トップ20の中に、鼎談本の『正統竹内文書口伝の「秘儀・伝承」をついに大公開!』とともに私の本が二冊ランクインしていることになります。

だけど鼎談本のほうは、アマゾンでは歴史部門に分類されていないんですね。これはおかしな話で、あの本は明確に歴史を扱っています。口伝がオカルトであるというのならば、神話もオカルトに入れないと辻褄が合いませんね。あのように真面目に(まあ、一部冗談も混じっておりますが)歴史を取り上げた本が歴史部門に分類されないのは、非常にもったいないと思います。というのも、あの鼎談本(今回の新著もそうですが)には、既存の、閉塞的で硬直化した古代史論を根底から覆すパワーとアイデアが詰まっているからです。

古代日本において、1万年以上も「縄文文明」を維持してきた古代人は決して「野蛮」でも「原始的」でもありません。
「学校で習っていない」という、ただそれだけの理由で、我々現代人が気が付いていないだけなんです。
次回はその決定的な証拠となりうる黒又山を取り上げましょう。
(続く)

羽根ラインはいつの時代に作られたのかという問題

昨日、北海道の縄文遺跡の取材から戻って来ました。
その取材の詳細は、後日お知らせするとして、羽根ラインに話を戻しましょう。

東経137度11分の南北の羽根ラインと北緯35度23分の東西の羽根ラインがあることを前回紹介しました。
で、今回の新著でさらに明らかとなるのは、岐阜県河合村の羽根と富山県婦中町の羽根の秘密です。

どちらも東経137度11分の羽根ラインから少し外れていますが、何らかの関連性があるのではないかということはずいぶん前からわかっていました。とくに位山や天柱石と関係がありそうだと考えられました。そこで「竹内文書」に出てくる「聖地」を地図上で正確に結んだところ、一つの事実が分かったんですね。その聖地とはどこかというと、アメノニニギノスメラミコトの神殿跡であるとされる富山県横江の尖山、武内宿禰の墓があるとされる富山県高岡市の二上山、モーゼの三つ子塚があるという石川県の宝達山、天神第5代天一天柱主大神を祀った富山県平村天柱石、それに上古の神々が降臨したという位山です。

本当にそういう「聖地」であったのかはここでは議論しません。大事なのは、「竹内文書」にそれらの場所が大事な場所、すなわち「聖地」として「記録」されているということです。そして今回、古代測量技術集団が使った三角測量点が羽根という地名として残った可能性が強いということがわかりました。

つまり、こういうことです。婦中町の羽根は、天柱石と富山市の羽根を結んだ直線と、尖山と宝達山を結んだ直線が交差する、まさにその点にあるんですね。一方、河合村の羽根は、宝達山と位山を結んだ直線と、二上山、富山市の羽根、尖山の三点を結んだ直線に対して尖山から引いた垂線との交点にあります。この時、尖山と河合村の羽根を結んだ直線は、天柱石と婦中町の羽根と富山の羽根を結んだ直線と平行線にもなります。さらに言えば、河合村の羽根は位山からも白山からも等距離にある地点に正確に置かれた点でもあります。

このような点は偶然であるはずはなく、古代測量技術集団が意図的に置いた測量点である、ということができるわけです。

また、このとき浮かび上がる幾何学図形や垂線の引き方が、イギリスのストーンヘンジ、エイヴベリーの両複合体遺跡とその地域の最高峰を結んだ時にできる幾何学図形の描き方に非常によく似ていることがわかります。29ページの図1-2と62ページの図2-2ですね。

似ているからと言って、同じグループがやったとは言えません。だけど、どうやら我々の知らない古代において、同じような測量技術や知識を持つ古代人が世界中にいたのではないかと推論することができるんです。ただしいつの時代かはわかりません。ブリテン諸島でラインを引いた人たちが、今から約5000年前の時代の人たちであることはわかっています。でも、羽根ラインを作った人たちがいつの時代の人たちなのかはまったくわかりませんね。越王オロチが日本を統治していた時代より前だとは思いますが、確たる証拠はありません。

そこで、ちょっと発想を変えてみました。
もし、5000年前の古代において地球規模の文明が既に繁栄していたのだとすれば、日本の縄文時代の遺跡にもその測量技術の痕跡が見いだせるはずではないかと考えたわけです。それが第五章に書かれている「縄文遺跡群と神秘の測量」です。高度な測量土木技術を持つ「縄文文明」が古代の日本にはあったのではないか、と。その手がかりが北東北と北海道の縄文遺跡にあったんですね。
(続く)

遊び心の「仕掛け」

昨日発売された新著では、ちょっとした「お遊び風の仕掛け」が施してあります。

既にご存知の方も多いと思いますが、私が「竹内文書」を本気で取り上げる気になったのは、東経137度11分に羽根という地名が並ぶ「羽根ライン」を1984年に見つけたからです。この経線の精度は、私たちの常識を超えているわけですね。というのも既に戦国時代には存在していることがわかっている「羽根」という地名が経線上に並んでいるわけですが、それは江戸時代後期に日本を測量した伊能忠敬の地図の経線よりも正確であるだけでなく、精密な時計ができる17世紀までは達成しえなかった精度でもあるからです。

何かおかしいでしょ。我々の知っている歴史とは明らかに違う歴史がないと、この「羽根ライン」の精度は説明できないんですね。

それは置いておいて、今回の「お遊び風の仕掛け」についてご説明しましょう。この東経137度11分の「経線の羽根ライン」とは別に、北緯35度23分に「緯線の羽根ライン」があることが、地図上の「羽根」を精査しているときにわかったんです。だけどそのことは、本文のどこを読んでも、書かれていません。では、どこにあるのかというと、巻末資料に書かれているんです。これが遊び心。巻末資料「高み・聖地の解説集」を読んだ人だけが、気づくようになっています。

具体的に言うと、355ページにある神奈川県秦野市の「羽根」と島根県出雲市斐川町の「羽根」です。この二つの羽根が、北緯35度23分にきちっと配置されているんです。秦野市の羽根は「竹内文書」とのゆかりが深い大山の麓にある地名で、秦氏との関連がありそうですね。一方の斐川町の羽根は、銅剣や銅鐸が大量出土したことで知られる荒神谷遺跡のそばにあります。

当然、この緯線は東経137度11分の羽根ラインと直交します。どのあたりで直交するかというと、山岡町の巨石群の真西の地点である岐阜県土岐市で直交するんですね。土岐市もハニ(埴)と関連する名前で怪しいのですが、それよりも山岡町の巨石群を通る緯線であることが非常に重要なわけです。尖山ピラミッドラインと下田富士ピラミッドラインの交点ですからね。これが偶然のはずがありませんからね。

つまり羽根という地名を精査するだけでも、かつて越・飛騨にあったとみられる王朝は、富士山の東の駿河国から出雲国までを統治していたのではないかということがわかってくるわけです。あるいは越、飛騨、富士の各王朝は、羽根という測量点と経線、緯線という測量上の線でつながっていた共同体国家であった可能性もあります。いずれにしても、かなり広大な地域を治めていた、我々の知らない「古代日本国」があったという仮説が成り立つことになります。

ところで、その新著ですが、お蔭様でアマゾンの古代日本史部門でランキング1位(8月1日午後9時現在)に輝きました。
皆さまのご支援のお蔭です。深く御礼申し上げます。
(続く)


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白山菊理姫竹内文書

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