新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編55) 「メディアって何だ!?(185)」

コンタクティーたち
UFO関連取材を始めて驚いたのは、実に多くの人がUFOを目撃し、そのうちの何人かは宇宙人と交信・交流していると主張していることであった。そうした情報は、日本サイ科学会や日本GAPの機関紙などで入手できた。

日本サイ科学会とは超能力などの超常現象を科学的に解明し、その知識と普及と活用を図る目的として1976年に関英男氏が設立した学会。毎月一回会報を発行したり、超能力者や超常現象の研究家による講演・実演会を開いたりして活動している。日本GAPは、UFO研究家の久保田八郎氏がアダムスキー型UFOの写真撮影などで有名なジョージ・アダムスキーと提携して1961年に創立した、当時日本最大のUFOと宇宙哲学の研究会であった。

その中でとくに私が注目したのは、秋山眞人氏であった。秋山氏は当時、一般的にはあまり知られていなかったが、日本サイ科学会では実名で、日本GAPでは仮名で「私は別の惑星に行ってきた」という衝撃の体験を語っていたのだ。現代版浦島太郎ではないか!

私は秋山氏を訪ねて、その驚異の体験について取材した。秋山氏はその体験が事実であると認めたものの、一般紙レベルでそれを公表することはやめてほしいと注文をつけた。自分の体験が大々的にマスコミに報じられれば、必ずマスコミにつぶされると思ったからである。

確かに一般的には、別の惑星に行ったなどということを認めれば、頭のおかしい人の妄言であると一笑に付されるだろう。おそらく「秋山は大嘘つき」という活字がそのうち躍るようになるだろう。それは既にジョージ・アダムスキー自身にも起きており、実証済みであった。そのような体験を明らかにすることは、時期尚早であると秋山氏は考えていたようだ。私は秋山氏の希望を聞き入れた。その代わり、秋山氏からは多くのほかのコンタクティー(ETと交信・交流している人たち)を紹介してもらった。私は時間を見つけては、そうしたコンタクティーを取材して歩いた。

断っておくが、こうした取材はとても共同通信社として認めることはできないだろうから、すべて勤務外でやっていた。たとえば、泊まり勤務のときは午後5時に支局に出社すればいいので昼間はあく。また、早出の時は午後5時までなので、夜会えるようにアポイントを取って取材した。そもそも私は浦和支局員である。秋山氏のように特異な体験をした人たちは東京を中心とする埼玉県外に住んでおり、私の“管轄外”でもあった。
(続く)
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新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編54) 「メディアって何だ!?(185)」

シンクロニシティー
私は時々、より大きな意志によって将棋の駒のように動かされているのだなと思うことがある。だれかが大きな流れができるようにデザインをする。そのデザインに従って、私のような駒があちこちでほぼ同時に動きだすのだ。

1984年に日本にピラミッドがあったというサンデー毎日の取材と私の「尖山はピラミッドだった!?」の取材がシンクロしたのも、おそらくそのようなデザイン・設計がされていたのであろう。

浦和支局にいる私のところへ、UFO関連の情報が続々と飛び込むようになっていたときにも、一種のシンクロニシティーが起きた。暮れも押し迫った1986年12月29日、共同通信社アンカレッジ通信部が日航ジャンボジェット機の機長がアラスカ上空で巨大UFOと遭遇したと報じたのだ。

これは既に述べたように、UFO目撃史上の大事件であった。目撃者が日航の機長であるということ、レーダーにも映っていたこと、副操縦士ら他の乗員二人も目撃していること、などからかなり信憑性の高い目撃であったからだ。

私はこの目撃が、機長の寺内謙寿氏をターゲットにして意図的にデザインされた可能性が強いとみている。というのも、他の二人の乗組員の目撃に比べて寺内機長の目撃は実に明確で、物体の形もはっきりと確認しているからだ。だからその飛行物体の動きを詳細に説明できた。一方、為藤隆憲副操縦士が「(UFOの)ライトは確かに見たし、機内のレーダーにも現われていたから何らかの物体が存在したことは確実だが、物体の形は確認できなかった」と述べているように、見え方に個人差があることがわかっている。

つまり、もしUFO側に見せたいという意志があるとき、ある特定の個人によりはっきりと見せるという現象が起こりうるのだ。寺内機長は日航機の操縦室内が明るく照らし出されたと証言しているが、同乗していた佃喜雄航空機関士は「不思議な光が見えたのは30分ぐらいの間だ。この間、操縦室内が明るく照らし出されるようなことはなかったと思う」と共同通信に語っている。

この世界にはより大きな意志が存在し、ある意図をもってシンクロを起こしているのだろうか。このニュースがより大きなきっかけとなって、私は突き動かされるように翌1987年からUFO関連取材に突入するのであった。
(続く)

桜の季節? そしてオーブについての考察 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154154)」

もうすっかり桜の花が咲く季節となりました。

桜

えっ、秋なのに桜! どうして?

桜

どうみても桜の花です。そうです。これは十月桜といって春と秋に八重の花が咲く桜なんですね。
欲張りな桜さんですね。12月上旬ごろまで咲いています。

桜の木の下で撮影会ですね。

十月桜

都内では目黒区の駒場野公園でひっそりと咲いています。

桜

駒場野公園は東京教育大学(現筑波大学)農学部の跡地にできた公園。最寄の駅は井の頭線の駒場東大前です。

さて、オーブです。
まずは写真を見てみましょう。

滝に打たれる修験道者の巻」の「七代の滝」などに写っている光の玉がオーブです。オーブは滝や古墳、由緒ある神社、さらには人が大勢いる交差点や雑踏の写真を撮ったときによく写ります。

日本サイ科学会の佐々木茂美会長によると、オーブは人間の意識に反応し、情報を伝えることができるという特徴があります。肉眼を使わず、意識で見るあの世の世界を移す鏡の像であるとの説をとっていました。

面白かったのは、オーブとの意識交流による実験に成功したという、気功ヒーラー薄葉達夫さんの「超意識体としてのオーブ」という講演でした。薄葉さんはオーラに頼んで、ろうそくの炎の形を変えたり、光の帯のシンクロ現象を起こしたりすることに成功、その証拠写真をスライドを使って発表しました。オーブは、意識で光を操ることができるそうです。さらにはフラッシュの光を吸引したり、オーブノイズという音を出したりすることができるということです。

また、薄葉さんによると、オーブは集合意識体で、最小単位を分身ブローブと呼び、その一つ一つにも個性があるのではないかと考えていました。

あのように小さなオーブですが、どうも核などの構造をもっているようです。オーブは通常10センチほどの光の玉に見え、ブローブは数ミリの光の粒に見えます。ただし、大きさも形も自由に変えることができるとの報告が複数提示されていました。

オーブについては、別の機会に再度取り上げたいと思います。

日本サイ科学会 「メディアって何だ!?(185)」

新聞切り抜き

これは一昨日ブログで紹介した「ハレー彗星の記事」の大分合同新聞の切り抜きです。このほか信濃毎日新聞やサンケイ新聞が大きく取り上げてくれました。


さて、今日は日本サイ科学会の月例会に行ってきます。今日のテーマはオーブとは何か。オーブについては、何度かこのブログでも紹介しましたね。私は「霊界因子」と呼んでいますが、果たして正体は? 今日のシンポジウムでは、最新の研究状況が発表されるはずです。

私はシンポジウム後に佐々木茂美会長を取材する予定です。その結果も近日中に紹介します。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編53) 「メディアって何だ!?(185)」

続々集まるUFO目撃談
遊軍になったころ、実は私のところに続々と不思議な情報が入ってくるようになった。警察担当を事実上はずれたおかげで暇になり、私自身興味をもっていたことも、そうした情報が集まってくる要因となった。

富山支局時代に富山大学の山口博教授に登場してもらい、「尖山はピラミッド!? UFO基地説も」という原稿を書いたことは既に述べた。その原稿のためにその後たびたび、山口教授や支局に「実は私もUFOを見た」「宇宙人に遭遇した」という電話が飛び込むようになったのだ。山口教授の専門は万葉集であり、UFOは専門外だ。そのため、そういった電話があると浦和支局の私を紹介することが多かった。

そのとき感じたのは、そのような不思議な体験をしたことがある人は、理解してくれる人さえいれば、話したくてしょうがないということだ。ところが話すと、よくても奇人、変人扱い、最悪の場合は精神異常者扱いされる。目の錯覚だろうとか、作り話だ、嘘つきだとか言われることはザラだ。そうした現象に理解がある人が周りにいるならいいが、いない場合はやがて口を閉ざし、語らなくなる。

そのような一種の虐げられた人たちが、駆け込み寺のように私のところに“避難”を求めにきた。私が理解を示すと、彼らはしゃべることしゃべること。抑圧されていた感情が解放されたかのように「自分が体験した驚異の出来事」を次々と語り始める。

その中でも今でも鮮明に覚えているのは、身長3メートル超の宇宙人に会ったという話だ。取材メモが見つからないので正確性は少し欠けるが、場所は長崎県にある小さな島。目撃したのは、確か20代半ばぐらいの青年の二,三人のグループで、夜中に海岸で海と星空を眺めていた。

すると、目の前の海上をオレンジ色の大きな飛行物体が横切るのが見えたのだという。その物体は岬の向こう側に消えた。グループは、最初は火の玉か、流れ星かと思ったのだという。しかし、とにかくリアルな物体であった。これは確かめないわけにはいかないと覚悟を決め、その物体が消えた岬の向こう側に行ってみることになった。

そこで見たものは、常識では考えられないような巨大な生物であった。三メートルを超えるタワーのような生き物。よく見ると、その生き物には首から上がなく、人間でいえば鎖骨の辺りに目が二つ付いていたという。その若者のグループが恐怖で凍りついたことは、想像に難くない。さらに驚いたことに、その宇宙人とみられる生き物は、未知に対する恐怖に震えているか弱い地球人に対して、日本語で次のように言ったのだという。

「恐れることはない。われわれは、この星でいえば学生のようなものだ」

断っておくが、これは冗談でも笑い話でもない。私にこの話をしてくれた若者は、至って真面目に体験談を電話で語ったのである。それは声の調子でわかる。彼の話を信じるならば、その3メートルを超える巨大宇宙人は修学旅行かなにかで、あるいは夏休みの自由研究の宿題をやるため(?)に、地球の、それも日本の長崎の島にやってきたわけだ。

これほど衝撃的な目撃談ではないが、大分・別府温泉で『未知との遭遇』の最後のシーンで出てくるような円盤型の巨大UFOが、空一杯を覆うように現われたのを見たという人もいた。

そして、こうした目撃情報に呼応するように、UFO目撃史に残る大事件が起きるのである。その発信元は共同通信社のアラスカ・アンカレッジ通信部であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編52) 「メディアって何だ!?(185)」

軽勤務とハレー彗星の写真
勤務日報改竄事件で組合業務に明け暮れる一方、私は病休明けということで軽勤務にしてもらった。軽勤務といっても、最初の2ヶ月間だけ泊まり勤務の回数が月五回から二回に減ったぐらいだったが、その後すぐ、警察担当からはずれ遊軍になったので、勤務は非常に楽になった。

当時、新幹線に関連する取材基地ということで大宮に拠点があった。遊軍担当はその大宮方面をカバーするほか、ヒマネタなどを発掘することが期待されていた。大宮警察署という大きな警察署がカバー範囲内にあるため、完全に警察担当から外れたわけではなかった。それでも遊軍になったおかげで、富山支局のときのように伸び伸びと取材ができるようになった。

私は自分でも高橋製作所の反射望遠鏡を持つなど天文関係が好きだったので、ヒマネタ取材では何本か天文観測関連の原稿を書いた。そのうちの一つは、大分合同新聞が夕刊トップで掲載するなど大好評であった。それは埼玉のアマチュア天体写真家が撮影したハレー彗星の写真が、学術的に貴重であることが東京大学理学部天文学教室の渡部潤一さんの研究でわかった、という原稿であった。

その写真は尾のでき始めを連続して捉えており、どのように尾が形成されていくかを解明する重要な手がかりになるものであった。撮影したのは埼玉県大里郡寄居町の会社員新井優さん(当時34)で、この原稿が出た後、「時の人」という朝日新聞で言うと二面の「ひと」欄に相当する原稿でも取り上げさせてもらった。

新井さんは1985年11月13日、自宅で望遠鏡を使って、午前1時40分から同3時40分までの間、計6枚ハレー彗星の撮影に成功した。その約14時間前にイタリアの天文台グループが、ハレー彗星の核の表面から南向きにバースト(大規模な噴出)が起きたことを観測している。新井さんの写真と照合すると、バーストによって噴出された物質が太陽の紫外線で壊されてイオン化し、尾の物質になっていくことや、バーストから10時間以上経ってから尾ができ始めることなどが証明できるのだという。

この写真に注目した渡部潤一さんは、いまでこそ国立天文台天文情報公開センター助教授として、様々なメディアに登場する日本の天文学者の第一人者的存在になっているが、当時はまだ博士課程を履修する大学院生であった。おそらく一般紙に自分が大きく取り上げられることは初めてであったのだろう。掲載紙を送ったら非常に喜んでくれた。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編51) 「メディアって何だ!?(185)」

勤務日報改竄事件3
当時浦和支局の支局員(支局長以外は全員が組合員)は、共同通信労働組合関東支部浦和班に所属していた。組合組織は基本的に会社の組織と対応しており、関東支部は関東総局に対応していた。

関東支部には浦和班のほかに、千葉、横浜、水戸、前橋、宇都宮、新潟各班があった。そのうち比較的大きな横浜、千葉、浦和に持ち回りで書記局(関東支部で発生した出来事などについて定期的に組合ニュースを発行したりする)を置いていたが、そのときちょうど浦和班が書記局で、私の先輩記者が書記長、私が副書記長を仰せつかっていた。

改竄が分かったので、早速職場団交である。班員が全員集まり、支局長を問い詰める。支局長は「魔が差した」と改竄の事実を認め、全面的に謝罪した。次の段階として、関東総局長と関東支部委員長(このときは水戸班員が務めていた)、書記長、副書記長による団交が本社で開かれた。社側は非を認め、改竄で減らされた分を支給することになった。

しかし、それでも問題があった。実は改竄がいつから始まっていたか、証拠がないため、分からなかったのだ。われわれが持っている証拠は、ここ三ヶ月分ぐらいしかない。支局長はいつから改竄していたか、はっきりしないと言う。交渉の結果、支局長が浦和支局に赴任した2年ほど前まで遡り、直近の改竄による減額分を基本にして、証拠が残っていない分についても、その減額分の月平均額を班員全員(既に異動した班員にも適用された)に滞在月数に応じて支給することで決着した。加えて、確か一律慰謝料5万円も支給されることになった。

組合側の全面的勝利である。浦和市局長は配置換え(支局長に対する処分は忘れました)となり、別の支局長が浦和支局に赴任することになった。私としては、退院後の初仕事が
勤務日報改竄事件の団体交渉になってしまった。

今はどうか知らないが、共同労組はかなり力を持っていた。歴代委員長にはそうそうたる顔ぶれが並び、委員長経験者が後に社側のトップに上り詰めることもある「出世コース」でもあった。ちなみに、社会部長、文化部長を歴任した後共同を辞め、テレビキャスターから政界へと転じた田英夫氏も共同労組の委員長経験者である。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編50) 「メディアって何だ!?(185)」

勤務日報改竄事件2
過勤した感覚と手当ての実態が違うと思った支局員は一計を案じた。支局員が記入した勤務日報のコピーをとり続け、自分たちで過勤時間を計算、支局長が報告したであろう過勤時間と照合したのである。

給与明細にはちゃんと過勤時間が記入されており、照合するのは当初、簡単に思えた。しかし、実は過勤時間の計算は意外と複雑なのである。ここで簡単に過勤時間の計算法を紹介しよう。

当時の記者職の勤務は、基本的に8時間拘束、1時間休憩で、その8時間を超えた場合、過勤となる。社内規則によると、過勤3時間で30分休憩を取ることになっている。さらに午前中から勤務していて、かつ午後9時を超えて過勤した場合はその日の拘束時間は7時間として計算する仕組みになっていた。

この休憩と午後9時を越える勤務というのが曲者で、たとえば午前10時から午後10時まで12時間働いた場合、拘束時間は7時間となるから、5時間が過勤時間であると考えるかもしれない。しかし、過勤時間3時間につき30分休憩することになっているので、5時間の過勤時間のうち30分が休憩したとみなされ、差し引かれる。そのため、過勤時間は4時間半になるわけだ。

新聞記者の仕事は本当に忙しいときは、一時間の休憩はおろか昼食や夕食など取る間もなく働かなければならないときもある。ちなみに10時から18時まで、8時間休みなく働いた場合は、実際は1時間の過勤時間が付くのである。だが、勤務日報にただ10時~18時と記入したのではこの1時間の過勤手当てはもらえない。どうすればいいかと言うと、「休憩なし」と書けばいいのである。

そのほか、出張する場合の移動時間は自動的に勤務時間から引かれる。寸暇を惜しんで、移動中の車中で資料を読んだり、あるいは取材先に電話をしたりするなどの仕事をした場合、当然勤務時間とみなされるべきだが、これもちゃんと申請しないと勤務時間にならないことになる。その場合、たとえば車中の移動時間が3時間で、そのうち1時間取材などの業務をした場合は、車中2時間と書く。そうしないと自動的に勤務時間から3時間が差し引かれるのである。

このようなルールを理解したうえで、支局員各人は自分の過勤時間を計算し、給与明細の過勤時間と照合した。すると、多い人で月20時間程度、少ない人でも同5時間過少申告されていたことがわかったのだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編49) 「メディアって何だ!?(185)」

勤務日報改竄事件1
今でこそ時効になっているので話せるが、私が急性肝炎の治療を終えて退院したとき、浦和支局ではスズメバチの巣をつついたような大騒ぎになっていた。それが、社内的に大問題となった、支局長による勤務日報改竄事件だ。

共同通信の給料は当時、本給と超過勤務手当ての二本立てとなっていた(後の経済部編で詳述するが、現在は違う給与体系になっている)。年収に占める超過勤務(過勤)手当ての比率は高く、生活していくために過勤料は必要な収入源であった。

この手当ては、毎日われわれがつける勤務日報に従って決まる。しかもこの手当ては、いわゆる青天井で、過勤した分だけ無限度に支給される。そうなると、カネを余計にもらいたい社員(記者)はなるべく過勤時間を増やそうとし、会社側は人件費を抑えるため、なるだけ過勤時間を減らそうとする。ここで軋轢が生じるわけだ。

支局長は本社の総務局あたりから、それぞれの支局の毎月の過勤料を抑えるよう指令を受ける。その結果、それぞれが協力して無駄な業務を減らす方向に動けば、それはそれで結構なのだろうが、新聞記者の仕事はそうは行かない。それぞれの担当者がいて、その人でないと原稿が書けない場合もあり、勤務シフト以外の時間帯に発生する固有の取材事件も多い。そうすると、本人の意志にかかわらず過勤時間が増えてしまう。

おそらく支局長には、自分の支局の過勤料を何時間以内に抑えるというノルマのようなものがあったのだろう。つい魔が差して、支局員の勤務日報を改竄、過勤時間を減らして本社に報告した。その改竄された勤務日報に応じて支局員に過勤手当てが払われた。

あるとき支局員の一人が、「どうもおかしいな」と気がついた。自分が働いた過勤時間の感覚と実際に支給された過勤手当ての実態が食い違っていると感じたのだ。
(続く)

謎の光体とオリャンタイタンボ 「旅のあれこれ(112231)」

おお、インカの遺跡に六角形の謎の光体が写っています!

光体

既にお分かりだと思いますが、これは逆光で写真を撮った場合に太陽の光の反射で写ってしまう光です。なぜ六角形かというと、これはカメラの絞りの部分が写りこんでいるんですね。逆光だったので、かなり絞りを開いています。その結果が綺麗な水色の光体になってしまいました。

さて、この遺跡はクスコの北西88キロに位置する聖なる谷にあるオリャンタイタンボです。マチュピチュにもほど近い場所にあります。

聖なる地

15世紀のインカ王パチャクテの部隊に加わり、王女に恋した兵士オリャンタに由来するとされています。タンボは休む場所とか宿泊地の意味だそうです。ここの遺跡には、見事なまでの巨石建造物があります。

ちょっと秩父宮ラグビー場へ行く予定があるので、ここで中断します。戻ってきたら続きをアップします。

さて、戻ってきました。早稲田は、9日の立教戦よりはるかによかったです。三試合連続無失点も評価できますね。

次の写真を見てください。オリャンタイタンボの向かいの崖を写したものです。

顔と貯蔵庫

何か顔らしいものと変なものが写っていますね。

アップしてみましょう。

顔

少し崩れていますが、人工的に彫られた顔ではないかとみられています。右側に写っているのは、見張り小屋、もしくは食物などの貯蔵庫だそうです。

オリャンタイタンボ遺跡の頂上には、「太陽の鏡」と呼ばれる高さ四メートル奥行き一メートルの6枚の巨石を組み合わせた巨石建造物があるのですが、そのフィルムが見つからず、今回はご紹介できません。見つかり次第、再びアップします。

最後は、秩父宮ラグビー場そばの公園のベンチで休んでいた猫ちゃんです。

猫

崖崩れ、ヘリ、激流、コンドルの羽 「旅のあれこれ(112231)」

マチュピチュ2
マチュピチュに行くには、クスコから列車を使うのが一般的です。クスコのサン・ペドロ駅から、マチュピチュの麓にあるアグアス・カリエンテス駅まで約4時間。

ところがその日はあと2時間ほどで到着するというときに、前日の雨で崖崩れが起こり、列車がこれ以上進めなくなってしまいました。列車は折り返して再びクスコへ。

せっかくクスコまで来たのに、マチュピチュを見ないで帰るわけにはいきません。何とかほかに手段がないか旅行代理店と交渉したところ、追加料金を払ってヘリコプターでマチュピチュの麓まで行けることになりました。

これがそのヘリコプター。

ヘリ

軍用機を払い下げた中古ヘリで、飛んでいる間、かなり揺れました。
ちょうどマチュピチュの麓にわれわれを降ろし、クスコに戻る客を乗せて飛び立つところです。下では興奮したワンちゃんが走り回っていますね。

本当なら列車で来れたはずのアグアス・カリエンテスです。

駅

露店がずらりと並び、おみやげ物や食料品を売っています。アグアス・カリエンテスとは、「熱い水」という意味で、温泉が湧く保養地でもあります。

その日は夕方になってしまったので、アグアス・カリエンテスに宿泊。翌朝、バスでマチュピチュを目指します。

激流です。雨で水かさが増えています。

川

この霧がかかった山の向こうにマチュピチュがあります。
バスで約30分ほど山道を登るとマチュピチュに着きます。
前回紹介したコンドルの神殿です。

コンドルの羽

前回の写真はコンドルの頭の部分だけでしたが、全体を見ると、後ろの壁が削られて、コンドルが羽根を広げたような姿になっていることがわかります。なかなか洒落ていますね。

実に見事な石組みです。

石組み

ペルーの写真は少しずつ公開してゆきます。
とりあえず、今日はここまでです。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編48) 「メディアって何だ!?(185)」

入院生活2
私は結局、白血球の数値がなかなか下がらなかったので一カ月入院したが、同部屋の入院患者さんたちのそれぞれの人生模様をじっくりと観察させてもらった。

私の正面には、高齢の歯医者さんがいた。かなりの亭主関白で家では威張っていたらしかったが、ある日仕事中に脳溢血で倒れ、病院に担ぎ込まれた。脳溢血のせいで言葉と右半身の自由がきかなくなり、入院を余儀なくされた。

気になったのは、家人がほとんど見舞いに来ないことだった。あまり好かれていないようであった。時々奥さんが見舞いに来るが、来れば来たで、不自由な口で奥さんに文句ばかり言っていた。看護婦さんに対しても、不平不満、わがままばかり。何か見ていると、悲しく哀れになってくる。これまで威張り散らしていたせいで、家人が寄り付かなくなったようにも思えた。

斜め左前の窓際には、糖尿病の40代の男性がいた。口が達者でお調子者。しかし質素な食事療法に耐え切れず、しょっちゅう医者や看護婦に隠れてつまみ食いをしていた。看護婦もそれに気付いており、このままでは失明してしまうなどとよく諭されていた。

左隣の年配の男性は、肺に溜まった水を注射器で抜く際、医者に横隔膜を傷つけられてしまった。私の真横でやっていたので、私はその目撃者である。処置の後、その男性はしゃっくりが止まらなくなった。医者は認めなかったが、明らかに医療過誤である。私はその男性の家族にしかるべき法的手段を取るべきではないかと告げたが、やはり治療してくれた医者を訴えるのは気が引けるようであった。その男性はその後数日間、朝晩となく、しゃっくりを続け、別の病院に移っていった。

私は立ち会わなかったが、病室で死んでしまう患者さんも多いという。台湾から来た青年がそう話していた。真夜中、見回りの看護婦が患者の異常に気付き、急に騒がしくなる。宿直の医者が駆けつけ、処置を施すがその場で亡くなってしまったという。遺体は別の場所へそっと運ばれるが、翌日には新しい患者がそのベッドで寝起きするのだ。私の前にこのベッドにいた患者さんはどうなったのか、とはその台湾の青年に聞くことはできなかった。

白血球の数値も下がり、ようやく退院することになった。すごくよく晴れた日であったことを鮮明に覚えている。五月晴れであった。入院はダイエットにはなったが、ほぼ寝たきりの生活のせいで体力や運動能力はかなり落ちていた。しばらくはリハビリが必要であった。

しかしそれよりも、私が入院している間に、浦和支局は大変なことになっていたのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編47) 「メディアって何だ!?(185)」

入院生活――薬と本の日々
入院手続きを済ませると、すぐに車椅子に乗せられた。運動はもとより、歩くことも禁止。ベッドに横になると、注射針を腕に刺され、点滴が始まった。「ミノファーゲン」という肝炎の治療薬が使用された。

入院する前は、せいぜい1週間ぐらいで退院できると思っていた。しかし肝炎は、そう簡単には治らないという。ただ幸か不幸か、血液検査の結果、私が感染したウィルスは肝細胞内で増殖する肝炎ウィルスではなく、EBウィルスであることがわかった。

EBウィルスは世界中に見られるウィルスで、一生の間で大部分の人が感染する。多くの人は発症しないが、発症すると発熱、のどの痛み、リンパ節の腫れを伴う伝染性単核症となる。私の場合は、おそらくは疲れていなければ発症しなかったのだろうが、抵抗力が弱っているときに、そのウィルスが肝臓で悪さをしてしまい、急性肝炎となったのである。決して、お酒の飲みすぎではないので、お間違えのないように。

さて、ウィルスは特定できた。後は治療法だが、ミノファーゲンの点滴と安静しか方法がないのだという。酒とバラの日々ならぬ、薬と惰眠の日々が始まった。肝機能の目安となるGOT、GPTの数値は、ミノファーゲンの威力ですぐに正常値に下がった。しかし白血球の数値が下がらず、ウィルスが完全に退治されていない可能性があったので、長期間薬の投与を続けなければならなかった。

来る日も来る日もベッドでじっとして、点滴を打たれているのは、苦痛であった。つい数日前まで続いていた多忙な日常から離れて、なんと暇で平和な日々であることか。まったくの別世界である。本をたくさん持ってきてもらい、読書三昧の毎日となった。

私は六人部屋に入ったので、他の入院患者を観察するのも、勉強になった。一つ一つのベッドはカーテンで仕切られてはいるが、昼間などは皆、カーテンを開けているのですぐに顔見知りになる。私のベッドは、入って左側の3つのベッドのうちの真ん中であった。

私の右隣には、台湾から料理人として来日した20代半ばの青年がいた。彼の場合は、かわいそうに、来日して1年ほどで突然膠原病を発症してしまった。膠原病とは、全身の血管や皮膚、筋肉、関節などに炎症が見られる病気の総称で、原因不明の発熱や湿疹、関節の痛みなどの症状があるという。

何が原因なのか特定が難しく、また治療法も確立しているわけでもない。その青年は、すでに入院して半年が過ぎていた。皮膚が炎症で赤くなり、関節も痛むと言っていた。発症前の写真を見せてもらったが、発症後は顔が膨れて別人のようになってしまっていた。彼からは、病院での生活のことをいろいろ教えてもらった。半年も入院していると、様々な人間模様が見られるのだという。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編46) 「メディアって何だ!?(185)」

激務の果てに
劣悪な環境での泊まり勤務、相次ぐ悲惨な事件の取材――。浦和支局に赴任してから一年以上が経ったが、その間、日航機事故の取材を含め、事件事故の取材に追われ、息を付く間もなく走り続けていたようだった。心身の疲労は蓄積され、私自身の体力もかなり落ちていたのだろう。

ある朝、起きたら風邪をひいていたと、そのときは思った。体がだるく、熱も少しあるようだ。しかし、タイトな勤務シフト上、簡単に休むわけにいかない。無理をして埼玉県警記者クラブに出勤、その日の午前中は何とか通常の業務をこなした。

ところが午後になっても一向に弱った体が回復しない。記者クラブ内にあるベッド(県警記者クラブ内にはたいてい仮眠用ベッドがある)で横になったものの、調子が悪い。支局に連絡して早退させてもらうことにした。

「一晩寝れば治るだろう」。夕飯もソコソコにベッドに体を横たえた。

翌朝、元気になっているはずの体が、逆にますます悪くなっていた。「これはいつもの風邪ではないかもしれない」と感じた私は、支局に休ませてもらうように連絡して、その足で一番近くの病院にでかけた。

血液検査の結果は、衝撃だった。「急性肝炎です」と、医者は私に告げた。

急性肝炎! なぜ肝炎になったのか、まったく心当たりがなかった。酒を飲むことはあっても、飲まれたことはない。これまで大病もせず、ラグビーや野球、テニスなどのスポーツで体を鍛えてきた「健康優良児」の私には寝耳に水の病名であった。

「この肝臓の数値はひどい。とにかくすぐ入院してください」と医者は言う。
何ということだ。入院しなければならないのか! ただ、私も病院を選びたかったので、血液検査の結果だけをもらって一度、家に帰った。そして何件かに電話して、川口市の別の病院を紹介してもらい、その病院に入院することにした。

28年間の人生で初めての入院であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編45) 「メディアって何だ!?(185)」

浦和地検刑事部長
地方検察庁は、トップの検事正、ナンバー2の次席検事と続き、その下に実際に捜査を担当する検事がいる。次席検事に次ぐナンバー3を三席と呼ぶが、浦和地検(現在はさいたま地検)には刑事部長という役職があり、部長がその三席を務めていた。

事件の少ない田舎の支局では、地検を回ったとしてもせいぜい次席検事を取材するぐらいだろう(地検にもよるが、三席以下の検事は実務で忙しくてなかなか取材に応じない)。しかし浦和地検ともなると、比較的大きな事件もあるので、実際に事件を担当する三席以下の検事にも取材する必要が出てくる。

当時の浦和地検の取材では、各社のサツ担当は刑事部長のところに押しかけた。とくにサツ担当が注意するのが、汚職、横領、詐欺といったいわゆる知能犯の捜査だ。地方の警察は通常、大きな事件や知能犯罪の内偵があったりすると、地方検察庁と密接に連携をとりながら捜査を進める。単純な事件と違って、公判を維持するために綿密な証拠固めをしなければならないからだ。基本的に内偵ものは新聞社側が持ち込みでもしないかぎり、決して漏らさないが、その他の事件については、差し障りのない範囲で教えてくれることもある。

当時の浦和地検刑事部長Mさんは、大の酒好き、マージャン好きであった。夕方5時半ごろ各社のサツ担当が刑事部長の部屋を訪れると、決まって「宴会」が始まった。九州の出身の検事で、機嫌がいいと郷土の地酒や焼酎を記者に振舞ってくれた。さらに機嫌がいいと、部下の検事を部屋に呼んで「大宴会」となる。暇なときは、そのまま記者と検事によるマージャン大会が始まるときもあった。

こうした宴会やマージャン大会のおかげで、普段はなかなか話ができない検事とも顔見知りになることができた。

M刑事部長は記者や部下の検事からは慕われていたが、次席検事とはうまくいっていないようであった。自分を差し置いて記者と仲良くしているのが気に食わなかったのか、あるいは次席検事に歯向かったためか、その理由はよく分からなかったが、薄い髪の毛がさらに薄くなっていくようであった。

何年か後に、Mさんを知る他社の記者が霞ヶ関でばったりとそのMさんに出会った。Mさんはその後まもなく検察を辞め、弁護士に転職したのだという。いかなる事情があったのだろうか。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編44) 「メディアって何だ!?(185)」

魔の月
「魔の踏み切り」「魔の交差点」など事故がよく起きる場所を「魔」にたとえることがあるがよくあるが、1986年1月は浦和支局にとってまさに「魔の月」であった。

タクシー運転手強殺事件、女子中学二年生の自殺のほかに、昼のワイドショーを賑わすようなドロドロした事件が相次いだ。とくに1月23日に起きた殺人事件は、ワイドショーの格好の餌食となった。

同日午後11時15分ごろ、埼玉県北本市の建設会社社長(56)が「妻が帰宅せず、社の女子従業員の部屋の様子がおかしい」と上尾署に届け出た。同署員が女子従業員の住む団地の部屋を調べたところ、六畳間で社長の妻(44)が左手首を切って死亡、四畳半の部屋には女子従業員(55)が顔や腹など数十箇所を刺されて死んでいるのが見つかった。

調べによると、社長の妻は夫とその女子従業員が親しい関係にあることを知って悩み、4,5日前から夫婦喧嘩を繰り返していたという。三角関係のもつれから、妻が夫の愛人宅に押しかけ愛人を果物ナイフでメッタ刺しにして殺害、その後自殺したらしい。

1月27日には、北海道で妻を絞殺し、遺書めいたメモを残して行方不明になっていた土木作業員(57)が埼玉県大宮市で、殺人容疑で逮捕された。妻を殺害した後、青函連絡船から海に飛び込み自殺しようと思ったが、乗客に止められ果たせなかったという。男はそのまま埼玉県に住みつき、土木作業員などをしていたが、パチンコ玉を盗んだ容疑で捕まり、足がついた。

宮城県内の建設会社事務所に忍び込んだところを見つかり、トラックで東北自動車道を約300キロも逃走、四時間にわたって五県警のパトカーを振り切って逃げた男が、ようやく埼玉県警に捕まる「大捕りもの」も1月30日にあった。

このように埼玉県の「魔の月」は、続々と三面記事のネタを提供し続けたのであった。

謎の古代遺跡 「旅のあれこれ(112231)」

古代巨石文明の痕跡

霧の中から幻の古代都市が現われます。

霧

古代都市の中心部に行くには、かなり急な階段を登らなくてはなりません。

階段

霧は一向に晴れません。

ようやく窓のある神殿にたどり着きました。

窓

窓の向こうには別の神殿が見えます。

次はコンドルの神殿にあるコンドルのモニュメント。

コンドル

手前がコンドルのくちばしです。岐阜県・船山山頂付近にある船山神社のイルカ石にどことなく似ています。

最後は、この古代都市のもっとも聖なる場所であるとされる太陽の祭祀場インティファタナです。

聖なる場所

インティは太陽、ファタナはつなぐという意味だそうです。天体観測などにも使われたと考えられていますが、その使途はよくわかっていません。

ペルーのマチュピチュ遺跡の紹介でした。

滝に打たれる修験者に会うの巻 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154154)」

御嶽山登山(最終回)

御嶽山付近には短いハイキングコースがあり、滝や巨石が楽しめます。

これは鏡岩

鏡岩

こんな巨石もあります。

巨石

昨日紹介した天狗岩から沢に下ると、「岩石園(ロック・ガーデン)」に出ます。

岩石園

沢の両側は巨石がゴロゴロしています。
別名「東京の奥入瀬渓谷」だとか。

岩石園

規模は小さいですが、ちょっとだけ奥入瀬にも似ていますね。

その渓谷をさらに奧へ進むと、滝が現われます。

綾広の滝

落差10メートル、滝壺の深さ1.2メートルの綾広の滝です。
古来より御嶽神社の禊(みそぎ)の神事が行われることから「修行みそぎの滝」とも言われているそうです。

おや、近づくと人の姿が・・・。

綾広の滝

ちょうど禊の神事が行われているところでした。

修行

寒そうですね。ちょうど先ほどまで、テレビ番組の撮影も行われていたとか。放映日時や番組名は忘れましたが、テレビ東京系列です。

この滝のそばには、東京都羽村市生まれの作家中里介山が書いた未完の大作『大菩薩峠』に出てくる「お浜の桂」もあります。

お浜の桂

お浜の内縁の夫文之丞を主人公の机竜之助が奉納試合で打ち殺すのも御嶽山が舞台です。

上から撮った綾広の滝。

滝

最後は七代の滝です。

七代の滝

その名の通り大小7段の滝から成る美しい滝です。
この滝の上にはあの「天狗岩」があります。

このときすでに午後4時半。もうすっかり、辺りは薄暗くなってきました。途中で出会った昭島から来た登山者の方に、七代の滝の下流からJR五日市線の武蔵五日市駅まで車で送ってもらい、無事日没前に下山することができました。最後はちょっと楽をしてしまいました。

山奥に天狗の姿を見た(!?)の巻 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154154)」

御嶽山登山3

私はかなりの健脚で、所要時間1時間半の山道なら1時間、3時間の行程なら2時間もあれば踏破してしまいます。つまり、だいたい3分の2ぐらいの時間が私の所要時間となります。

どうしてそんなに早く歩けるかというと、おそらく山に住む天狗さんに助けてもらっているのではないかと思っています。新宿の雑踏の中で五分も歩くと心身ともにヘトヘトになるのに、山の中だと一時間歩き続けてもそれほど疲れません。山奥には何か目に見えないエネルギーが満ちていて、エネルギーが補給できるようです。それが天狗さんというわけです。

天狗など信じられないという方もいらっしゃるでしょうから、証拠をお見せしましょう。

これが天狗が存在することの動かぬ証拠です。

天狗

どうです。天狗の姿が見えるでしょう。

えっ、見えない?
それでは、これならどうですか。

天狗の腰掛け杉

左下に何か書いてありますね。
そうです、これは「天狗の腰掛け杉」。天狗さんが腰掛けることができるように太い枝が突き出ています。座りやすそうですね。
江原啓之氏ぐらいの霊能力があれば、天狗の姿を簡単に見ることができます。おそらく昔の人もこの杉の木に腰掛けている天狗の姿を心眼で見たのではないでしょうか。

次は天狗岩です。

天狗岩

この岩は登れるようになっていて、天狗の石像が立っています。

これで、山には天狗さんがいることがわかっていただけたのではないかと思います。

御嶽山には秋の花が咲いています。

アキチョウジ(秋丁字)です。

秋丁字

山地の木陰に生える多年草で、秋に丁字形の花をつけることから名づけられました。

秋丁字

御嶽山のあちこちで咲いていました。

次の写真はシロヨメナ(白嫁菜)。

シロヨメナ

シラヤマギク(白山菊)と花は似ていますが、葉っぱに荒い毛が生えていてざらざらしているのがシラヤマギクだそうです。

明日は御嶽山登山の最終回「巨石と滝」です。

御嶽山頂で見つけた小さな秋の巻 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154153)」

御嶽山登山2

御嶽山まで4キロといっても、平地の4キロではありませんから、私の足でも1時間20分ぐらいは掛かります。ただ峠から山頂までの道は、先ほどまでの急峻な山道と違って道幅は広いし、少し開けた場所が多くなるので非常に快適です。

ところどころに沢が流れていますので、沢の水でのどを潤しながら進みます。山の水が冷たくておいしいこと。山歩きの醍醐味の一つですね。

そうこうしているうちに御嶽山の山頂付近にある集落に到着しました。

山荘

この集落にはお土産屋さんや飲食店、山荘などが集まっています。上の写真の家はたぶん山荘だと思います。昔ながらの日本家屋ですね。

JR青梅線御嶽駅からバスとケーブルカー、リフトを乗り継いで、この集落まで楽に登ることもできますが、それでは大した運動になりませんね。私の目的はあくまでも脂肪を燃焼させることです。

山頂付近にある神代ケヤキ

神代ケヤキ

堂々としていますね。御嶽神社のご神木です。
欅

推定樹齢は1000歳ほどだそうです。それだとちょっと、神代には届きませんね。

その神代ケヤキのそばに咲いていた花。

シュウカイドウ

シュウカイドウ(秋海棠)です。

秋海棠

ご覧のように葉はハート型をしていますが、左右対称でないことから花言葉は「恋の悩み」だそうです。あらら~。

その後、急で長い階段を登ります。

ようやく山頂の武蔵御嶽神社に到着。
山頂からの風景です。

山頂

山頂のベンチに座って休んでいるときに、ふと目に留まったのが、少し赤らんできたカエデです。

もみじ

日の光にキラキラ輝いています。
山頂(標高929メートル)は寒いので他の場所よりも紅葉が進んでいますね。

小さな秋を見つけました。
(続く)

奥多摩で熊に出会うの巻 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154153)」

御嶽山登山1
昨日も素晴らしい天気だったので奥多摩へ。

私はサラリーマンではないので、平日でも晴れるとすぐに外に遊びに行きます。そのため、雨が降らないかぎり原稿もあまり進みません。昨年の今頃もある出版社からかなり強行スケジュールの執筆依頼があったのですが、天気のいい日に外に遊びに行けなくなるから断ってしまいました。つまり、結構怠け者なんですね。

しかし、怠け者には怠け者の厳しいルールもあります。この秋のルールは、ダイエット。私は甘党なのできんつばなどもペロリと食べてしまいます。そしてとうとう、14%だった体脂肪率も18%に上がってしまいました。「これはまずい」と、奮起して奥多摩の山登りをしようと思い立ったわけです。

JR青梅線の鳩ノ巣駅で降ります。ここから約3時間ほどの登り道。目指すは御嶽山です。

昨年の紅葉の時期にも紹介した鳩の巣渓谷

鳩ノ巣

橋は二つ架かっていますが、これは上流の低い方の橋「鳩の巣小橋」から撮ったものです。

鳩ノ巣

次は下流の高い方の橋で、雲仙橋です。下を見ると立ちくらみしそうです。

鳩ノ巣

まだ紅葉には早いですね。あと一ヶ月ほどで、辺りは真っ赤に染まるはずです。

それでは、御嶽山の登山道に向かいます。

写真には撮りませんでしたが、登山口には次のような張り紙が貼ってありました。

「最近、この付近でツキノワグマが目撃されました。この登山道を行かれる場合は鈴を鳴らすなど注意しながら登ってください」

お~っと。ツキノワグマさんがお出ましになるんですか。
まずいことに、鈴を持ってきませんでした。まさか、こんなところにまで熊さんが出るようになったとは知りませんでした。
一瞬、足が止まりましたが、ここまで来て後戻りすることはできません。
意を決して、登山道に分け入りました。

しかし用心するに越したことはありません。枯れ枝を杖にして岩を叩きながらあるいたり、口笛を吹いたりするなどなるべく音を立てて歩きました。

とにかく出会い頭に熊さんに遭遇するのが一番危険です。人間も驚くでしょうが、何よりも熊さんが驚いてしまいます。自分がいることが熊さんにもわかるようにしなければなりませんね。

45分ほど歩いたでしょうか。平日なので登山者はほとんどいません。この間にすれ違った登山者はたったの一人。ちょっと寂しげな登山道です。

背の高い樹木に覆われた山道を、周囲を注意しながら、かつ物音を立てながら進んでいると、前方6,70メートルの登山道ではない斜面に黒い塊がなにやら動きはじめました。次の瞬間、何とその黒くて丸い塊はギャロップをして、私がいる反対方向へ駆け出しました。前足と後足を揃えて走っています。あの走り方はまさしく熊さんですね。小熊のようです。

私がその小熊が走る光景を見て、最初に思ったことは「かわいい~」でした。意図的ですが、小熊を驚かしてしまいましたね。でも十分距離はありました。音を出していたおかげで、お互いに安全な距離を保てたわけです。

追いかけて写真を撮ろうかとも思ったのですが、それほどのん気でいるわけにもいきませんね。小熊のそばには親熊がいます。自分の子供を守るために親は、凶暴な人間にも立ち向かいます。

私は周りを注意深く見回しました。幸い、親熊はいないようです。私はなるべく小熊のいた場所には近づかないように登山道を足早に進むことにしました。山の中で野性の熊に遭遇するのは、アメリカのバージニア州で見て以来二度目です。

もともとは人間が熊の住む聖域を侵略したのですから、人間は熊をそっとしておいてあげなくてはなりませんね。餌場を奪ってはいけません。

こうした野性を見て思うのは、人間はこの惑星の征服者ではないということです。この惑星に熊など他の生物とともに暮らさせていただいているのだと思わなくてはいけませんね。自然や野性を征服したなどと思うのは、もっとも下劣で傲慢な思想です。海の中でもよく感じますが、人間はこの惑星の住人の一種類にすぎないのです。いい加減に自然や野性を破壊するのは止めたらどうですか。

などと考えているうちに峠に到着しました。ここまで休まずに歩いて1時間15分。少しは痩せたでしょうか。と、水を一口。峠には、反対方向から鳩ノ巣に下ると言う登山者に出会いました。久々の人間です。熊を目撃したことを告げて、注意喚起した上で、私は御嶽山を目指しました。

残りは後4キロです。
(続く)

物思いに耽るミケ 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154153)」

昨日は秩父の宮でラグビーを観戦した後、久しぶりにミケに出会いました。

ミケ

いつもの玉座にいますね。

ミケ

おなじみのポーズ。ちょこんと座っています。

新宿副都心の方を見て、物思いに耽るミケの図。

ミケ

秋は皆を哲学者にしますね。
ところで、今年の早稲田はかなり苦戦が続きそうです。

秋の風景 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154153)」

昨日は天気が良かったので、ブログもそこそこに近くの公園までサイクリング。

最初は世田谷の芦花公園です。子供のころ、祖師谷の祖母に連れられて、よく遊びにきました。

二匹のネコちゃんが日向ぼっこをしています。

ネコ

ツーショットを狙ったのですが、一匹が動き出してしまったので、うまくフレームに収まりませんでした。

もう一匹のネコちゃんはこちらに向かってきます。

ネコ

甘えに来たのかなと思っていると、そのまま横を通り過ぎて茂みに入ってしまいました。

萩のトンネル

萩のトンネル

ちょっとピークを過ぎた感じですね。

さて、秋の花であるコスモスです。

コスモス

かなり風が強くて、なぎ倒されたコスモスもチラホラ。

コスモス

それでも力強く咲いているコスモスもありました。

秋の空 006.jpg

空を背景に撮ると迫力が出ます。

コスモス

どこまでも高い、澄んだ秋空ですね。

コスモス

次に向かったのは、調布市の野川公園
野川沿いにはサイクリングコースがあります。

野川

絶好の散歩日和ですね。

野川公園です。

野川公園

武蔵野の面影を残しています。

野川公園

上の写真の左にある林の向こう側に私の母校があります。もともとこの公園の大部分はその母校が所有するゴルフ場でしたが、自治体に売却して公園になったと聞いています。一部の人だけが楽しむゴルフ場(しかも農薬をまけば環境も破壊されます)なんかより、公園のほうがずっといいですよね。

今ではこんなに素晴らしい、市民の憩いの場所になりました。

武蔵野

野川公園の中の自然観察園の中には「ホタルの里」もできました。

これは自然観察園の中に咲いていた水引です。

水引

上から見ると赤く、下から見ると白いので、紅白の水引になぞらえて名づけられたそうです。

さらに野川公園を武蔵野公園に向かって進みます。

秋の空 014.jpg

武蔵野公園のそばにもコスモスが咲いていました。

コスモス

その後、井の頭公園、玉川上水を経由して帰宅しました。

ちょうどそのとき、空を見上げると・・・

マシュマロマン

マシュマロマン(?)が、秋の空にぷかぷか浮かんでいました。

自然界の現象と電脳網的日誌の関連についてのもっともらしい哲学的一考察 「★つ・ぶ・や・き★(1265756)」

つまり、今日は天気晴朗のため、ブログをお休みします、ということでした。失礼。

晴れ

天柱石の例祭 「ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(154153)」

謎の神代文字
以前お知らせしたように、今年の天柱石(富山県・平村)の例祭が10月9日の体育の日に開かれます。私も1984年の秋に一度だけ参加、『「竹内文書」の謎を解く』でも紹介しました。その拙著の中では、天柱石に刻まれた「謎の神代文字」の写真を紛失したことになっていましたが、実はこの後、大量のネガフィルムの中から見つけ出し、パソコンに取り込むことに成功しました(ただし、昔のネガなのでかなり色あせていました)。

今日は、その22年前の例祭の模様をお伝えしましょう。主催者は天神人祖一神宮。当時の管長は、竹内巨麿の4男高畠吉邦さんでした。

天柱石

上の写真は、駐車場から見た天柱石です。この写真では小さく見えますが、実は近づくと、すごく大きな巨石であることがわかります。

次は、駐車場の反対側から見た天柱石。

天柱石

土台部分から測ると長さ50メートルはあるそうです。
例祭はこの天柱石に登って行われます。

側面に回って、はしごをかけます。

はしご

一人だけ岩登りが得意な人がいて、その人がドンドン先に登ってゆき、ロープを下ろします。
私たちはそのロープを頼りに急勾配を登ります。まるで雲に向かって進むようです。

上り

天柱石には、何と木が生えているんですね。

木

ロープはこうした木にかけられます。

頂上に到着しました。
祠が設置されています。樹木もたくさん茂っています。

頂上

荷物を置いて一休み。
下の方には畑が見えます。

畑

駐車場の方を見ると、こんな感じです。

駐車場

休憩後、例祭が始まります。
まずお供えをします。

お供え

五穀豊穣を祈るようです。

五穀

吉邦さんが祝詞を上げ始めると、皆も斉唱します。最初は「あいうえおの行」だったように思います。

ちょっとピントがぼけていますが、吉邦さんです。

吉邦さん

なつかしいお顔ですが、九年ほど前に吉邦さんはお亡くなりになりました。非常に気さくな方でした。もちろん神事を行うときはガラッと変わります。

その吉邦さんに教えてもらった神代文字。頂上付近の何箇所かに彫られています。

神代文字

弧や丸や直線が組み合わされた不思議な文字ですね。何と書いてあるのでしょう。
次も不思議な文字ですよ。

神代文字

超能力者の秋山眞人さんに聞いたら、これは巫女の踊りのポーズではないかと話していました。ちなみに最初の写真の右側の文字は、秋山さんによると、信仰を持つ人が船に乗ってやってきたことを示しているのではないか、とのことでした。

吉邦さんは、世界の始まりと終わり、つまり「あうん」のような文字ではないかと当時話していました。最近彫られた、いたずら書きのような星型の文字もありましたが、上の二つの写真の文字は、明らかにいたずら書きとは違うもののように見えました。

祝詞が終わると、下山します。

下り

おっかなびっくり。

下り

手前の人が吉邦さんです。

最後に天柱石のそばにある「天の真名井」。

天の真名井

その由来については、拙著『不思議な世界の歩き方』の「龍神の話」の中で紹介しましたね。
大きさが分かるように、当時使っていたペンが置かれています。

以上が、22年前の天柱石例祭の写真でした。現在は吉邦さんの息子さんが管長となり、儀式を執り行っていると聞いています。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編43) 「メディアって何だ!?(185)」

国レベルのいじめ3
国中が一丸となって“正義の戦争”を進めているときに、自分の国に対して少しでもマイナスのことを言うのは、利敵行為であり、反愛国的である、たとえそれが正しい意見であっても、政府の方針に逆らうのはけしからんと、シャーロットの国語の先生らは判断したのであろう。「愛国心のない子」という言葉に触発されて、生徒たちはシャーロットをバッシングしたわけだ。

実は、これと同じような現象が日本でもあった。最近話題になっている、太田光と中沢新一による『憲法九条を世界遺産に』にも指摘されていたが、イラク日本人人質事件である。あのとき、人質になったほうが悪いのだと言わんばかりのバッシングが吹き荒れた。「いじめられるほうが悪いのだ」と。人質と人質の家族に対するいじめである。

政府の方針に反してイラクに入ったのだから、たとえそれが善意の行為、正しい行為であっても彼らが悪いのだという自己責任の論理がまかり通った。その結果、人質の家族は、「自分の子供の命を救ってほしいという願いですら、口に出せなくなってしまった」(太田光)のである。多くの日本人は、あのいじめに加担したのだ。もはや政府にすがることしかできない人質の家族に対して、あの残酷な仕打ちは何だったのか。

その点、シャーロットはまだ幸せであった。母親が娘の意見をインターネットで紹介して以来、世界中から続々と激励のメールや手紙が届き始めたからだ。私も当時、シャーロットがいじめられていると知り、すぐに激励のメールを送った。「シャーロット、あなたの言っていることは正しいよ。あなたを支持する人は世界中にいるからね」。母親からは間もなく、お礼のメールが返信されてきた。

自分の国を悪く言うことが、なぜいけないのか。悪いものは悪いのである。政府の方針がいつも正しいわけがない。それを批判するのは当然のことだ。同様に過去に犯した過ちをきちんと認め、自戒することはいいことなのである。

自戒することはいいことである。いわゆる自虐史観のどこが悪いのか。自虐史観だとあざける傲慢史観の持ち主よりはるかにましである。

臭いものには蓋。過去の過ちをあいまいにしてしまうから、前に進めないのだ。責任の所在をあいまいにすれば、結局、岸信介のような過去の亡霊を現代によみがえらせてしまう。

政府の方針に異を唱えることもせず、あの戦争を許したのは誰であったのか。戦争に突っ走った政権を支持したのは誰だったのか。それでもあなたは、いじめに加担していないと言えるのか。

1986年2月3日、首吊り自殺した鹿川君の遺体は、岩手県石鳥谷町で火葬に付された。そのとき鹿川君の妹は「お兄ちゃん、行っちゃやだぁ」と、棺にとりすがったという。想像力の欠如により高校時代にいじめを結果的に止めることができなかった“前科”のある私が、自戒の念をこめて当時を振り返る理由をわかってもらえただろうか。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編42) 「メディアって何だ!?(185)」

国レベルのいじめ2
アメリカのいじめ体質は、“対テロ戦争”で当時のアーミテージ米国務副長官がしたとされる恫喝発言によく表れている。パキスタンのムシャラフ大統領が明らかにしたところによると、2001年の9・11テロの直後、アーミテージは米国によるアフガニスタン・タリバン政権の掃討作戦に協力しなければ「爆撃を覚悟しろ。石器時代に戻ることを覚悟しろ」とパキスタンを脅したという。ムシャラフは「非常に無礼な言葉だと思ったが、国益に照らした行動を取らなければならず」、アメリカに従ったという。

有無を言わせぬ力による支配。「世界の警察官」は、実は「世界のやくざ」であった。日本が「みかじめ料」を払わなければならないわけだ。いじめに加担しないものは、いじめられる。鹿川君らが苦しめられた「いじめ地獄」は国際社会にも存在していた。

「傲慢な帝国」内部でも、“いじめ(もちろん現実は、いじめよりもっと悲惨な戦争である)”に反対する声はあった。しかし戦争に反対する市民は、周りからいじめられたのである。

アメリカのメイン州に住む当時13歳の少女シャーロット・アルデブロンは2003年2月、イラク開戦の気運が高まる中、学校の作文で平和への強い思いをつづった。それに対し国語の教師は「(このクラスには)愛国心のない子がいる」と言って非難。以来、先生やクラスメートから無視されるようになり、露骨な嫌がらせの言葉を浴びせられ、いじめられたのである。

シャーロットは、後に当時のことを聞かれ、こう答えている。
「社会の先生はイラクのクウェート侵攻やクルド人への化学兵器使用について話しました。私が『でも、イラクに化学兵器をあげたのはアメリカだし、CIAも協力しました』と言うと、先生は『君は間違っている』と言って議論を打ち切り、以後学年末まで私を指名することはありませんでした」

シャーロットの母親は当然、娘の味方であった。娘の作文をインターネットのニュースサイトに投稿したところ大きな反響を呼び、平和集会に呼ばれるようになった。それがシャーロットの「非戦のスピーチ」につながった。

シャーロットはただ、平和への思いを口にしただけであった。にもかかわらず、なぜシャーロットは、いじめられなければならなかったのか。

その前に彼女のスピーチを聞いてみよう。シャーロットは「正義の戦争」に異を唱え、「忌々しくも」次のように語ったのだ。

「イラクの子どもたちはどうなるの?」
 イラク爆撃というと、何を思い浮かべますか。軍服を着たサダム・フセイン、あるいは銃を持つ口ひげの戦士たち、それともアル・ラシッドホテルのロビーの床に「犯罪者」という言葉と一緒に描かれたジョージ・ブッシュ元大統領のモザイクでしょうか。

 でも、考えてみて下さい。イラクの2400万人の国民の半分が15歳より下の子どもなんです。1200万人の子どもです。私みたいな。私はもうすぐ13歳になります。だから、私より少し大きいか、もっと小さな子どもたちです。女の子じゃなくて男の子かもしれないし、髪の毛の色も赤毛じゃなくって茶色いかもしれないけれど、とにかく私みたいな子どもたちです。だから、私のことを見て下さい。よく見て下さいね。イラクを攻撃するときに考えなきゃいけないことが分かるはずです。みんなが破壊しようとしているのは、私みたいな子どものことなんです。

 もし、運が良かったら、一瞬で死ねるでしょう。91年の2月16日にバグダッドの防空壕(ごう)で「スマート(高性能)」爆弾に殺された300人の子どもみたいに。そこでは、爆風による激しい火で、子どもと母親の影が壁に焼き付けられてしまいました。
そんなに運が良くなければ、じわじわと死んでいくのでしょう。ちょうど今、バグダッドの子ども病院の「死の病棟」で苦しんでいる14歳のアリ・ファイサルみたいに。アリは湾岸戦争のミサイルで劣化ウランによる悪性リンパ腫ができ、がんになったのです。

 もしかしたら、痛みにあえぎながら死んでいくかもしれません。寄生虫に大事な臓器を食われた18カ月のムスタファみたいに。信じられないことですが、ムスタファは25ドル程度の薬で完全に治ったかもしれなかったのに、制裁で薬がなかったんです。

 死ななかったとしても、外からは見えない心理的な打撃に悩みながら生き続けるかもしれません。91年にイラクが爆撃されたとき、小さな妹たちと一緒にやっと生き延びた恐怖を忘れられないサルマン・ムハンマドみたいに。サルマンのお父さんは家族みんなを同じ部屋で寝させました。そうすれば一緒に生き残れるか、一緒に死ねると思ったからです。サルマンはいまだに空襲警報の悪夢を見るのです。

 アリみたいに独りぼっちになるかもしれません。アリは湾岸戦争でお父さんが殺されたとき3歳でした。アリは3年間毎日お父さんの墓を掘り返しました。「大丈夫だよ、お父さん。もう出られるよ。ここにお父さんを閉じこめたやつはいなくなったんだよ」って叫びながら。でもアリ、違うの。そいつらが戻ってきたみたいなんです。

 ルアイ・マジェドみたいに何の傷も負わなくてすむかもしれません。ルアイは、湾岸戦争のおかげで学校に行かなくてもよかったし、好きなだけ夜更かしできたと言います。でも、教育が受けられなかった彼は今、路上で新聞を売ってやっとなんとか生きています。

 これが自分たちの子どもたちだったらどうしますか。めいだったら? おいだったら? 近所の人だったら? 子どもたちが手足を切られて苦しんで叫んでいるのに、痛みを和らげることも何もできないことを想像してみて下さい。娘が崩壊したビルのがれきの下から叫んでいるのに、手が届かなかったらどうしますか。自分の子どもが、目の前で死ぬ親を見た後、おなかをすかせて独りぼっちで道をさまよっていたらどうしますか。

 これは冒険映画でも、空想物語でも、テレビゲームでもありません。これが、イラクの子どもたちの現実なのです。最近、国際的な研究者の一団がイラクに行って、戦争が近づいていることが、向こうの子どもたちにどう影響しているかを調査してきました。

 彼らが話した子どもたちの半分が、これ以上何のために生きるのか分からないと語っていました。本当に小さい子どもたちでさえ、戦争のことを知っていて、心配していました。5歳のアセムは「銃や爆弾がいっぱい来て、お空が冷たくなったり熱くなったりして、みんないっぱい焼けちゃうんだよ」と言いました。10歳のアエサルは、ブッシュ大統領に「たくさんのイラクの子どもたちが死にます。それをテレビで見たらきっと後悔する」と知ってほしい、と言っていました。

 こちらの小学校のことを話します。私は、人とけんかをしたときには、たたいたり悪口を言ったりするんじゃなくて、「自分がどう思うのか伝えなさい」と教えられました。相手の身になったらどう感じるのか、理解してもらうのです。そうすれば、その人たちはあなたの言うことが分かって、やめるようになります。

 いつものように私は、どう感じるか伝えたいと思います。ただし、「私」ではなく、「私たち」として。悪いことが起きるのをどうしようもなくただ待っているイラクの子どもたちとして。何一つ自分たちで決めることはできないのに、その結果はすべて背負わなければならない子どもたちとして。声が小さすぎて、遠すぎて届かない子どもたちとして。

 私たちは、明日も生きられるか分からないと考えるとこわいです。

 殺されたり、傷つけられたり、将来を盗まれると思うと悔しいです。

 いつもそばにいてくれるお父さんとお母さんがほしいだけなんです。

 そして、最後に。私たち、何か悪いことをしたでしょうか。わけが分からなくなってるんです。

 (訳:朝日新聞。英文はこちら
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編41) 「メディアって何だ!?(185)」

国レベルのいじめ
政府が弱肉強食の政策を推進すれば、必ず社会的弱者が生じる。どこの国にも貧困に苦しむ人々がいるが、これも国家によるいじめといえよう。貧乏人はますます苦しく、金持ちはますます豊かになるシステム。カースト制度や民族的差別のように下級階層を意図的に作ることによる“いじめ”もある。

さらには他国に対する“いじめ”も存在する。

まず歴史観による“いじめ”から始めよう。
過去の歴史の過ちを自ら戒めることを自虐史観というのなら、自らの過ちを他人の責任に転嫁するのは荷虐史観といえるだろう。植民地化されたのは、された方が悪いのだという歴史観、「侵略されたのはお前ら(侵略された側)のせいだ」と言わんばかりの傲慢な歴史観である。自戒する謙虚な歴史観とは正反対の傲慢史観だ。

謙虚な歴史観と傲慢な歴史観――あなたはどちらを選ぶのだろうか。身近なことに置き換えて考えれば、より分かりやすくなるだろう。いじめがあるのは、いじめられる方が悪いのか、いじめる方が悪いのか。いじめられる方が悪いのだと考えれば、いじめは永久になくなることは無いだろう。悪いのは被害者(弱者)だという加害者(強者)の傲慢な論理がまかり通ってしまう。そうすれば加害者のやりたい放題だ。行き着くところは戦争と決まっている。

そう、ちょうどあの「傲慢な帝国」アメリカのように、だ。拙著『カストロが愛した女スパイ』の冒頭にも書いたが、もしテロ容疑者ウサマ・ビンラディンをかくまったとしてアメリカがアフガニスタンを空爆したことが正当化されるなら、1976年にキューバの民間航空機を爆破、73人の乗客・乗員の命を奪ったテロの容疑者オーランド・ボッシュをかくまった父ブッシュ政権のアメリカに対して、キューバが空爆を試みても正当化されるはずだ。だが実際には、そのようなことにならなかった。なぜか。

今の世界では、強者の論理がまかり通っているからだ。アメリカの論理では、強者は弱者を一方的に裁くことができても、弱者は強者を裁いてはならない。そこにあるのは、徹底したいじめる側の論理である。いじめる側はいじめることはできても、いじめられる側は刃向かってはいけないのだ。

大量破壊兵器を持っていないことを証明するのはフセインの責任であり、証明できなかったのだからフセインが悪いと言い張ったのは、アメリカであり、それを支持した日本の小泉であった。

つまり、いじめる側の理論とはこういうことだろう。どうも気に食わないやつがいる。きっと、俺のことを心の中でバカにしているに違いない。けしからん、生意気だ。いじめられたくなければ、俺のことを心の中でバカにしていないことを証明してみろ。証明できなければ殴ってやる。

心の中で考えていないことを証明するのは不可能である。そもそも大量破壊兵器を持っていないことを完全に証明することなどできたのだろうか。この場所になくても、あの場所にあるのではないかといちゃもんをつける。いちゃもんをつけ続ければ、永久に証明することはできなかっただろう。

最初から結論は決まっていたのだ。いじめられる側が何をしようと、いじめたいからいじめるという強者の論理がある。そしていじめた上で、いじめられた方が悪いのだと居直る。

それをブッシュ、ブレア、小泉らが見事にやってのけた。

おそらく多くの方は学校のいじめが発生すると、憤りを覚えるだろう。しかし小泉が言ったことをもう一度よく考えてみればいい。小泉はなんと言って、イラク戦争を支持したか。その小泉を支持したのは誰だったか。結果的にブッシュと、その取り巻きの小泉たちのせいで、何万人ものイラク市民が殺されたのだ。

私が高校時代にいじめを食い止められなかったことを、今でも自戒を込めて振り返るのは、このためである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編40) 「メディアって何だ!?(185)」

社会のいじめ
学校は、社会で起きていることを映す鏡ではないかと思っている。日本の社会では昔から、弱者へのいじめが横行していた。戦前、戦中は朝鮮人に対するいじめ(虐待)が度を越していた。日本人の多くはそれを見て見ぬ振りをした。朝鮮人を「チョン」といってバカにしたりもした(「バカチョンカメラ」という言葉もそうである)。「朝鮮人は日本人よりも劣った民族であるから、虐待してもいいのだ」という思想があった。

その右翼的思想は戦後、私が中学、高校生のときも顕著に残っていた。当時の世田谷の右翼学校は、戦前、戦中を思わせる“朝鮮人狩り”をやっていた。朝鮮中高級学生を見つけては、木刀などで襲い掛かった。その右翼学校は、朝鮮学校だけでなく、他校の生徒にも因縁をつけては悪質ないじめを繰り返していた。電車の中でタバコを吸ったり、大声出して威嚇したり、傍若無人の振る舞いをしていた。当時私たちは、この右翼学校を「暴力団予備校」と呼んでいた。今では高校野球で甲子園にも出場する“名門”国士舘である。

もっとも有名な事件は、1973年6月11日に発生した「新宿戦争」である。午後4時20分、旧国鉄山手線新宿駅ホームで、東京朝鮮中高級学校生徒20人が下車したところを、ホームで待ち伏せしていた国士舘高校の生徒20人が襲い、大乱闘となった。双方に怪我人が出ただけでなく、突き飛ばされた老女(70)が階段から転げ落ちて2週間の怪我を負った。

国士舘の横暴はこれで終わらなかった。翌12日、高田馬場駅で今度は国士舘大学生20人が「朝鮮人をぶっ殺してやる」と朝鮮中高級学校生を木刀で襲い、電車のガラスを割って三人が逮捕された。新宿事件が起きる前にも、国士舘の高校生と大学生は他校の生徒や大学講師を襲って重傷を負わせる事件が相次いでいた。

突っ張り同士がタイマンのケンカをするならまだ許せるが、国士舘は朝鮮人とみると見境なく因縁をつけ、集団で暴力を振るった。国士舘としては「朝鮮人のくせに山手線界隈でのさばっているのは生意気だ」という言い分があったのだろうが、「社会的弱者」に対するいじめにしか見えなかった(ただし、朝鮮中高級学校生も十条界隈では、かなり傍若無人の振る舞いをしていたという説もある)。

いずれにしても国士舘による一連の襲撃事件は、国士舘の右翼的教育方針に問題があるのではないかと国会でも取り上げられる問題に発展したのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編39) 「メディアって何だ!?(185)」

学校のいじめ2
鹿川君の叫びもむなしく、学校でのいじめによる自殺は後を絶たなかった。鹿川君の自殺が発覚してまだ三ヶ月も経たない1987年4月23日。今度は長野で同じ13歳の女子中学二年生上原夕子さんが自宅で首を吊って自殺した。「なんでいじめがあるの」という内容の遺書が残されていた。

鹿川君に対して「葬式ごっこ」があったように、夕子さんが通う学校でも常軌を逸したような出来事があった。夕子さんから「いじめられて悲しい」と訴えられた担任の男性教師が道徳の時間に、「夕子さんのどこが嫌か」「夕子さんはどこをなおしたらいいか」というテーマでクラス全員に無記名で作文を書かせていたのだ。作文は次の日、同じような内容のものを除いて夕子さんに手渡された。

なぜこのようなことをしたのか。学校側は「いじめている生徒たちに自分の行為を反省させ、夕子さんを励ますつもりで書かせた」と説明した。しかし励ますどころか、自分のいじめが授業で取り上げられ、あからさまになったため、夕子さんはますます思い詰めるようになったようだ。

自殺した夕子さんの遺書には次のように書かれていた。
「こんな世の中がつくづくいやになった。だから死を選びます。この世の中からいじめがなくなればいいのに。なんでいじめがあるのか。お母さんありがとう。長生きして下さい。さようなら」
(「社会のいじめ」「国レベルのいじめ」へ続く)

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