超常現象の研究53 「不思議な世界(409)」

サイエンスQによる超能力実験1
NHKの科学番組「サイエンスQ」の「超能力は存在するか:徹底解剖・気功の謎」は1989年に放映された。当時ビデオを撮り忘れたので、どこかでビデオが手に入らないかなと探していたら、取材先の気功研究機関が持っており、ダビングさせてもらった。

番組は清田益章に対する実験の場面から始まる。アクリル板で囲んだ中に200グラムの分銅を二個吊るしておく。清田はその分銅に向かって外から念を送ると、分銅が動き出す。アクリル板の上に置いた水は水平を保っているので、アクリル板が揺れているのではなく分銅だけが動いていることがわかるのである(そういえば7月11日に清田氏の講演会があります。昨年大麻取締法違反で逮捕されて以来、どうしているかなと思っていたら、ようやく活動を再開したみたいですね。公式HPでは只今「充念中」と書かれていました)。

続いて登場するのは、中国気功術の第一人者である趙偉だ。実験はNHKのスタジオ内で、すべてNHK側が道具や材料を用意して実施された。NHKスタッフのほかに、佐々木茂美(機械工学)、品川嘉也(生理学)といった大学教授や作曲家三木たかしら有識者も実験に立ち会った。

風の影響を排除するため、アクリル板で衝立のような囲いをつくり、その中にロウソクを趙の側から見て縦に6本並べる。趙は一番手前のロウソクから約一メートル離れた場所に立ち、そこから右手を伸ばしてロウソクに向かって気を飛ばす。趙の指先と手前のロウソクとの間は三〇センチほどである。次の瞬間、ロウソクの炎が次々と倒れていく。その倒れ方も変わっている。1本1本が別々の方向へ、しかも時間をかけてゆっくりと順番に倒れていくのである。もし風がロウソクの炎を倒したのであれば、炎は同じ方向へ、タイム差なしに倒れるはずであった。

気の力で、炎は確かに倒れたのである。では物体ではどうか。今度はさらに実験条件を厳しくして、自分の吐く息などが影響を与えないよう、念のために趙の顔にマスクをつけて実施された。

同様にアクリル板の中にディスクを吊るして、50センチ離れた場所から趙に気を込めてもらう。するとすぐにディスクが動いたのである。気の力で物体も動くことが確認された。スタジオ内がどよめいた。

趙は膨らんで硬くなっている自分の腹から胸にかけて実験者に触るようにいいながら、説明した。「気というエネルギーを腹にためて、右手から出すのです」
(続く)
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超常現象の研究52 「不思議な世界(409)」

▼その後の日本の超心理学研究
福来の死後、日本の超心理学研究は一時停滞するが、福来が蒔いた種は各方面で育っていた。

1960年には、東北大学の白川勇記らが福来の超心理学研究を引き継ぐ形で福来心理学研究所を開設。1963年には大谷宗司(後に防衛大学校名誉教授)を中心として超心理学研究会が発足し、ほどなく日本超心理学会が設立された。

電波工学の権威で、東京工業大学、ハワイ大学、電気通信大学、東海大学の教授を歴任した関英雄は1976年、超常現象を科学的に研究する日本PS学会(後に日本サイ科学会)を立ち上げ、電気通信大学の佐々木茂美教授(現名誉教授、日本サイ科学会会長)は超心理現象の過程を物理的に機器測定、「念場」の概念を紹介するなど一定の成果を上げた。

福来が生まれた岐阜県高山市では、地元の山本建造が福来博士記念館建設に尽力し、高山市郊外の国府町に福来博士の研究を継承する飛騨福来心理学研究所を設立した。

このほか個人の研究家として、超常現象を電気的に解明することに力を入れ、オーラメーターを開発した内田秀男がいることは、既に紹介したとおりである。

超常現象研究が盛んになった背景には、1970年代に「スプーン曲げ」などで一大旋風を巻き起こした「ユリ・ゲラー現象」があった。その現象の中で清田益章ら多くの「超能力少年」が誕生し、さまざまな研究機関や研究家が超能力を研究するようになったのであった。

果たしてスプーン曲げは手品なのか、それとも超能力なのか。「ここにも超能力少年がいた!」とはやすメディアがあるかと思えば、インチキであるとして清田らをバッシングするメディアも出てくるなど、マスコミ界は蜂の巣を叩いたような騒ぎとなった。かつて福来の超心理研究に対して、興味本位に書き立てたメディアと同じである。

結局、真偽のほどは明確にはならず、いつしか超能力ブームも去っていった。そして1980年代になって、少し冷静になったメディアの報道も見受けられるようになった。それがNHK「サイエンスQ」で取り上げた「気功」の特集であった。
(続く)

超常現象の研究51 「不思議な世界(409)」

福来の最期
居合わせた医者が竹内の容態を見たが、一向に回復しない。絶対安静にする必要があるだろうということになり、実験は中止された。

竹内は翌日、東京へ帰っていった。仙台駅まで見送りに来た福来に対し、竹内は涙を浮かべて、実験がうまく行かなかったことを残念に思うと述べた。そして、いつの日かもう一度仙台へ来て、そのときこそ仙台の科学者を驚かせてみせると語った。

しかし、その約束が果たされることはなかった。竹内が気を失う前に出てきたという「黒いもの」は何であったのだろうか。その「黒いもの」が物体を動かすエネルギーであったのか。今となっては知る由もない。

福来の晩年は、超能力者に恵まれなかった。そのため超心理学の研究もそれほど進展せず、むしろ三田光一や御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子といった超能力者を懐かしむ気持ちが募っていったようである。特に三田光一の能力の凄さは今さらながらに思い出された。そこで福来はその能力の研究記録を世界に知らしめるべきであると考え、英語で三田の念写に関する論文を書き、それをアメリカの「サイキック・オブザーバー」誌に投稿した。

1952年の正月を過ぎたころ、福来は風邪をひいた。いつもの風邪だと思い、最初はたいして気にもかけなかったが、なかなか治らない。そしてとうとう、風邪は肺炎へとこじれていく。

高齢の福来にとって、肺炎を治癒するだけの力は残っていなかったのだろう。その年の3月13日に82歳でこの世を去った。

福来はその前夜、真夜中に突然大声を張り上げて「福来友吉第二世生ま(れ)る!」と三度繰り返したうえ、「仕事を残したまま死ぬのが残念無念である」と言いながら静かに目を閉じたのだという。

三田の念写に関する論文は、奇しくもその月の「サイキック・オブザーバー」に掲載された。だが、福来がそれを目にすることはなかったのであった。
(続く)

超常現象の研究50 「不思議な世界(409)」

念動力の実験
東北心霊科学研究会には、黒田正典(後に東北大学教授・心理学)、黒田正大(後に法務庁医官)、高橋謙助(医師)、中山栄子(東北大学図書館員)、星猛夫(後に新潟大学教授・動物学)らがメンバーとして集まった。会長には白川が、顧問には福来のほか、赤痢菌を発見した志賀潔、地元で心霊現象を研究していた土井晩翠が就任した。

同研究会の活動は、心霊現象の話があるたびに現地調査を行ったり、霊媒を訪ねて実験をしたり、福来が超心理学の講義をしたりするものであった。

しかしながら、福来や白川らは霊媒を使って様々な実験を試みたが、御船千鶴子や長尾郁子、高橋貞子のような傑出した能力者には出会うことができなかった。希代の超能力者三田光一も戦争中の1943年に亡くなっていた。ただ唯一、1950年ごろに同研究会主催により東北大学で実施された念動力の実験は、特筆に価するかもしれない。

被験者は竹内満朋という超能力者であった。竹内には物品移動などの念動力があるとされていた。事前に中沢信午(後の山形大学名誉教授・細胞学)らが東京で行った実験では、部屋の中の人形やメガホンが宙に浮き、メガホンからは声が聞こえ、テーブルも30センチほど浮き上がったかと思うと、ドスンと落ちたという。これなら仙台に呼んでも意味があると考えた中沢が、竹内を東京から呼び寄せたのである。

福来と白川による実験は、東北大学金属材料研究所の大会議室で実施された。窓から光が入らないよう黒の暗幕を張りめぐらし、さらに竹内が精神統一しやすいようにと、竹内の周り一メートル四方をキャビネット状の黒幕で覆った。その中で竹内を椅子に座らせ、両手両足を椅子に縛りつけ、結び目には紙を貼って封印した。

室内では赤色電灯が点ずるように仕組み、竹内を覆ったキャビネット状の黒幕の前にはテーブルが置かれ、その上に体温計、赤色ポケットライト、人形、紙メガホン、筆と墨汁と半紙などを載せた。

電灯を消して真っ暗になった室内でしばらくすると、夜光塗料が塗ってあった人形やメガホンが浮き上がり、メガホンからは人の声が聞こえた。後で確認すると半紙には文字らしきものが書かれていた。だが如何せん、真っ暗闇の中で起きた現象なので、竹内が縄抜けして操作している可能性も捨て切れなかった。しかも不測の事態だったのは、赤色電灯がつかなかったことであった。

これでは完全な実験とは言えないということで、翌日も同様な実験が行われた。
すると今度は実験の途中の暗がりの中で、実験助手が「黒いものが出てきた、また出てきた!」と叫び始めた。次の瞬間、すべての現象が止まり、シーンとなった。明かりをつけて黒幕の中をのぞくと、竹内が意識を失って倒れていたのであった。
(続く)

超常現象の研究49 「不思議な世界(409)」

有志集まる
太平洋戦争も末期に近づいた1945年3月、それまで住んでいた大阪も「本土決戦」の戦場になるのではないかとの懸念から、福来夫妻は仙台へと引っ越す。その際、多くの蔵書や研究資料、書きかけの原稿などを仙台に向けて発送したのだが、途中、戦火で消失してしまったという。ただ幸いなことに、別送していた念写の原板や透視の実験材料、福来自信の著作物は無事であった。

仙台は福来夫妻にとって思い出深い場所だった。福来は第二高等学校の生徒時代に二年間この地で過ごしており、妻の多津も青春時代の大半を仙台で暮らしていた。引っ越した家は、多津が裁判官だった父から相続した屋敷であった。

その仙台も七月には米軍の空襲を受け、市の中心部は焼け野原と化す。だが、福来家の周辺は戦渦を免れた。

やがて戦争は日本の敗北により終結、続いて戦後の混乱が訪れる。日本は自信を失ったように見えた。米軍兵士は我がもの顔で市街を歩き回り、日本人の多くは貧しい生活を強いられていた。大切な友人や知人を戦争で失い、貴重な研究資料の一部を焼失して、福来も多くの日本人同様、一時失意のどん底にあった。

それでも、福来の超心理学に対する研究意欲は消えることはなかった。ある朝、福来はふと思い立った。日本再建の道は人々の心の進化にある、その指導原理は超心理の研究から生まれるはずだ、と。

福来は言う。「世界の平和は、生命の価値を認識することによって生まれる。そのためには生命が何であるかを知らなければならない。これからは宗教と超心理学、それに自然科学、特に生物学、それから哲学が一緒になって生命を研究し、その本態を解明し、そこから生命の価値を知り、そのことを世界のすべての人々に教えねばならない」

この思想を掲げて、福来は各地の仏教寺院やキリスト教会、神社を訪ね歩いた。宗教関係者はたいてい、儀礼的に「結構なご意見です」と言うものの、実際に生命に関する深い話になると教義に固執するだけで、それほど理解しているようには思われなかった。

そうした試行錯誤の日々を過ごしているうちに、超心理学の研究で有名な福来が仙台にいることを聞きつけた人々が集まるようになってきた。彼らは福来の思想に賛同し、超心理の問題にも深い関心を示した。その賛同者の中には、東北帝国大学の物理学の助教授で、後に教授となった白川勇記がいた。白川を中心に有志の学生らも参加、1946年にはついに、東北心霊科学研究会が発足したのであった。
(続く)

超常現象の研究48 「不思議な世界(409)」

弾圧の中で
当時、国際的な潮流となっていたスピリチュアリズムの息吹に触れることができた英国滞在は、福来の人生にとってもハイライトと呼べるのではないだろうか。しかし、その絶頂期も長続きはしなかった。日本に戻った福来を待ち受けていたのは、戦争へと突き進む、狂信的で不気味な軍靴の足音であった。

第一次世界大戦後の戦後恐慌と関東大震災で壊滅的な打撃を受けた日本は、さらに全国的な銀行の取り付け騒ぎに発展した金融恐慌(1927年)、1929年の世界恐慌のあおりを受けた昭和恐慌(1930年)に見舞われた。社会的な不安が増大する中、日本政府が取った政策は、権益を拡大するため中国など海外への侵略政策を進めることであった。

軍国主義が日本全国に浸透してゆき、自由主義や民主主義の研究は弾圧されるようになる。国家の意にそぐわない思想は異端であり、取締りの対象となった。超能力などの“怪しげな研究”や宗教も例外ではなかった。お筆先(自動書記)による霊界との交信で知られた大本教は1921年ごろから迫害された。1935年には邪教として活動を禁止され、教主の出口王仁三郎も治安維持法違反容疑などで逮捕、投獄された。

霊能力者で知られた竹内巨麿が管長を務める天津教も1930年ごろから弾圧され、巨麿は1936年、不敬罪や詐欺罪で起訴された。同じころ、現在は高校野球で有名なPL学園を創設したパーフェクトリバティー教団(PL教団)として知られる「ひとのみち教団」も、反国民精神を鼓舞したなどとして幹部が逮捕され、解散を命じられている。

こうした弾圧は、超心理学の研究にも多大な影響を与えた。たとえば、1939年には亀井三郎という霊能力者(物理霊媒=エクトプラズムを使って霊の物質化をする霊媒)が19世紀に英国で有名だった「ケティ・キングの霊」(ウィリアム・クルックス博士の実験で出現した、頭の先からつま先まで完全な形で物質化した霊)を出現させることに成功、それを写真に収めたが、その貴重な原板は当時の警察に押収されてしまった。

戦争が激化するにつれ、物資は乏しくなり、若者は次々に戦争に駆り出されて行く。研究に使う材料の入手も、ままならなくなった。このような環境に加えて、年齢という壁が福来に迫っていた。1940年には14年間教授職を務めた高野山大学を退職した。既に70歳を超えていた福来にとっては、何もかもが困難な時代であった。
(続く)

超常現象の研究47 「不思議な世界(409)」

心霊写真の実験2
被写体には福来自身がなった。
準備が整うと、ホープは左手で妻の手を握り、右手で写真機のレンズの蓋を取った。そして右手を額に当てて、5,6秒間乾板を露光させながら精神統一し、再び蓋を閉めた。

二回にわけて合計4枚の写真が撮られた。福来が現像したところ、4枚中2枚は福来が写っているだけだったが、他の2枚には福来のほかに、その頭上に西洋婦人が写り込んでいた。それは同一の婦人の顔で、一枚は左向き、もう一枚は上向きであった。さらに福来の左肩のところに別の婦人の顔が出現していた。

ホープが写真を撮ると、被写体の人物以外に別の像が写るのである。

これは一種の念写ではないか、と福来は考えた。そこで残りの乾板2枚を使って、ホープに念写できないかたずねた。ホープは「できるかどうかわからないが、やってみましょう」と言う。そこで福来は二枚の乾板を重ね合わせて、これを両手ではさみ持ち、乾板に念をこめて像を写し込むよう求めた。ホープは左手を福来の右手の甲に触れ、右手を額に当てて5,6秒間念を込めた。現像した結果、一枚には何も写っていなかったが、もう一枚には歪んだ形の輪形像が浮かび出た。

第二回目の実験は10日後の9月29日に実施された。方法は前回と同様である。
心霊写真の実験では、福来の頭上に男の顔が横向きに現われ、その男の上には漫画のふきだしのように“Je connais ce monsieur”(私はこの男性を知っている)とフランス語の文章も現われていた。

念写の実験では、乾板を三枚に重ねて、その真ん中の乾板に念写するよう求めた。すると、一枚目と二枚目に何かの像が現われ、それらをつなぎ合わせると、バラの花に似た形となった。さらに二枚目には草花の像が写っていた。

心霊写真の実験で現われた人物像が、本当に霊なのか、あるいはホープが念写したものか、断定こそできなかったが、福来はイギリスの実験でも念写が確実なものであることを再確認したのであった。
(続く)

ご参考までに、ホープが撮影した心霊写真を中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』から接写して掲載します。福来心理学研究所に原板があるそうです。

心霊写真

超常現象の研究46 「不思議な世界(409)」

心霊写真の実験1
コナン・ドイル、シャルル・リシェ、ウィリアム・クルックス、アルフレッド・ウォーレス・・・。19世紀後半から20世紀前半にかけて、当時の名立たる学者や名士が心霊研究に参加、スピリチュアル的な現象に対する理解や認識を深めていった。

福来がロンドン大会で念写の発表をした1928年は、そのようなスピリチュアリズムが、ヨーロッパ中に浸透していた時代でもあった。当時ドイルは、大会を主催した国際スピリチュアル連盟の名誉会長を務めていたことから、おそらく福来とも出会っていたであろう。

このように、スピリチュアルな現象を研究しようという土壌がしっかりできていたイギリスである。福来にとっても居心地が良かったに違いない。ロンドン大会が終わった後、福来は当時の英国の著名な超能力者ウィリアム・ホープについて、超常現象の実験を行っている。

ホープはロンドン郊外のクルーという場所に住んでいた。元々は職工であったが、20歳になったときに霊能力があることを認められ、心霊写真を撮るようになった。心霊写真とは、死者の姿が写った写真である。以来、学者や研究家が40年以上にわたりホープをテストしたが、厳重な条件下でも実験を成功させるので、非常に評価が高い能力者であった。

福来が訪ねたときには、ホープは65歳になっていた。福来によると、ホープは極めて善良で、金銭にも淡白な、飾り気のない好人物だったという。

実験は二度にわけて実施された。第一回目は1928年9月19日。
福来はロンドンで購入した乾板6枚を持って、ホープの家を訪ね、心霊写真を撮ってくれるよう頼んだ。

乾板が実験の途中ですり替えられることのないように、福来は乾板に漢字で自分の名前を書き込み、それをホープが用意した写真機にはめ込んだ。写真機も、撮影前に福来がレンズを取り外して内部を検査するなど異常がないことを確認している。

福来がセッティングをすべて行い、ホープはただ、シャッターの開閉をするだけであった。
(続く)

超常現象の研究45 「不思議な世界(409)」

コナン・ドイルの心霊研究4
では、キリスト教の教義にあるような地獄や天国は存在するのだろうか。死後の生活とはどのようなものか。ドイルは次のように書いている。

地獄と上層界について
・地獄という場所は存在しない。だが、罰の概念や、浄化のための戒めを受けるという意味での煉獄のような場所はある。

・煉獄のような場所での生活は、刑罰というよりは一種の修養・鍛錬であり、病的に歪んでいる魂にとっては療養の意味もある。

・界層は存在するが、善と悪の概念だけですべてが決まるわけではなく、それぞれのスピリット(霊体)は、成熟度に合った環境に落ち着く。

・スピリットは自ら経験し、上層界のスピリットによる援助と教育を受けながら、霊性の発達とともに上層界へと進んでいく。

・低い界層から高い界層へは行けないが、高い界層から低い界層へは自由に行けるらしい。

・下は陰鬱な暗黒界から上は活動にあふれた光明界まで、果てしない界層が連なっており、事実上無限の生活模様が展開されているらしい。

・死んだ直後は、自分が死んだと気づかず、通常だと数日間経ってようやく、そのことに気づく。場合によっては地上の時間で何世紀もの間気づかずに、地上にいるつもりのスピリット(いわゆる幽霊)も、極稀だが存在するという。

死後の生活形態について
・全体として死後の生活は、地上の生活とは比較にならないほど明るく楽しく、「類は類をもって集まる」ということわざ通り、似た性格の者、趣味の共通した者、同じ才能を持つ者が集まって共同社会を形成、生き生きとした時を過ごしている。

・食事や金銭、痛みといった肉体に付随したものがなくなり、精神的なもの、芸術的なもの、思想的なものが大勢を占める。

・衣服は実質的に不要だが、地上時代の習慣が続いているためか、あるいは美的センスからか、その人特有のものを身につけているようである。

・老若はなくなり、老いて亡くなった人は若さを取り戻し、幼くして亡くなった人は成長して大人らしくなる。皆、それぞれの霊性を表現した容姿になるとみられる。

・男女の関係は、地上におけるような肉体的な結びつきというのではなく、あくまでも愛という精神的なものによって一緒の生活を送るようである。また、地上のような子供の出産はない。

・生活の基本は親和力で、意思の伝達手段は意念であるため、言語の違いがコミュニケーションの障壁になることはない。

・霊界のスピリットたちは、膨大な資料を保管してある図書館のような場所にアクセスして情報を得ているように思われる。

・メカニズムはわからないが、死後の世界にも地上の物質に相当する「もの」がある。それを生み出す物理学があり、「もの」を“化学合成”させる専門の高級霊がいるらしい。

以上が、交霊会の交信などで語られた死後の世界の実相であるという。ドイルはこれらが死後の世界のすべてだとは思っていなかったが、これらの死後の世界の様子が別々の霊によって異口同音に語られていることから、信憑性がかなり高いとしている。
(続く)

超常現象の研究44 「不思議な世界(409)」

コナン・ドイルの心霊研究3
心霊研究に本腰を入れる前のドイルは、霊の存在はもとより神の存在すら認めない唯物論者であった。ところが心霊研究を続ければ続けるほど、もはや心霊現象を否定することができなくなる。ドイルは心霊現象を認めた上で、それまでの唯物主義的人生観を完全に棄て去り、死後の存続の事実と、それが人生に及ぼす意義を徹底的に探究すると決めたのである。

ここに来てドイルの関心は、物質科学が知らないエネルギーが存在するかしないかといった表面的な問題ではなく、心霊現象によってもたらされるメッセージへと移っていく。ドイルはそのメッセージを、この世とあの世の壁を突き崩し、この未曾有の苦難の時代を生きる人類に用意された、霊界からの希望と導きの呼びかけ、すなわち新しき啓示であると考えた。ドイルは心霊現象の宗教的側面に惹かれたのである。

そうは言っても、ドイルはキリスト教など既存の宗教に傾倒していったのではない。むしろ既存の宗教の問題点を指摘、その教義を霊界からのメッセージと比較・検証していった。そして、世界中のあらゆる種類の宗教が様々なタイプの人間の心に訴える体系を確立するための共通の基盤として心霊研究を位置づけたのであった。

では、その新しき啓示が描く死後の世界とはどういうものだったのだろうか。幸いなことに、世界中の学者や研究家が交霊界や実験会に参加して、死後の世界の膨大な情報をもたらしてくれていた。しかも霊媒を通して得られた情報は、基本的に一致していたのである。ドイルがそうした霊界との交信記録によって得た、死後の世界の実相を箇条書きしてみよう。

・死ぬという現象には痛みを伴わず(もちろん生きている間は痛みがある)、死後は想像もしなかった安らぎと自由を覚える。

・やがて自分が、肉体とそっくりの霊的身体をまとっていることに気づく。しかも、地上時代の病気も障害も完全に消えている。

・死後しばらくは物的波動の世界にいるため霊体と肉体の双方が意識されるが、その後急速に物的波動が薄れて霊的波動を強く意識するようになる。

・霊的身体と物的身体との波長の懸隔があまりに大きいため、自分の死を知って駆けつけてきた人に話しかけても、身体が触れようとも、何の反応も返ってこないことに驚く。

・自分の遺体の周りに集まってきている人の中に、既に他界しているはずの人たちがいることに気づく。彼らは生身の人間と同じように手を握ったり、頬に口付けしたりして「ようこそ」と出迎えてくれる。

・しばらくすると、際立って光輝にあふれた人物が近寄ってきて、「私の後をついてきなさい」と告げる。後を追うと、壁や天井を突き抜けてゆき、新しい世界での生活が始まる。

・新しい世界での生活が始まる前に、地上時代の悪影響を取り除くための期間、つまり忘却の期間として、大なり小なり睡眠状態を体験する。
(続く)

超常現象の研究43 「不思議な世界(409)」

コナン・ドイルの心霊研究2
ドイルが最初の行ったのはテーブル通信という、日本で言えばコックリさんのような、霊と交信する方法であった。複数の出席者がテーブルの上に手を置いて、歌を歌ったり祈ったりしているとテーブルが傾き、テーブルの脚で床をたたきはじめる。そのとき、モールス信号のような符丁を決めておき、霊とアルファベットで問答を交わす。

その結果についてドイルは、やはり半信半疑であった。多くは出席者のだれかがイタズラしているとしか思えない、取るに足らない内容だったが、時折、非常に示唆に富んだ内容の問答を交わすこともあった。

あるとき、テーブルが強烈な力で動いたかと思うと、英国の有名なクリケット選手であったドッドと名乗る「霊」が現われた。ドッドはドイルとエジプトの探検旅行をしたことがあった。その際、ナイル川をさかのぼりたいとするドッドにドイルが反対して口論となり、結局ドッドはそのまま一人で出発して客死してしまった。他の出席者はドッドのことを知らなかった。そこでドイルは、ドッドが目の前にいるかのように矢継ぎ早に質問をした。その答えはどれも正確であった。返事の内容には、ドイルの予想したのとは正反対のこともあったので、ドイルには自分の潜在意識が作用しているようにも思えなかった。

テーブル通信に出てくる「霊」のすべてが本物ではないにせよ、ドイルの猜疑心は段々と薄れていった。1891年にはイギリスの心霊研究協会(SPR)に入会、同協会の実験報告を読み進むにつれ、死後の世界やテレパシーのような能力は実際にあるのではないかと、考えるようになっていった。

SPRの研究報告書の中で、ドイルが特に高く評価したのは、英国の古典学者兼詩人のフレデリック・マイヤーズという人が書いた『人間の個性とその死後の存続』であった。その著作の中でマイヤーズは、精神と精神との感応をテレパシーと名づけた上で、その存在を完璧なまでに証明していた。

マイヤーズは、一つの精神が遠距離にいる別個の精神に直接影響を与えることができることを証明してしまったのである。これは唯物論者が信じる科学の土台を根底から崩すものであった。この宇宙には、私たちが知っている物質とはまったく異質のエネルギーが存在するのだ。

ローソクの炎は、蝋がなくなれば消えてしまうと思っていたが、ローソクから遠く離れた場所で、炎だけが存在できることになる。炎(精神、霊、意識)がローソク(身体)から遠く離れたところでも活動できるとしたら、炎は元々ローソクとは別個に存在するはずである。ならば身体が滅んだ後に意識が存在していたとしても、まったく不思議ではない。

こうしてドイルは、死後の世界を肯定する方向へと歩みだすのであった。
(続く)

超常現象の研究42 「不思議な世界(409)」

コナン・ドイルの心霊研究1
ローソクは燃え尽きると消える。電池が切れると電流も止まる。同様に、死はすべての終焉であるとドイルは信じた。

死後の世界などまったくナンセンスな議論であった。霊媒と称する詐欺師が机を持ち上げたり、死者の霊を呼び出したりするという話を聞くにつけ、なぜ人はあのようなものを信じるのか、ドイルはまったく理解できなかった。死後の世界を肯定するニュ-ヨーク州最高裁判事が1886年に書いた『エドマンズ判事の回想録』を読んでも、どんなに社会的地位があり人望のある人でも弱い面があるのだな、くらいにしか思わなかった。

ところが、多くの学者たち、とくに科学界の重鎮とされる人たちが、人間の肉体とスピリットは別個の存在であり、肉体は滅んでもスピリットは存続するのだと主張していること に気付いた。無教養な人間が戯れに霊媒に熱中するのはわかるにしても、英国第1級の物理学者であるウィリアム・クルックスや博物学者のアルフレッド・ウォーレス、フランスの世界的な天文学者カミーユ・フラマリオンといった、教養もあり当代一流の科学者たちが、霊媒の実験に賛同し、死後の世界を支持していたのである。

それまでは、頭の悪い人間しか霊媒に引っかからないと思っていたドイルには衝撃であった。学者の中にも、進化論で有名なチャールズ・ダーウィン、その進化論を支持した英国の生物学者トマス・ハクスリー、チンダル現象で知られる物理学者ジョン・チンダルらは否定派であったので、ドイルはしばらくの間、それらの学者の名前を口実に懐疑的態度を取り続けていた。

だがよくよく調べると、そうした否定派の学者たちは、ただ単に心霊現象が嫌いだとか、興味がないとか、自分の知識と反するという理由で、実際に調査・研究もしていなかったのである。ドイルはその態度こそ、非科学的であり傲慢であると考えるようになった。
そしてとうとう、懐疑的な態度は保ちながらも、自ら心霊研究に乗り出したのであった。
(続く)

超常現象の研究41 「不思議な世界(409)」

エクトプラズム3
10年以上にわたって繰り返された、シャルル・リシェらによるエクトプラズムに関する実験の結果や推論をまとめると、次のようになる。

・エクトプラズムは、霊界の技術者ともいうべき存在が霊媒から出る特殊物質に霊界のある物質を化合させて作るものである。

・降霊実験中、霊媒の体の中のある要素が分解されて、それが気体となって耳、鼻、口から体外に出る。出るとすぐに霊界の物質と結びつき、粘着性の液状態に変化する。

・エクトプラズムは霊媒とつながっており、霊媒の体から長く伸びるが、その中間部が肉眼で見えないほど希薄になっても決して途切れることはなく、気体でも、液体でも、固体でもない物質で補充される。

・エクトプラズムを使って物質化した霊の体重は、実験中に減少した霊媒の体重に等しい。

・エクトプラズムの一部を切り取って、顕微鏡による監察と科学分析をしたところ、無色無臭で、粘り気があり、皮膚の組織や唾液状成分、肉組織の微片などが検出された。反応は弱アルカリ性であった。

まさに驚くべき結果である。これらの結果からも、リシェがキュリー夫人ら当代随一の学者を巻き込んで、徹底的に霊媒から出るエクトプラズムを研究したことがわかる。

さて、コナン・ドイルの心霊研究に話を戻そう。
ドイルは後に心霊現象の強固な擁護者になったが、最初からそうした現象を信じているわけではなかった。

1882年にスコットランドのエジンバラ大学の医学生としての課程を終えたころのドイルは、他の医学生と同様に確信に満ちた唯物主義者であった。
(続く)

超常現象の研究40 「不思議な世界(409)」

エクトプラズム2
それは、フランスの生理学者シャルル・リシェと物理学者のマリー・キュリーが参加した、パリの心理学協会による降霊会の実験での出来事であった。リシェもキュリー夫人も後にノーベル賞を受賞していることは周知の通りだ。日時ははっきりしないが、1894年から1908年にかけてとみられる。被験者は、霊媒のエウサピア・パラディーノ。エウサピアは降霊会の途中、暴れたかと思うと急に物静かになって、不思議な現象を起こすことで知られていた。

その不思議な現象が何らかの詐術であるのか、本物であるのか見極めようというのである。キュリー夫人は、室内に異常なエネルギーの兆候が発生すれば、察知してくれるであろうということで、その実験に呼ばれた。

エウサピアの両隣には、リシェとキュリー夫人がそれぞれ座り、エウサピアの手を握った。つまりエウサピアの両手はリシェとキュリー夫人が確保しており、塞がっていたわけだ。やがてテーブルのそばのカーテンが、何か大きなもので押されたように膨らんだ。

リシェは、手を握っていない方の腕を伸ばしてカーテンの裏側にあるものをつかんだ。それは手のようだったが、エウサピアの手よりもはるかに大きく、指も太く、手首までしかなかった。リシェはもう一度、握っている方の手を確認した。エウサピアの手はそこにあり、キュリー夫人が握っているエウサピアのもう片方の手もそこにあった。

また別の実験では、エウサピアから離れたテーブルの上に、表面を煤で覆った紙を何枚か置いて降霊実験を試みた。するとテーブル上に青白い手が現われ、紙に指を押し付けた。リシェがその紙を確認すると、指で煤をこすったような跡がついていた。エウサピアの手は、まったく煤で汚れていなかったのである。

リシェは、このどこからともなく現われる手を、どうしても説明することができなかった。そこでこの不可思議な物質を、ギリシャ語のectos(外の、抽出された)とplasm(物質、原形質)を組み合わせてエクトプラズムと名づけたのであった。

「まったく不合理だ。しかし、真実である」と、リシェは述べたという。
(続く)

超常現象の研究39 「不思議な世界(409)」

エクトプラズム1
19世紀後半~20世紀前半のイギリスの心霊研究について、アーサー・コナン・ドイルを外して語るわけにいかない。

コナン・ドイルが心霊研究をしていたことを知ったのは、確か私が高校一年のときであった。タイトルは忘れたが、図書館でたまたま手にした本がドイルの書いた心霊研究の書で、「へ~、あのシャーロック・ホームズを書いたドイルが、こんなことをやっていたのか」と驚いた記憶がある。

その中で一番私の目を引いたのは、霊媒師の口から煙のように立ち昇る「エクトプラズム」と呼ばれる物質の写真であった。そのエクトプラズムは人間の顔の形をしていたのである。その写真は衝撃であった。それと同時に私は、「これは私が小学生のときに写した写真と同じだ」と思ったのである。それはクラスメートを撮影した写真で、その友人の左頬の辺りに白っぽい煙のようなものが写っており、そこに別の顔が浮き出ていたのだ。

当然のことながら、そのときはエクトプラズムというものが存在することなど知らなかったので、担任の先生に「これは何ですか」と尋ねた。そのとき先生は「ただのゴミだろう」と、ほとんど取り合ってくれなかった。ただ私には、それが巷で霊と呼ばれているものの写真のように思われてならなかった。

その記憶が、ドイルの本に掲載された写真を見て、不意に蘇ったのである。同級生の中にはこういう話に詳しい友人は必ずいるもので、「ああ、エクトプラズムなら入学式や卒業式のアルバムに写っているよ」と言う。そこで数人の友人とともにアルバムを調べたところ、何年かに一回ぐらいの割合でエクトプラズムらしきものが写っていることがわかった。それらのエクトプラズムは必ずといっていいほど顔のそばに現われており、やはり当人とは別の顔が写っていたのである。

このエクトプラズムとは一体、何なのであろうか。
科学的に証明された物質なのか。どのような実験をしたのか。

実は、エクトプラズムと命名されるきっかけとなった実験には、ラジウムを発見したマリー・キュリー夫人がかかわっていたのである。
(続く)

超常現象の研究38 「不思議な世界(409)」

イギリスの心霊研究
イギリスで福来が実施したという超常現象の実験に触れる前に、当時のイギリスにおける心霊研究の実態について説明しておこう。

19世紀から20世紀にかけて、イギリスは科学界の中心であっただけでなく、超心理学や心霊研究のメッカでもあった。しかも、心霊現象は迷信でも異端の学問でもなく、歴とした科学の対象であった。

シャーロック・ホームズのシリーズで知られる作家のコナン・ドイルも熱心な研究者であったし、ケンブリッジ大学の著名な哲学者ヘンリー・シジウィック、クルックス管の発明やタリウムの発見を行った理化学者のウィリアム・クルックス、物理学者のオリバー・ロッジ、ノーベル賞を受賞した生理学者のシャルル・リシェらも積極的に研究に参加、超常現象の謎を解明しようと真剣に研究されていた。

このように心霊現象が盛んに研究されるようになったきっかけは、1848年にアメリカの寒村で起きたポルターガイスト(家の中の食器や家具が自然に飛んだり、不可解な音がしたりする現象)事件であった。

事件が起きたのは、ニューヨーク州北端の村ハイズビル。1848年3月31日の夜、農業を営むジョン・フォックスの家で、二人の娘がベッドに入った後、物をたたくような不思議な音や家具を引きずるような音が聞こえ、実際に家具が動いたりした。この現象が起きた後、二人の娘は「幽霊さん」と呼びかけるようになり、「質問に対する答えがイエスのときはトントンと二回音を鳴らしてください」という方法で、音の主と会話し始めたのである。

その交信の結果、音の発信者、つまりお化けの正体はチャールズ・ロスナーと名乗る行商人で、フォックス家が1847年に引っ越ししてくる五年前、この家の住人に殺され、所持金500ドルを奪われた上、家の地下に埋められていることがわかったのであった。

この話を聞いた近所の人たちが集まり、実際に地下を掘ったところ確かに人骨の一部は見つかったが証拠とはならなかった。その後56年経って、地下室の壁の間から行商人とみられる男の人骨が発見された。

この事件に関しては、当初からマスコミや研究家が真相を解明しようと試みた。当時科学の最先端を行くイギリスの学者らも大挙訪米し、この現象を調査。イギリスに帰ってからもこうした不思議な現象を研究するようになったのである。
(続く)

超常現象の研究37 「不思議な世界(409)」

世界へ
福来が高野山大学教授をしていた1928年、日本の超心理学史上、忘れることのできない出来事があった。この年の9月7~13日にロンドンで開かれた国際スピリチュアリスト連盟の第三回大会に福来が出席、意識が乾板に像を感光させる念写という現象を初めて世界に向けて発表したのだ。

同連盟は1923年、ベルギーで世界初のスピリチュアリスト(霊的真理を探究・実践する人々)による会議を開催した際、超心理研究を世界に広める目的で設立された。第二回大会をパリで開き、第三回は福来が参加したロンドン。その後第二次世界大戦で中断したものの、戦後復活し、三年ごとに大会を開いている。

当時は国際会議で日本人が発表することさえ、稀有な出来事であった。しかし、東京帝国大学を「迷信を研究している」などとして追われ、日本の学界から事実上追放された福来にとって、国際会議の場こそ名誉を挽回する絶好の機会であった。

ロンドンへ行くだけでも大変な時代である。船でソ連のウラジオストックに渡り、そこからシベリア鉄道でヨーロッパへ行き、最後は船でロンドンに到着するという長旅だった。

大会で福来は、透視と念写の実験結果を報告、多くの賞賛を得たといわれている。世界は福来の研究に対して、真摯に耳を傾けてくれたのである。このときの講演要旨は現存しており、またこの発表を契機にして福来の著作である『透視と念写』は英訳され、三年後の1931年にロンドンで出版された。念写はthoughtographyと訳されたが、後に福来はnen-graphyと改訳している。

一週間にわたるロンドン大会は、成功裏に終わった。福来はそのままロンドンにしばらく残り、イギリスの著名な超能力者を実験することにした。
(続く)

超常現象の研究36 「不思議な世界(409)」

▼「観念は生物である
透視、念写実験を繰り返し成功させてきた福来は、ある一つの結論に到達しようとしていた。それは「観念は生物である」という結論であった。

観念が生物であるとはどういうことか。福来の著作を読むと、どうやら観念を「意識体」のようなものとして捉えていたようだ。観念自体に独立した要求があり、物質に影響を与える力があり、かつ物理的な空間を超越して観念は「霊」のように存在すると考えていたと思われる。

たとえば、三田光一の念写実験ではしばしば、三田が念写しようとした人物以外の人物像が念写されることがあった。武田信玄の像を念写した6日後に、三田の意識とは別に上杉謙信の像が念写されたこともある。福来の解釈によると、こうした現象が起こるのは武田信玄の像を念写したときに、ライバル関係にあった上杉の像を映し出そうと(要求)する観念が独立して生じ、それが6日後に乾板に作用して上杉の像を写し出したことになる。観念が物理的な空間を超越していることは、40キロ離れた場所から「月の裏面像」の念写実験に成功したことなどを見ても明らかである。

観念は生命活動のひとつであり、もしかしたら生命の本質である可能性もある。その意味で、観念は生物であるといえるわけだ。

福来はこう考えた。
宇宙には一つの絶対的観念がある。これを「原念」と呼ぼう。原念は自ら要求(目的)を持ち、物理的世界に作用する。この作用により、無機物から有機物が生まれ、そして微生物が生じた。すべての生物は原念から生じているから、原念を内包する。それこそ各生物が所有する「念」にほかならないのではないか、と。

福来の思索は、死後の世界にも及ぶ。
念はそれ自体、身体を離れて、自己の要求に従って物質に作用する。つまり観念は身体とともにあるわけではなく、身体を離れても存在し、活動する。だとすれば、死後においても観念は存続するはずである。観念は「霊」に相当するのではないか。

こうした考えをさらに調査・研究するため、福来は宗教、哲学、科学を統一した生命学会を創立したのであった。
(続く)

超常現象の研究35 「不思議な世界(409)」

時を越えた念写
三田の念写はまさに自由自在であった。三枚重ねの乾板の一枚目と三枚目に、二枚合わせて一つの像になるように分割念写し、かつ中央の乾板にサンスクリット文字を出現させることもできた。また、以前念写したのと同じ像を再び写し出す反復念写もお手の物であった。

1923年7月7日に青森市で行われた実験も、いつものように淡々と進められた。この実験に福来は参加しておらず、東奥日報社主催で同紙の記者や市の助役、病院長、警察署長らが立会人となり実施された。

念写実験では、一般参加者からの希望で弘前公園にある津軽為信の像を写すことになった。その結果得られた念写像は、樹木の茂った公園の中に立つ武士の像であったが、津軽為信の像ではなく、だれだかわからない人物の像であった。

その実験はそのままになっていたが、11年後の1934年5月19日、今度は山口県宇部市で宇部日報社の主催により三田の念写実験が行われた。一般来場者から念写対象物を募ったところ、幕末長州藩の有名な家老福原越後の像、吉田松陰の像、寺内正毅元帥の像、国吉亮之輔の像を念写することになった。

現像した結果、福原と吉田の像を写し出すことには成功したが、寺内と国吉の像は現われなかった。

面白いのはここからである。福来は青森と山口で実施された二つの実験に参加していなかったが、主催者側から実験の報告書と念写された原版を送ってもらっていた。福来がそれらを調べたところ、青森で念写された正体不明の人物像が11年後の山口で念写された福原越後の像と一致したのである。それは宇部市の神原公園に実在する福原の像で、背景の樹木も実物と同じであった。青森と山口で念写された福原像で唯一違うところは、像の向きが異なることだけであった。

問題は、この実在する福原像が建立されたのが1928年であったことだ。青森で念写実験が行われた1923年には、この像は存在しなかった。もしそうなら、三田は未来に存在する像を念写していたことになるのだ。

この時空を超えた念写に関しては、筆者にも思い当たる節がある。拙著『不思議な世界の歩き方』でも紹介したが、私は時々、未来の自分の想念が飛び込んできて現在の自分の想念と共鳴することがある。これはどういうときに起こるかと言うと、現在と未来でほぼ同じ条件・状況の中で同じようなことを考えたときに起こる。

そのことから類推すると、おそらく三田は青森の実験で自分の知らない人物像の念写を一般参加者から依頼された際、同じような条件・状況下で人物像の念写を依頼された11年後の山口での実験における自分の想念と時間を超えて共鳴を起こし、未来の自分の念が入り込んできたのではないだろうか。

まさに念は、時空を超越するのである。
(続く)

追加:昨日紹介した三田光一による「月の裏面像」月の裏側を接写しました。現在公開されている「月の裏側の写真」とご比較ください。

超常現象の研究34 「不思議な世界(409)」

遠隔念写と月の裏面像
三田の能力は群を抜いていた。もちろん千鶴子も郁子も貞子も厳密な条件の中で透視や念写を成功させているので、その能力を疑う余地はないであろう。だが千鶴子らの能力は、自分の近辺にあるものを透視したり、近くにある乾板に念写したりするものであった。これに対して三田は、距離に関係なく透視や念写をやってのけたのである。

その遠隔透視と遠隔念写の最たるものが、「月の裏側」の念写であった。

実験は、福来が高野山大学の教授をしていた1931年6月24日に行われた。
午前8時20分、福来は大阪郊外箕面村(現箕面市)桜井にある自宅で手札型乾板二枚をケースに入れ、床の間に置いた。そのとき三田は、福来の家から約40キロ離れた兵庫県須磨の自宅におり、福来宅に置かれた乾板に向けて念写を試みていた。テーマは事前に決められていた「月の裏面像」であった。

約束した午前8時半をすぎた時点で、福来は乾板二枚を現像。そこに現われたのは、宇宙空間に浮かぶ月と思われる球体の像であった。二枚とも濃淡の差はあったが、球面の模様も一致していた。「月の裏面像」が二枚写っていたわけだ。

月はいつも片面だけを地球に向けて周回しているので、月の裏側がどうなっているかわからず確認のしようがなかったものの、三田は40キロ離れた場所から念を送り、自分の想念の像を福来の持つ乾板に写しこむことに成功したのである。

浅草観音堂の遠隔透視に続き、遠隔念写も可能であることがわかった。人間の念は、空間を自由に飛びまわる生き物のように、あらゆる場所に現われ、そこにあるものに影響を与えることができることになる。これもすごい発見であった。

しかしその念が、時間をも超越する可能性があることがわかるのは、三田に対する別の実験のときであった。
(続く)

超常現象の研究33 「不思議な世界(409)」

驚異の能力者・三田光一
三田光一は1885年、宮城県気仙沼に生まれた。少年時代から不思議な現象を起こすことで知られ、青年時代には郷里を出て各地を放浪、インドや中国を旅した。三田は関西方面で透視を実演してみせ注目を集めていたが、その話を福来が聞きつけ、三田を実験してみることにした。

最初の実験は1917年2月に行われた。手札型乾板を二枚、膜面を内側にして重ね合わせ、それを遮光紙に包んで、ボール箱に入れて封じる。さらに古雑誌を切り取った紙を使って十字型に封をし、薄い日本紙で覆い、封じ目六ヶ所に福来の印を押し、二ヶ所には赤インクで福来がサインをした。

古雑誌を切り取ったページの残りは、後で照合できるよう手元に置き、封じ目全体を写真に撮る念の入れようであった。最後にその実験箱を木箱に入れ、新聞で包み、厚紙を被せた上で、書留小包便で神戸の三田に送った。その際、別便で「浅草観音堂の裏に掲げてある山岡鉄舟の書いた額面の文字を神戸から遠隔的に透視すること」「その透視した文字を、箱に入れてある乾板に念写すること」という指示を送った。

三田はこの指示に従って2月18日夜、透視・念写実験を実施した。立会人は福来の友人や中学校長、軍人、郡長、新聞記者ら8人。三田は小包便の包装を解かないまま包みの内部を透視し、その詳細を立会人に告げた。後でわかったのだが、その詳細はすべて当たっており、封印に使われた「福来」の印が20年前に彫られたものであることも的中させたのである。

次に三田は、浅草観音堂の山岡鉄舟の額の文字は「南無観世音」であると告げ、それを念写。同時にその書体を書いて見せ、その書の一部に刀痕があることも指摘した。

実験に立ち会った友人からこの報告を受け取った福来が実際に浅草観音堂に行って調べてみると、確かに刀痕があることがわかった。報告の手紙に続いて送られてきた小包を福来が点検したところ、包装は福来が発送したときのままで、開いた形跡はまったくなかった。包装を解いて、乾板を現像した結果、二枚のうち一枚に「南無観世音」の五文字が出現したのであった。
(続く)

超常現象の研究32 「不思議な世界(409)」

高野山大学へ
宣真女学校の校長職を辞した福来は、その年の7月8日に高野山大学教授として招聘される。

高野山大学は1886年に古義大学林として古義真言宗各派が連合して開学、後に高野山大学と名称を変更した私立大学である。弘法大師の精神に則り、密教などを学びながら「命」や「心」の問題を追究することを目的としている。現在では心理学に仏教的アプローチを取り入れた「スピリチュアルケア学科」を新設するなどユニークな大学として知られている。

福来の研究は、まさに高野山大学の校風に合っていたのだろう。念が物理的世界に力を及ぼすのだということを真言密教の立場から解き明かそうとした。福来は同大学で14年間在職し、心理学の教鞭を執りながら超常現象の研究に励んだのであった。

そのころ福来は、三田光一という、おそらく福来が出会った最高の超能力者に対する実験を続けていた。三田の凄いところは、その能力が時空を超越して発現することであった。

時空を超えて出現する能力とは何か。

その現象は長尾郁子や高橋貞子を実験しているときにも、時々現われていた。たとえば、郁子が富士山を念写しようとしたところ十日も前に念写しようとしてできなかった「通力」という文字が念写されたことがあった。それは念が時空を飛び越えて出現するようなものであった。

ところが三田の能力はそれどころではなかった。約40キロ離れた場所から遠隔透視や遠隔念写をすることができただけでなく、未来に存在する像を念写したとみられるからである。そして三田は、なんと「月の裏側」まで念写してしまうのであった。
(続く)

超常現象の研究31 「不思議な世界(409)」

校長辞職とストライキ
1921年に宣真高等女学校の初代校長となってからの福来について、話を戻そう。

福来は研究熱心、教育熱心な校長として、生徒からは非常に信頼され、慕われていたという。ところが、学校の管理経営には疎く、理事会との付き合い方にも慣れていなかったため、理事会と衝突することがしばしば起きたらしい。理事会で少しでも正しくないことがあると、これをあからさまに叱責し、自分の信念を曲げなかったとも伝えられている。

福来の経営感覚の欠如と理事会でのたびたびの衝突で、理事会内では福来を排斥して学校経営に強い校長に代えようという声が強くなっていった。福来もそうした理事会内の空気を察知、1926年1月26日に理事会に辞職願を出し、理事会はこれを受理した。

このことが新聞で報じられると、生徒や父兄からは福来辞職に反対する声が上がったが、理事会は3月3日、福来の退職を正式に決定した。すると、この決定に反発した生徒たちが3月8日から10日までの3日間、福来の退職に抗議するストライキを決行したのだ。

学校内は騒然となった。新聞も珍しい女学校のストライキとして、センセーショナルに取り上げた。理事会は経過を説明するとともに、福来も生徒に向けて釈明したことから事態はようやく収拾、福来は同校を去ったのだった。

女学校のストライキと福来とは切っても切れない縁があるようだ。実は福来の妻多津は日本の女学校ストライキ第一号を実行した人物であるという。多津は、仙台にある米国系ミッションスクール「宮城女学校」の生徒だった1892年2月、教育があまりに米国式で日本の婦人の教育には適さないとして抗議のストライキを実施した。多津はストライキを首謀したとして他の四人とともに退学処分となったのだという。

その後、東京麹町の明治女学校を卒業した多津は1898年3月、福来と結婚したのであった。
(続く)

超常現象の研究30 「不思議な世界(409)」

高橋貞子の能力5
その後も、「霊格」は頻繁に貞子の前に現われ、実験に関係する数々の霊示を行った。第二回目の実験をした翌日には、遠藤山代守と名乗る霊格が出現、前日に貞子が念写した妙法という字が自分の書体であり、遠藤弥市右衛門の手本に似ていると告げた。また、一緒に念写された渦巻きは霊体の一部であるとの説明があった。

第三回目の念写実験では、事前に「天」という字と貞子の指三本の念写をすべしとの霊示があり、さらにその霊格から実験方法や実験日時についての助言を受けている。福来がその霊示に従って実験を行ったところ、「天」という文字と指のような形が、別々の乾板に念写されていた。

ところが、それとは別に「金」という文字が現れた乾板もあり、その金の字の周りには丸い形や珊瑚の枝のようなものが写っていた。貞子に聞いても、まったく覚えのない念写結果であった。一体「金」という念写には、どういう意味があるのだろうか。

後日、福来夫妻と高橋夫妻は念写実験成功の御礼のため、「堀の内の御祖師様(杉並区にある妙法寺祖師堂)」に参拝することになった。一同がそろって、さあ出かけようというときに貞子はいつものようにトランス状態になり、霊示を皆に伝えた。

「金の字は余の念写である。その下の丸きものは金貨の形である。利欲のことを思ってはならぬということを知らせんが為に、かかるものを現わして見せたのである」

実験時に現われた、意図しない念写の謎は解き明かされた。すべて貞子の潜在意識の活動の中で「霊格」が実施していたのである。そうだとしか説明できない実験結果であった。しかも、詐術などが行えない完璧な条件下で透視は行われたのである。

福来は、既に亡くなっていた千鶴子と郁子の実験結果に、貞子の実験結果を加え、『透視と念写』を著わした。その中で、現代の物理学理論では到底説明できない透視や念写といった現象は実際にあるのだということを強く訴えたのであった。
(続く)

超常現象の研究29 「不思議な世界(409)」

高橋貞子の能力4
福来による貞子の透視実験は、貞子の「守護霊」の霊示に従って行われた。1913年4月27日夜に行われた第二回透視実験の様子を紹介しよう。

福来の家を訪れた貞子は題目を唱えながら精神統一をしていると、押入れの襖に「妙法」という字が見えると言う。そこで福来は貞子に催眠をかけ守護霊にそのことをたずねた。いつものように守護霊が貞子の前に現われ、次のように語った。

「今晩の実験においては、日蓮、法妙、法師のうち妙法が一番意味深遠であるから、それを念写せよ。念写するとき、妙法の二字を一度に出さぬ。一度ずつ、二度に出すから、二度に念写せよ。初めに妙の字を出し、それを念写した後に法の字を出す。それは余の試験である。よいか。二字一度にすることは容易なれども、一枚の種板に、先に妙の字を写し、その下に法の字を写すようにいたせ。少し頭が疲れるけれども、これも一つの試験である。今までの念写では二字を二度に写したものはないから、余の試験として二字を二度に写させる。よいか。それも試験である」

福来はこの霊示の内容を催眠から覚めた貞子に伝え、実験を開始した。
しばらくすると、貞子は「妙の字が出ました」と言う。さらに「法、法」と独り言を言いながら精神統一を続け、とうとう「終わりました」と告げると、ばたっと横に倒れた。

福来はただちに、実験に使った三枚重ねの乾板を隣室で現像すると、中央の乾板に鮮明ではないが「妙」と見られる字が、その下に非常に鮮明な「法」という字が現われていた。さらに驚いたことに、「妙法」が念写された乾板全面に渦を巻いた羽毛のようなものが写っていた。

実験は大成功であった。福来はそのことを、実験終了直後から横に伏したままになっていた貞子に告げた。「今度の実験は立派にできたから、安心なさい。霊格に御礼申し上げなさい」

それを聞いた貞子はガバッと起きて合掌すると、再び守護霊(霊格)が現われ、貞子の口を通して語った。
「疑ってはならぬ。余は退散するぞ」

こういい残すと霊格は去り、貞子は我に返ったのであった。
(続く)

超常現象の研究28 「不思議な世界(409)」

高橋貞子の能力3
その日から、貞子の千里眼能力はまさに開花していく。人、月、水、玉、千といった文字を次から次へと透視することに成功。文字だけでなく絵や銅銭といったものや、紛失物の在り処なども見事言い当て、1911年5月からは念写もできるようになった。実験の成功率はほぼ100%だった。

こうした実験はすべて夫の宮二が行ったものであった。果たして福来の前でも同様な能力を示せるのだろうか。福来の実験は1913年3月から始まった。最初の念写実験では、実験用の乾板ではない乾板に「通力」の文字を写し込んでしまった。どうも貞子の能力は心の状態に連動して、気まぐれに発動したり発動しなかったりするようであった。

そこで福来は、貞子をできるだけリラックスさせて実験に臨めるように、催眠術で暗示をかけることにした。貞子はすぐに催眠術にかかった。当時貞子は頭痛がするというので、福来は頭痛が治るという暗示をかけた。そのときの様子を貞子が語ったところによると、催眠中貞子の目の前に三人の守護霊が現われ、そのうちの守護神ともいうべき霊が扇で貞子の頭をつつき、「頭のことを心配するな」と告げたのだという。

また、こういうこともあった。福来の自宅で、福来が貞子のいる隣の部屋で別の人に催眠術をかけていたところ、襖を隔ててそれを聞いていた貞子が催眠状態に陥った。その催眠中に貞子は福来の妻に向かって次のように語った。

「奥さん、あなたは金を大切になされよ。十銭銀貨が落ちています。明治42年の十銭銀貨が落ちています。六畳の押入れの前の敷居と畳の間に落ちています」

これを聞いた福来の妻と宮二が六畳間の押入れの敷居と畳の間を調べたところ、その年の正月に福来の妻が紛失した「明治42年の十銭銀貨」が出てきたのであった。

貞子によると、貞子が催眠状態になると、必ずといっていいほど守護霊が現われ、巻物を広げて字を見せるのだという。貞子はその巻物に書かれた文字を、声を出して読む。その読む声は周りにいる人にも聞こえるほど大きい。字が不鮮明なときは、「もう少しはっきりとお示しください」などと貞子が言うと、字が鮮明になるのだという。貞子は催眠中の詳細は覚えていないが、周りいる者がはっきりと貞子が言ったことを聞いているので、霊示の内容を知ることができるのである。
(続く)

超常現象の研究27 「不思議な世界(409)」

高橋貞子の能力2
巻物による霊示があってから間もない1910年11月12日の正午ごろ、貞子は囲炉裏端で火箸を持ちながら深呼吸をして瞑想していた。すると突然、火箸を持った右手が自然に動き出し、炉中の灰に「清」という文字を描いたのだ。

驚いた貞子は急いで二階に上がり、読書をしていた夫の宮二にそのことを告げた。宮二にも、なぜ貞子がそのような文字を書いたのかわからない。そこで宮二は貞子に「プランシェット」をするように言ったのである。

プランシェットとは西洋版「こっくりさん」のようなもので、数字や文字が書かれたボードに指示板(プランシェット)を載せて、そこに手を置いて質問すると、ボード上を指示板が動きだし、答えを指し示すというものである。

貞子がプランシェットに意味を尋ねると、次のような回答を得た。
「その方は、清原千鶴子のごとく千里先も見える」

清原千鶴子とは御船千鶴子のことであった。清原は義兄(姉の夫)の姓で、義兄はいつも千鶴子のそばにいて実験にも立ち会っていた。千鶴子が自殺した場所も義兄の清原宅であった。

宮二はこの答えを聞いて、貞子にも千鶴子のような透視能力があるかもしれないと考えた。そこで貞子に「お前は二代目の千里眼である」との暗示をかけ、その日の夕方には千鶴子がやっていたような透視実験を試してみた。

最初の透視実験で貞子は、「山」を「ヨ」であると答えた。宮二は「山」を横にすれば「ヨ」となるから実験は成功かとも思ったが、厳密を期すため正解を告げずに、実験物の封を切らないまま貞子にそれを持たせて透視を続けるように言った。

その夜、貞子は夢を見た。夢の中で夫は白紙に大きく「山」と書き、「これがお前に見えぬか」と貞子に告げた。翌朝、目が覚めた貞子はその夢から「ヨ」ではなく「山」であったと正解を言い当てたのであった。
(続く)

超常現象の研究26 「不思議な世界(409)」

高橋貞子の能力1
私立宣真高等女学校の校長としての福来のことに話を進める前に、ここで千鶴子、郁子に次ぐ、第三の千里眼能力者として福来が信頼を置いた高橋貞子について簡単に触れておきたい。貞子は千鶴子や郁子とは明らかに異なる能力を持っていたからだ。

その異なる点とは、貞子には「守護霊」がついており、貞子が能力を発揮するときには必ずと言っていいほど、その守護霊のような別の人格が現われることであった。その霊的第二人格とも言える守護霊は、貞子に対して千里眼能力の向上や健康面について種々の霊示を与えた。守護霊は特に、利欲のために千里眼能力を使うことを厳重に戒めた。もしそのようなことに能力を使おうとさせようものなら貞子の体調はたちまち悪くなるのであった。

貞子は幼少のころから体がそれほど丈夫ではなく、性格もどちらかというと暗く、独りで沈思黙想することが多かったという。感受性や霊感も強かったらしく、ちょっとした憤怒、心配、煩悶があると、すぐに熱を出した。熱は医者が出す薬では下がらず、自ら熱を下げようと決意しない限り、下がらなかったという。それは抑えきれない感情が貞子の能力を暴走させているようでもあった。

そのような貞子が自分の能力をある程度制御できるようになったのは、夫である宮二が伝授した深呼吸法のおかげであったようだ。深呼吸法により精神統一した貞子に対して宮二は暗示を与え、その特異な能力を千里眼能力として開花させる方向へと誘導していったのである。

転機はすぐに訪れた。あるとき貞子が精神統一をしていると、目の前に巻物が突然現われた。その巻物をあけると、そこには文字が書かれていたのだという。

「そちは直い(すぐい=正直な、正しい)ものである。人間なれども高き位を有って居る。今は言わぬが、後に申し聞かせる。今は身体が弱いから、大切にせよ」
(続く)

早慶戦と不思議な夢 「今日の出来事(966009)」

今日は朝から六大学野球早慶戦のチケット入手のため外出しておりましたので、「超常現象の研究」はお休みさせていただきました。

これがその証拠写真。

早慶戦

早稲田は須田投手が打ち込まれてしまいました。二者連続三振をとるなど好調な滑り出しだったのですが、三回に突然崩れた感じでした。写真は終盤、明日の先発が予想される斉藤佑樹投手がブルペンに現われ、沸いたところです。

ところで今朝は、変わった夢を見ました。自分がペガサス(羽根のはえた馬)になって空を飛ぶ夢でした。何でこんな夢を見たのかな、と不思議に思っていましたが、チケット購入後神宮外苑を歩いていると、このような像を見つけました。

ユニコーン

これは角の生えた馬のような動物「ユニコーン」の像です。ペガサスとユニコーン・・・。何か象徴的ですね。でも何だかわからない。不思議です。

超常現象の研究25 「不思議な世界(409)」

神秘体験と新たな門出
全身に不思議な力がみなぎるのを感じて、福来は歓喜し、興奮した。それは、今まで経験したことのない感覚であった。福来はこれが霊的なものであると確かに感じていた。

この経験があった後、福来は高野山を下る。下山途中、左右にそびえ立つ杉たちが「あの男が福来だ。よくやった」と、互いにささやきあっているのが聞こえた。小川のせせらぎもただの音ではなく、実は自分に話しかけているのだということがわかったという。全能感とでもいうのだろうか、宇宙のあらゆる現象が解き明かされたようであった。

下山した福来は、数々の奇跡を起こしたという。大阪では背中に腫れ物のある老人に出会ったので、自分の手で背中をさすってやると、見る見るうちにその腫れ物がなくなった。腰痛に苦しむ男にも同様なことをすると、すぐにその男の痛みが消えたのだという。とうとう夢の超能力を手に入れたのだ。福来は大いに喜んだ。

ところが、二日、三日と経つうちに、福来の能力は次第に衰えていく。そして6日後には、完全になにもできなくなっていた。

超能力は失ったが、福来にとってこの経験は貴重であった。自ら超能力を体験したことにより、透視や念写が真実であるという確信が、より不動のものとなったのである。こうしたことは、学者や研究家にはよくあることなのかもしれない。たとえば思想家の中沢新一は、チベットで修行を続け、神秘体験ともいうべき超感覚を実際に体験、思想活動の研究に生かしている。

自ら神秘体験した福来に、もはや迷いなどなかった。自分の信じる現象の研究に生涯をかける決心をしたのであった。

そのような折、大阪の郊外にある三本木に真言宗で経営する私立宣真高等女学校が創立され、福来はその初代校長に招かれた。高野山での修行の二年後、1921年のことであった。
(続く)

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白山菊理姫竹内文書

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