ノアとその子孫はシュメル文明に溶け込んだ一族であった

シュメルからエジプトへと文明が伝播したことを裏付ける文書がなぜ『旧約聖書』かというと、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる啓典の民の始祖とされるアブラハムの一行がシュメルからエジプトへ移動したことが明記されているからです。

ご存知のように聖書には大洪水があったことが記されています。それが「ノアの箱舟」の物語ですね。この物語自体がシュメル人の『ギルガメッシュ叙事詩』の大洪水の物語と酷似していることからも、シュメル文明の影響を見て取れます。

それはさておいて、『旧約聖書』によると、大洪水を何とか生き延びたノアの一族はアララト山に流れ着きます。アララト山は、トルコ共和国の東端にある標高5,137メートルの山ではないかとされています。アララト山がどこであるのか確定はしていませんが、少なくともメソポタミアのそばに流れ着いたのは間違いないでしょう。というのも、ノアの子孫であるアブラハムはシュメル人の都市国家であるウルで生まれたことが聖書の記述からわかっているからです。

アブラハムは、ノアの息子セムから数えて10代目に当たります。アブラハムは紀元前2000年ごろの人物だとみられていますから、ノアおよびその子孫が生きた時代はちょうどシュメル文明が栄えていた時代(紀元前3500~紀元前2000年)と重なりますね。ということは、ノアおよびその子孫は大洪水の後、シュメル文明の地にたどり着き、そこで生き延びた一族であったことがわかります。で、その間に何があったかというと、聖書では天に届く塔を建てようとしたら崩れてしまった「バベルの塔」の物語が挿入されています。

で、この「バベルの塔」が何であったかは諸説ありますが、一番説得力のある説がバビロンにシュメル人が建造したとされるジッグラトなんですね。ジッグラトは既に説明したように、神の訪れる神殿としてシュメル人によってメソポタミアの諸都市に建造された「人工の山」です。「高い所」を意味し、日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔でもあります。時代的にも符合します。

そういった聖書の記述を読むと、ノアおよびその子孫はシュメル文明に溶け込み、シュメル人たちと一体化したとも考えることができるんですね。元祖シュメル人とは言えないかもしれませんが、ほとんどシュメル人である、と。 

話を進めますと、シュメル人の都市ウルで暮らしていたアブラハム一家は、シュメル文明の衰退を身近に感じたからでしょうか、カナン(ヨルダン川西岸、現パレスチナ)の地への移住を決断します。実際、紀元前2000年ごろのシュメル文明は滅亡の危機にさらされていました。

地方の諸国家が強さを増し、シュメル人はメソポタミアで政治的な覇権を失い始めたんですね。ウル第3王朝の時代には、支配下の諸都市が離反し、紀元前2004年、アブラハムの生まれ故郷であるウルは占領されます。そしてこれによってシュメール人国家は事実上滅亡してしまったんですね。

既にシュメル人と一体化していたアブラハム一家が新天地を求めたのは、そうした時代背景があったのだと思われます。
ところがカナン地方が飢饉に襲われたため、アブラハム一行はカナンに定住することをいったん諦め、エジプトへ向かいました。
(続く)
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シュメル文明からエジプト文明への流れについて

世界の古代史のシナリオとは次のようなものです。

今から1万2000年ほど前、氷河期が終わり(あるいは何らかの原因で天変地異があり)、地球は大洪水に見舞われました。その後、生き延びた人たちは文明を築き始めます。
その一つが「縄文日本文明」であり、またメソポタミアのシュメル文明であるわけです。
ここでは古代日本からシュメルに文明の移動があったかどうかの議論は置いておきましょう。
やがてシュメル文明は衰退していきます。そして、紀元前2700年ごろからシュメル文明を築いた人々は世界各地に散って行くのですが、ある技術者らの一団はエジプトに移動し、エジプト文明に多大な影響を与えます。

私はその技術者の一団の中に、ピラミッドを建造したイムホテプかイムホテプの先祖がいたのではないかと考えています。何と言ってもシュメル人は既に、「神の訪れる人工の山」である「ジッグラト」を建造する技術を持っていましたから。
彼らの技術や知識は、彼らが生存するのに必要な武器となりました。エジプトの政治にも深く入り込み、それなりの地位を築きます。王統に入り込んだシュメル人もいたかもしれませんね。

実際にシュメル人が好んで使った「太陽神の紋章」とも呼べる16菊花紋(ロゼット紋)は、エジプト王朝においても王家や神の紋章として至る所で使われています。愛と幸運・豊穣の女神ハトホルの像に紛れもない16菊花紋が彫られていたり、ツタンカーメン王の墓から出土した神の乗り物である「太陽の車」やクッションには16菊花紋の装飾が施されたりしています。また、ラムセス二世の妻の胸像にも16菊花紋がはっきりと彫られています。ちなみにラムセスとは「太陽神ラーによって生まれた」という意味です。

少し脱線しますが、正統竹内家の口伝によると、エイジプトのピラミッドを造ったのは「ミケイリノ」の称号を持つものですから、そのことを知っていたヘロドトスがメンカウラー王を「ミケリノス」と呼んだ可能性もなくはありません。そうであれば、まさにメンカウラー王は、人工の山を造るというシュメル人の知識と技術を引き継いだ王であったことになります。ちなみにメンカウラーは「太陽神ラーの魂のように永遠である」という意味です。

シュメル文明とエジプト文明がともに太陽神を中心とする多神教であったことを考えても、やはりシュメル文明からエジプト文明への文明の流れが感じられます。たとえばシュメル神話の神々には、太陽神ウトゥ、月の神ナンナ、天空神アン、水と知恵の神エンキ、愛と豊穣・戦いの女神イナンナ、大地母神ニンフルサグ、冥界の女王エレシュキガル、冥界の王メスラムタエア、穀物女神ニサバらが登場します。一方、エジプトの神々には、太陽神ラー、月の神コンス、天空神ホルス、知恵の神トト、愛と豊穣の女神ハトホル、大地の神ゲブ、冥界の神オシリスらが並びます。つまり、ほぼ一対一に対応するぐらい、似たような神々が両文明の神話に出てくるんですね。そして王が「現人神」として神格化されることも両文明に共通しています。あとで詳しく言及しますが、日本神話の神々も同様です。

そして何よりも、シュメルからエジプトへの文明の流れを裏付ける文書も存在するんですね。それが『旧約聖書』です。
(続く)

シュメル人が支配した国は「葦原中国」であった

記紀が記す古代日本とシュメル人の類似性は、シュメル人が自分の国のことを何と呼んでいたか、に見出すことができます。

実はシュメルという呼称はアッカド語で、シュメル人自身は自分の国を「キエンギ」と呼びました。「キ」は大地、「エン」は主人とか、主という意味で王の称号にもなっています。そして「ギ」は「葦」の絵文字から発達した楔形文字です。大まかな意味は「葦を主とする大地の国」でしょうか。

シュメル人が住んだ土地は、その名が示すように湿地に葦が生い茂るメソポタミアの大地でした。葦は割いて筵(むしろ)状に編み込んだり、湿地帯の泥は粘土にして土器を制作したり、あるいは固めて乾かし煉瓦にして使ったりしたはずです。だからまさに葦原を主とする大地でありました。自分の国家をそのように呼ぶのも当然ですね。

ここまで聞いたらだれでも、ほかにそのような呼び名で自分の国を呼んでいた人たちを思いつきますよね。
そう、日向族のアマテラスたちです。彼らは日本のことを葦原中国と明確に呼んでいました。アマテラスはこう言いました。「葦原中国はわが子、オシホミミが統治すべき国である」と。

で、葦原中国(葦原中ツ国とも書きます)はどういう意味かというと、「(稲の生育に適した)葦の生い茂る湿原の中央の国」です。まさに「キエンギ」を直訳したら「葦原中国」となります。

すると、なぜアマテラスたちが「葦原中国」にこれほどまでにこだわったかも、なんとなくわかってきます。彼らはそこに「故郷の国」を夢見たのではないでしょうか。その遠い昔の国はどこであったかというと、正統竹内家の口伝が正しいとすると、「キエンギ」、すなわちシュメル人が支配した古代メソポタミアです。

これらをすべて偶然として片づけることはできます。
でも、古代日本人とシュメル人という2民族間におけるこれだけの類似性、相似性は、世界広しと言えどもなかなかないのではないかとも思えますよね。

となると、ここで一つの世界古代史のシナリオが浮かび上がって来ます。
(続く)

シュメルの長(祭祀王)がスメラミコトと呼ばれた

正統竹内家の口伝ではシュメル文明に関連して、次のような伝承があるのだそうです。

沈む太陽を追いかけるようにして、縄文時代に日本から大陸に渡ったグループはスメル族(シュメル族)と呼ばれました。彼らはメソポタミアの地に都市文明を築き、シュメル最大の都市を「スサ」と名付けます。その王は「スサの王」、すなわち「スサノオ」としてシュメル文明の中では政治と軍事を司りました。つまり、スサノオは政治・軍事王の称号だったというんですね。
一方、祭祀王はシュメルの長という意味で、スメルミコト、すなわち「スメラミコト(天皇)」と呼ばれたのだそうです。

そんな風にもっともらしく言われても、駄洒落とかオヤジギャグの類の話に聞こえますよね。でも本当にそのような伝承があるのだと竹内氏は言います。
それで私も、その伝承に矛盾がないかどうか、あるいは何かその伝承を裏付ける傍証などがないかどうか、一応調べるわけです。

するとやはり、天皇家とシュメル文明の相似性という面で、面白いことを発見します。
一つは、シュメルの王家や女神の紋章にはよくロゼット紋様と呼ばれる、中心から花弁が放射状に出る花の紋様が好んで使われることです。

中心から花弁が放射状に出る花の紋様と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。そう、あの16菊花紋(16日章菊形紋)、天皇家の紋章ですね。実際にメソポタミアから出土された石板(ナラム・シンの戦勝記念碑)や円筒印章印影図の紋様を見みると、まさに日本の皇室の紋章と同じなので驚かされてしまいます。

日本の皇室がこの文様を紋章として使用した背景には、かなり深い意味がありそうですね。
シュメル文明においては、山の頂の上に描かれているなど、その使われ方を見ると、太陽の紋章のように見えます。
太陽信仰と関係がありそうです。

それはそれとして、実は記紀が描く古代日本とシュメル文明の間にも驚くべき類似点があることにも気づきました。
(続く)

シュメル人と日本人の文化的な相似性について

イムホテプが謎の人物であったように、シュメル人(シュメール人)もまた、謎の民族です。
しかし、スメル、シュメル、スメラミコト、スサの王という「駄洒落」的相似性のほかに、シュメル人の築いた文明には古代日本を連想させる要素が非常に多いのでびっくりします。

たとえばシュメル語は、日本語と同様に膠着語といって、日本語の「てにをは」のような接辞を持つ言語であったことがわかっています。ところが、当時のオリエント世界のどこを探しても、シュメル語に近い言語は見つかっていないんです。だから、どこから来たのか全くの謎なわけです。当時の日本の縄文人がどのような言語を話していたかは定かではありませんが、もし今の日本語に近い言語を話していたとしたら、シュメル語との類似関係が見いだせるかもしれないわけですね。ということは、古代メソポタミアのシュメル人と古代日本人とのつながりが出てくるわけです。

また、言語同様に文字にも日本語との類似性が見出せます。現在、最古の文字はシュメルで生まれたとされています。そのシュメル語を表記する楔形文字は、日本の「万葉仮名」のように、文章の中で表語文字と表音文字の両方を使い分けているんですね。今日、世界で使われている文字の多くは、英語などに代表される表音文字で、しかも多くは一つの文字が一つの音を表すアルファベッドのような単音文字です。その中で、シュメル語や日本語のように表語文字(日本語の場合は漢字)と表音文字(ひらがなやカタカナ)を混ぜて使い分ける言語は非常に珍しいと言えるわけですね。

さらに、日本の「縄文文明」がそうであったように、シュメル文明もまた古くから土器文明であったことがわかっています。紀元前5000年~同3500年ごろのウバイド、エリドゥといった遺跡からは濃い茶褐色の紋様を特徴とする「彩文土器」が出土しています。そしてこの土器文明と密接に関連していますが、シュメル人の社会では現代の日本がそうであるように、ハンコ社会であったことも知られています。人類最古のハンコとされるスタンプ印章は、紀元前7000年の北シリアの遺跡から見つかっています。それがシュメル人による最古の印章なのかどうかは不明ですが、スタンプ印章はシュメル文明とともに開花します。印章は石を加工して作られ、それを粘土に押して刻みます。つまり、石と縄の違いがありますが、縄文土器の文様の付け方と同じですね。

現代において印章文化圏は、日本、中国、香港、マカオ、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナム、インドネシア、ラオス、マレーシア、シンガポールなどに広がっています。日本へは中国を経て伝わったと考えられていますから、これらの国々をたどって行けば、確かにメソポタミアに行き着くと考えることはできます。

ということは、古代日本人がシュメル文明を築いたかどうかという問題は別にして、少なくとも日本はシュメル文明の影響を多大に受けているのではないか、という推論が導き出されるわけです。昨日紹介した『シュメルーー人類最古の文明』の中で、三笠宮祟仁親王は次のようなはしがきを寄せています。

「私がまだ子供だった頃には、ヨーロッパ文明の源泉はギリシャ・ローマだと思われていました。しかし今ではシュメル文明こそが、真の源泉だったことがわかってきました。しかも、そのシュメル文明は西方ばかりでなく、東方にも伝播し、シルクロードを経て日本にも到達しています。たとえば、シュメル人の残したデザインのモティーフが、正倉院(奈良)の宝物の中にも見られるのです」

シュメル文明は、当然の成り行きとして、次のエジプト文明に影響を与えた可能性が強いんですね。シュメル文明がイムホテプによってエジプト文明に伝播されたとしても、矛盾はまったくないわけです。さらには三笠宮親王が指摘しているように、海と陸と草原のシルクロードを経て、かなり古い時代の日本に伝播されたとしても不思議ではありませんね。

しかし、シュメル人と古代日本人、そして天皇(スメラミコト)の類似性はこれだけにとどまらないんですね。
それは記紀を読むと、よくわかります。記紀の中で、恐ろしいほど一致する記述に出くわすからです。
(続く)

「シュメール」は本当は「スメル」だった

ところで、なぜ「シュメール」と日本語で呼ばれるようになったかご存知でしょうか。
本当はシュメルとか、スメルが発音的に近いんです。それがどういうわけか、「シュメール」と長音記号を入れて表記されるようになりました。

実はこれには理由があって、「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことをスメラミコトというが、それはスメルのミコト、すなわちスメルの王のことであるとか、スサノオはシュメルの首都スサの王のことであるといった俗説が戦前や戦中に横行したため、時のシュメール学の権威であった京都大学名誉教授の中原与茂九郎氏が混同されないようにわざと「シュメール」と音引きを入れて表記したからなんです。当然、この「俗説」がどこから来たかは、だいたい想像できますよね。そう、既に紹介した、明治・大正期の日本史研究家・木村鷹太郎氏の「新史学」です。

だけど「シュメール」という表記は間違っていることに変わりありませんね。シュメル、もしくはスメルがアッカド語の原音に近く、正しい表記なんです。でも権威ある学界の人たちは俗説が大嫌いですから、嘘の表記になってもいいから、「シュメール」にしてしまったんですね。で、この裏事情は当事者の中原氏から皇族で歴史学者の三笠宮崇仁親王が直接聞いて、我々に伝わることとなりました。詳しくは小林登志子氏の『シュメル--人類最古の文明』(中公新書)をお読みください。

中原氏の気持ちもわからなくはありません。そりゃそうです。「スメラミコト」と「スメル」は似すぎていますし、スサノオをスサの王としてしまっては、もうダジャレを通り越して、悪意(あるいは善意)さえ感じられますよね。

ところが、今紹介した「木村氏の俗説」は、ほとんどそのまま正統竹内家の口伝にも伝わっているから、話はますます面白くなります。しかも、シュメル(スメル)を調べれば調べるほど、記紀に描かれた古代日本との関係が深まってしまうんです。もう勘弁してくれよ、と私でも思ってしまいます。でも、まずはシュメル人とは何者だったのかを見てみましょう。
(続く)

イムホテプはシュメール人であったのか

古代エジプトで初めてピラミッドを建設したとされるイムホテプは謎の人物です。
彼が登場したのは、紀元前2600年ごろのエジプト第三王朝の時代。
王族の出身でもないイムホテプは、まさに彗星の如く現れ、建築、設計、土木、医術などの分野でその天才ぶりをいかんなく発揮しました。太陽神ラーの神官となり、ジェセル王の宰相としても活躍した超人的な存在でもありました。

ところが彼が何者なのかはまったくわかっていないんですね。いったいどこから来たのか、人種的には何人なのかも不明です。まさに突如現れた天才としかわかりません。

ただ、ここで大事なポイントは、彼の知識と知恵が当時の古代エジプト文明の科学を凌駕していたことです。彼は全く新しい方法で、ピラミッドを建造します。すなわち、それまでは王墓などの建造物には日干し煉瓦が使われていましたが、これに代わって、切り出した石材を積み重ねる方式を採用しました。強度がまったく違いますから、これにより巨大ピラミッドの建造が可能になったわけです。

彼の知識は治水においても多大な貢献をしました。ジェセル王から水不足による深刻な飢饉対策を求められ、ナイル川を氾濫させる方法を説いたという記録が残されています。

こうした彼の知恵と知識がどこから来たのか、という問題を考えた場合、その一つの考え方として、古代エジプト文明以前に栄えた文明から来たのではないかと見るのも理に適っていますよね。4500年前の古代エジプト文明以前の文明と言えば、メソポタミアに開けたシュメールのメソポタミア文明です。

シュメールはチグリス、ユーフラテスという大河に挟まれた地域でしたから、治水の知識を持っていたとしても不思議ではありません。ということは、イムホテプが持っていた知恵と知識はシュメールのそれを継承したものであった可能性があるわけです。

シュメール、シュメル、スメルーーーシュメールとはスメル(スメラミコト)族のことであった、と誰か言っていました。
そう、実はイムホテプがシュメール人だったとすると、正統竹内文書の口伝の内容とも整合性が出てきてしまうんですね。

どのような口伝の内容だったかというと、氷河期が終わったことによって起きた大洪水後に最初に文明が開けたのは今から1万2000年前の日本だったというんですね。その証拠としては、確かに青森県の1万6000年前の大平山元遺跡からは炭素年代測定では世界最古ともいわれる土器が見つかっています。文明の定義にもよりますが、それから4000年後に「縄文文明」が開花したとしても不思議はありませんね。

で、その後「古代縄文日本文明」がどうなったかというと、口伝では大陸に渡ったグループがいたというんですね。そのグループ名は「スメル族」。その初代の王の名前を取って「オオゴトオシオ朝」と名付けることもできるそうです。その彼らがどこに行ったのかというと、それがシュメールであったのだと竹内氏は言います。
(続く)

人工山・ピラミッドを建造したのはミケイリノだった!

明治・大正時代に、日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた木村鷹太郎という日本史研究家がいました。とにかくすべてが日本中心で、ギリシャ神話も日本神話が起源になってしまいます。イザナギはゼウスで、スサノオはペルセウス、アマテラスは女神アテナといった具合です。

ここまで徹底していると逆に関心してしまうのですが、いかんせんほとんどの学者は相手にしないわけです。
私も当初、ずいぶんダジャレ好きな歴史研究家だな、ぐらいにしか思っていませんでした。
ところが正統竹内家にも、オヤジギャクのような伝承が伝わっているのだそうです。

その伝承の一つが、神武の兄の一人とされるミケイリノの話です。竹内氏によると、ミケイリノは全国各地に人工山・ピラミッドを造っていたというんですね。で、ミケイリノというのは世襲名で、建設大臣のようなものだとも言います。その証拠に、エジプトのピラミッドを建造した王は「ミケイリヌス」であると伝わっているではないか、これは決して偶然ではない、と。

ずいぶん大胆な説だなと思いつつ、一応調べてみました。
この該当するエジプトの王とは、ギザの三大ピラミッドのうち第三ピラミッドを建造したとみられるメンカウラー王のことです。この王について、ギリシャの歴史家ヘロドトスがミケリヌス(Mykerinos)という名で伝説を残しているんですね。つまりメンカウラーのギリシャ語読みがミケリヌス。確かにミケイリノと非常によく似ています。

これは偶然でしょうか。竹内氏は「偶然ではない」と主張しているわけです。

私はその可能性は否定しません。しかし、ピラミッド第一号とされるサッカラの階段ピラミッドを建造させた王はジェセル王であり、実際にピラミッドを設計、建造したのはイムホテプであるとされています。彼らも「ミケリヌス」の称号を持っていたという証拠は今のところ出てきていませんね。また、ギザの大ピラミッドを造らせたクフ王と「ミケリヌス」の関係もよくわかっていません。メンカウラーがカフラー王の息子で、クフ王の孫ではないかということがわかっているぐらいです。

このままでは、ミケイリノ=ピラミッド建造者説は分が悪いわけですが、イムホテプという謎の設計士兼建築士の存在を調べると、必ずしも口伝が荒唐無稽であると断定することはできないんですね。
(続く)

スサノオの「オロチ退治」に隠された本当の秘密

このように記紀を正統竹内家の口伝や中国の記録などで読み解いていくと、神武以降ならかなり正確に日本で何が起きたのかがわかってきます。神武以前でも、スサノオとアマテラスの「誓約(政略結婚)」があったとみられる紀元前1世紀後半ごろからの歴史なら何となくわかりますね。つまり記紀を読めば、紀元前2世紀ごろからの日本の姿がおぼろげながら見えてくることになります。

ところが、記紀をどう読んでも、出て来ない日本の歴史があるんですね。それが紀元前2世紀よりも古い、今から約2500年~1万2000年前の縄文時代の歴史です。当然先史時代ですから、わかるわけがないではないか、と思われるのも、無理はありません。

それでも口伝と神話の端々、古史古伝、それに想像力を使えば、ほんのかすかですが、先史時代の歴史が見えてくるんですね。
実は、私が本当に明らかにしたいのは、この歴史なんです。
口伝、神話の端々、古史古伝、それに想像力を駆使して、今から約5000年前に人類が何を成し遂げていたかを浮き彫りにしていきます。

まだその方法をすべて明らかにするわけにいきませんが、その触りとして挙げられるのは、スサノオの八岐大蛇退治に隠された真実です。既に説明したように、あれは後に出雲の王となるスサノオと越国王・オロチとの間の戦闘と和睦、政略結婚の歴史が神話化したものです。しかし、あの神話の言葉の端々には、読者が想像もできないような歴史的事実が隠されているんですね。しかもそれは、古史古伝の「竹内文書」と併せて読まないと浮かび上がらない真実なんです。

私が「竹内文書」を読み解いているうちに発見した東経137度11分の羽根ラインもそうです。正統竹内家の口伝では、5000年前の越の国には磨き上げたヒスイを通信手段に使った「ヒスイ王国」とも呼べる「謎の組織」があったことが示唆されているといいます。この二つを組み合わせることにより、私たちが歴史で習った縄文時代のイメージとはまったく違う姿が現れるのではないでしょうか。

それらもいずれ、このブログで取り上げたいと思っています。
とりあえず、次のテーマは「越の国と古代日本のピラミッドの謎」でしょうか。
まだまだ歴史シリーズは続きます。

「倭の五王」は誰であったのか、という問題

「倭の五王」についても言及しておきましょう。
倭の五王とは中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武のことです。

『古事記』では第十代崇神天皇以降は天皇没年の干支が記されるようになったことは既に述べました。私はこれがかなり現実的で正確ば記述なのではないかと思っています。少なくとも『日本書紀』の干支よりもはるかにましです。

讃が中国に朝献したのが西暦413、421、425年ですから、この時代の王(天皇)は398~427年の間に在位したとみられる仁徳になります。ただし、仁徳の本名は大雀命(おほさざきのみこと)ですから、なぜ中国側が「讃」という字を充てたのか不明です。美徳や仁徳を褒め称える「讃」という意味でしょうか。

珍は438年に「倭王讃没し、弟珍立つ」として紹介されています。ところが438年は非常に微妙な年で、『古事記』ではその前年の437年に反正天皇が亡くなり、仁徳はさらにその10年前の427年に亡くなったことになっています。ということは、438年から過去を振り返って、「仁徳が10年前に亡くなって、弟の珍が王位を継いだらしい」という意味でしょうか。

この珍に該当するのは、おそらく433~437年の間在位した反正天皇です。記紀の記述では仁徳の弟ではありませんが、428~432年の間在位したとみられる兄の履中天皇の後を受けて第18代天皇に就任しています。次の允恭天皇も兄の反正から王位を継承していますから、珍の候補になりえますが、在位期間は次の王「済」と一致しますから、必然的に候補から外れます。

つまり、消去法で行くと、珍の候補は反正天皇しか残らないんですね。中国側では履中など途中経過を省略して、仁徳(讃)が死んだ後、前王(履中)の弟の反正(珍)が王位を継いだらしい、という意味で書いたのではないでしょうか。

でも、なぜ「珍」なのでしょうか。反正の本名は、水歯別命(みずはわけのみこと)、あるいは多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)です。「瑞」と「珍」は似てなくもありませんが、「瑞歯」など珍しい名前だから付けたのかななどと想像してしまいます。

済は既に紹介したように438~454年の間在位したとみられる允恭天皇しかありえません。『宋書』夷蛮伝では、443年に宋・文帝に朝献して「安東将軍倭国王」とされ、451年には「安東大将軍」に進号しています。本名は、男浅津間若子宿禰王(おあさづまわくごのすくねのみこと)、あるいは雄朝津間稚子宿禰尊とも書きます。「津」が「済」になったのでしょうか。

『宋書』孝武帝紀、倭国伝に、「462年、済の世子の興を安東将軍倭国王とする」と書かれている「興」は、安康天皇でまず間違いありません。兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)との間で王位継承争いがあったため、即位したのは何年かよくわかりませんが、父・允恭の死後から466年まで在位したとみられます。本名は穴穂皇子(あなほのみこ)。国が安穏になり栄えたので「興」なのでしょうか。

最後の武は、明確に雄略天皇とわかります。本名の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)に「武」そのものが入っているからです。在位期間は安康天皇が亡くなった466年から489年までとみられます。『宋書』夷蛮伝に書かれているように、兄の「興」が死去して王となりました。478年には「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」、479年には鎮東大将軍(征東将軍)に進号しています。

こうしてみると、『古事記』の天皇没年の干支はかなり正確で信頼がおけるのではないかと思われます。
(続く)

記紀および口伝と「魏志倭人伝」との事象の整合性について

「魏志倭人伝」の次の記述にも着目してみましょう。

「・・・邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、・・・」

この「いきま」「みましょう」「みまかくき」「なかてい」に該当する人物は実在するのでしょうか。
調べたところ、実際にこの名前に近い人物が何人か浮かんでくるんですね。

口伝継承者の竹内氏は、このうち「いきま」はイクメイリヒコ、すなわち垂仁天皇ではないかと言います。「いきま」と「イクメ」、確かに似ています。すると、「みまかくき」はミマキイリヒコでしょうか。崇神天皇の別名です。垂仁は崇神の息子ですから、時代考証的には合っていますね。

「なかてい」はわかりません。「みましょう」はミマツヒコカエシネ、つまり孝昭天皇(西暦140~170年ごろ在位したとみられる第5代天皇)の可能性がありますが、時代的に離れすぎていますから、別の人物であったかもしれません。

それでも四人中二人に該当者がいる、しかも時代考証的にも間違っていないというのは、傍証ぐらいにはなるでしょうか。

また「魏志倭人伝」に記されている、卑弥呼が女王になる前に起きた「倭国大乱」についてはどうでしょうか。
正統竹内家の口伝では、「卑弥呼」とみられる倭迹迹日百襲姫の兄に当たる孝元天皇の時代に、東国反乱に破れ、いったん九州に落ち延びたことになっているそうです。するとこのとき、倭迹迹日百襲姫が祭祀王に立ち、統治王の兄とともに反撃、再び大和を奪還したのだと解釈することもできますね。ここでも口伝と「魏志倭人伝」の記述が一致するわけです。

では「魏志倭人伝」に247年ごろに卑弥呼が死去して男王が立てられると、再び内乱となり、壹與(トヨ)が王に立てられてようやく国は治まった、と記されている点はどうでしょうか。

既に触れましたが、247年の当時の統治王は崇神でした。統治王になってから既に10数年は経っていたでしょうか。だから、おそらく「魏志倭人伝」に記録されている「男王」とは第九代祭祀王の彦太忍信であると考えられます。230年ごろに亡くなったとみられる開化天皇の異母弟です。

記紀には彦太忍信の事績に関する記述がありません。でも『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫が箸で陰部をついて死んでしまってからしばらくして、崇神が群臣に対して次のようなことを言ったと書かれています。

「今は叛いていた者たちはことごとく伏した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐに出発せよ」

確かに倭迹迹日百襲姫の死後、国内に内乱があったことが示唆されていますね。
そして崇神の娘(口伝によると、実際は姪=姉・倭迹迹姫の娘)に当たるトヨスキイリヒメ(トヨ)が伊勢神宮祭主になったときに、その内乱が収まったと解釈することができます。

口伝及び記紀と「魏志倭人伝」の記述との間に整合性があるわけですね。
(続く)

「邪馬台国」は大和にも九州にもあった

邪馬台国はどこなのかーーー。実は面白いことに「邪馬台国」は大和にもあり、九州にもあるんですね。どういうことかというと、西暦56年に神武とイスズヒメの政略結婚により出雲族と日向族の和睦が成立して、大和に統一王朝ができました。これが大和国、すなわち『日本書紀』に記されている「ヤマト(日本)の国」です。

国名の変遷については後で触れますが、このヤマト(日本)の国はずっと大和地方にあったわけではないんですね。正統竹内家の口伝によると、その後何度か、生きのこったナガスネヒコ(兄)の残党(蝦夷)に破れて、九州・日向に敗走しているのだそうです。ということは、「ヤマトの国」は事実上の九州遷都をしているわけです。

つまり、「ヤマトの国」には大和時代と九州時代があったわけですから、九州にも大和地方にも「魏志倭人伝」の言うところの「邪馬台国」はあったことになりますね。その証拠に、九州と大和に同じ地名が残っているはずだから探してみるといいと竹内氏は言います。

竹内氏の説によると、「邪馬台国」は中国側の誤りで、やはり「ヤマト」が正しいのだそうです。
確かに『日本書記』にもそう書いてありますね。
大和に統一王朝が出来たとき(神武天皇記)の記述を見ると、国名について次のように記されています。

「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、天の磐船に乗って大空を飛び回り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本(やまと)の国』という」

統一王朝を事実上作り上げたニギハヤヒが「ヤマトの国」と名付けたと明記されています。
その正式な国名を「魏志倭人伝」の編者が「邪馬台国」と適当に訳してしまったというのが真相なのかもしれませんね。
(続く)

トヨは卑弥呼(倭迹迹姫)の娘であった

「魏志倭人伝」の編者が、第八代祭祀王(祭主)・倭迹迹日百襲姫と、伊勢神宮祭主・倭迹迹姫を同一人物であると勘違いし、崇神を卑弥呼の弟としたことにも、それなりの理由があることがわかりましたね。まさか祭祀王と統治王が共立し、伊勢神宮と皇祖之霊皇大神宮のそれぞれに祭主がいるとは「魏志倭人伝」の編者も知らなかったのでしょう。そう考えると、竹内氏が言うように、辻褄が合います。

さらにこの二人が卑弥呼と思われていたことを示す根拠はもう一つある、と竹内氏は言います。
それが伊勢神宮祭主・倭迹迹姫の娘・トヨスキイリヒメだ、というんですね。というのも、「魏志倭人伝」には卑弥呼の後継者となった巫女に「壹與(トヨ)」という名の娘が出てくるからです。

「魏志倭人伝」には次のように書かれています。

「女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。ところが、邪馬台国の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死亡した。このため再び女王が立てられることになった。その際、卑弥呼の宗女(正統な親族の女)で13歳の少女・壹與が王となり、ようやく国は治まった」というんですね。

トヨスキイリヒメは豊鍬入姫と書きますが、「トヨ」という名前が似ていますね。しかも「卑弥呼の宗女」ということでも一致します。

でもちょっと待ってください。豊鍬入姫って、崇神の娘だったんじゃないの、と疑問に思われる方がいたとしたら、かなりの歴史通です。その通りなんですね。記紀では崇神の皇女になっているんです。しかし正統竹内家の口伝では、倭迹迹姫の娘がトヨスキイリヒメだというんです。

歴史通の方はさらに、卑弥呼には男がいなかったはずだ、と指摘するかもしれませんね。これは私の推測ですが、第八代祭祀王・倭迹迹日百襲姫には夫はいなかったけれど、伊勢神宮祭主・倭迹迹姫にはいたのではないでしょうか。で、倭迹迹姫は早くに亡くなったので、娘のトヨスキイリヒメが13歳で伊勢神宮祭主となったわけです。

もしそうだとすると、「魏志倭人伝」の編者もかなり困惑したのではないかということが推察されますね。卑弥呼には男がいなかったはずなのに、なぜ娘が急に女王として出てくるんだ、と。そこで「卑弥呼の宗女」ということにして、誤魔化したんじゃないでしょうか。

このように、正統竹内家の口伝で「魏志倭人伝」を読み解くと、これまでわからなかった歴史が、かなり浮かび上がって来ます。少なくとも、どうして「魏志倭人伝」の編者がこのような表現を使ったのか、という問題の背景がわかって来ますね。

私は、この口伝が神武以降に関してはかなり正確に歴史を記録しているのではないか、という気がします。たとえば、既に触れましたが、箸墓古墳の築造時期が3世紀後半~4世紀前半説から、3世紀半ば説に修正されたのは、私が知る限り、1990年代後半以降のことですが、竹内氏は既に1990年代初めには卑弥呼=倭迹迹日百襲姫+倭迹迹姫説を唱えていました。「後出しジャンケン」ではなかったわけですね。

口伝が「証拠」として認められない理由の一つは、ある歴史的事実が判明した時に、「実は口伝でもそうなっていた」と後出しジャンケンされる可能性があるからです。秘授口伝なので、すべてを明らかにすることは不可能なのでしょうが、少なくとも早くから竹内氏が卑弥呼=倭迹迹日百襲姫+倭迹迹姫説を主張していたことは、非常に意味があることなんですね。

では、その口伝では、「邪馬台国」という国はどこにあったことになっているのでしょうか。
(続く)

コブ付きの継母を正妃にした天皇の「世紀の恋」

なぜ崇神が倭迹迹日百襲姫の男弟と「魏志倭人伝」に記されたのかーー。そのカギを握るのは、第8代孝元天皇の皇女である倭迹迹姫の存在だと口伝継承者の竹内氏は言います。

ただし竹内氏によると、倭迹迹姫は第九代祭祀王になったわけではないのだそうです。祭祀王(祭主)とは別に天照大御神を祭る伊勢神宮祭主を務めていたといいます。つまり、倭迹迹日百襲姫と倭迹迹姫は同時代に巫女として活躍していたので、「魏志倭人伝」の編者が同一視してしまったというんですね。確かに、本居宣長ですら同一人物論を展開するほどですから、無理もないと言えば無理もないことです。

ちなみに第九代祭祀王になったのは、第九代開化天皇の異母弟である彦太忍信(ひこふつおしのまこと、倭迹迹姫の兄か弟)でした。第九代祭祀王以降は、この子孫が祭主を務めるようになり、彦太忍信の子である第十代祭祀王の屋主忍信(やぬしおしのまこと)から越中に皇祖之霊皇大神宮を建てて独立したようです。というのも、この時代に顕斎用に伊勢神宮、幽斎と顕斎用に越中の皇祖之霊皇大神宮をそれぞれ使うような祭祀形態をとるようになったからだといいます。で、後者の家系から後の武内宿禰が誕生するわけです。

しかし、それでもまだ矛盾があるんですね。倭迹迹姫が開化天皇の妹であるということは、崇神の叔母になってしまうからです。大叔母よりはましですが、叔母では姉弟関係にはなりませんよね。

ところがです。ここにも系図改竄マジックが働いているのだと竹内氏は言います。確かに記紀が伝える、第八代孝元天皇から第十代崇神天皇にかけての系図は、結構きわどくて怪しいんですね。問題は、開化天皇が父孝元の妻であったイカシコメを正妃として娶ったことにあります。つまり継母を正式な妃にしたわけです。イカシコメとは、既に紹介したようにニギハヤヒとミカシキヤシマの政略結婚で誕生した物部氏の血統、すなわちナガスネヒコ一族の血が流れる家系の出です。

同じような構図がありましたね。そうタギシミミの反逆のときです。タギシミミは父神武の側室であったイスケユリヒメを妻にして反逆を企てたことになっています。継母を娶ると、ろくなことはないーーという教訓がそこにはあったはずです。しかも記紀によると、既に父孝元はイカシコメとの間に子供(第九代祭祀王・彦太忍信)すら儲けていたんです。ということは、開化はコブ付きの継母と結婚したことになりますね。

ちょっと複雑な親子関係でしょ。というか、父親が死んですぐに継母を正妃にしてしまっては、次に生まれてくる子がどっちの子かわからなくなってしまうという問題を孕んでいたんですね。そこで生まれたのが崇神であった可能性があるわけです(もちろん開化とイカシコメが結婚した時には既に崇神が生まれていた可能性もあります)。

えっ、崇神ってどっちの子よ、孝元なの、それとも開化?

仮に孝元の子であれば、倭迹迹姫と崇神は姉と弟の関係になるわけです。倭迹迹姫を倭迹迹日百襲姫と勘違いして同一視したのならば、「魏志倭人伝」の記述通り、崇神は「卑弥呼の弟」になりますよね。

こうなることを恐れて開化天皇を諌めた臣下がいたと『ホツマツタヱ』は伝えています。開化が父孝元の妃を正妃に迎え入れたことに対して、大臣の一人であったオオミケヌシが、天照大御神の時代に母や娘を犯して罪に問われた事件を引き合いに出して、何としてもコブ付き継母と結婚しないように説得を図ります。ところがイカシコメの伯父ウツシコオがしゃしゃり出てきて、問題はないと言葉巧みに反論、結局オオミケヌシが失脚する出来事があったというんですね。

いずれにしても、周囲の反対を押し切って継母を正妃にすることは、「世紀の恋」であったわけです。それほどイカシコメは絶世の美女だったんでしょうね。

おそらく記紀編纂者はそんなことは書けなかった。だから(面倒くさいから)、「崇神は開化の子にしてしまえばOK」ということにしたのだと私は推測します。

ところで記紀では、「世紀の恋」を成就させた開化とイカシコメの間には、崇神の後にミマツヒメが生まれたことになっています。この子は間違いなく、二人の子であったのではないでしょうか。
(続く)

「魏志倭人伝」と『日本書紀』の記述はかなり一致する

どうして第八代祭祀王(祭主)に倭迹迹日百襲媛が選ばれたかは、定かではありません。おそらく倭迹迹日百襲媛の母親が重要な意味を持っていたのだと思われますが、残念ながら母親の倭国香媛(やまとのくにかひめ)の出自はよくわからないんですね。

でも日向国の女王アマテラスも祭祀王であったことは間違いないと思われますし、口伝が正しければ神武の正妃イスズヒメも祭祀王になっているわけですから、孝元天皇の妹が、他の弟を差し置いて、祭祀王になっても問題はなかったはずです。

実際『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛媛が崇神天皇の時代に「巫女」として大活躍したと記されています。また「三輪山の大物主」の妻になったとも書かれていますから、イスズヒメと同様、出雲系古神道の祭祀や秘儀を受け継いでいたことが示唆されていますね。祭祀王の資格や資質が十分にあったことが、こうした記述からもわかります。

さて、その『日本書紀』によると、例によって大物主は倭迹迹日百襲媛に夜這いをかけます。しかし夜では顔がよく見えないので、倭迹迹日百襲媛は夫の大物主に姿を見せてくれと頼みます。大物主は驚かないことを条件に了承するのですが、いざ蛇の姿を現したところ、姫は約束に反して驚いて叫んでしまうんですね。それを見た大物主は怒って三輪山に飛んで行ってしまいます。大物主が去ったことに落胆した姫はその場にドスンと座り込むのですが、その際、箸が陰部に刺さって死んでしまった、というんですね。

機織りの道具がアマテラスの機織り女の陰部に刺さって死んでしまった話や、イスズヒメの母親が厠で用を足している時に朱塗りの矢に刺された話、それに今回の箸が陰部に刺さって死んでしまった話は、どれもとてもよく似ています。巫女が祭祀王になるときに必ず出てくる話なのかなとも思ってしまいますね。

それはさておき、この話の重大な点は、その後の『日本書紀』の記述です。「それで(倭迹迹日百襲媛を)大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という」と書かれているんです。これがどうして重要かというと、この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致するからです。しかも当初は卑弥呼の時代と合致しないとみられていた箸墓古墳の築造年代は、最新の科学年代推定により、卑弥呼の時代(3世紀半ば)の古墳であることがようやくわかって来たんですね。

これは倭迹迹日百襲媛=卑弥呼説を裏付ける、かなり有力な証拠ではないかと思うんですね。

既に指摘したように『日本書紀』では、倭迹迹日百襲媛は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしています。一方「魏志倭人伝」には、「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)と記されています。卑弥呼が倭迹迹日百襲媛で、男弟が崇神天皇だとすると、その関係は極めてよく似ていますよね。

しかしながら、ここには問題もあります。記紀によると、倭迹迹日百襲媛は崇神天皇の「大叔母」であって、姉ではないからです。
でも、ご安心ください。正統竹内家の口伝を読み解けば、この矛盾も解消してしまうんですね。
(続く) 

卑弥呼は二人いた!

『魏志倭人伝』に記された卑弥呼とは誰だったのかーーー正統竹内家の口伝によると、卑弥呼の候補者は二人います。一人は第七代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)です。箸墓古墳に埋葬されているのではないかと考えられている人物ですね。孝霊天皇は、そのひ孫とされる崇神から逆算すると、だいたい2世紀半ば~3世紀前半(160~210年ごろ)の人物である計算になります。その娘であれば、2世紀後半の生まれとなりますから、247年に亡くなったとしても、時代的には合っています。

ところが、口伝では時代的、事跡的に『魏志倭人伝』の記述とはどうしてもそぐわない面が出てくるのだそうです。その矛盾を埋めるのが、第8代孝元天皇の皇女・倭迹迹姫(やまとととひめ)だと口伝継承者の竹内氏は言います。孝元天王の皇女(孝霊天皇の孫)でも、2世紀末~3世紀初めの生まれでしょうから、時代的に卑弥呼と合致します。竹内氏の説では、卑弥呼と呼ばれた女王は二人いたことになります。その二人を同一人物であると『魏志倭人伝』の編者が勘違いしたというんですね。確かにどちらも非常によく似た名前で、叔母と姪の関係にあるので、外国から見れば区別がつかなかったことも考えられます(実際、江戸時代の国学者本居宣長の『古事記伝』ですら、二人は同一人物ではないかとする説が紹介されているそうです)。

ところでその根拠ですが、倭迹迹日百襲姫が第八代祭祀王であったという口伝があるからだと竹内氏は言います。卑弥呼は第八代目の祭祀王であったと聞いて、驚かれる方もいるかもしれませんが、口伝では西暦56年に大和国に統一王朝(大和王朝)が誕生して以来、必ず統治王と祭祀王を共立したというんですね。

具体例を挙げると、第一代統治王(天皇)は神武、第一代祭祀王(祭主)はイスズヒメでした。統治王は天皇と同じですから、記紀の記述通りです。一方、記紀には記録されていない歴代祭祀王は次のようになります。

第二代祭祀王・神八井耳(綏靖天皇の兄)、第三代研耳(タギシミミの息子、『古事記』では神武の子になっている)、第四代師木津彦(懿徳天皇の弟)、第五代武石彦奇友脊(孝昭天皇の弟)、第六代天足彦国押入(孝安天皇の兄)、第七代大吉備諸進(孝霊天皇の兄)、第八代倭迹迹日百襲姫(孝元天皇の妹)。

お分かりになりましたでしょうか。第二代から第七代までは基本的に、兄弟で祭祀王(祭主)と統治王(天皇)を分けていたんですね。長子相続が前提なら、祭祀王に兄がなったなら、弟は統治王に、兄が統治王になったら、弟は祭祀王になったのではないかと思われます。統治王と祭祀王は共立していた、つまりセットだったわけです。

そこで思い出すのは、『魏志倭人伝』の記述です。

倭国の混乱を鎮めるために、卑弥呼という一人の少女を女王に「共立」したと書かれていましたね。あまり注目されていませんが、女王のほかに王がいたことが間接的に記されているわけです。それが統治王と祭祀王であったとすると、辻褄が合います。

で、第一代祭祀王のイスズヒメ以来、久しぶりに王女が祭祀王になったのが、第八代倭迹迹日百襲姫であったというわけです。
(続く)

崇神は西暦258年の戊寅の年に亡くなった

私の現在の興味は神武以前の「神代の歴史」なので、神武以降の古代史にはあまり踏み込ませんが、「卑弥呼」が誰で、「邪馬台国」はどこにあったのかぐらいは押さえておきたいですよね。ということで、今日は卑弥呼を取り挙げます。

卑弥呼は、『魏志倭人伝』などの中国の史書に記されている倭国の女王です。
『魏志倭人伝』によると、倭国は元々は男子を王としていましたが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こりました。いわゆる「倭国大乱」ですね。そこで、卑弥呼という一人の少女を女王に「共立」することによってようやく混乱を鎮めたということになっています。

卑弥呼自身については、おおよそ次のように書かれています。
「邪馬台国に居住し、鬼道につかえ、衆を惑わした。年長となったが、未婚であった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた」

で、これがいつの時代かというと、わかっているのは卑弥呼が亡くなった年です。「正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された」と同書に記されているからです。また景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられたとも書かれています。

では、西暦238~247年ごろの日本の王(天皇)は誰であったのでしょうか。正統竹内家の口伝によると、そのころの統治王は神武から数えて10代目となる崇神であったというんですね。『古事記』では崇神天皇以降、亡くなった年の干支を記すようになっています。戊寅(つちのえとら)に亡くなったと書かれているので、口伝と『古事記』の記述が正しいとすると、崇神は258年の戊寅の年に亡くなったことになります。

さて、次に口伝と『魏志倭人伝』の記述を比較しながら、整合性があるかどうか、検証して行きましょう。
(続く)

神武は何年に何歳で逝去したのか、という問題

「神話の時代(神武以前の神代)」から「伝承・歴史の時代(神武以降)」に突入すると、決定的な証拠とはならなくとも、ようやく歴史的な資料により、口伝や伝承の内容が本当なのかどうか、ある程度の裏付けを取ることができるようになります。

たとえば、後漢書倭伝(『後漢書』「東夷傳」)に「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり、光武賜うに印綬を以ってす」という記述があります。これが九州の志賀島で発見された「漢委奴国王」であるとすれば、「金印を授与される一年前に神武が即位した」という正統竹内家の口伝と照合することにより、神武の即位年が西暦56年であったのではないか、と推論できるわけです。

ところで、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」がなぜ神武と結びつくのかというと、神武の諱が「神倭磐余彦(かんやまといわれびこ)」であることと、神武の幼名が「狭野(さの、さぬ)」であることだと口伝継承者の竹内氏は説明します。確かに神武の諱と幼名を合体させると、「かんやまとぬこくおう」となりますから、かなり似ています。決定的な証拠とは言えませんが、一つの説として説得力が出てきます。少なくとも、神武の在位期間を紀元前660~同585年としている『日本書紀』よりはるかに現実的で意味がありますよね。

で、神武紀元=西暦56年説を突破口にして、他の歴代天皇や王たちの系図が歴史的資料と整合性があるかどうかをチェックして行けばいいわけです。

正統竹内家の口伝を参考にすると、神武は23年在位して西暦78年ごろ74歳で逝去、その二年後の80年(庚辰)に統一王朝の王に綏靖が即位しているようです。おそらく、この空白の二年間に「タギシミミの反逆」があったわけですね。

次に安寧ですが、安寧が即位した二年目に中国に遣使したという口伝があるそうです。「後漢書倭伝」には安帝の永初元年(107年)に後漢に朝貢した倭国の帥升(すいしょう)という王が登場します。安寧の諱は「師木津日子玉手見」ですから、「師」と「帥」で極めて似ていますよね。ということは、安寧元年は西暦106年ではないかと推察することができます。

こうした作業を続けて行けば、神話や伝承がより現実味を帯びてくるわけですね。それが可能になるのが、神武以降ということになります。
(続く)

神々の時代から伝説の時代へ

これまで見てきたように、日向族系の神武と出雲族系のイスズヒメの政略結婚によって成立した統一王朝の王統には、他の多くの王統が集められたかのように記紀では意図的に記述されています。現実もそれに近かったのだと思いますが、かなり端折っているのは既に説明した通りです。

神武の正妃イスズヒメの父親が「三輪の大物主」(ニギハヤヒ、コモリ)であるとしてみたり、事代主(クシヒコ、ツミハ)としてみたりしたのがいい例ですね。「大物主」「事代主」のどちらが正解というわけではなく、ニギハヤヒ、オオナムヂ、ナガスネヒコの系図を2、3世代以上省略しているからこのような表現で誤魔化したと解釈できます。つまり、細かい系図では違っていても、大まかに見ると「どちらも正解」と言い訳できるように書いているわけです。

しかし中には、わざと誤解させるような表現を使った例もあります。オオクメの娘で神武の側室となったイスキユリヒメが正妃イスズヒメであるかのように描かれているケースですね。ここにも何か深い理由がありそうです。考えられるシナリオは二つあります。

一つは正妃イスズヒメになかなか子供が生まれなかったので、臣下のオオクメが自分の娘であるイスキユリヒメを側室として差出し、あわよくばそこで生まれた子を王位継承者に仕立てようとしたのではないか、という疑いです。このプロットだと、なぜ『古事記』ではイスズヒメがイスキユリヒメにすり替わるのかが説明つくんですね。例えば、イスキユリヒメと神武の間に生まれた子をイスズヒメの養子にして、イスズヒメの子であるとしてしまった可能性はあります。既に指摘したように、養子縁組は結構多かったんです。

もう一つの可能性としては、イスキユリヒメがその後どうなったのかという点と深くかかわってきます。というのも、『ホツマツタヱ』や『古事記』を読むと、父・神武の側室イスキユリヒメにタギシミミが横恋慕。神武の死後、タギシミミがイスキユリヒメを妻にしたことから「タギシミミの反逆」が起きたかのような記述になっているからです。正統竹内家の口伝でも、タギシミミは殺されておらず、逃げ延びたことになっているといいます。それから推測すると、タギシミミは父の側室であったイスキユリヒメといずこかへと駆け落ちしたのではないか、という恋物語が生まれそうですね。そうであったならば、「反逆者」と駆け落ちしたイスキユリヒメを消すために、イスズヒメと同じ人物に描いたのではないかとも推測することができます。

こうした記紀編纂者の「ごまかし」の中で、かなり割愛されたナガスネヒコ一族の系図についても触れておきましょう。

そのことに関連して実は、ナガスネヒコは兄弟であったという正統竹内家の口伝もあるそうです。
戦闘で亡くなったのはナガスネヒコの弟で、兄は東北地方に逃げたことになっているといいます。これがのちの蝦夷につながるわけですね。偽書扱いされている古史古伝『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』では、ナガスネヒコは兄弟で東北に逃れたことになっています。いずれにしても、ナガスネヒコの残党は東北に逃げたので、タギシミミがイセツヒコ(キリスト)に東北征伐を命じたという話も現実味があるわけです。

巧みに隠されていますが、兄弟で明暗が分かれた王統もあります。記紀で紹介されているエシキ(兄磯城)とオトシキ(弟磯城)です。罠を仕掛けて神武を殺そうとした兄のエシキに対し、弟のオトシキはそれを神武側に密告。それにより、エシキは自ら自分の罠にはまって死んだことになっています。オトシキはその功績を認められ、磯城(シキ)の国造となり、黒速と名乗り、その娘は綏靖天皇の正妃・カワマタヒメで、安寧天皇の母となったとの伝承もあるようです。確かに『古事記』では、磯城の県主(アガタヌシ)の祖先であるカハマタビメと綏靖の子が安寧であるとしています。当時磯城を支配していたのは軍功を立てたオトシキでしょうから、かなり可能性が高いように思われます。ちなみに『日本書紀』では安寧天王の母親はコトシロヌシ(ツミハ)の次女イスズヨリヒメということになっています。系図をどうしても隠せなくなったときには、イスキユリヒメとかイスズヨリヒメが「隠し玉」として登場することになっていたのかもしれませんね。

ここまで来ると、もうなんでもありです。だから、この時代の系図には大事な人物が養子になったことにして多く隠されています。たとえば記紀では反逆者とされたタギシミミの息子キスミミ。『古事記』ではタギシミミの同母弟ということになっていますが、正統竹内文書の口伝では、反逆者の汚名を着せられたタギシミミの子としては不憫なので、神武の子ということにしたのだそうです。

『古事記』では神武の長男とされているヒコヤイも、実は同書で神武の二男とされるカムヤイミミの子であるとの説もあります。天火明のときもそうでしたが、三人の王子が出て来たときは、要注意です。特にその後、三人目の活躍が記されていない時は、記紀編纂者が系図を改ざんするために仕組んだ罠であることが多いからです。

こうして「神々(神話)の時代」がようやく終わり、神武以降の「伝説の時代」が始まるわけです。
(後編に続く)

ニギハヤヒには「大物主」の称号がオオナムヂから譲位されていた

昨日のブログで、『古事記』に出てくる「八重事代主」の八重は7人8代の「事代主」と「大物主」を一人の人物にダブらせたことを暗示する「8重」であったのではないかとの解釈を紹介しました。でも、今朝起きてやはり8人の9代の「事代主」と「大物主」が隠されているのではないかとの考えが浮かびました。

このブログは毎日、ほぼリアルタイムで書いてます。つまりその日、自分の頭に浮かんだ歴史の諸々を解釈しながら整理しているだけなんですね。当初、三輪の大物主はニギハヤヒしかいないと解釈しました。ところが、大和の事代主も三輪の大物主と同一人物のように書かれていたので、その可能性にも言及しました。そして昨日、八重には8代の「事代主」と「大物主」が隠されているのではないかとアイデアが浮かんだわけです。だいたい、そういうアイデアは朝起きるとやってきます。というのも、私が一番活動しているのは、夜間寝ている時だからですね。寝ている間に「潜在意識」がいろいろな情報を集めてきて、その情報を整理してくれます。すると、朝目覚めると、文章が出来上がっている、という感じでしょうか。

で、今朝、浮かんできたのは、もう一人の大物主(謎の八人目の大物主)はやはりニギハヤヒであったのではないか、という考えでした。
こういうことです。

オオナムヂは大国主兼大物主でした。
オオナムヂはオオトシことニギハヤヒに命を救われて、ニギハヤヒを三輪山の神として祀ることを約束しました。
ここまでは『古事記』を正確に読むとわかることです。

既に説明したように、このときの和睦の条件が、ナガスネヒコの妹をニギハヤヒが正妃とすることと、ナガスネヒコが軍事王になること、それにニギハヤヒが近畿の王として君臨することだったと思われます。それに加えてオオナムヂは、自分を助けてくれたニギハヤヒに出雲の王統を示すものを渡したように思うんです。というのも、ニギハヤヒはスサノオの末子ではありませんから、出雲国(スサ国)の王位継承者ではなかったわけです。王位継承者はオオナムヂの正妃スセリビメです。スセリビメには王統を示す神器(十種神宝)があったはずです。その神器の「暖簾分け」か、神器そのものの移動があったような気がするんですね。そう考えないと、王位継承者でないニギハヤヒがなぜ「十種神宝」を持っていたと記紀に記されているかを理解できません。

で、その十種神宝が何かというと、おそらく本質的には「出雲(スサノオ)神道」の祭祀や秘儀にかかわる奥義のことです。この奥義を知ることは、そのまま王位継承者であることの証でもあったのではないでしょうか。
そのことを示す証拠が、ニギハヤヒの本名が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」であることです。
いつの間にか太陽神(天照)、星の神(国照)、火の神(天火明)とともに「櫛玉」という称号も得ています。
この「櫛玉」はスサノオの正妃クシナダヒメから来ているのは明白ですね。
オオナムヂの子で、出雲国の王位継承候補者の一人であるコトシロヌシの本名がクシヒコでしたね。つまり「櫛」は出雲族にとっては重要な意味があるんです。

三輪山の神として祀るということは、正統な王位継承者であることを示す「大物主」の称号をニギハヤヒが継承したとも解釈できるんですね。オオナムヂからニギハヤヒへの「大物主」の委譲があったと見るわけです。その代わり、オオナムヂには初代大物主の称号である「大国主」が与えられた、と見ます。

ただし、ニギハヤヒは「大物主」の称号を生前か死後、出雲のコトシロヌシであるクシヒコに譲位しているように思われます。だからこそ、クシヒコは事代主であり、大物主であったわけです。歴代の出雲族の王で事代主と大物主の両方を務めたのは、クシヒコだけですから。

こうした和議の内容は一切省略、しかも本当は8人9代あった「大物主」と「事代主」の系図を大雑把に端折って「八重事代主」と書いたのが、『古事記』編纂者であったのではないでしょうか。そう考えると、なぜ「三輪の大物主」がニギハヤヒであったり、大和のコトシロヌシであるツミハであったりするか理解できますね。記紀編纂者に言わせると、どちらも「間違いではない」わけです。
(続く)

三部族和合の象徴としての三輪山と、八重事代主の「八重」の意味

それまで争っていた部族同士が和睦し統一王朝を樹立するーーーそのためになくてはならないのが政略結婚というツールだったわけです。
そういった異なる部族同士の融合は、何本もの異なる糸を紡いで一枚の織物を完成させる機織りにも似ていますね。

出雲、日向、大和のおける三部族融和の話は、『古事記』でも示唆されています。
崇神天皇記で「三輪山の大物主」の逸話が紹介されているんですが、まさにその物語が三部族融和の比喩に思われます。

それによると、スエツミミの娘イクタマヨリビメがある男の通い婚(いわゆる夜這いですね)によって妊娠します。両親は「夫もいないのにどうして身ごもったのか」と娘を問い詰めます。娘は「名も知らぬ立派な男が夜這いに来て、いつしか身ごもりました」と正直に答えます。

両親としては、そんな名前もわからない男の子供を産ませるわけにはいきませんね。一計を案じて、娘に次にその男がやってきたら、その男の着物の裾に糸巻に巻いた麻糸を針で縫い付けなさいと命じます。男が夜明け前に人知れず帰っても、麻糸をたどりさえすれば、どこから来たのかわかると考えたわけです。

娘はその通り実行しました。そして翌朝、男の袖に付けた麻糸がどうなったかを見ます。すると、なんと麻糸は扉のカギ穴を通って外に出ていたというんですね。糸巻を確認すると、糸巻に残っている麻糸はわずか三輪(つまり三回り分)だけでした。そこで家人らは外に出て、その麻糸をたどっていきます。その行き着いた先が三輪山の神の社であったため、三輪の大物主であることがわかったというわけです。

三つの輪が残ったので三輪山(美和山)とは、非常にシンボリックです。三つの和、三部族の和合と読めますね。

では実際に、この三輪山の大物主が誰であったかを検証してみましょう。
当初私は、三輪山の大物主はニギハヤヒということで議論を進めていましたが、神武東遷時にニギハヤヒが生存していなかった場合は大和のコトシロヌシ説を採用しました。出雲のコトシロヌシ(クシヒコ)の孫に当たるツミハです。
そして、もう一つの可能性は出雲のコトシロヌシの息子コモリ、つまりツミハの父です。実際『ホツマツタヱ』では、コモリは大物主の称号をもっており、スエツミの娘イクタマヨリヒメを正妃にしていますから、『古事記』の記述と合致します。

ただし、『古事記』ではイクタマヨリヒメからクシミカタが生まれたことになっていますが、『ホツマツタヱ』ではツミハとセヤダタラヒメの間に後に大物主となるクシミカタマが生まれたことになっています。クシミカタとクシミカタマは名前が似ていますよね。もしこれが同一人物であるならば、『古事記』編纂者は出雲のコトシロヌシとその子コモリ、その孫ツミハの三代を一緒くたにして、事代主とか大物主と呼んだ可能性が濃厚となるんですね。面倒くさいから三代を一人にしたのではなく、オオナムヂの子である出雲のコトシロヌシの系図を隠すためです。

それでも『古事記』編纂者は、隠された系図を解くヒントをちゃんと記していたのかもしれません。出雲のコトシロヌシのことを八重事代主と書いていましたよね。最初、コトシロヌシが8人いるのかと考えましたが、『ホツマツタヱ』が伝える系図を見て八重の意味に思い当りました。出雲族の歴代の「大物主」と「事代主」を数えるとちょうど8人になるんです。その8人とは、オオナムヂ、クシヒコ、コモリ、ツミハ、フキネ、クシミカタマ、アタツクシネです。7人しかいないじゃないか、と思われるかもしれませんが、クシヒコは大物主と事代主の両方を務めたからです。事代主が2代、大物主が6代。つまり7人8代の大物主と事代主をひっくるめて「事代主」とか「大物主」と記すことにしたよ、という意味を込めたのではないかと私は見ます。そうだとしたら、かなりいい加減で大雑把ですね。

それはそれとして、「三輪山の大物主」が三部族の和合の象徴だという話に戻りましょう。
記紀編纂者にとっては、それがコモリであれ、ツミハであれ、出雲のコトシロヌシ(クシヒコ)の直系でありさえすれば、細部はあまり関係ないんです。クシヒコはオオナムヂと宗像三女神の一人タキツの間に生まれた子です。つまり、日向族の女王アマテラスと出雲族の王スサノオと、古代ユダヤ人とみられるオオナムヂの直系です。私が思うには、古代ユダヤ人は統一王朝を作るにあたり、多大な貢献をしています。「天孫降臨」の際、窮地に陥った日向族を助けたのも、古代ユダヤ人と思われるサルタヒコでしたよね。三輪山は、この三部族の和合を象徴している可能性が極めて高いと思われます。

また三輪山の神は間違いなくニギハヤヒことオオトシでもありますから、スエツミミやミゾクヒミミらを介してニギハヤヒとナガスネヒコ一族の血統も受け継いでいることを確認したうえで、神武の皇后にイスズヒメが選ばれたのだと私は考えています。
(続く)

三者の血統が混じってできた近畿ニギハヤヒ王朝

「大国主の国譲り」が紀元前1世紀であったとすると、やはりどうしても矛盾が出てくるのは、ニギハヤヒは「神武東征」の際に生存していなかったのではないかという問題です。結論から言うと、ニギハヤヒの系図もまた、オオナムヂの系図と同様に2、3世代分すっ飛ばされている可能性が高いということです。ということはナガスネヒコの系図も2、3世代省略されていることになります。

とりあえず、紀元前1世紀半ばに「国譲り」があったとしましょう。「出雲の国作り」は「国譲り」の前ですから、それよりも以前に琵琶湖のそばで、ニギハヤヒとナガスネヒコとオオナムヂの間で和睦があったはずです。記紀の記述から、その際、ナガスネヒコの妹ミカシキヤシマとニギハヤヒが政略結婚することにより、いわゆる「手打式」があったわけです。その政略結婚で生まれたのがウマシマヂであると書かれていますね。

記紀ではここまでしか記されていません。しかし、和睦が三者会談によって行われたことを思い出さなければなりません。当然、オオナムヂの血統をニギハヤヒ王朝に取り入れる必要があったということです。そうならば、ウマシマヂの正妃か、ウマシマヂの同母姉妹(おそらく末子相続なので妹)の夫をオオナムヂの直系から取らなければ三者会談による政略結婚が成立しません。このことが記紀では完全に隠されているんですね。

ただし、このウマシマヂも「曲者」です。物部氏の祖とされていますが、その後の系図を見ると、三者会談による政略結婚で生まれた子であるというより、その2、3世代後に生まれた子であるように思うんですね。その理由については後で詳しく説明します。

ここでは議論の進める都合上、ニギハヤヒとミカシキヤシマの間に生まれた子をウマシマヂ1世というように呼びましょう。
第一のシナリオは、ウマシマヂ1世が出雲のコトシロヌシ(クシヒコ)の妹、もしくはクシヒコの娘と結婚したことです。これは十分に可能性がありますね。第二のシナリオは、ウマシマヂ1世の妹が、出雲のコトシロヌシ(クシヒコ)の息子コモリの正妃となったイクタマヨリヒメである可能性です。これも「あり」なのではないかと思われます。いずれにしても、次の世代には必ずオオナムヂの直系がニギハヤヒ王朝に入り込んでいるはずです。

こういう議論をすると、読者の皆さんの中には逆賊ナガスネヒコ一族の血が天皇家に入り込んでいるはずがない、けしからん話だなどと憤慨する方もいるかもしれません。でも、実は記紀も明確に認めているんです。仮に神武の正妃イスズヒメがナガスネヒコ一族出身でなくても、第八代孝元天皇の正妃ウツシコメ(開花天皇の母)と、孝元天皇の側室で開花天皇の正妃となったイカシコメ(崇神天皇の母)は紛れもなくナガスネヒコの妹ミカシキヤシマの直系であると明記されています。ナガスネヒコ一族との間に政略結婚があった証拠でもあります。

こういうことはごく普通にあったわけですね。
これからお話しする「エシキとオトシキの話」も同様です。最後まで神武軍に抵抗したエシキは殺されましたが、オトシキの娘はおそらく天皇家の正妃になっていますからね。
とにかく、可能な限り政略結婚を重ねて行かないと、戦いは終わらないという現実が古代にはあったわけです。
(続く)

大国主の「国譲り」は紀元前1世紀ごろか

西暦1世紀という「新ミレニアム開幕」の時代に古代日本で起きたゴタゴタを少し整理しておきましょう。

ほぼ確実とみられるのは西暦56年ごろ、神武が大和に誕生した統一王朝の王に就任したことです。「漢委奴国王」印とみられる金印が中国から授与される一年前に神武が即位した、とする正統竹内家の口伝を根拠にしました。息子タギシミミを従えての「東征」でしたから、おそらく当時の神武は40~50歳ぐらいであったのではないかと思われます。ほぼキリストと同世代になりますね。

神武はアマテラスの玄孫の子ということになっていますから、そこから類推すると、日向族の女王アマテラスと出雲族の王スサノオの「誓約(政略結婚)」があったのは、紀元前1世紀後半から紀元前2世紀中ごろにかけての出来事だと思います。その50年後ぐらいに、日向族の奇襲作戦とも言える「出雲の国譲り」があったのではないかと私は見ます。紀元前1世紀前半から後半にかけてということになりますね。

つまり、こういうシナリオが考えられます。紀元前2世紀ごろ、後の日向族となるアマテラスに代表される「アマ族(天孫族)」が海のシルクロードを使って日本の九州地方に上陸、先住民たちを征服しながら日向国を建国します。一方、陸のシルクロードを使って、後の出雲族となるスサの一族が山陰か北陸地方に上陸、越国王の八岐大蛇を退治(越国の王女と政略結婚)して、8人兄弟の末子クシナダヒメを娶り、出雲国を建国します。

やがて出雲国と日向国は対立し、つばぜり合いを繰り広げた末に出雲国優勢のまま和睦が成立、スサの王スサノオと天族の女王アマテラスが政略結婚したわけです。

その後の展開は既に説明した通りです。
政略結婚が事実上破たんしたため、日向国が出雲国に奇襲攻撃をしかけ、出雲国の弱体化に成功します。ところが日向国にも内乱が生じて、統一国家樹立どころではなくなります。
その混乱を収めようと、近畿を勢力圏にしていた「スサノオとオオナムヂの子孫たち」が「アマテラスの子孫」を迎え入れて、統一王朝を樹立することにした、というような感じでしょうか。

おおよそこのようなあらすじを念頭において記紀を読むと、記紀編纂者の書いている「神話」の意味がよりはっきりとしてきます。

とにかく、そのような苦労の末にようやく誕生した統一王朝ですから、最低でもアマテラスとスサノオの直系の王子と王女の政略結婚でなくてはならなかったわけです。同時にそれは統一王朝の王統に、他の古代日本の王たちの王統をできる限り盛り込むことでもありました。それを次回お話ししましょう。
(続く)

キリストは神武の義理の兄――イスズヒコとイスケユリヒコの物語

記紀では、神武天皇(統一王朝)誕生前後の古代日本の王たちの系図は非常に複雑になっています。
『日本書紀』では、あたかも神武の正妃は臣下オオクメの娘イスケヨリヒメのように書かれていますし、ニギハヤヒは存命していたかどうかも不明の有様。コトシロヌシも誰だかわからないように八重に「厚化粧」が施されています。ナガスネヒコ一族の系図も、わかっているのは物部の祖となったとされるウマシマヂだけですね。

まさに政略結婚花盛りの時代でしたから、いろいろな思惑が重なって複雑になるのは当然と言えば当然ではありました。

そのような時代において、政略的に頻繁に行われたのが養子縁組です。
正統竹内家でも、こうした養子縁組の口伝は多く、その中で特に目を引く養子がいるといいます。
それがイスズヒコです。

神武の正妃がイスズヒメですから、何か関係がありそうですよね。

実はその通りです。イスズヒコは大和のコトシロヌシ(おそらくツミハ)の養子になったという口伝があるのだそうです。

ところで、イスズヒコって誰だったか覚えていますか。
そう、あの古代ユダヤ人であるキリストの日本での別名でした。伊勢の国司になったのでイセツヒコという名前ももらったそうです。

正統竹内文書の口伝では、キリストは日本に二度渡来したことになっています。その一回目の来日の際、大和のコトシロヌシのもとで古神道を学び修行。そのときコトシロヌシの養子になりました。つまり神武の正妃イスズヒメの義理の兄に当たることになりますね。神武の義理の兄でもあるわけです。いやはや何とも凄い話ですよね。でも、面白い。ちなみにイスラエルはイセラエルのことで、古代ヘブライ語で「栄光なる伊勢」という意味であるという伝承もあると竹内氏は言います。

キリストは、日本で学んだ神の道(古神道)を伝えるために中東に一度戻りますが、弾圧・迫害されます。
それで、二人いる弟の一人が結果的に磔の身代わりとなり、生き延びたキリストは日本に逃れます。その後を追うようにして、もう一人の弟であるイシキリも来日します。

二回目の来日でキリスト(イスズヒコ)は、聖地伊勢の港の管理人であるイセツヒコとなります。「だから磯部家(のちの渡会家)を支配していた」のだと竹内氏は言います。

一方、初来日した弟のイシキリは、神武の側室となったイスケヨリヒメの父オオクメの養子となり、イスケユリヒコという名前をもらいます。イシキリは石切彦と書くことからわかるように、石切や測量を得意とする技術集団の長でもあり、石切の組合であるフリーメイソンとも関係があったのだといいます。口伝では、石切彦は東大阪市の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)のご祭神となっていますが、現在はウマシマヂとニギハヤヒが同神社の主祭神となっているところが興味深いです。ここにも何か秘密が隠されていそうですね。
 
さて、その後のイスズヒコが口伝ではどうなっているかも、少し詳しくお話ししておきましょう。
なんと神武とアヒラツヒメの子タギシミミの命令で、ナガスネヒコ軍側の敗残兵(のちの蝦夷)討伐を命じられ出陣、遠く青森の地まで進軍したのだと言います。「キリストは元祖・坂上田村麻呂、元祖・征夷大将軍だった!!」ことになります。

ただしイスズヒコは討伐の命令には従わず、今風の言葉で言うならば「ばっくれて」、そのまま北海道(渡海島)へと渡ります。後は既に説明した通りです。

このキリストの「反逆」により、とばっちりを受けたのが、弟のイスケユリヒコことイシキリでした。兄が戻って来ないことの責任を取る形で、今度は自分が東北へ討伐に行かなければならなくなりました。イシキリは兄の足跡をたどって青森の戸来村(現新郷村)にたどり着きます。そこで子供も生まれたと言いますから、現地妻を作っちゃたんですね、たぶん。つまりイシキリも「ばっくれた」わけです。現在新郷村の「キリストの墓」とされる二つの塚は、イシキリとその子供の墓ではないかと竹内氏は言います。

しかしながら、イシキリもそこでは死んでいないんだそうです。大和に戻った、と。推測するに、東北地方への討伐の最中にタギシミミの反逆が起こり、討伐命令そのものが撤回されたのかもしれませんね。もう少し早くタギシミミが失脚していたら、キリストも北海道へと「ばっくれる」必要はなかったのかな、などと想像してしまいます。

この時代は、古代ユダヤ人のキリストは登場するは、サルタヒコ(キリストと同一人物?)、ナガスネヒコ、ニギハヤヒ、コトシロヌシ、神武などが入り乱れての大バトルロイヤルの様相を呈していたようです。何もそこまで入り乱れる必要はないだろうと、茶々を入れたくなるほどです。でも、もし本当だったら・・・・・・。

すべて西暦1世紀の話です。新しいミレニアムの幕開けとして、宇宙規模の大仕掛けがあったのかな、と思えなくもないですね。
(続く)

出雲族の正統な王位継承者は誰だったのか

イスズヒメの父親が「大和のコトシロヌシ」のツミハで間違いないとすると、『日本書記』編纂者が「嘘は書いていない」と反論できる反面、三輪の大物主がイスズヒメの父親だとする『古事記』編纂ははほとんど嘘をついていたことになります。でも、『古事記』編纂者にもちゃんと「言い訳」が用意されています。

確かによくよく読むと、三輪の大物主(朱塗りの矢)がイススキヒメ(イスズヒメ)の父親だとは書いていません。大物主は朱塗りの矢に変身しましたが、その朱塗りの矢は「たちまち立派な男性に変わった」と書かれているんです。その男性がイスズヒメの父親である、と。普通に読めば、この男性は大物主となりますが、別の男性に変わったとも解釈できます。二度変身しているところが言い訳の「味噌」です。つまり矢が若者になった、とあるのは、ニギハヤヒがかつて国作りを助けて一人前の「大国主」に変身させてあげたオオナムヂの子孫であることを暗に示していたとも解釈できるんですね。

次に、この「大和のコトシロヌシ」が「出雲のコトシロヌシ」の孫ツミハであると仮定した場合の、王統の正統性についても見てみましょう。出雲のコトシロヌシは、アマテラスととスサノオの政略結婚で生まれた末子タキツと、大国主ことオオナムヂの間に生まれた子です。末子相続の出雲族としたらまさに正統な王の血筋です。

そう考えると、確かにニギハヤヒはスサノオの四男ですが、末子ではありません。ということは近畿(大和)の王とはなっても、出雲族の正統な王ではないんですね。出雲族の「正統な王」は、本来はスサノオの娘スセリビメでした。そのスセリビメとオオナムヂが結婚して、生まれた末子が「正統な王」となる王子ですね。

ところが、記紀のどこにもスセリビメの子供の名前が記されていないんです。完全に名前は消されているように見えます。でも出自をすり替えて名前だけは記しました。それがタケミナカタであった可能性が強いことは既に説明しましたね。

日向族が「国譲り」と呼ぶ出雲国への奇襲攻撃の際、なぜ宗像三女神の長女タギリとオオナムヂの間に生まれた長男アヂスキタカヒコネではなく、コトシロヌシとタケミナカタを攻撃したのかという理由はここにもありました。コトシロヌシは末子タキツの末子であり、タケミナカタはスサノオの末子スセリビメとの間に生まれた末子であるからであると私は見ています。

そのタケミナカタは殺されたか、諏訪に事実上封印されてしまいましたから、現実問題としてタケミナカタの子孫を表舞台に上げるわけにはいかなかったのではないでしょうか。そこでニギハヤヒは生前に、出雲族の正統な王位継承者として出雲のコトシロヌシの孫を選んだのかもしれません。

でも「出雲のコトシロヌシ」であるクシヒコが末子だとして、その子コモリや孫のツミハも末子だったのか、という問題もあります。実は信頼できる系図は皆無です。唯一の頼りと言っていい『ホツマツタヱ』ではコモリの兄弟は出てきませんし、その子ツミハは次男となっていますから、末子であった可能性はありますが、良くわからないのが実情です。

それでもより王位の正統性が増すのは、ミシマミゾクイミミの存在ではないかと私は見ます。ミシマミゾクイミミがアヂスキタカヒコネかその子孫であれば、日向族から見れば、正統な出雲族の王の血統と見なせるからです。

記紀ではオオナムヂやニギハヤヒの系図が省略やすり替えなどで根本的に改ざんされてしまったため、ニギハヤヒが神武とイスズヒメの政略結婚の時まで生存していたのかを含めて、イスズヒメの父親が三輪の大物主ことニギハヤヒであったのか、それとも「大和のコトシロヌシ」のミツハであったのかは、わかりません。それでも少なくとも、出雲族の王位継承者にふさわしい人物の娘がイスズヒメであったことは間違いありませんね。そうでなければ、神武が日向国に残したと思われるアヒラツヒメを側室に格下げしたりはしなかったはずです。

また長子であるか末子であるかは、この際、どちらも問わなかったのかもしれません。長子相続が主の日向族の神武も長子ではなく末子ですから。

それにしても、この時代の古代日本の王たちの系図は、政略結婚に次ぐ政略結婚を重ねていますから、非常に複雑です。養子縁組も頻繁に行われていたようにも思われます。その中で、非常に面白い養子縁組もあったと正統竹内家の口伝にあるそうですから、それも次に紹介いたしましょう。
(続く)

ふたりの「コトシロヌシ」ーークシヒコとツミハ

神武の側室イスケヨリヒメの父親がオオクメ、神武の正妃イスズヒメの父親が「大和のコトシロヌシ」ということで議論を進めます。

この大和のコトシロヌシが、アマテラスの玄孫の子である神武とほぼ同世代と見なせるのは、オオナムヂの息子であるコトシロヌシ(出雲のコトシロヌシ)の子の世代ぐらいでしょうか。その世代なら、スサノオのひ孫となるので、段々とつり合いが取れてきます。ただし既に50歳ぐらいになっていたとみられる神武の正妃となるぐらいですから、イスズヒメは若かったのではないかと思うんですね。すると、「大和のコトシロヌシ」は「出雲のコトシロヌシ」の孫(スサノオの玄孫)か、ひ孫(スサノオの玄孫の子)の世代である可能性すらあります。
 
一体何世代分、記紀編纂者がコトシロヌシの系図を削ったのかはわかりませんが、議論を進める上で、便宜上「大和のコトシロヌシ」をスサノオの玄孫の世代と位置づけ、イスズヒメはスサノオの玄孫の子の世代であると仮定しましょう。

すると、ちょうど都合のいいことに、古史古伝に分類される『ホツマツタヱ』にはスサノオの玄孫にツミハという「コトシロヌシ」が出てくるんですね。加えて、そのツミハと三島のタマクシヒメとの間には、タタライソスズヒメが生まれたことになっています。イソスズと言えば、「五十」と「鈴」でイスズヒメとなりますね。

『ホツマツタヱ』によると、ツミハは、オオナムヂの子であるクシヒコ(出雲のコトシロヌシ)の子コモリの息子ということになっています。コトシロヌシとは、「大物主」の業務を代行・補佐する役職で、「ツリ(連)」とも呼ばれ、オホナムヂがクシヒコを初代「コトシロヌシ」としたことに始まったというんですね。

これって、結構面白い話だと思いませんか。神武がアマテラスの玄孫だとすると、ちょうど時代考証的に話が合っちゃうんです。しかもこれは『古事記』に書かれている話とも矛盾しません。

思い出してください。日向族の精鋭部隊の奇襲攻撃でオオナムヂが降伏した際、オオナムヂが提示した降伏条件の中に、自分のために「大空に千木を高々とそびえさせた神殿」を建造することと、「わが子コトシロヌシを神々の前に立ち後ろに立ってお仕えできるようにしてくれ」というものがあったことです。「神々の前に立ち後ろに立ち」とは、コトシロヌシの血統を新しくできるであろう統一王朝の王統の前後に組み込むことであるとも解釈できますよね。「出雲のコトシロヌシ」のひ孫に当たるイスズヒメが神武の正妃になることで、この約束は守られたことになります。

これでなぜ『先代旧事本紀』では「事代主」の別名を「都味歯八重事代主」と書いてしまったのか、という理由もわかったのではないでしょうか。『日本書紀』が2~3世代分出雲国の系図を省略して、「出雲のコトシロヌシ」クシヒコの孫に相当する事代主の「都味歯(ツミハ)」を同じ人物であるかのように記しているからです。もちろん『日本書紀』の編纂者にも言い分はありますね。「だって嘘は書いてないもん。ちゃんと事代主って書いたじゃん」と反論する姿が目に見えるようです。

つまり記紀編纂者は、日向族の系図はかなり真面目に、端折らずに記録している反面、出雲族の系図は3世代ぐらい省略したり、捻じ曲げたり、出自をわからなくしたりして、隠してしまっているということになりますね。
(続く)

ニギハヤヒではない「三輪の大物主」がいた!?

私はこれまで、大和のコトシロヌシはニギハヤヒではないかとの説を採ってきました。でも、それには条件があるんですね。記紀に記されているように、「神武東遷」時にニギハヤヒが生きていればの話です。

実はニギハヤヒが生きていたとすると、ちょっと無理があるんですね。記紀の記述によると、神武はアマテラスの玄孫(やしゃご:ひ孫の子)に相当します。これに対してニギハヤヒはスサノオの子オオトシですから、三世代以上も離れています。

昔は15歳ぐらいで子供を産んでいた可能性がありますから、45年の歳の差は不可能ではありません。オオトシは大歳と書くぐらいですから、かなり長命だったのかもしれません。これに対して日向族の王統は、イワナガヒメの父親オオヤマツミが予言したように、ニニギもウカヤフキアエズも「短命」に終わったことが示唆されていますものね。早く子作りをして王位を譲位したこともありえます。でも現実的に見ると、かなり苦しい見方です。

このような矛盾が出てきたのも、記紀編纂者が何としてもニギハヤヒの出自を隠すために、まさに「何でもあり」の系図改竄をやったからだと思われます。まあ、何度も言いますが、仕方がないと言えば仕方がありませんね。

そもそもなぜコトシロヌシ=ニギハヤヒ説を採ったかと言うと、それは『古事記』に神武の正妃となったのは、三輪の大物主が三島のミゾクイの娘に産ませた子であると書かれているからです(『日本書紀』ではコトシロヌシが三島ミゾクイミミの娘と結婚して生まれた子であるとしています)。三輪の大物主は、私の解釈ではニギハヤヒしかいません。既に説明したように、『古事記』にオオトシが三輪山の神になったと明確に書かれていますから。でも、もしニギハヤヒが既に亡くなっていたら、「大物主」の称号はその子孫か、ニギハヤヒと深い縁でつながっているオオナムヂの子孫に譲位されていた可能性が強いんですね。

その二つの可能性を軸に、大和のコトシロヌシが誰であったかを見て行きましょう。
(続く)

イスケヨリヒメとイスズヒメは別人だったか否か

イスケヨリヒメが本当は誰の子であったのかという問題について、別の可能性もありますので、それを紹介しておきましょう。

実はこの時代の系図が一番わかりづらくなっています。というのも、記紀編纂者はニギハヤヒやナガスネヒコ、それにタギシミミの子供たちを隠す必要があったからです。記紀ではニギハヤヒこそ悪く書くことはできませんでしたが、ナガスネヒコとタギシミミについては散々な書き方をしています。ナガスネヒコについては「性質がねじけている」とか「賤しい奴」などと描写され、タギシミミについては「心映えが元々仁義に背いていた」とか「邪な心を包み隠していた」などと書かれています。そのような人間の子孫の系図を「公式文書」に残して記録することはできませんね。そこで系図を、「天火明」の時と同様に滅茶苦茶に改ざんしているんです。

では、論点を整理しましょう。
まずイスケヨリヒメの父親ですが、私は三輪の大物主ことニギハヤヒ(もしくはその子孫)ではないかとの説を採っていますが、ニギハヤヒの王統ではないコトシロヌシの可能性もあります。これは後で論述するとして、さらにもう一つの可能性があります。イスケヨリヒメがオホクメの子であるという説です。確かに『古事記』を読むと、神武にイスケヨリヒメをあてがったのはオホクメになっていますから、自分の娘を側室に差し出したことは十分に考えられます。しかし、オホクメがニギハヤヒでないかぎり、神武の臣下の子と結婚しても統一王朝は樹立できませんよね。

そこで一応、オホクメ=ニギハヤヒ説も考慮してみましょう。オホクメがニギハヤヒだとすると、合点できる部分もあります。というのも、オホクメはニニギの天孫降臨の際、先頭に立って降臨した、つまり先立って葦原中国に降臨したと書かれていること、神武の皇后を選んだということになっていること、大和・宇陀(うだ)の豪族兄宇迦斯(えうかし)や,忍坂(おさか)の土蜘蛛(つちぐも)を討った武将(軍事王)となっていることです。ニギハヤヒはそのどれもに当てはまる可能性はあります。

ところが、です。もし『古事記』に書かれている神武の正妃イスケヨリヒメが『日本書紀』に書かれている神武の正妃イスズヒメと別人なら、まったく話が変わって来ます。古事記編纂者はもしかしたら、賤しい血を引きながら正妃となったイスズヒメを隠すために、オホクメの娘であるイスケヨリヒメという側室をあたかもイスズヒメと同一人物であるかのように仕立て上げたかもしれないんですね。

『古事記』はその点、微妙な言い回しをしています。「三輪の大物主とセヤダタラヒメの間に生まれた子がホトタタライススキヒメ、またの名をヒメタタライスケヨリヒメという」と書いているんですね。読者は当然、このイスケヨリヒメが神武の正妻になったと読むわけです。私はここにすり替えがあったのではないかと見ます。

実はこの発想のヒントは正統竹内文書の口伝から得ています。言い伝えでは、神武の側室となったイスケヨリヒメの父親はオホクメである、ということになっているんだそうです。私は最初、イスケヨリヒメが側室であると聞いて、アヒラツヒメが正妃なのかと思ってしまいました。しかし、その後の記紀の話の展開を読むと、どう考えてもアヒラツヒメは側室に降格しています。ということは、イスケヨリヒメとアヒラツヒメ以外に神武には妻がいて、その妻が正妃であったことになります。それが『日本書紀』に記されているコトシロヌシの子ヒメタタライスズヒメです。『古事記』では側室イスケヨリヒメの陰に隠れていたことになりますね。

この口伝が正しいと、『古事記』の物語はおおよそ次のようになります。
統一王朝の王となった神武の正妃にはコトシロヌシの娘イスズヒメが選ばれた。
オホクメの娘イスケヨリヒメは神武の側室となった。
神武の日向国での正妃であったアヒラツヒメは統一王朝の誕生とともに側室に降格された。
神武の死後、側室アヒラツヒメの長男タギシミミが神武の側室だったイスケヨリヒメを娶り、正妃イスズヒメの子供を殺そうとした。
驚いたイスケヨリヒメはイスズヒメの息子たちにこの情報を漏らし、暗殺事件は未遂に終わった。

このように考えると、なぜ『古事記』にはタギシミミが神武の妃のイスケヨリヒメを娶ったことが書かれているのに、『日本書紀』には記されていないのかが分かって来ます。『古事記』では「賤しい正妃」イスズヒメを隠し、『日本書紀』ではタギシミミと懇ろになった神武の側室イスケヨリヒメを隠したのではないかという図式が浮かび上がって来るからです。

なんともすごい話です。特に父親の側室を父親の死後娶って、正妃の子を殺してしまおうという「タギシミミの反逆」は、末代までの語り草になりました。

では次に残された問題である、『古事記』で「ホトタタライススキヒメ」、『日本書紀』で「ヒメタタライスズヒメ」と記された神武の正妃の父親が、ニギハヤヒではなく、別のコトシロヌシであった場合を考察してみましょう。
(続く)

イスケヨリヒメは本当は誰の子であったのかという問題と、タギシミミの反逆

タギシミミの母親の「側室格下げ」が無念であったことはわかりますが、統一王朝推進派にとっては神武とイスケヨリヒメの政略結婚は申し分ない組み合わせであったのも確かです。神武は日向国の女王アマテラスの直系であり、記紀が正しければ、その日向国を強力にバックアップした海人族の血も4分の3は入っています。一方イスケヨリヒメは、出雲国の王スサノオの直系であり、私が正しければ、大和や河内地方を支配していたナガスネヒコ一族の血も入っているはずです。

読者の皆さんの中には、イスケヨリヒメがニギハヤヒとナガスネヒコの妹の子であるはずはない、『日本書紀』に記されているように、「コトシロヌシ」と、ミシマミゾクイミミの子タマクシヒメとの間に生まれた子ではないかと主張する方もいるかもしれません。 実はその可能性もあるんです。もちろんその場合のコトシロヌシとは、オオナムヂの子のコトシロヌシではなく、あくまでもニギハヤヒです。そもそもコトシロヌシとは、事を知る人、つまり文部大臣とか歴史大臣みたいな役職名みたいなものですから、出雲のコトシロヌシとは限らないんですね。「八重事代主」と書くぐらいですから8人はいたはずです。まあ、今風に言うならば各地の「クイズ王」、たとえば「近畿地区のクイズ王」みたいなものでしょうか。私は大物主、すなわちニギハヤヒ説を採ります。

では、ミシマミゾクイミミとは誰であるかというと、何とタケツノミことアヂスキタカヒコネである可能性が高いんです。アヂスキタカヒコネは八咫烏としても知られています。カモノオオミカミとも呼ばれていますね。なぜそのタケツノミがミシマミゾクイミミになるかという理由は、『古事記』に書かれているイスケヨリヒメ出自の「笑い話」と同じ物語が、『山城風土記』に賀茂説話として記されているからです。それによると、タケツノミの娘であるタマヨリヒメが川遊びをしていると、丹塗りの矢が流れてきます。ヒメがそれを取って床の辺に刺しておくと、やがて孕んで子供を産んだというんですね。似ているでしょ。というか、同じ物語ですよね。

この場合、丹塗りの矢は当然、大物主ことニギハヤヒ。ニギハヤヒがアヂスキタカヒコネの娘と結婚し儲けた末子がイスケヨリヒメということになります。アヂスキタカヒコネの直系であれば、政略結婚には申し分のない王統です。なにしろ、アマテラスとスサノオの政略結婚で生まれた長女タギリとオオナムヂとの間に生まれた長男ですから、アマテラスとスサノオの直系です。「国作り」に多大な貢献をした古代ユダヤ人の血も混ざっているかもしれません。

イスケヨリヒメには、ナガスネヒコ一族(ナガスネヒコの妹)の血か、アヂスキタカヒコネの血が入っていたことは間違いないと思われます。少なくとも、そのような組み合わせの政略結婚でなければ、統一王朝の王統は作れないんですね。

それでも母の無念を晴らすべく、タギシミミは政略結婚による統一王朝樹立計画を御破算にしようとします。神武の死後、神武とイスケヨリヒメとの間に生まれた統一王朝の正統な王子二人(三人説もあります)を亡き者にしようとしたと記紀には書かれています。世に言う「タギシミミの反逆」ですね。

暗殺計画は未然に防がれ、逆にタギシミミは統一王朝の正統な王子の一人であるカムヌナカワミミによって殺されたと記されています。

統一王朝の正統な王子を殺せば、自分が統一王朝の王になれると思ったのでしょうか。そうだとしたら、お門違いもいいところです。アマテラスの直系と言うだけでは、統一王朝の王統にはなりえませんからね。だから記紀編纂者も、神武の子であっても逆賊扱いせざるをえなかったわけです。
(続く)

正妻の座を追われたアヒラヒメとその子の無念

長兄の暗殺という予想外の展開により統一王朝の王に急きょ抜擢された、日向国王子の末子サノ(神武)。この全くの不測の事態により、人生を狂わされたのは神武だけではありませんでした。というのも神武には既に地元の日向国に正妻アヒラヒメがおり、タギシミミとキスミミという二人の王子を儲けていたからです。

ところが神武が政略結婚に応じたということは、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の子であるとみられるイスキヨリヒメが正妻ということになりますよね。アヒラヒメは正妻の座から追われ、第二夫人あるいは側室扱いになるわけです。

これと似たようなことが以前にもありましたね。大国主ことオオナムヂとヤガミヒメの物語です。オオナムヂが並み居る求婚者を押し除けて、やっとの思いで手に入れた丹波国の王女ヤガミヒメでしたが、オオナムヂ単独の力ではとても丹波国を治められそうもありませんでした。四方八方(八十神)から攻められて、命辛々逃れて、出雲国の王スサノオに助けを求めます。そのときの助ける条件が、出雲国の正統な王位継承者である末子スセリビメとの政略結婚でした。すると当然、スセリビメが正妻となります。捨てられたのはヤガミヒメ。腹いせに、オオナムヂとの間に生まれた子を木の股に挟んで置いて行ったのは、既に紹介した通りです。

このヤガミヒメの気持ちがアヒラヒメの気持ちに重なります。
当然、母アヒラヒメの気持ちは、その息子であるタギシミミにもよくわかったと思います。
それはそうです。母は父に事実上捨てられたわけですからね。しかも正妻に選ばれたのは、私の説が正しければ、伯父のイツセを殺した「賤しい奴」ナガスネヒコの妹の子です。そんな政略結婚を心情的に許せるはずがありませんよね。

許せなかったのは記紀編纂者も同じだったのでしょう。だからイスキヨリヒメがナガスネヒコの妹の子であることを何としても隠したわけです。大物主ことニギハヤヒが「朱で赤く塗った矢」に変身して、厠で用を足していた美少女セヤダタラヒメの陰部を突いて産ませた子だという、まったくありえない「笑い話」にしてしまったんですね。厠で用を足している時に生まれたような「賤しい奴」の妹の子という意味を込めた、と私は読みます。逆に言うと、そう解釈しないと、この下品な「笑い話」の意味がわかりません。

本当だったら、正統な王位継承者イツセを殺された日向族の関係者は、ナガスネヒコ一族郎党皆殺しにしたかったはずです。でも日向族は大和地方ではよそ者ですから、そんなことはできなかったし、するだけの力もなかったのでしょう。その結果は記紀にも明記されています。ナガスネヒコ一族の血を引くウマシマヂは物部氏の祖となりましたし、イスキヨリヒメは現在の天皇家の祖でもあります。そもそも「賤しい奴」であるナガスネヒコ一族の血を継ぐウマシマヂの存在が抹殺されもせずに、記紀の記録に残って物部氏の祖になったと書かれていること自体が、イスキヨリヒメが実はナガスネヒコの妹の子であることの傍証にもなるんですね。統一王朝を作るためにはそれしか方法がなかったのです。

不本意ながら政略結婚に同意しなければならなかったタギシミミの、いや日向族の無念は、いかばかりだったのでしょうか。
そんな無念の情が募ったのでしょう。タギシミミはこの無念を晴らすべく、行動しようとします。
(続く)

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