気になる木

神木

植物にも心と魂があることは、皆さんもご存知ですよね。
その植物の心と魂のことを「木霊」というそうです。

植物は花を咲かせ、実をならせ、酸素を供給するなど世のため人のために黙々と活動をしています。つまり人間にとっては、命の恩人のような存在ですね。その植物をいきなり切り倒すことは、恩知らずな行為であるだけでなく、命の恩人に対する裏切りとなります。

そこで植物の祟りが生じるのだそうです。

「竹内巨麿について」で紹介した浅見宗平氏によると、祟りが生じるかどうかには計算式があるということです。その計算式を紹介しましょう。

植物は、世のため人のために活動することにより得(徳)を積みます。その得の量は、無形財産として貯えられます。人間も同様で世のため人のために尽くすと得を積み「得人」となります。逆に自分のため、自分の家のために得をして、他の人には損をさせてきた人は「損人」となり、なにをやってもうまく行かない「不得人」となるそうです。

植物の得の量(無形財産)は、その木の年齢によっても違ってきます。樹齢1000年の木のほうが樹齢50年の木よりも得の量がはるかに大きくなります。

ここで計算式です。無形財産が50の木を、無形財産30の人が切り倒したとします。すると20の崇りが起こります。その分だけ体が不調になったり、怪我をしたりします。無形財産が60の人が切り倒すと、崇りは起きませんが、60あった無形財産は10に減ります。

おそらく樹齢1000年を超す木を切り倒した場合などは、大変な崇りが起こりそうですね。面白いのは、無形財産100の人間と200の人間がいっしょに、無形財産300の樹木を切り倒した場合、二人足して300になるので崇りが起きないように思えますが、崇りはあくまで一対一で生じるのだそうです。この場合、無形財産100の人間は200崇りが、200の人間人は100崇りが生じるわけです。

さらに浅見氏によると、崇り以外にも罰(ばち)もあるのだそうです。無形財産50の人間が無形財産50の樹木を切り倒した場合でも、その人間が長年世のため人のために活動してきた木に対する感謝の気持ちを持たずに切り倒すと、木霊が罰となって当たってきます。このため樹木を切り倒すときには、心のこもった神事をする必要が出てきます。神事を執り行うものも、それにより私腹を肥やそうとすると、これも罰を受けることがあるそうですから、気をつけなければなりませんね。

さて、冒頭の写真です。一見何の変哲もない木に見えますが、よく見ると道路の真ん中に立っているんですね。道路が木を避けています。JR目白駅そばの住宅地にあります。賢明な判断でしたね。おそらく崇りの計算式を知っている人が、この木を切らせなかったのではないでしょうか。

この木を見て、浅見氏の話を思い出した次第です。
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白山神社の猫ちゃまたち

ヤブの中で怪しげに光る青い目。もしや猛獣?

青い目

・・・そんなはずないですね。

青い目のクロ

青い目のクロちゃんでした。

さて昨日の続きで、白山神社の守り神である猫ちゃまたちを紹介します。
境内を歩いていると、茂みの中から「ミャ~」という小さな鳴き声が聞こえてきて、覗いたら青い目のクロがいたわけです。

これは、お腹の白いチャトラ。

猫

聡明そうな顔つきですね。
おやっ、上には白ちゃんもいます。

ツーショット

上の白猫ちゃんは賽銭箱の隣に座っています。招き猫ですね。二匹とも首輪を付けた飼い猫ちゃんです。

誰か来るぞ!

おやっ

クロのお母さんでしょうか。

クロ

シロは木陰に隠れます。

木の葉隠れ

忍法「木の葉隠れ」。

シロ

今日は、木陰に隠れたくなるような夏日でした。
暑かったので、千駄ヶ谷のプールに。泳いだ距離は1250メートル。先週よりも200メートル伸びました。

紫陽花と猫 「今日の出来事(965961)」

東京地方は夏のような晴れ。紫陽花もそろそろピークを過ぎたようです。

紫陽花

今日は原稿(校閲一稿)を出版社に届けるため、神保町へ。『カストロが愛した女スパイ』は九月下旬に出版される予定となりました。今年は二冊本が出せそうです。

その後、神保町から白山通りを北上し、紫陽花で有名な白山神社へ。

白山神社

すると、すぐに猫ちゃんが登場。
紫陽花と猫です。

紫陽花と猫

去年、白山神社を紹介したときには、白猫ちゃんがいましたね。今年もいるでしょうか。神社の裏手に回ってみました。すると・・・

白猫

やはりいました。白猫と白紫陽花ですね。

この猫も神社の境内にいた猫です。考える猫?

飼い猫

飼い猫ですね。首輪を付けています。

最後は竜と紫陽花。

竜

水の中に紫陽花が置かれています。
(続く)

梅雨の晴れ間に玉川上水 「今日の出来事(965961)」

筆者の近影ではありませんよ。ありし日の太宰治です。

太宰治

今日は、梅雨の晴れ間がのぞくいい天気でした。そこで玉川上水をサイクリング。写真は太宰治と玉川上水です。太宰は、今から58年前の6月13日深夜、東京・三鷹のそばの玉川上水で入水自殺しました。入水地のそばに碑が立っていますが、写真はその碑から撮ったものです。

太宰が入水したという場所近くの現在の玉川上水はこんな感じです。

玉川上水

ずいぶん様変わりしましたね。

神田川沿いの民家に咲いていたひまわり。

ひまわり

既にコメント欄に書きましたが、『留学のための英語論文・ペーパー作成術』は8月ごろから校正に入り、年内出版の予定です。『カストロが愛した女スパイ』は現在校閲一稿中。

明日(もう今日ですが)は秩父宮です。

近況ー依然として奮闘中。一本はやっと脱稿。そしてネコ。夏至 「今日の出来事(965961)」

「我輩」の近影です。

我輩

昨日、『留学のための英語論文・ペーパー作成術(仮題)』をようやく脱稿。当初予定よりも6ヶ月遅れの提出となりました。とにかく400字詰め原稿用紙で700枚は超そうかという大作ですので、時間がかかりました。

普通、400字詰め原稿用紙で300枚も書けば、一冊の本ができてしまいますが、その倍の分量はあるわけです。ちなみに『「竹内文書」の謎を解く』は550枚、『不思議な世界の歩き方』は450枚ぐらいでしょうか。

もう一つの『カストロが愛した女スパイ』も長くなったので、なるべく削っているところです。委員会の証言部分を縮小する方向で手直しをしています。ロレンツの娘モニカによると、ロレンツは元気だそうです。ただ、そんなに健康というわけでもないようです。こちらはもうちょっと時間がかかりそうです。

とりあえず、昨日1本脱稿したので、今日は千駄ヶ谷の国立体育館のプールに泳ぎに行きました。久しぶりに泳いだので1050メートルと少な目。

冒頭のネコちゃんは、水泳の帰りに道端でたたずんでいた野良ちゃんを撮影したものです。

野良ちゃん

人に馴れているので、外ネコとして誰かが飼っているのかもしれませんね。

今日は夏至。

朝日

ちょっとぼけていますが、一週間ぐらい前の朝日です。朝の4時50分ごろです。今日はあいにくの雨で、縄文光通信は不発に終わってしまったようですね。

私がインテリ(?)だったころ

『留学のための英語論文・ペーパー作成術(仮題)』を執筆しているときに面白い写真を見つけました。筆者の近影ではありませんが、10年前、私がまだインテリ(?)だったころの写真です。

プロフィール

ハーバード大学ケネディ行政大学院の授業風景の写真です。多分ジム・クーニー教授の「国際政治と国際機関」でしょう。1997年度の同大学院のカタログ(要綱)に掲載されています。写真のように、自分の名札(Yasukazu Fuseと書いてありますね)を机の前のほうにある溝にはめて、好きな場所に着席します。名札は、教授が学生の顔と名前を一致させるためであると同時に、誰がよく発言するかをチェックする目的もあるんですね。授業にどれだけ参加したかもグレードに影響してきます。

10年前の思い出の写真でした。

筆者の近影(今度こそ本物?)

今度こそ、筆者の近影?

黒ネコ

・・・ではなかったですね。これはプロフィールで使っている黒猫ちゃまの別カットでした。

別に見たくもないかもしれませんが、次こそ筆者の近影です。

近影

全然新聞記者らしくない風貌ですね。新聞記者は、実は騙されることが多いんです。取材先(特に権力を持っている人たち)はウソばかりつきますから。すると、段々疑り深くなってすべてを疑うようになる。裏を読むようになるんですね。当然、目つきは騙されまいと鋭くなっていきます。しかしこの写真からは、気のいいおっさんという雰囲気しか伝わってきませんね。14年間務めた共同通信を辞めてちょうど10年経ちますから、すっかり普通のおじさんになっています。

写真は昨年九月、タヒチのボラボラ島で撮ったものです。普段はめがねをかけています。

筆者の近影?

執筆活動にいそしむ筆者の近影?

厩舎

・・・ではないですね。

二本原稿を抱えているからといって、馬車馬のように働いているというわけでもありません。こちらの馬さんのように、のんびり暮らしています。この厩舎は上井草の早稲田ラグビー場のそばにあります。帰り道に立ち寄る場所の一つです。

新聞記者の日常と憂鬱117 「メディアって何だ!?(185)」

異動
異動の知らせは突然やってくる。部内異動であれば、明日からはどこどこクラブへ行ってくれ、と前日に言い渡されることもしばしばだ。引越しを伴う異動は4週間前がだいたいの目安だが、2週間前に急きょ異動が告げられることもある。やむをえない事情があるのだろうが、早く異動を発表してしまうと、レイムダックになってしまうので遅らせるという会社側の思惑もあるようだ。

2週間前の内示の場合は、かなり大変である。賃貸住宅の解約や各種手続き、赴任先の住宅下見を済ませた上で、後任者への引継ぎという作業もある。慌しく、あっという間に時間が過ぎ、レイムダックになる暇もない。

1985年の富山支局から浦和支局への異動内示も、ほとんど時間がなかったように記憶している。とにかく、そのとき抱えていた「大学モノ」と呼ばれる学術記事を仕上げるのがやっとで、羽根のラインの原稿も黒三ダムの原稿も仕上げる時間がなかったのだ。埼玉県への住宅下見で新居を速決。とんぼ返りで富山に戻ると、山のように積まれた新聞の整理に追われた。

富山県警本部などお世話になった警察官にあいさつに行ったら、餞別までいただいて痛く恐縮したことを覚えている。意外な人からも送別会をしていただいた。多くの人に出会い、その人たちに温かく見守られた三年間であったように思えて、つい感傷に浸ってしまう。

しかし、前を見て進まなくてはならない。次は埼玉。どのような出会いや事件が待ち受けているのだろうか。

(これで富山支局編を終わります。この後、浦和支局編、経済部編と続く予定ですが、いま本の執筆を二本抱えておりますので、しばらくお休みさせていただきます。ご了承ください。出版の目途が立ちましたら、再開します)

新聞記者の日常と憂鬱116 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその9
吉邦も巨麿や浅見と同様、神の声を聞く霊能力者であったとみられる。富山県平村の天柱石で龍神から「天の真名井」の場所を教えられたエピソードは「不思議な世界」の「龍神と翁」で書いたとおりである。

吉邦はまた浅見と同様、他人の死期を事前に知ることもあったという。妻の澄江には、だれだれさんに会いに行っといたほうがいいとよくアドバイスをしたという。澄江がその人のところに行くと、そのときは元気で話ができても、間もなく亡くなったことがよくあったという。ただし、この「神の占い」とも言うべき予言には、三つの禁則があった。自分のほうから神様に対して、盗人の占い、親族の占い、死期の占いをやってはいけないということだそうだ。盗人の占いに該当するであろうギャンブルの占いなど、もってのほかである。もちろん神様のほうから必要があって、死期を知らせることはあるのだという。

澄江自身も一度だけ、神の声を聞いたことがあるという。夜寝ていると、おまえが今度産む子には太ももに世界地図があるであろう、と告げられた。まさかとは思ったが、実際に生まれた子には確かに世界地図のようなシミがあったのだという。

竹内文書の研究者なら誰でも知っていることだが、巨麿の太ももにも世界地図のようなシミがあり、それが竹内文書を世に出す者の印であると予言されていた。私は最初、後付けのエピソードか、あるいは冗談ぐらいにしか考えていなかった。澄江の話を聞いて、そういうこともあるのかな、と思うようになった。

巨麿にまつわるエピソードとして、「九字を切った話」もある。九字を切るとは、修験道の秘法で邪気を払う一種の護身術。手で刀を模した印「刀印」を作り、「臨兵闘者皆陣列在前」の掛け声 とともに空間を縦四本、横五本に切る動作をする。年をとりトイレが短くなった巨麿があるとき、富山ー東京間の列車の中で頻繁にトイレに行くと、トイレのそばでたむろしていた男の一人が巨麿をしきりにからかった。巨麿がトイレに行くたびにからかうものだから、とうとう巨麿も怒り、九字を切った。すると、その男は急に足が痛くなり、次の停車駅で降りてしまったという。

「九字を切る」術はよく漫画などに出てくるが、ただの空想上の話であると思っていた。ところが私の友人の大学教授からも、「九字を切る」術で父親が大変な目に遭った話を聞かされた。その父親とは、四次元現象の研究家で有名だった内田秀男である。ある日、内田が修験道を学ぶ山伏に会いに行ったら、どういう理由かわからないが山伏が怒り出し、九字を切られたという。内田はその後しばらく、病に伏すことになったと話していた。

さて、私が知っている巨麿にまつわる話はこのぐらいである(空を飛んだという話は拙著『「竹内文書」の謎を解く』をお読みください)。私が取材したかぎりでは、巨麿は神に仕える本物の神道家であった可能性が極めて高い。皆さんはどうお考えであろうか。

新聞記者の日常と憂鬱115 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその8
新参者の浅見ではあったが、明治、大正時代から巨麿とともに歩んできた古参の神主や弟子、信徒たちに指図をしながら紳葬祭を無事執り行った。そしていよいよ、後継者を決めることになった。このとき、おそらく4男吉邦が後継ぎになりたいと申し出たが、浅見は巨麿との約束があったとして譲らず、長男の義宮を指名したのである。

この後継者を決める際のやりとりに関しては、浅見も詳しく書いていないのでわからない。ただ竹内家の関係者の話では、巨麿は生前から長男義宮を茨城の皇祖皇太神宮に、次男照宗を青森に、4男吉邦を北陸に配置しようと考えていたようだ。巨麿は親族に「義宮は常陸の守、照宗は陸奥の守、吉邦は加賀の守だな」などと言って、三人それぞれの道を行くように話していたとの証言もある。

後継者に選ばれなかった吉邦であるが、義宮から「天神人祖一神宮」の管長職となる許しをもらって、1965年に岐阜市に同神宮の里宮を、71年には富山県滑川市に北陸支庁を置いたのだという。

浅見によると、吉邦は浅見を“騙した”上に「偉いぶって後継ぎになろうとして」いたという。ただ私が1984年に富山県滑川市の天神人祖一神宮北陸支庁で取材した吉邦は非常に気さくで、傲慢なところはなかった。浅見が吉邦に会ってから約20年経ち、その間に吉邦から傲慢さが消えたのかもしれない。あるいは別な理由で、霊能力の強い吉邦よりも義宮が継いだほうが神宝を守っていくうえで好ましい結果があると“神様”が判断したのかもしれない。いずれにしても、巨麿の後継者を決めるに当たっては、神の御意が働いていたようである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱114 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその7
浅見が磯原館で休んでいると、山根が部屋を訪ねてきた。
山根は、浅見と巨麿の間柄を知りたくて仕方がない。
「どうしてあなたがここにいるのか、竹内巨麿さんとはどういう間柄なのか教えなさい」と山根は詰問した。

浅見が答えた。
「先生にずーっと以前に会ったとき、5年10年経つと私を見て驚くことがあると言ったことを覚えていますか」
「ああ、覚えていますよ。ほかの人たちは知らなくとも私は本当に驚きましたよ。さあ教えてください」
「私は町の仙人なんです」
山根がこの答えに納得したかどうかは定かではないが、山根は浅見の隣の部屋に泊まることになった。

その日の夜7時半ごろであった。磯原館の前に車が止まると、突然大きな声で「勅使!」と叫んで立派な装束の神主二人が旅館に入ってきた。旅館の人たちは驚いて、頭を床に摩り付けるようにして、かしこまった。勅使とは、天皇の意思を伝えるために派遣された使者のことだからである。いったい何事が起こったのか。

二人の神主はそのまま二階に上ると、再び「勅使!」と叫びながら、足早に歩を進めた。やがて浅見の部屋の前で止まると、「勅使!」と言って部屋に入ってきた。二人は浅見を見つけると、すぐに着座して言った。
「本日皇祖皇太神宮において、皇祖皇宗(天照大神に始まる歴代天皇の祖先)にお伺いをたてましたるところ、一神会会長の指図に従えとのことであります。これにて勅使は戻ります」

二人の神主はそう告げると、去っていった。磯原館の中は、まるで嵐が通り過ぎたような騒ぎであった。山根はこの有様を見てますます驚いて、浅見に尋ねた。
「一体どうなっているのですか。会長先生は文献も宝物も見ていないそうですが、どうも私にはわからない。今の勅使のことにしましても驚きましたよ。これからどうなるのですか。知らない人ばかりで心配はないのですか」

「神様の御意(みこころ)のまにまにやりますよ」と浅見は答えた。
その二人の神主は、勅使としてはるばる磯原に来たのであるという。皇祖皇宗からどのようにメッセージを受け取ったのか。不思議なことばかりが起こる。巨麿と知り合ったばかりの浅見に白羽の矢が立ったのである。浅見は“勅命”により、翌日に予定されている巨麿の神葬祭を取り仕切ることになったのだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱113 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその6
巨麿が天に帰る時がやってきた。それは浅見と巨麿の予言通りであった。

1965年1月27日午前2時、浅見が自由宗教一神会本部(千葉県松戸市)で寝ていると、本部棟の大きな屋根のところでドシンと大きな音がした。その音で目を覚ました浅見は、寝たまま神通力で音がした屋根の方を見ると、そこには「鞍馬の仙人」の姿をした巨麿が立っていたのだ。

浅見はとっさに、「巨麿先生は亡くなったな」と感じたという。巨麿は浅見に「後を頼むぞ」と言って、消えてしまった。浅見によると、巨麿は「天空の術」を使って、体を磯原の皇祖皇太神宮に置いたまま空を飛び、自分が死んだことを浅見に伝えたのであるという。

浅見は早速、支度をして、午前4時には出発の準備を整えた。驚いたのは、弟子たちであった。1月の朝の4時は真っ暗である。「どこに行くのですか」と浅見に尋ねた。
「磯原だよ。巨麿先生が亡くなったよ」
「電話でもあったのですか」と、弟子たちは不思議がって質問した。
「巨麿先生本人が報せに来たのだよ」
「ヘエ・・・・・巨麿先生はいつ来たのですか」
「夜中の二時ごろだよ」
このような会話を交わしながら、浅見は弟子の運転する車に乗り込み、磯原へ向かった。

磯原の皇祖皇太神宮に着いたのは、午前8時近くであった。既に連絡を受けた、巨麿と古くから付き合いのある人たちが集まっていた。その中の一人に『キリストは日本で死んでいる』の著者で、竹内文書の熱心な研究者である山根菊子がいた。山根と浅見は何度か会ったことがあったので、山根は参拝をしている浅見を見つけると、話しかけてきた。
「あら、どうしてあなたがここにいるの」
周りの人たちも、見知らぬ人間が来たので、浅見が何者か興味津々であった。その中の一人が「誰もお知らせしなかったというのに、どうしてわかりましたか」と浅見に聞いた。

「巨麿先生が天空さんになって、夜中の二時に報せに来ましたよ」と浅見が言うと、みな目を白黒させて驚いた。そんな不思議なことがあるのだろうか。

あっけに取られている他の参拝者を後にして、浅見が以前泊まった磯原館へ行くと告げると、山根ら他の参拝者も磯原館へ行くという。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱112 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその5
巨麿は、浅見は人がよいので騙されると言う。浅見は随分変なことを言うなと、その時はいぶかしがるしかなかった。

おそらく巨麿の発言はこのことを言っていたのであろうという事件が、間もなく起きた。その年の11月13日、浅見が会長を務める自由宗教一神会の役員・信徒13人で皇祖皇太神宮を再訪したときのことだ。

巨麿の息子の一人(浅見は名前を明らかにしていないが、4男の吉邦とみられる)が浅見に近づいてきて挨拶をすると、すぐに奥の方へと姿を消した。浅見たちはその間に参拝を済ませて一箇所に集まって休んでいると、吉邦とみられる息子が、座っている浅見の前に再び現われて、黒い石の塊のようなものを見せながら言った。「これは何だかわかるか」

巨麿の妻明萬がやったように、浅見の力を試したのである。浅見はその息子の態度に、随分無礼だと思いながらも、石を受け取った。前回と同じように神名を三回唱えて「神様、これは何でありますか。教えてください」と念じたところ、すぐに答えが返ってきた。
「これは笏の柄である。この先には、神代文字が書いてあるはずだ」

図星であった。息子は再び奧へ行くと、わざと見せなかった神代文字の書かれた大きな笏を持って来て言った。「宇麻志阿志訶備比古遅命(うましあしかびひこじのみこと)様の笏である」

すなわち息子は、浅見が神に仕える本物の霊能力者であるかどうか試してやろうと、わざと石だけを見せたのであった。浅見にとっては、騙そうとしたと解釈できる行為である。

吉邦は霊感が優れていたかもしれない。しかし浅見にとっては、そんなことはどうでもいいことであった。神様にお伺いを立てたら、長男に継がせろということであったのだ。四男の吉邦は後継者ではなかった。このため巨麿の死後、浅見と吉邦は対立するのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱111 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその4
巨麿は浅見に言った。
「もうあなたが来たので、終わりだな」
終わりとは、巨麿の死期のことである。浅見が答える。
「そうですね」

「宝物を天皇陛下に渡してくれませんか」
巨麿にとっては、とにかく命をかけて神宝を守りとおすことが使命であった。戦前の特高による天津教弾圧事件の際も、神宝を靖国神社の遊就館に運び込もうとしたことがあった。遊就館に入れてしまえば、操作当局も手が出せないと思ったからだ。しかし、それは結局できずに、多くの宝物は捜査当局に押収され、その大半は東京大空襲で焼けてしまった。

浅見は言った。
「天皇陛下も周りの者も理解がありませんし、渡しても駄目ですね。こんなことを言っては何ですが、みな神理の勉強が足りないので、(宝物を)持ったところで値打ちがわからないのでは、宝の持ち腐れか、粗末にして罰が当たるか、どっちにしても今の状態では災いの元となりますね」
古神道と皇室神道とはまったく別のものであることが、この浅見の発言からもわかる。本当に神に仕えるものでなければ、神宝は守れないということだろう。

「では、どうすればよいかね。あなたが来たのだから、もうじき私は天へ帰りますよ。もう2,3ヶ月だろう」
「そうですね。来年(1965年)の1月末か、2月の初めでしょう」

「そうすると、この後はどうすればよいか」
「一寸待ってください。神様にお伺いを立ててみますよ」
浅見はそう言うと、神殿に向かって神名を三回唱え、皇祖皇太神宮・天津教の今後のことを神様にたずねた。するとたちまち、答えが返ってきた。

「男の子が三人いるので、長男に後を継がせることにする」
浅見は口を開いて、そのメッセージを伝えた。
浅見はそれまで、巨麿に子供がいることすら知らなかったという。

巨麿はそれを聞いて、たずねた。
「継いでくれるかね」
「継ぎます」と浅見がきっぱりと答えた。

当時、巨麿の息子は三人とも独立して、それぞれの道を歩んでいた。そのうちの一人が実家に戻ってきて、神宝を守るという重要な仕事を継いでくれるわけであった。巨麿は安堵した。

そのとき巨麿は浅見のそばに座って、奇妙なことを言った。
「会長さん(浅見のこと)、あなたは人がよすぎる。だから必ず騙される。いいですか、あなたは騙される。本当に申し訳ない」
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱110 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその3
巨麿は言った。「このたびは、いかなる神名でありますか。婆さん(妻明萬のこと)、筆と紙を用意してくれないか」

巨麿は明萬が持ってきた紙と筆を浅見に渡した。浅見は神殿の前で「なむいゐしんおをのみこと」と書いて、巨麿に見せた。巨麿は指を折って文字数を数えながら言った。「十事十字(とことじゅうじ)の神名だ。これをどのように唱えるのか」

浅見が神名を唱えたところ、巨麿はいたく気に入って、「この神名の書き物は宝物としてしまっておきましょう」と言う。この辺のやりとりは、古神道の奥儀を究めたものにしかわからない内容を含んでいる。まるで神名の言霊が秘密のコードネームのような意味を持つらしい。おそらく、その神のメッセンジャーとして浅見が巨麿の元をたずねたのだ。

巨麿は浅見に対して、神殿にある横太鼓を打ってみろと告げた。浅見はそれまで太鼓をたたいたことがなかったので一瞬戸惑ったが、「はい」と返事をしてバチ棒を持って太鼓の前に立った。すると不思議なことに、浅見の身体の奧のほうからリズムが湧き出てきた。浅見がその通りに打ち込むと、巨麿は驚いて「それは天下泰平、五穀豊穣の太鼓ではないか」と言う。

これが巨麿の浅見の一回目の出会いであった。

その後、何回目かの出会いのときに、また不思議なことが起きた。そのときも浅見は、神様に呼ばれて巨麿に会いに行った。

明萬は、浅見が宝物や文献を見たいとも言わずに何度も来訪することに疑問をもって「一体何のために来たのですか」と巨麿に尋ねた。巨麿は浅見の方を見ながらこう答えた。「宝物や文献を見に来たのではない。助けに来たのだ。だから神様なのだ」

それを聞いて明萬は、何を思ったか奥に引っ込んだかと思うと、黒っぽい木でできたナタのようなものを持ってきて、それを浅見に持たせた。明萬は浅見に言った。「これが何だかわかりますか」

明萬は、浅見が本物の神の使いであるかどうか試したのであった。浅見はそのナタを丁寧に持ち直して静かに目をつむった。すぐに答えが出た。「これは天之忍穂耳天皇の笏と思います」

まさに、そのとおりであった。浅見は明萬の試しに合格したのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱109 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその2
浅見宗平は若いころより神理を学び、いつしか八百万の神々からもメッセージを受け取ることのできる宗教家になったという。洪水の予言、神の使者からの知らせなど彼が経験したという奇跡の数々は彼の著書『ふしぎな記録』シリーズ(一神会出版部)に譲る。

浅見自身、巨麿とはまったく面識がなかった。ところが1964年7月、浅見が神様に朝の挨拶をしたところ、北の方で神様が呼んでいるような気がしたという。北の方とは、巨麿が管長を務める茨城県磯原の皇祖皇太神宮であった。そこで弟子二入を連れて、車で磯原に向かった。

磯原に着いたのが夕方近くであったため、翌日神社に参拝することにして、旅館「磯原館」に投宿した。

その旅館の主人は吉田正吉という市会議員で、たまたま巨麿と知り合いであった(正吉の養父は県会議員で天津教弾圧事件の詳細を書いた『神宝事件の回顧』の著者、吉田兼吉である)。そこで浅見が神宮参拝の旨を伝えると、吉田は「竹内巨麿先生は、今は誰とも会いません」と言う。どうやら竹内家の宝物をめぐって参拝者や文献学者にだまされ続けてきたせいで、人間不信になったようであった。それでも浅見は「明日私がお伺いすると(巨麿に)お伝え願いたい」とひるまない。

あまりにも熱心に浅見が巨麿との面会を頼むので、吉田が巨麿に頼みに行くことになった。すると巨麿は「待っていたよ、待っていたよ」と言いながら拍手をパチパチと打ち始めたという。さらに巨麿は嬉々として吉田に告げた。「時機が来た。若き神様が来てくれる」

吉田にとっては驚きであった。巨麿がこのように人に会うのを喜ぶ様子をついぞ見たことがなかったからである。

翌日、浅見が神宮を訪ねると、年老いた巨麿(当時すでに90歳ぐらいであった)が拍手を打ちながら浅見を待っていた。巨麿は浅見を見ると、「来た、来た。若き神様が来てくれた」と笑顔で浅見を迎えた。

建物の中に案内された浅見は神殿を参拝した後、巨麿に告げた。
「本当に長い間、ご苦労様でございました。それにしてもこれほど立派な宝物や文献があるのに、どうしてこんなにさびれてしまったのですか」
それを聞いた巨麿は「そんなことを言ってくれた人は一人もいなかったよ」と言う。
巨麿の隣に座っていた妻のいつ(明萬)も口を挟んだ。「この人に宝物を見せるのですか?」
巨麿は答えた。「この人は何も見なくても知っているよ」

吉田や浅見の弟子たちにとっては、あっけにとられるような会話のやりとりであった。浅見と巨麿は初対面にもかかわらず、まるで旧知の仲であるかのようにお互いの素性を知り尽くしているようであったからだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱108 「メディアって何だ!?(185)」

竹内巨麿についてその1
さて、私が富山支局時代に書き残していた「黒三ダムと朝鮮人」と「謎の羽根のライン」の記事も、20年以上経ってしまったが、このブログで紹介することができた。富山支局時代の思い出話もそろそろ終わりである。

最後に、富山出身で謎の古文書「竹内文書」を世に出した竹内巨麿について触れておこう。
天津教弾圧事件で逮捕され、特高から拷問を受けた巨麿は、何とか生き延び、1944年12月には裁判でも無罪を勝ち取ったことは既に述べた。では、その後の巨麿はどうなったのであろうか。

天津教は戦後一時期、GHQにより活動禁止処分を受けるが、処分が解除された1953年に活動を再開。巨麿は茨城県磯原の皇祖皇太神宮の管長として神事・祭りを執り行っていた。

巨麿には息子が三人いた。当時としては珍しく、三人とも大学を卒業している。長男の義宮は日大文学部を卒業。三男(次男は若くして亡くなったとみられる)の照宗は、確か東大で心理学を学び、弘前大学の教授(のちに青森中央学院大学の学長に就任)となった。共著だが『青年期までの発達心理学』という本を書いている。四男の吉邦は、東京理科大学で物理とロケット学を学んだ。戦後は造船業、風呂屋、自動車修理工場、運送業などを手がけ、商才を発揮した。

問題は、誰が巨麿を継ぐかであった。

息子三人のうち、一番霊感が鋭かったのは吉邦であった。吉邦は幼いころから、釜鳴の神事などを執り行うなど非凡な才能があったようだ。しかし、吉邦が皇祖皇太神宮を継ぐことはなかった。長男の義宮が継いだのである。長男が継ぐのは順当といえば順当だが、どうも吉邦は、霊能力がいちばん強いのだから管長職を継ぐのは自分ではないかと期待していた節がある。

この辺のいきさつについて竹内家の人々はあまり語りたがらないが、周辺から漏れてくる情報によると、後継者決定には自由宗教一神会の浅見宗平の意向が強く働いたようである。浅見宗平著『ふしぎな記録』に詳しいいきさつが書かれている。本のタイトル通り、それは実に不思議な話であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱107 「メディアって何だ!?(185)」

羽根の謎14原稿の種類についての説明
ここで新聞記事の字数について説明しよう。新聞社の記事は大きなニュースや特殊性、スクープ性の強い本記で900字、中ぐらいのニュース記事で600字、いわゆるベタ記事で300字程度である(ベタ記事とは、新聞の下段にある一段の記事のことで、上部の紙面を埋めているニュース性の高い記事に比べてニュース性の低いものが多い)。

羽根のラインの記事は特殊性やスクープ性が強いので、900字の原稿となる。実際は1000字ぐらい書いてあるので、1昨日の原稿を1割削らなければならない。それでも書きたいことがあるときは、本記と区別してサイド記事(600字)や解説記事(600字)を書くこともできる。

サイド記事というのは、本記の記事内容を別の角度から補足するような記事である。羽根のラインの記事で言えば、たとえば竹内文書に焦点を当てて「竹内文書は偽書ではない!?」というタイトル(見出し)で、竹内文書の真偽論争を紹介する手もある。あるいは、世界のレイラインと羽根のラインを比較することで、「羽根は日本のレイラインか」という見出しのサイドを書くことも可能だ。

解説記事は文字通り本記の内容を解説する記事。羽根のラインの記事の場合、いかに経度(南北のライン)を測量するのが困難な作業であるかを伊能忠敬の測量を引き合いに出しながら解説することができる。見出しは「驚くべき古代測量技術」だろうか。

羽根のラインの記事ではほかに、地図も必要だろう。奥能登から渥美半島まで一直線に延びるラインを示した地図だ。ほかに山口教授や荻田教授以外に、肯定派の学者と否定派の学者の「識者談話」を加えることもできる。

これで原稿一セットの出来上がりである。事件事故の原稿だと、このほかに「雑感」という記事が付く。庄川温泉火災の記事で紹介した「夜空を焦がす真っ赤な炎・・・」が雑感である。雑感は現場の状況を生々しく伝える記事だ。

新聞記事はこのように本記、サイド、解説、雑感、その他(識者談話など)からなる。本記が複数ある場合(たとえば株の暴落と銀行倒産が関連しながら同時に起こった場合)は総合リードをつけるときもある。

もちろん、このように大展開するニュースというのは、そう多くない。羽根のラインの原稿では、ここまで展開することはなかっただろう。本記とサイド、あるいは本記と解説、それに併用地図ぐらいだろうか。ニュースの大きさによって、本記だけになったり、サイドや解説を書いたりする。そのニュースバリューは記者の一存では決められず、デスクや部長の意見が反映され、最終的に決定される。

見出しの付け方にもコツがあるが、それはまた別の機会に説明したい。

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