七福神のお地蔵さんとネコとお知らせ 「猫のいる生活(342052)」

七福神のお地蔵さんです。

七福神

中央の七体並んでいるのがそうですね。高尾山の登山口に鎮座しています。

一番左にいた布袋さんのアップ。

布袋さん

次は七福神ではありませんが、ネコのモンちゃん。

モンちゃん

額に紋があるので、モンちゃんです。

滑り台の上で一休み。

モンちゃん

最後は、草むらでお休み中のネコちゃん。

ネコ

ミケに似ていますが、別のネコです。最近、ミケにはなかなか会えません。

ところで、どういうわけか明日から夏休みです(いつも休んでいるので、特に休むということですね)。ブログもしばらくお休みしますので、ご了承ください。
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新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編32) 「メディアって何だ!?(185)」

タクシー運転手殺人事件1
今思い出してもおぞましい事件である。

最初は強盗事件であった。1985年10月4日午前0時40分ごろ、埼玉県八潮市の路上で東京の個人タクシー運転手のタクシーに乗っていた乗客の若い男が突然、「ここで止めろ」と停車を命じて、運転手の顔を素手で殴った。運転手は危険を感じて車外に逃げたところ、男はそのままタクシーを奪い逃走した。タクシーは30分後、約三キロ離れた東京都台東区で見つかったが、売上金8000円が入ったセカンドバッグが盗まれていた。

このぐらいの事件なら20行未満のベタ記事である。おそらく読者の目に留まるか留まらないかぐらいのニュースであっただろう。しかしこの事件から間もなく、とうとう殺人事件が発生するのだ。

発生場所は、今度は東京であった。10月30日、東京都八王子市のゴルフ場脇に停めてあった個人タクシーの車内で運転手が殺されていた。本社社会部の担当である。次に埼玉でも同様な強盗殺人事件が発生した。年の瀬も迫る12月16日午前6時50分ごろ、浦和市の住宅街の路上で停まっていたタクシーの中で運転手が血まみれになって死んでいるのを通行人が見つけ、110番した。浦和署が調べたところ、運転手の首には数ヶ所刃物で刺した跡があり、売上金も見当たらなかった。このため同署は強盗殺人事件と断定、捜査本部を設置した。

タクシーは助手席側が半ドアになっており、殺された運転手のブレザーが車外に落ちていた。おそらく金目の物がないか物色した後、捨てたのであろう。付近の住民は同日未明に2,3回クラクションがなるのを聞いている。新聞配達員が同日午前四時半すぎに現場近くを通った時には、既にタクシーは現場に停まっていたという。

このタクシー会社は東京都墨田区にある会社で、殺された運転手は同日午前2時で勤務を終え、その後は明けで休みの勤務であったという。

タクシー運転手を狙った卑劣な強盗殺人事件は、年を越して1986年1月8日にも発生する。場所は私の住んでいた川口市であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編31) 「メディアって何だ!?(185)」

阪神優勝と高校野球の思い出
手製の鉄パイプ銃を使った自動車修理工場の放火殺人事件がほぼ解決したころ、埼玉県の別の場所では、大きなお祭りのような騒ぎが続いていた。1985年11月2日、埼玉県所沢市の西武球場で開かれたプロ野球日本シリーズ第六戦で阪神タイガーズが西武ライオンズを破り、三度目の日本シリーズ出場で初めて日本一を達成したのだ。セ・リーグで優勝したこと自体、21年ぶりであったため、阪神ファンは熱狂。西武球場では「六甲おろし」が響き渡り、興奮の坩堝となっていた。

この年の阪神はすごかった。一番真弓、三番バース、四番掛布、五番岡田の強力打線が相手投手陣を粉砕、当時のシーズン記録となるチーム219本塁打を記録した。日航機墜落事故では球団社長が死亡するという悲劇を越えての優勝であった。

原稿は基本的に運動部の記者が書くが、浦和支局としても雑感を書かなくてはならなかった。ところが所沢は埼玉といっても、顔は東京に向いている。埼玉県内ではお祭り騒ぎはほとんど起こらず、みな西武線で東京の池袋や新宿へと流れたようであった。それでも何も書かないわけにいかないので、大宮や浦和の西武デパートで残念セールをやっている場景などを原稿にして本社に送った。

ところで、支局の仕事には、全国高校野球の地区予選の取材もある。全試合のスコアを送信するだけでなく、決勝戦ともなると、必ず球場に取材に行き、雑感を書くことになる。私も高校野球の取材で西武球場へ時々取材に出かけた。机のある記者室から見る野球は、また異なる雰囲気があり、面白かった。

余談だが、私も高校時代は甲子園を目指す高校球児であった。中学時代は軟式野球とラグビーをやっていたが、高校生になって初めて硬式ボールを握った。軟式ボールと違って、何と重いこと。中学時代は速球派投手として鳴らした私であったが、硬式野球では勝手が違った。部員が10人しかいない弱小クラブであったため、すぐにエースで四番に抜擢された。しかし、6月にやった最初の練習試合ではめった打ちに遭い、19点も取られてしまった。投手ができるのは私一人しかいなかったので、投球数は256球に達した。ほぼ二試合分に相当する球数だ。

それでも段々コツをつかみ、めった打ちされた一ヵ月後の一年生夏の西東京大会では一回戦2-4で借敗。秋の大会では甲子園に出場したこともある創価を10-8で破り、初の公式戦一勝を挙げた。二年生の夏の大会では一回戦を3-1で突破。しかし、肩を酷使する過剰な練習が祟って、二回戦は完敗してしまった。当時は試合が終わった後も、練習で投げ込みをし、肩を休ませるという発想がなかったのである。試合後も肩は冷やすなと言われ、夏の暑い時期にプールに入ることも禁じられた。今から思うと、なんというバカな練習方法だったかと思う。

肩をこわした私は事実上、二年生の夏で野球部を去った。公式戦の戦績は2勝3敗であった。ラグビーも二年の秋で引退した。左ウイングだったが、公式戦のトライ数は確か3つほどであった。本郷戦での幻の50メートル独走トライは今でも悔やまれるが、その話はまたの機会に。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編30) 「メディアって何だ!?(185)」

怪奇殺人事件
浦和支局勤務の場合、殺人事件のネタには事欠かない。その中で奇奇怪怪な事件もあった。

1985年10月30日午後7時10分ごろ、埼玉県与野市(現在はさいたま市中央区)の自動車修理工場から出火、鉄骨平屋一部二階建ての同工場約100平方メートルを全焼した。焼け跡から、この修理工場を経営していた44歳の兄と、38歳の弟の遺体が相次いで発見された。

浦和西署が司法解剖したところ、兄は銃弾が左胸を貫通したため死亡しており、弟も後頭部に銃器による傷跡があることがわかった。埼玉県警捜査一課と同署は殺人放火事件と断定、捜査本部を設置した。

誰が兄弟を殺したのか。自動車修理工場の国道に面した四枚のシャッターは閉められており、外から何があったかを目撃した人はいなかった。密室で起きた殺人事件である。

二人の遺体から弾痕が見つかったというのも、異様であった。暴力団が絡んだ事件であろうか。しかし、その筋の話は一向に入ってこない。不審者を見たという目撃情報もない。

またもや迷宮入りか、と思われた矢先であった。捜査本部は焼けた自動車の下から加工された鉄パイプを見つけたのだ。どう見ても、自動車の部品には見えない。近くには手製の鉛の弾も見つかった。決定的だったのは、工場二階の弟の部屋の机から見つかった、火薬の入った手製の鉄パイプ容器であった。

凶器は手製のパイプ銃であった。埼玉県警科学捜査研究所が実際に鉄パイプ銃をつくって実験した結果、殺傷能力があることがわかったという。

家族らの話によると、兄弟は鹿児島県出身で、大阪や東京の自動車修理工場で働いて技術を習得。事件が起こる三年ぐらい前に兄が与野市で修理工場をはじめ、その一年後ぐらいに弟も手伝うようになった。しかし兄弟は最近、工場開設資金や弟の仕事振りについて、いさかいが絶えなくなったという。捜査本部はこのことから、弟が鉄パイプで銃をつくり、兄を撃ち放火、自分も後頭部に手製銃を突きつけて弾丸を発射させたという結論を導き出した。ちょっと不自然ではあるが、弾痕の角度などから、これも可能であることがわかったという。

兄を殺さなければならないほどのいさかいとは、本当のところ何だったのか。当人が死んでしまったので、真相を知る者はいない。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編29) 「メディアって何だ!?(185)」

殺人事件の原稿の書き方
ここで殺人事件の原稿の書き方を紹介しよう。
日時と場所から始めるのは、どの原稿も同じだ。殺人事件の場合は、死体が見つかった状況から書く。誰がいつ、どこで、どういう状態の被害者を発見したか。たいていの場合、被害者は倒れている。だから原稿も、「ジョギング中の会社員が、どこどこの路上で男の人が(血を流して)倒れているのを発見、110番(119番)した」などと書く。もちろん、衆人環視の中で発生した殺人事件の場合は、発生状況をそのまま書く。

これを受けて、警察の登場だ。警察や消防が調べた結果を書く。「どこどこ署が調べたところ、男性の胸には鋭利な刃物で刺されたような傷があり、既に死亡していた」とか「男性は病院に運ばれたが、間もなく出血多量で死亡した」などと書く。

次に警察がこの事件を、どういう根拠でどう判断したかを書く。自殺なのか、他殺なのか、事故なのか、その根拠は何かを書けばいい。どう考えても他人がやったとしか思えないような傷が致命傷であれば他殺であろう。被害者本人が凶器とみられる包丁を持っていれば、自殺の可能性もある。誤って高い場所から転落して死亡した事故かもしれない。警察が調べた現場の状況や判断根拠を説明して、最後は「どこどこ署は殺人事件と断定、捜査本部を設置した」とか「どこどこ署は殺人と事故の両面で捜査している」などと書く。

後は被害者の身元と目撃証言である。「所持していた免許証などから殺されていたのは、だれだれさん」などと書く。この被害者に最後に会った人の目撃証言などが後に続く。どういう理由で現場にいたのか。普段と変わった様子がなかったか。通り魔的な要素が強いのか、それとも怨恨か。被害者の足取りを中心に具体的に書く。

殺人事件が発生した場合、通常記者一人(余裕があれば二人以上)が現場に飛び、もう一人は警察を取材して原稿を書く。今まで話したような内容は警察からも取れるが、現場に行った記者は周辺の目撃者を徹底的に取材する。被疑者に結びつくような目撃証言がなかったか。被害者の自宅周辺(最低でも向こう三軒両隣)、被害者がよく立ち寄りそうなクリーニング屋や床屋を探し出して被害者のことを詳しく取材する。

現場の記者から新たな情報が入ってくれば、原稿を差し替えていけばいい。業界では取材が十分にできるようになるまで「殺し3年、火事8年」といわれているので、殺人事件の現場取材は比較的簡単な部類であるといえるだろう。

原稿の最後は通常、被害者の家族構成がどうなっているか(一人暮らし、両親と同居、妻と息子の三人暮らしなど)とか、現場がどういう場所なのか(閑静な住宅街なのか、団地なのか、繁華街や駅からどれだけ離れているのか)といった情報を書いて終わる。

以上が殺人事件の原稿の一般的なパターンである(今度、捜査本部を設置するような殺人事件が起きたら、どのような構成の原稿になっているかチェックしてみてください)。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編28) 「メディアって何だ!?(185)」

世田谷・接骨院院長射殺事件
東京からドンドン人口が流入してくると同時に、犯罪も東京から埼玉県に流入してきた。そのため、被害者も被疑者も東京から来たとみられ、犯行現場だけが埼玉県という事件が多く発生するようになった。

1985年10月10日体育の日の午前4時10分ごろ。埼玉県川越市南大塚の関越自動車道下り線川越インター出口手前の減速車線に止まっていた乗用車の運転席で男の人が倒れているのを巡回中の道路パトロール会社社員が見つけ、119番した。救急車がかけつけたところ、男性は既に死亡していた。

川越署が調べたところ、男性は右側頭部を短銃のようなもので撃たれて、ほぼ即死状態だった。同署は殺人事件と断定、捜査本部を設置した。

殺されていたのは、東京都世田谷区の接骨院院長(41)であった。乗用車はベンツで、エンジンは停止して非常駐車灯が点滅した状態。被害者は左側の運転席で足を組みながら右側に傾けるような形で倒れていた。右こめかみ上部に穴が開いており、解剖の結果、鉛の弾丸が見つかった。

接骨院長は従業員が九人いる接骨院を経営。交友関係が広く、前日から知人宅を転々と遊び歩いていた。10日午前0時45分ごろ知人の女性宅を一人でベンツに乗って出かけた後、行方がわからなくなっていた。

いったい何があったのか。現場こそ埼玉県だが、東京・世田谷の人間である。取材も捜査も、距離という壁があった。もちろん土地勘も無い。暴力団とのトラブルがあったのか。あるいは偶発的な交通トラブルか。同僚の記者は新宿・歌舞伎町まで接骨院長と暴力団の接点を探しに出かけたが、手がかりはなく、まったく雲をつかむような話であった。

そもそも東京まで捜査の手を広げて事件を解決するような能力は、埼玉県警にはなかった。警察も徹底した発生地主義であるため、警視庁の協力もあまり期待できなかった。埼玉県はまさに、未解決凶悪犯罪の多発地帯へと変貌してしまったのである。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編27) 「メディアって何だ!?(185)」

埼京線の誕生
東京への通勤圏であるがゆえに、爆発的に膨張する埼玉県南部の人口。もはや京浜東北線という動脈一本では、東京への通勤客を運びきれなくなっていた。

そこで開業したのが埼京線であった。川越から大宮(川越線乗り入れ)を経て、東北・上越新幹線の脇を並行して南下し、赤羽、池袋に至る通勤新線である。1985年9月30日に川越駅と大宮駅で華やかに行われた式典には畑和知事らが参加、新しい通勤の足の誕生を祝った。当初は赤羽線乗り入れで池袋駅までの運行であったが、翌86年3月には山手貨物線へ乗り入れて、新宿まで直通運転が可能となった。

埼玉県南部に住む人たちの通勤の足は飛躍的に向上した。通勤ラッシュの混雑で苦情が絶えなかった埼玉と東京を結ぶ京浜東北線は、埼京線の開業により30%ほど混雑が緩和した。しかし、それも一時的なものであった。交通の便が少しよくなると、マンション建設ラッシュに拍車がかかり、人口が増える。人口が増えれば、通勤ラッシュが激しくなる。これではまるでイタチごっこである。

埼京線には別の問題もあった。騒音である。もともと埼京線は、上越・東北新幹線を通す際に騒音など公害問題で反対した沿線住民に対する見返りとして約束された新線であった。

ただでさえ新幹線の騒音でうるさい地区に、新たに埼京線という騒音が加わったようなものだ。もちろん便利にはなった。地元の商店街は新たな発展を見せた。ただ同時に、大都会東京から流れてきたような犯罪も増加していったのであった。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編26) 「メディアって何だ!?(185)」

卑劣な殺人2
同一犯による卑劣な犯行なのか、あるいは模倣犯の仕業か、この悪意に満ちた毒入り無差別殺人事件は全国に広がった。

9月19日に福井県の30歳の男性が自販機の受け口にあった毒入りコーラを飲んで3日後に死亡、同20日には宮崎県で45歳の男性が同様に毒入り清涼飲料を飲んで2日後に死亡した。23日にも大阪の男性が毒入り清涼飲料を飲んで、約2週間後に死亡。大阪の男性は、腐ったような臭いがしたため、途中で吐き出したが手遅れであった。つまり、飲んだ毒の量が多いと2,3日で、毒の量が比較的少なくても数週間で、ほぼ確実に死に至るのだ。

そしてとうとう、同様な事件が埼玉県でも発生した。10月6日、埼玉県鴻巣市で44歳の男性が毒入り自販機にあった清涼飲料を飲んで約2週間後に死亡。11月7日、浦和市で43歳の男性が毒入り清涼飲料で九日後に死亡。同17日には、埼玉県児玉郡上里町の17歳の女子高生が自販機にあった毒入りコーラを飲んで1週間後に死亡した。自販機には毒入り飲料に注意の張り紙がしてあったらしいが、女子高生はまさかこのようなところに毒入り飲料が置いてあるとは思わず、軽い気持ちで飲んでしまった。

その間にも、10月15日と28日に奈良県と大阪府でそれぞれ男性が毒入り飲料を飲んで死亡している。7月から11月の4ヶ月間に11人が殺されたわけだ。

毒物は三重県の一件を除き、いずれもパラコートであった。パラコートは当時、最も一般的な除草剤の一つとして広く市販されていた。毒性が強く、人体内に入ると、激しい嘔吐や下痢などの中毒症状が表れ、消化器系の粘膜がただれる。やがて腎臓や肝臓の機能障害が起こり、肺出血を併発して呼吸不全で死亡するのである。

一度破壊された器官は治ることはない。一連の毒入り無差別殺人事件で最後の犠牲者となった埼玉県の女子高生も、一週間苦しんだ末に、治療の甲斐なく亡くなったのだ。

全国で11人もの尊い命が奪われたが、結局犯人はわからず、いずれも迷宮入りとなった。
この事件の後、自販機に防犯カメラを設置するところが出てきたり、スクリュー式キャップを回して開けるタイプをやめて、細工ができないようにレバーキャップを引き抜いて開けるタイプにする清涼飲料会社が出てきたりした。

自販機に余分に製品が出てきたと思ったら、おそらく誰もが軽い気持ちで余分な製品を持ち帰るであろう。まさか毒が入っているとは思わないだろうから、一気に飲み干すに違いない。人間の心理に付け込んだ悪魔の犯罪であった。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編25) 「メディアって何だ!?(185)」

卑劣な殺人1
世の中には、救いようがない卑劣な者がいる。自分は安全な場所に隠れ、ゲーム感覚で人を殺すやつらだ。その卑怯者は、人が死んだり、苦しんだりする姿を見て喜ぶ。それがまるで当たり前であるかのように。

事件は1985年9月10日に発生した。大阪市富田林市の男性が自動販売機の受け皿にあったドリンク剤を自宅に持ち帰って翌11日飲んだところ、急に苦しみだし、その3日後に亡くなったのだ。死因は、農薬のパラコート剤を飲んだときの症状である呼吸困難であった。男性は自販機でドリンク剤を1本買ったが、受け皿には2本あった。販売機の誤作動で2本出てきたと思い、そのまま持ち帰ったらしい。

同じく11日、三重県松坂市で大学四年生が自宅そばの自販機でドリンク剤を買った。ところが1本だけ買ったはずなのに、受け皿には二本あった。大学生は二本とも自宅に持ち帰り飲んだところ、1本目はなんともなかったが、二本目を飲んだ直後から吐き気がして、激痛に襲われ、14日に死亡した。

このほか、二ヶ月前の7月にも京都府福知山市の自販機にあったドリンク剤を飲んだ東大阪市の男性が同様の症状で死んでいたことがわかった。連続殺人事件の可能性が出てきた。大阪府警などは、毒物を混入させた無差別殺人として捜査を始めた。

そしてこの連続無差別殺人は、関西地方だけでなく、東京、埼玉へと飛び火するのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編24) 「メディアって何だ!?(185)」

応援取材と留守番と科学万博
浦和支局のように記者6人の中堅的な支局から2人の記者を応援に出すということは、残された記者の泊まり勤務などの負担が増えることを意味していた。つまり記者4人、デスク1人の5人で泊まり勤務を回す状態が続く。月4回強であった泊まりが6回強になるわけだ。各自予定していた夏休みも大幅な短縮を余儀なくされる。応援組みも大変だが、支局を守る留守番組みもつらい。

実は日航機事故があった8月は、浦和支局から筑波に一人応援を出すことになっていた。当時開かれていた「科学万博つくば‘85」の応援取材である。浦和支局としては断りたいぐらいだったが、筑波のほうでも人がほしいという。私は群馬県藤岡市から帰ってきて一日休んだ後、浦和支局で泊まり勤務を含む1週間の勤務をこなし、再び一日休んで筑波へ飛んだ。

科学万博の取材は、日航機墜落事故の取材に比べ非常に楽な取材であった。一週間の応援期間中、私が書いた原稿は1本だけ。あまりにも暇だったので、各パビリオンの館長らにアポイントメントを取って、取材して回った。特に外国館の館長らに今回の科学万博の意義や評価を聞いた。

6ヶ月の期間中、2000万人が来場するという盛況だったこともあり、運営に関してはおおむね評価は高かった。ただテーマが「人間・居住・環境と科学技術」という割には、影像とロボットのアトラクションが中心で環境や自然を考えさせられる展示が少なかったとの声も聞かれた。実際、どの博覧会会場もそうかもしれないが、会場ができる前は鳥やタヌキが生息する自然豊かな雑木林だったのだ。それがアスファルトに覆われ、騒音が増え、夜は光でまぶしくなった。これではただの環境破壊である。

人気パビリオン前に並ぶ長蛇の列は、大阪万博を思い出させた。入館待ち対策も十分ではなく、中には半日も待たされるパビリオンもあった。

夏休みにはるばる日本全国からこの科学万博にやってきた子供たちも多かった。墜落した日航機にもそうした子供たちが乗っていたのを私は思い出していた。科学万博は9月16日閉幕した。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編23) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故9
私にとって日航機事故の取材は、汗と死体の臭いとともにあった。しかし、もっと悲惨な思いとともにあるのは、おそらく墜落現場の凄惨な光景を見た記者たちであっただろう。私は遺体安置所で棺が並べられるのを見たが、死体までは見ていない。取材で遺体の有様を聞いただけであった。

聞くと見るとでは天と地ほどの差がある。以前にも話したが、その墜落現場を取材したのが、登山経験の豊富な、長野支局の同期の沼沢均記者であった。彼は現場で救援活動をする自衛隊員と寝食をともにし、取材活動を続けた。皆、夜は御巣鷹の尾根の地べたに寝転がるように眠り、昼は真夏の太陽が照りつける中、草木の茂る山の急斜面を上り下りしながら活動した。

飛び散った赤い肉片や、木に引っかかった遺体――地獄のような光景がいやおうなく目に飛び込み、遺体の腐った臭いが鼻を突く。死臭に群がる虫たちとも昼夜を問わず格闘した。その後しばらく、阿鼻叫喚地獄の光景がどうしても頭に浮かんで、消えることもなかったであろう。

一週間経つころから、地方の支局から応援に来ていた記者は、別の応援組と入れ替わることになった。浦和支局からは私を含め二人が発生直後から応援組として派遣されていたが、ちょうど一週間後に浦和支局の別の二人が交代要員として派遣されてきた。私たちの藤岡での任務もこれで終わりである。

ほとんど着の身着のまま藤岡にやってきて一週間。怒涛の取材の日々であった。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編22) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故8
このような大事故を引き起こした原因は何であったのか。構造的な欠陥か、操縦ミスか。構造的欠陥が原因だとしたら大問題である。事態を重視した米ボーイング社と米国連邦航空局の調査員は14日午後には来日、事故調査を始めた。

墜落当初から、尾翼部に異常な力が働いていたことが運輸省航空事故調査委員会の調べでわかっていた。事実、事故機の垂直尾翼は墜落前に破損して、相模湾に落下している。では尾翼部で何が起きたのか。御巣鷹山の墜落現場に着いた米国の調査団がまず真っ先に足を運んだのが、機体後部の圧力隔壁であったといわれている。

圧力隔壁――。この聞きなれない言葉も、この日航機事故以来、ごく一般的な時事用語となった。圧力隔壁は客室の最後部の壁で、機内の気圧を保つ役割がある。これが破損すると、客室内は急減圧が起こり、室温も急低下する。

日米合同調査の結果、運輸省航空事故調査委員会は「後部圧力隔壁に疲労亀裂があり、そこから隔壁が破れて、客室内の空気が噴出。その勢いで垂直尾翼や尾部が破壊された。垂直尾翼などを失った事故機は制御不能となり、墜落した」という主旨の報告書を発表した。

同調査委員会は伏線として、1978年に事故機が伊丹空港でしりもち事故を起こした際、圧力隔壁の修理ミスがあったことを挙げた。

しかし、本当に修理ミスが原因であったのか。圧力隔壁が破壊されたのなら、なぜ気圧の急減圧が起こらなかったのかなど疑問点もあり、今でも別の原因があったのではないかと考える研究家も多い。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編21) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故7
遺体安置所のシーンは雑感の材料となるが、それだけでは原稿にならない。私のもう一つの“職場”である遺族の控え室では、それぞれの遺族が語る被害者にまつわる話が物語として原稿となった。

墜落した日航機にはさまざまな人が乗り合わせていた。一人一人には語りつくせないような人生の重みがあり、ドラマがあった。メディアがそれらのすべてを伝えたとは、到底思っていない。しかし、各社可能な限り遺族を取材し、彼らが歩んできた人生の生き様を紹介した。

私は英語が話せるということで、主に外国人被害者遺族の取材を担当した。ドイツ人の被害者遺族は、日本人から見るとかなりあっさりとしていた。文化的な違いもあるのだろうが、火葬場では故人が生前大好きだったビールを捧げ、皆で乾杯した。

足首から先しか見つからなかったイギリス人被害者もいた。決め手は外国製の靴と大きな足。それでも、あのような悲惨な事故で遺体の一部でも見つかれば、幸運であった。

事故機には著名人も乗っていた。歌手の坂本九さん、阪神タイガーズの中野肇社長、ハウス食品工業の浦上郁夫社長らだ。

私は坂本九の妻、柏木由紀子さんの記者会見を担当した。当時柏木さんは報道陣の目を避けるように近くの旅館にこもっていた。日航側が用意した遺族の控え室に行くと、報道陣が詰め掛けると思い、顔を出さなかったのだ。しかしこのままでは埒が明かないと判断、14日夜に報道陣を滞在先の旅館に招き、記者会見を開いた。そのときはまだ坂本九さんの遺体は見つかっていなかったので、柏木さんは目に涙を浮かべ「早く会いたい」と声を詰まらせていた。

坂本九さんの遺体は二日後の16日夜、実兄が身元確認した。遺体確認の決め手となったのは、「芸道を極めるため」に坂本さん本人が特別注文したペンダントであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編20) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故6
14日は早朝から雑感取材で駆け回った後、午後からは続々と現地を訪れる犠牲者の遺族の取材に追われた。地元の体育館などには、墜落現場から次々と遺体が運ばれてきていた。

遺体にも明暗がある。最初のころ運ばれてくる遺体は五体満足のものが多く、身元の確認も比較的容易であった。もちろん遺族にとっては、どのような遺体でも悲しいことに変わりがない。しかし日が経つにつれて運ばれてくる遺体は傷みが激しく、五体満足なものが少なくなってくる。手足がもがれたような遺体と対面しなければならなかった遺族の衝撃は、いかばかりであっただろうか。

前線での私の“職場”は、その後の約一週間、遺体安置所と遺族の控え室であった。遺体安置所は体育館が使われた。運ばれてくるのは、身元が確認された遺体。日航が用意したとみられる白木の棺に入れられた遺体が一つ、また一つと入ってきて、一つずつ台(テーブル)の上に置かれる。広い体育館がほぼ満杯になるのにそう時間はかからなかった。記憶では、こうした体育館が2,3箇所あった。

強烈な印象として残っているのは、白木の棺の内側から染み出てくる体液とみられるシミであった。白い棺の下部を大きなシミが広がってゆく。おそらく棺には腐乱を防ぐためドライアイスなどが入れられているのだろうが、いかんせん真夏の猛暑である。遺体が腐り始めるのにも、そう時間はかからない。防臭剤の薬品と死臭が混ざった甘酸っぱいような臭いで、体育館は充満していた。

私の職場は遺体安置所であったために、編集庶務の人は遺体安置所にお弁当を届けてくれた。私はそれを体育館の片隅に置かれていたテーブルの上で食べた。遺体の臭いが漂う中、あるいは遺体を前にしてお弁当を食べるのは最初、気が引けたが、持ち場を離れるわけにもいかないし、ほかに適当な場所もない。遺体が安置される光景を見ながらの食事を続けた。

遺体安置所に一時置かれた遺体は、遺族の希望があれば近くの葬儀場で葬儀をした後、火葬場で荼毘に付された。もちろん地元に遺骸を持ち帰り、そこで葬儀をする遺族もいた。一方、なかなか迎えに来ない棺もあった。かなり遠方の被害者で、親族が集まるのを待っているのかもしれなかった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編19) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故5
救出作業に当たっている人たちや駆けつけて来た遺族らの取材で藤岡市内のあちこちを駆け回り、その日の夜、共同通信の前線基地がある同市内の旅館に戻ると、旅館内の一室に設置された作業場はお通夜のような雰囲気になっていた。それまで外を走り回っていた記者たちはそのとき初めて、共同通信が夕刊段階で誤報をしてしまったことを聞かされた。そしてそれが、ムードを暗くしていたわけだ。

しかし、いつまでも過去をひきずるわけにはいかない。黙々と作業をしなければならない。通信社の作業も、新聞社同様、時間ごとに早版があったり、遅版があったりする。朝刊早版が大体午後10時ごろ、遅版は真夜中ごろをめどに原稿を出稿することになっている(最終的な締め切りはそれぞれ午後10時45分ごろと、午前1時45分ごろ)。

なぜこのように早版や遅版があるかというと、新聞社が遠隔地への新聞の配送に配慮して、早めに締め切りを設定する地域があることから生まれた。印刷所から遠い場所は早版になるが、印刷所に近い場所は配送時間が短くてすむので、遅版が読めるわけだ。朝日新聞で言えば、夕刊4版と朝刊14版は遅版、夕刊3版と朝刊13版は早版である。

これとは別に統合版という原稿も書かなければならない。夕刊を発行していない加盟紙のために、夕刊で書いた内容を含む朝刊用の原稿を送信するのだ。たとえば本記を担当する記者は統合版本記、早版本記、遅版本記と書きわけていかなければならない。これは雑感と呼ばれる種類の原稿でも同じで早版用雑感、遅版用雑感と書き分ける。

藤岡の前線本部では、早版の作業が終わったころ、翌日の取材態勢を確認しながら、それぞれの担当を割り振った。お前は夕刊の早版本記を担当しろとか、遅版の雑感を担当しろ、などだ。その割り振りに合わせて朝早く起きる記者とやや遅くまで寝ていていい記者とに分かれる。翌14日は、私は早版雑感担当となり、朝5時半起きとなった。すでに真夜中を過ぎていた。

寝る部屋は大部屋で、本社や地方から駆けつけた記者やカメラマン、編集庶務、通信部の人たちがゴロゴロと雑魚寝状態であった。編集庶務とは、取材には欠かせない部署で記者の宿泊地の確保や車や弁当の手配、資材の調達などをしてくれる。通信部は、新たな電話や専用回線の設置、原稿や写真の送稿など通信網の確保などをやってくれる。このように取材前線本部には、様々な部署から多くの人たちが派遣されていた。

人数分の寝床が確保されているのも、編集庶務のおかげである。私も何とか寝場所を見つけて、ようやく眠りについた。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編18) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故4
大事故に生死をわける明暗があるように、大きなニュースを報道する側にも明暗が分かれることがある。フジテレビは13日のお昼のニュースに生存者が救出される影像を流すことに成功した。大スクープである。無線もラジオも通じないような山の中からどうやって影像を東京に送ったのか。詳しくは知らないが、墜落現場の上空を飛ぶフジテレビのヘリコプターを中継基地にして東京に電波を飛ばしたらしい。13日夕刊段階では、フジテレビの圧勝である。しかし、その夕刊勝負のニュースで大失態をさらしたのが共同通信であった。

東京や大阪のような大都市では警察などの広報体制も整備されているのであまりそういうことはないが、大事件や大事故の少ない地方では、詰め掛ける大規模報道陣をさばけずに、トラブルになるケースが多い。群馬県でも例外ではなかった。

それぞれの現場では取材の段取りを決める報道担当者がいないと混乱する。生存者が運ばれたヘリポートにも、そのような担当はいなかった。報道機関に対する窓口も一本化されておらず、情報も乱れ飛ぶ状態。さらに報道機関を欺くようなダミーまで登場すると、取材現場は大混乱となる。

その混乱の中で、共同通信は大誤報をしてしまう。生存者を4人ではなく8人と報じてしまったのだ。当然、全国の加盟社も夕刊で「生存者8人」という見出しが踊ってしまった。実は他社も早版段階では生存者8人という報道をしているところもあった。ところがどうもダブルカウントらしいということがわかり、遅版では生存者4人と修正しているのだ。

たとえば朝日新聞13日夕刊の遅版(4版)を見ると、見出しは「日航機に生存者4人」とあり、リードの部分で「このほかにさらに4人の生存者がいるとの情報もあり、確認を急いでいる」とあくまでも不確定な情報として紹介している。

ところが共同通信はこの修正ができなかった。早版段階での8人生存説にひきずられ、遅版でも不確定な情報であったにもかかわらず見出しに8人と打ってしまった。私もヘリポートの現場で何人生存しているか消防署員や警察官にたずねた。四人という説と別に四人いるという説を言う人もいた。その根拠を聞いてみると、通信社の報道であるという。つまり同じ情報が、それぞれの混乱した現場で新しい情報としてぐるぐる回っていたのだ。

大事件や大事故に不慣れな地方の貧弱な広報体制、そのため大混乱する取材現場――。統制がとれていないそれぞれの現場では噂が飛び交い、収拾がつかなくなる。ついには噂が一人歩きし、それが根拠のある情報のように伝わる。その中で誰もがにわか報道官となり、その情報を垂れ流してしまう。おそらくそのような状況から、8人生存というまことしやかな情報が生まれてしまったのだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編17) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故3
墜落現場は群馬県多野郡上野村であったが、群馬県の現地対策本部は藤岡市に設置された。午前九時ごろ、私は本社社会部デスクとともに黒塗りの車に乗り込み、その藤岡市に向かった。地方支局での取材はタクシーを使っていたので、社が借り上げている黒塗りのハイヤーを使うのは初めてであった。

関越自動車道を北上すること90分、午前一〇時半ごろには藤岡市に到着したと思う。私は社会部の先輩記者とともに藤岡市の体育館などに収容される遺体の雑感取材を担当することになった。そのときはもちろん、生存者がいるなどとは思ってもいなかった。

生存者がいることがわかったのは、午前11時ごろであった。四人の生存者がいるという報が墜落現場から入ったのだ。私は先輩記者とともに、生存者が運ばれてくると思われるヘリポートへと急いだ。

後に現場の様子が伝わってきた。機体は大破し、主翼や胴体はばらばらに散乱していた。尾根や谷のあちこちに手足がもがれた遺体が散らばる凄惨の光景だったという。その中で生存者は絶望視されていたが、幸いにも後部座席にいた四人が機体の隙間に守られるように生存していた。たまたま機体後部衝撃が直接の衝撃を受けた前方部分よりも緩やかだったことが明暗をわけたらしい。事実、前方に座っていた人のほうが遺体の損傷が激しかったという。

私たちは藤岡市のふもとのヘリポートで、生存者が運ばれて来るのをカメラマンとともに待った。おそらく正午ごろだったと思うが、自衛隊のヘリが到着した。自衛隊員らが担架を運び出す。その担架に向かって殺到する報道陣。しかしその担架は、毛布と枕だけのダミーであった。その間に、本物の生存者を乗せた担架は別の出口に一目散に走っていた。ダミーを使って、報道陣を煙に巻いたわけだ。

なぜ、そのようなことをする必要があったのか。おそらくそこには、報道陣に対する不信感があったのだろうが、逆に取材現場はこれで大混乱になってしまった。救助隊と報道陣の仲は険悪になり、トラブルが頻発した。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編16) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故2
午後九時ごろから、テレビ各社は日航ジャンボ機の墜落事故を大々的に報じ始めた。
私はそのとき、勤務を終えて川口市の自宅でくつろいでおり、ぼんやりとそのニュースを見ていた。

正直な話をすると、現場が群馬県と長野県の県境と聞いて、ほっと胸をなでおろしていた。新聞社も警察と同様、発生地主義といえる原則があり、発生場所(この場合は墜落現場)のある支局(前橋支局)が責任をもって事件・事故をカバーする。もし埼玉の山奥に墜落していたら、浦和支局員総出で取材し、しかも最低でも一ヶ月は休みがなくなることを意味した。

御巣鷹山とはどこだろうか。地図を見ると、長野・群馬県境といっても、かなり埼玉県にも近いことがわかった。おそらく数秒間早かったり遅かったりしたら、埼玉の山中に落ちていただろう。

ただ、これだけ現場が近いと、応援取材には行かなくてはならない。案の定、支局のデスクからすぐに電話がかかってきた。話を聞くと、現場へは本社と長野支局から登山経験の豊富な記者やカメラマンが派遣されることになり、浦和支局からは現場に向かわなくていいことになったようだ。その代わり、早朝から本社の名簿班に応援に行ってくれということになった。

名簿班の仕事は、乗員・乗客名簿を手がかりに、手分けをして手当たりしだい留守宅に電話して家族から取材をするものであった。524人全員の簡単なプロフィールを作ることが主眼だ。私は13日午前6時ごろには本社に出社し、午前7時ごろから留守宅に電話をかけ、家族から「どのような仕事をしている人なのか」とか「大阪へは何をしに行くところだったのか」とか「出かける前に何か言ってなかったか」といった内容の取材を始めた。

午前8時ごろ、突然取材方針の変更があった。名簿班に応援に来ていた記者は急きょ、群馬県の現地対策本部ができた藤岡市に飛ぶことになったのだ。どうも長期戦になるらしい。私はその日のうちに帰れるのかと思い、泊り込みになるとは予想していなかった。何も用意をしておらず、まさに着の身着のまま、その後1週間、真夏の藤岡市で過ごすことになったのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編15) 「メディアって何だ!?(185)」

日航ジャンボ機墜落事故1
2月と8月は「ニッパチ」といって事件事故も少なく、平穏な日々が続くはずであった。しかしそのような暇なはずの月に限って、大事故や大事件が起きることもある。1985年8月12日もそうであった。

埼玉県所沢の東京航空交通管制部に羽田発大阪行きの日航123便(ジャンボ機)から異常を知らせる緊急通信が入ったのは、午後6時27分だった。続けて33分には「大阪への飛行をあきらめて引き返す」、38分には「機体の調子がおかしく操縦が難しい」と相次いで連絡が入った。

さらに39分、今度は日航オペレーションセンターに「機体右最後部のドアが壊れた。気圧が下がっている」と交信してきた。同センターが「名古屋、東京のどこに緊急着陸するのか」と尋ねたが、返答はない。その後二回、同機からは「操縦不能」という通報があった。

一体何があったのか。後部ドアはどうして壊れたのか。地上が123便の緊急異常事態を思い測ろうとしている中、同57分、羽田のレーダーから機影が消え、続いて7時01分、所沢の管制部レーダーからも消えてなくなった。

墜落したのだ。レーダーから最後に消えた地点に向け、航空自衛隊救難ヘリが百里基地を飛び立った。長野県境に近い群馬県の御巣鷹山付近である。午後8時35分、現場付近に到着したヘリが目撃したのは、幅、長さ150~200メートルにわたって立ち昇る炎と煙であった。暗闇の中、目を凝らすと、航空機とみられる残骸が散乱している光景が浮かび上がってきたのだった。

乗員15人、乗客509人、計524人が乗ったジャンボ機が墜落するという大惨事だ。おそらく上空からこの光景を見た航空自衛隊員は全員絶望だと思ったに違いない。しかし、実はこのとき、多くの乗客がまだ生きていた可能性があったのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編14) 「メディアって何だ!?(185)」

草加女子中学生殺人事件と匿名報道
少年事件では、被疑者は匿名となる。草加女子中学生殺人事件でも、逮捕・補導された6人の少年はA,B、C、D、E、Fであった。

こうなるとメディア側は、取材が非常に困難になる。とにかく名前も住所もわからない人間の周辺を取材しなければならないのだ。これを割りだすだけで、莫大な労力を費やさなければならなくなる。事件発生場所が支局に近ければまだいい。ところが草加市のように浦和から行くのにも不便な場所では、取材は進まない。当然、警察の情報に頼ることになってしまうのだ。

警察発表では、被害者にAB型の体液が付着していることには秘されていた。私たち報道関係者が知ったのは、かなり後になってからだ。ご存知のように、警察や役人というものは、可能であれば都合の悪いことは決して発表しない。自分たちに都合のいいことだけを発表して、世論操作しようとするのが常である。

少年事件ではやむをえない場合もあるだろうが、権力者たちは自分たちが情報をコントロールすることを好む。情報を権力闘争に使えるからだ。

最近、マスコミバッシングと連動して被害者保護を名目に、匿名にするか実名にするかを警察が判断できるようにしようという動きがあるが、それは言語道断である。この件に関しては千葉市教委のケースが、権力側に匿名か実名かを判断させるとどうなるかを如実に示している。自分たちの都合の悪いときは匿名にするのである。

千葉市教委のケースとは何か。
事件は今年6月19日夜に発覚した。千葉市立小学校の教諭が住宅に侵入し下着泥棒をしているところを家人に見つかり、捕まったのだ。一ヵ月後の7月19日、市教委は犯人の教諭を匿名にして発表した。理由は「被害者が匿名を望んでいる」からであった。

ところが「被害者が匿名を望んでいる」事実はなかった。市教委がでっち上げたのである。新聞記事を読んだ被害者の家族が、市教委や報道機関に「事実と違う」と電話したことでようやく発覚した。市教委は21日、虚偽発表を謝罪したが、匿名は貫いた。それでも「うそつき市教委」という抗議が全国から殺到したため、市教委は24日になってしぶしぶと実名と学校名を公表した。その際、市教委側は「都合のよくない情報を隠そうという気持ちがあったかもしれない」と白状している。

北海道警裏金事件でも、同様な茶番劇が起きた。このように権力を握るものは、ウソをついてでも都合の悪い事実を隠そうとするのである。

メディア批判の世論を盛り上げ、法律などでメディアの力を徐々に削ぎ、情報管理を強めていく手口は、実はアメリカで横行したことである(これについてはいずれ詳しく述べたい)。日本もこのままで行けば、情報がもっと権力者側に集約されることになりかねない。政府は都合のいい情報だけを垂れ流し、都合の悪い情報は日の目を見ることはなくなるだろう。情報捜査は日常茶飯事となり、政府に反対する意見は抹殺される。やがて世論が行き着く先は決まっているではないか。

今日は日航機墜落事件から21年。思えば21年前の夜、浦和支局のデスクからかかってきた電話が、この事件にかかわるきっかけとなった。その話はまた明日。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編13) 「メディアって何だ!?(185)」

草加女子中学生殺人事件4
アメリカではよく、刑事裁判で無罪となったが、民事裁判で犯行が認定されるケースがある。有名なのは、アメリカンフットボールの元花形選手O・J・シンプソンが妻を殺したとされる殺人事件だ。高額な報酬で動く“優秀な弁護士”があの手この手で捜査当局の矛盾を突き、無罪を勝ち取るという図式がそこにはある。しかし、草加女子中学生殺人事件では、刑事裁判で有罪となった被告が民事裁判で無罪相当の判決が下る。それは、“優秀な弁護士”というよりも、被疑者の自白に頼った「無能な捜査当局」によってもたらされた悲劇でもあった。

被害者少女家族による損害賠償請求訴訟の一審判決は1993年3月31日、浦和地裁で下された。判決では少年審判で有罪が認定された強姦、殺人の事実は認められないとして原告の請求を棄却したのだ。

しかしながら、民事裁判はこの後、迷走する。翌94年11月30日にあった控訴審の判決では、強姦などの事実が認定され、少年の親に約4600万円を支払うよう命じたのだ。ところが最高裁は2000年2月7日、「捜査段階の自白は任意性において問題がある」として、二審判決を破棄、審理のやり直しを命じた。

この最高裁判決において決め手となったのはやはり、被害者に付着していた体液の血液型であった。「垢と少年の唾液が混合し、AB型を示した可能性がある」と認定した二審判決について、「唾液の血液型はAB型と認めるほかなく、わずかな理論的可能性を根拠に、唾液の血液型がB型であると可能性があるとした判断は是認できない」と判断、真犯人はAB型ではないかとの疑念を提示した。

差し戻し控訴審は2002年10月29日、損害賠償請求を棄却、上告申し立ても取り下げられ、翌2003年3月21日、少年らの「無実」が確定した。事件発生から既に18年近くが経過していた。少年らがやっていないとしたら、真犯人は誰なのか。今となっては、真相もわからないままである。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編12) 「メディアって何だ!?(185)」

草加女子中学生殺人事件3
この事件の最も大きな矛盾は、被害者少女から検出された加害者のものとみられる体液が容疑者少年らの血液型と一致しなかったことであった。

少女のスカートからは精液が、乳房からは唾液が検出されたが、いずれもAB型の血液であった。ところが逮捕された少年らはB型かO型(被害者少女はA型)で、AB型はだれもいなかったのである。

この事実を最初にスクープしたのは、確か東京新聞だった。おそらく被疑者少年の弁護士から情報を得たのであろう。血液型が一致しないのであれば、冤罪の可能性が出てくる。埼玉県警記者クラブは色めき立った。

私も事実を確認しようと、埼玉県警捜査一課蝶、刑事部長、浦和地検刑事部長に当たった。彼らは一様に「その件は決着している」「自白の信憑性に問題はない」などと話すばかり。冤罪の可能性を全面否定する。思えば、富山支局で県警を担当していたときも、富山長野連続女性殺害事件のK被告に話が及ぶと、警察官は必ず「Kが有罪なのは絶対に間違いない」と口を揃えていた。しかし事実は、Kは無罪であったのである。

草加の事件は、少年審判で少年全員が強姦、殺人に関与したとの事実が認定され、少年院送致(ただし一人は教護院送致)処分が下った。問題の血液型の不一致については、家出をすることもあった被害者少女が、事件とは別の機会に精液を付着させるような事柄があった可能性もあり、乳房に付着した唾液も、被疑者少年のB型の唾液と被害者少女のA型の垢が採取時に混ざった可能性があると判断したようだ。

少年らは抗告したが、抗告審でも、強姦に関しては未遂であったとしたものの殺人は認定され抗告を棄却、最高裁も1989年7月再抗告を棄却した。

こうした動きを受け、被害者少女の両親は1989年1月、殺害の実行行為者とみられる少年三人の親を相手取り、総額5500万円の損害賠償を求める民事訴訟を提起した。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編11) 「メディアって何だ!?(185)」

草加女子中学生殺人事件2
草加女子中学生殺人事件には多くの矛盾や疑問点がある。

冤罪だとしらた、なぜ彼らは犯行を自白したかである。被疑者である少年らは任意で事情を聴かれた7月23日のその日のうちに、三人が殺害を自白した。うち二人は一貫して自白内容を維持、監護措置決定の際も殺害を認めていたが、8月19日に否認に転じた。すぐに殺害を自白したもう一人も、否認に転じた二人の審判の証人として出頭した際も殺害の事実を証言したが、9月6日の審判では否認に転じた。

当初否認していた別の少年は8月5日に自白に転じ、8月13日に教護院装置の決定を受けた後も事件に加わったことを認めていたが、9月3日ごろに父親と姉に面会した後から否認に転じた。

当初否認していたほかの二人も、事件への関与を自白する供述を始めたが、一人は9月12日の審判で再度否認に転じた。

否認から自白、自白から否認へ――。クルクルと目まぐるしく変わる供述は何を示しているのか。自白が捜査当局により強要された可能性はある。

捜査当局には逮捕された少年らを疑う理由はあった。彼らは中学生ら少年でありながら、自販機荒らしや自動車盗を繰り返す札付きの非行グループであった。そのグループの一人が、殺害されたと見られる日に被害者少女を見たと証言したことを突破口に、非行グループに対する取調べを始めたのだ。捜査当局による強い思い込みから、少年らが誘導尋問に屈したのかもしれない。

もちろん、彼らが実際に犯行を実行した可能性もある。しかし、物証がない。むしろ物証は彼らの犯行を否定するようなものであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編10) 「メディアって何だ!?(185)」

草加女子中学生殺人事件1
浦和支局に赴任して三ヶ月半が経った1985年7月19日。女子中学生が乱暴されて殺されるというおぞましい事件が発生した。

同日午後1時半ごろ、埼玉県草加市の建設会社の残土置き場で若い女性がほぼ全裸の状態で仰向けになって倒れているのを整地中の作業員が見つけ、埼玉県警草加署に届け出た。首に布状のものが巻きつけられ締められたような跡が残っていたことから同署は殺人事件と断定、捜査本部を設置した。

殺されたのは、埼玉県八潮市内に住む中学三年生の女子(15)で、死後約20時間経っていた。遺体の脇には、その女子中学生のものとみられる衣類が丸めて捨ててあった。

捜査本部は事件直後から、現場付近で以前から車上荒らしなどをしていた非行グループに目をつけ、捜査を進めた。そして事件発生から4日経った同月23日深夜、事件発生前後に怪しい行動を取っていた八潮市内の中学三年生(14)、中学二年生(14)、家事手伝いの少年(15)の三人の少年を婦女暴行と殺人の疑いで逮捕したのである。捜査本部はこの後、ほかに三人の少年を共犯として逮捕している。

中学生の少年らが女子中学生を乱暴した上に殺すという稀にみる凶悪事件。逮捕された6人はほどなく“自白”し、事件は決着したかに思われた。しかし、事件はまったく解決していなかったのである。6人のうち二人がのちに公判で自白を撤回、刑事事件では有罪が認定されたが、民事事件では証拠と自白には矛盾があるとして無罪相当の判決が下ったからだ。

冤罪だったのか。では真犯人は誰か。なぜ殺人を自白したのか。この事件は容疑者の自白に頼りすぎるという警察の取調べに対する大きな問題点をも浮き彫りにした。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編9) 「メディアって何だ!?(185)」

泊まり勤務と平日ゴルフ
浦和支局勤務時代はまだ、週休二日制ではなかった。基本的に四週間で五回休めるという四週五休制で、日曜日が休みとも限らなかった。とにかく一日の休みが貴重であったので、その日は目一杯遊んだ。

当時はまだ若かったので、ゴルフ場が使う農薬が環境に与える悪影響などさして考えもせず、ゴルフに興じていた(今は環境破壊に抗議する意味でゴルフはやっていない)。私が住んでいた川口市には荒川河川敷にゴルフコースが二つあった。一つは18ホール、パー68のコースで、一ラウンド6800円ぐらいで回れた(普通のゴルフコースは当時1万円以上かかった)。もう一つは9ホール、パー36のコースで、最初のハーフは3000円、二度目のハーフは1500円であった。さすがに休日は混んでいるので、平日の休みのときにこのゴルフコースに通った。

特に月5回ある泊まり勤務のときには、平日ゴルフを楽しんだ。泊まり勤務は夕方5時からなので、午前11時ごろスタートすれば、十分に一ラウンド回れる計算であった。

面白いのは、平日ゴルフにやってくる顔ぶれであった。もちろんサラリーマン風の人はほとんどいない。皆、自由業という感じの人ばかりで、パンチパーマのお兄ちゃんも多かった。しょっちゅう河川敷のゴルフ場に来ているらしく、パンチパーマのお兄ちゃんたちは攻略法をよく教えてくれた。「このホールはパー4だけど、右側のコンクリートの堰堤を使えばワンオンできるよ」など、役に立つアドバイスが多かった。

ゴルフをしないときは、テニスをした。川口市の栗原さんという大地主が経営している「チャンプラケットクラブ」というテニスクラブに入った。やはり休日はすごく混むので、平日クラブに出かけた。平日は主婦ばかりかというと、そうでもなかった。多かったのは消防署の人たちであった。彼らも勤務が不規則で、泊まり勤務が絡む平日にテニスをする。腕っ節が強く、強打を連発するが、ちょっと荒っぽいテニスをした。私はとにかく運動するのが好きだったので、主婦だろうと消防署員だろうと、誰とでも相手をして試合をした。このテニスクラブには強い選手がそろっていて、埼玉県のクラブ対抗で準優勝するほどであった。

ただし、やがて事件が多発し、勤務がきつくなってくると、泊まり勤務の日にゴルフをしたりテニスをしたりする余裕もなくなっていった。体力的にもきつくなり、テニスは続けたがゴルフからは足が遠のいていった。

夕涼みの猫たち

第三の黒猫

夕陽です。
夕陽

昨日は中野区立中央図書館に行ったついでに近くの猫ちゃんたちを見に行ったら、夕涼みの最中でした。

ある神社にいた猫ちゃん。

猫

神社には日影がたくさんあり、涼むにはちょうどいいですね。

猫

いつもの公園のクロちゃん。妹のほうですね。

黒

水飲み場の台の上に乗っています。夕闇が迫ると、黒は保護色になってしまいます。

次も保護色でよくわかりづらいですが・・・

黒

「ああ、よく寝た」
アーチを作って、ちょっと伸びをしています。

暑いね。妹のクロちゃんは今度は地べたで夕涼み。

黒

お兄さんの黒猫もやって来たのですが、カメラを向けると近づいてきてしまうので、近すぎてうまく撮れません。

そのとき、公園の片隅に別の黒猫ちゃんがいることに気がつきました。

黒

「第三の男」ならぬ、第三の黒猫ですね。
このクロちゃんが兄妹ネコちゃんとどういう間柄なのか、こんど近所の人に聞いてみようと思います。ちょっと耳の後ろに怪我をしていました。

次のネコは以前にも紹介したデブ猫ちゃん。クロの兄妹と仲のよい飼い猫です。

ネコ

「フーッ。暑くてたまらんぜ」

以上、中野の夕涼みのネコちゃんたちでした。

猫のいる風景

▼ミケと縄張りと空き地の猫
一昨々日の水曜日。千駄ヶ谷のプールで1550メートル泳いだ後、ミケちゃんの玉座
のそばを通ったのですが、ミケがいません。すると、いつもとは違う場所でミケを見つけました。

猫

右手奧にはミケの玉座が見えますね。本当は玉座の向こう側がミケの縄張りのはずなんですが、テリトリーを少し広げたのでしょうか。

ミケ

どっこらしょ。

こちら側の遊歩道には、何匹か猫ちゃんが共存しています。

ヤブの中にいた猫ちゃん。

猫

首輪をしていますね。
おっ、後ろに猫の気配が。

猫

立ち上がって様子を探ります。

猫

後ろにある空き地にいたのは、この猫ちゃん。

猫

向こうにはクロちゃんもいますね。

空き地の猫

猫のいる、いつもの風景でした。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編8) 「メディアって何だ!?(185)」

勤務シフト
新聞記者の時間外勤務(超過勤務、略して過勤)は長い。富山支局時代はたいしたことがなかった。基本勤務時間は9-19時、夜勤勤務14-24時、日曜祭日勤務12-24時となっており、大きな事件がなければ(大きな事件は実際ほとんどなかった)月40―50時間の過勤時間であった。これは記者職としてはかなり少ないほうである。

ところが浦和支局ではそうはいかなかった。基本勤務は10-18時、夜勤が10-21時、泊まり勤務が17-24時、明け勤務が6-17時となっていた。このシフトだと月40時間程度しか過勤時間がつかない計算だが、浦和は事件が多いのでサツ担当は常時月60時間を超え、多いときは90時間に達することもあった。

しかし浦和支局の過勤も、本社勤務に比べたら少ない方であった。私が所属した経済部では常時月70時間、大蔵省(現財務省)担当の場合で予算編成時期などは月の超過勤務時間は150時間に達することもあった。月150時間というのは、どういう勤務かというと、基本勤務が10-24時、時には早朝から勤務したり明け方まで勤務したりすることもあり、休日や祭日はまず取れない状態である。

当然、人間の体力の限界を超えてしまうので、発表などがない時間を見計らって記者会見室のソファの上で昼寝をする。おそらく今でも財務省の記者会見室に午後二時ごろ訪れれば、電気を消した室内で新聞記者がごろごろとマグロのように寝そべって惰眠をむさぼっている光景を見ることができるはずである。

それでも経済部はまだ、ましなほうである。本社社会部のサツ回りや政治部の番記者などは常時超過勤務時間が月100時間を超え、大事件や政局があったときには150時間に達することなどザラだからだ。もちろん、これでは体が持たないので、暇なときはとにかく休む。

こんなに拘束時間が長くても過労死する人間が少ないのは、新聞記者には惰眠をむさぼれるような自由な時間が残されているからだと思う。もし会社側がすべての時間を管理するようになれば、多くの記者の墓標が立つことだろう。

共同通信の勤務シフトには矛盾があった。既に述べたように青天井の残業手当が支給される過勤制度はやがて廃止され、事実上の裁量労働制へと劇的に変わるのだが、それはまだ先の話であった。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編7) 「メディアって何だ!?(185)」

新聞記者の給料と手当て
現在は若干変動があるかもしれないが、私が現役の記者であったとき新聞社の中でいちばん給料がよかったのが、朝日新聞と読売新聞であった。その二強に迫る勢いだったのが日経新聞。遅れて共同通信、サンケイ、時事通信、さらに遅れて毎日新聞と続いた。

どのぐらい差があるかというと、朝日新聞と読売新聞は共同通信よりも2,3割給料が高かったようだ。その朝日や読売よりも多く給料をもらっているのが民放各社。NHKは共同通信とほぼ同じぐらいか、やや少なかった。残念ながら全国紙の一角を担う毎日新聞社は共同通信よりも2、3割ほど下回っていた。

共同通信の場合、転勤の多い記者職には、給料のほかに住宅手当が付く。上限は6万円で住宅費の半額を補助する制度だ。川口のマンションの家賃は月額12万円だったが、実際に私が払う額は6万円であった。東京本社に戻ったときも住宅手当は受けられるが、5年ほどで打ち切られてしまうので、その間に自分の給料に見合った住宅を見つけなければならなかった。

当時の私の給料は、一年目(1982年)で年収390万円、二年目で430万円、三年目で480万円ぐらいだった。浦和支局に赴任した四年目はおそらく500万円ほどだっただろう。ただしこの500万円のうち基本給といわれる部分は約300万円で、残りは超過勤務手当て(いわゆる残業手当。組合は生活補給金、もしくは過勤料と呼んでいた)であった。この部分は、残業をしないともらえないわけだ。

共同通信の残業手当は当時、青天井であった。忙しい支局に来て残業が増えれば年収もその分だけ上がる。社側はなんとかこの青天井システムに歯止めをかけようとしていたが、そのことが組合側と軋轢を生み、浦和支局でもある事件が発生した。このことは追々、明らかにする。

共同労組から見れば、年収のうち四割を不安定な残業手当に頼るようなシステムでは病気で休んだりしたら一気に給料が減ってしまうため生活に不安を覚える、だから基本給を上げろという要求になる。社側の主張は、原稿を書くのが遅い記者ほどより多くの手当てをもらえるのはおかしい。もっと能力給的要素を給料システムに加えるべきだという。

この問題は結局、私が本社の経済部に移った1994年ごろまで決着することはなかった。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編6) 「メディアって何だ!?(185)」

キューポラのある街
一万円札騒動があった川口市は、浦和支局時代に私が住んでいた街でもあった。川口といえば、鋳物工場が立ち並ぶ街である。鋳物をつくるために鉄を溶かす溶鉱炉をキューポラと呼び、鋳物工場の屋根から飛び出た煙突があちこちに見えることから「キューポラのある街」として知られていた。

その名前をとくに有名にしたのは、吉永小百合が主演した同名の映画(1962年製作)であった。昔かたぎの鋳物職人の娘として生まれた吉永が演じるところのジュンが社会の貧困や自分の進学について懸命に考え、前向きに生きていこうと決心するまでの青春ドラマである。浦山桐郎監督のデビュー作品。吉永小百合にとっても、演技派女優をとしての地位を決定付ける代表的な作品となった。

今ではどれだけ鋳物工場が残っているか知らないが、当時私が住んでいたマンションの隣も鋳物工場であった。すぐそばには、JR(当時はまだ国鉄)京浜東北線をまたぐ陸橋がある。映画『キューポラのある街』の最後のシーンで、ジュンが在日朝鮮人で仲のよかったサンキチの乗った電車を見送る陸橋であった。

映画の中でサンキチは、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業で北朝鮮に向かうことになっていた。「地上の楽園」という宣伝を信じて北朝鮮に渡った人々は、1959年に帰国事業が始まってから1984年に至るまでに9万3000人(うち日本人妻は約1800人)に達したといわれている。

ただし、この北朝鮮への帰国事業が推進された背景には、朝鮮戦争などで失われた労働力を補強しようという北朝鮮政府の思惑のほかに、日本社会に根深く残る朝鮮人に対する差別意識があったことは忘れてはならない。日本で差別され、困窮生活を余儀なくされた在日朝鮮人たちは、少なくとも民族差別のない世界に自分たちの夢を託したのだ。

フィクションとはいえ、サンキチは元気で暮らしているのだろうかと、つい考えてしまう。

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