新聞記者の日常と憂鬱60 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力18(すさまじい権勢欲)
A級戦犯としての嫌疑が晴れた正力ではあったが、読売新聞にすぐに復帰することは叶わなかった。「日本の侵略計画に関し政府に於て(おいて)活発且(かつ)重要なる役割を演じたるか又は言論、著作若(もしく)は行動に依り好戦的国家主義侵略の活発なる主唱者たることを明らかにした」として、公職や報道機関の仕事から追放される公職追放者となったからだ。

しかし、正力は執念深く、公職追放が解かれる時期をひたすら待った。社内の動きは、自分が配置した“スパイ”の情報により手に取るようにわかるようにしていた。公職追放中に正力の悪口を言った者や呼び捨てにした者を決して忘れなかった。反正力の動きや裏切りも決して許すことはなかった。すさまじいまでの権勢欲である。

1951年8月に正力の公職追放が解除されると、じわじわと報復を開始する。自分を呼び捨てにした幹部を衆人の中で面罵、その後も出世させなかった。絶対服従を示さない社員は徹底的にいじめ、冷や飯を食わせ続けた。すでに66歳になっており、普通なら引退してもおかしくなかったが、正力は読売新聞に君臨し続ける。さすがに正式な役員に返り咲くことはなかったが、重要決定事項は正力の承認なしでは決定できないようにした。そして、誰にも社長の座に座らせようとはしなかった。

正力は読売新聞を支配するだけでなく、多方面においてさらに強大な権力を握ろうとした。
1952年には日本テレビ放送網を設立して、社長に就任。1955年2月には、故郷の富山二区から保守系無所属で出馬、衆議院に初当選する。ところが政治家として忙しくなっても、読売新聞社長の椅子は空席のまま。周囲から誰かを社長に据えるよう進言されても、頑として聞かない。

社長空位の時代が延々と続いた。その社長の座に、20年にわたる空位期間を経て務台が就任したのは、正力没後約半年が経った1970年5月のことであった。
(続く)
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新聞記者の日常と憂鬱59 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力17(A級戦犯2)
このとき正力とともに収監されたA級戦犯には、元首相の広田弘毅、元陸軍大将の畑俊六、東条内閣商工大臣の岸信介、右翼の児玉誉士夫らがいた。そうそうたる顔ぶれである。

正力の戦犯としての罪状は、おおよそ次のようなものであった。
1、1940年、大政翼賛会を準備するときのメンバーだった。
2、正力は警視庁時代に厳しく思想犯を取り締まり、悪名をとどろかせた。大学など教育機関に初めて手入れをした。
3、読売新聞社主として枢軸、三国同盟を強力に支持。日本におけるドイツ宣伝活動の主要な機関として機能した。新聞を軍の宣伝活動のために利用し、真珠湾攻撃の前にはその膨大な部数をもって積極的に軍に貢献した。
4、膨大な部数をもって大衆を毒し、最も邪悪な影響力を行使した。

正力にとって幸運だったのは、戦後すぐに民主化政策を推進したGHQが、労働運動が過激になるにしたがって方向を180度転換。正力が収監された後の読売新聞に警戒を強めたことであった。戦後の読売新聞は、それまでの正力による戦争賛美路線に対する反動から、親共産党の記事が多くなっていた。1946年1月5日の社説では、天皇の戦争責任を問うて自発的退位を求めた。翌6日の社説では人民戦線内閣の設立を訴えた。

今では考えられないが、当時月刊であった日本共産党の機関紙「アカハタ」になぞらえ、読売新聞は「日刊アカハタ」とさえ呼ばれていたのだ。

GHQの方針転換により株が上がったのは正力であった。正力は、言わずと知れた共産主義弾圧のエキスパートである。経営者としても、カネと力に物を言わせるアメリカの資本主義手法を積極的に進め、労働組合に対しても断固とした姿勢を貫いている。

正力に対する疑惑は、一種の同情に変わった。GHQは「正力は卓越した新聞社の経営者であり、事業を遂行するには政府の職に就き、“うまく”行動せざるを得なかった状況が明らかになった」として、正力の釈放を勧告する。

ほかに何か裏取引があったのかどうかはわからない。この勧告に従って正力は1947年9月1日、釈放された。奇しくも関東大震災24周年の日、収監されて1年9ヶ月ぶりの娑婆への復帰であった。
(続く)

桜の季節 「今日の出来事(965959)」

東京地方は、桜がほぼ満開となりました。

桜

写真は新宿中央公園です。都庁に行くついでに、ちょっと花見気分。中央にそびえ立っているバベルの塔が都庁ですね。壮大な無駄との声もあります。

桜

まだ五分咲きくらいの木もありますが、ほぼ満開の桜も。

桜

関東地方はもう春の盛りです。今日はちょっと風が冷たかったですが。
下の写真は実家の庭に咲いていた水仙です(春分の日ごろに撮った写真)。

水仙

鮮やかな夕陽。珍しく、遠くに山々が見えます。秩父連山でしょうか。

夕陽

新聞記者の日常と憂鬱58 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力16(A級戦犯1)
正力の黒い噂は尽きないが、正力伝を先に進めよう。

戦争がカネになるとわかっている正力が、戦争を煽らないはずはなかった。政府や軍のお先棒を担ぎ国民を戦争に駆り立て、戦時中は中国人を切って血しぶきが飛んでいるような写真に表彰状を出した(読売新聞社員の証言)。

読売は戦争とともに部数を驚異的に伸ばしていく。1930年に20万部だった読売は、満州事変の翌年である1932年には30万部を突破。日中戦争が勃発した1937年に80万部、太平洋戦争が始まった1941年に150万部、敗戦一年前の1944年には190万部に達した。

戦争中、正力は新聞人というより、もはや政府の一員であった。東条英機内閣当時、岸信介商工大臣の推薦で貴族院議員となり、1944年10月には小磯国昭内閣の顧問となっている。最後まで徹底抗戦を主張する正力は、広島に原爆が投下された1945年8月6日の読売新聞の社説に「嗤うべき敵の謀略」と題して、次のように論じさせている。

「過般のポツダム放送による対日屈服条件なるものは、一瞬世界の耳目をかすめて過ぎ去った一辺の通り魔のようなものである。所詮真面目に相手とすべきしろ物ではない」

正力にとってポツダム宣言受諾は屈辱であった。そのため正力は、たとえ国が焦土と化しても竹やりで徹底抗戦するという、軍の妄想的な持久作戦に備え、御茶ノ水の対岸に地下印刷工場を建設のための突貫工事を進めていた。しかし正力の望みはかなわず、日本は事実上無条件降伏する。

敗戦後、正力は戦争責任を問われることを非常に恐れていた。読売新聞労働組合からも戦犯などとなじられ辞任を迫られ、労働争議はもつれにもつれた。敗戦の年の12月、正力の恐れは現実となる。GHQからA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されることになったからであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱57 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力15(帝人事件2)
帝人事件で検挙されたのは、贈賄容疑で番町会に所属する河合良成、永野譲ら財界人、収賄容疑で商工大臣の中島久万吉、鉄道大臣の三土忠造ら政界人。そして背任幇助容疑で正力も市ヶ谷刑務所に収監され取り調べを受けた。

この事件の発端は、日銀に担保として入っている約20万株の台湾銀行の帝人株を若干の利子をつけた程度の価格で払い下げを受ければ大もうけできると考えた元商工会議所会頭の藤田謙一が、政財界に深い人脈をもつ正力に何とかならないかと持ちかけたことだ。当時、繊維産業が盛り返し、帝人株は値上がりが予想されていた。

正力は早速、旧知の間柄である文部大臣、鳩山一郎を訪問、鳩山を通して日銀総裁や大蔵次官の意向を聞いてもらった。その結果、買入価格さえ適正であれば問題はないとの回答を得た。

買い取り価格を下げられなかったため藤田は降りたようだが、正力は河合を仲介人として有力会社十六社からなる生保グループに帝人株を時価で買い取らせた。

取引がうまく行ったことから河合は手数料を受け取り、正力には斡旋料として17万円という大金が渡った。正力はそこから、大蔵省の感触を探ってくれた鳩山に6万円、藤田に5万円を贈り、残りを読売新聞の設備投資などに使った。

この疑獄により1934年7月3日、時の斎藤実内閣は総辞職した。だが裁判では、一連の疑惑は通常の株取引や謝礼の範囲内であると認定され、被告は全員無罪(正力は不起訴)となった。

判決がいみじくも説明しているように、正力ら番町会の住人たちは政財界の人脈や情報網を巧妙に利用して “合法的に” 金を儲け、相互に謝礼や政治献金を重ねて懐を肥やしていたのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱56 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力14(帝人事件1)
新聞経営は何かと金がかかった。読売新聞とて例外ではなかった。だが、正力には打ち出の小槌があったらしい。正力ら実業家や政界の実力者らが財界の大立者である郷誠之助を囲んで集まる月一回の懇親会「番町会」だ。

この会に正力が出席できたのも、警視庁官房主事時代に構築した政財界への太いパイプがあったからであった。表向きはただの懇親会だが、会社の合併や大臣人事など重要事項が決まることもあったという。

この番町会は、政治家や財界の人間が金儲けをたくらむ場所でもあった。たとえばある会社の株が値上がり確実だとわかると、彼らは闇の人脈網を駆使して値上がり前にその株を入手、高値で売りさばき巨額の富を得るのだ。リクルート事件を思わせる手口。それは法律違反スレスレの利益分配システムでもあった。

この番町会の闇を暴こうとしたのが、福沢諭吉が創設した政論紙・時事新報だ。時事新報の武藤山治社長はかねてから、読売新聞の快進撃の裏には黒い資金の流れがあるのではないかと疑っていた。

1934年1月17日から「番町会をあばく」という一大キャンペーンを開始。ところがキャンペーン記事を連載している最中の3月、時事新報の武藤山治社長が暗殺されてしまう。暗殺犯である福島信吾はその場で自殺したとされているが、事件の三日前に番町会のメンバーと会っていたことが判明した。

福島が殺された翌月、帝人事件が発覚する。この事件は、日銀から巨額な融資を受けるため台湾銀行が担保に差し出した帝人株をめぐり、番町会を中心とする政財界関係者が暗躍、背任や贈収賄行為があったのではないかという大疑獄であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱55 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力13(正力とハースト3)
部数競争のために戦争を意図的に煽ったとの批判に対して、ピューリッツァは反省したらしい。ハーストとの戦いに負けたくなかったとはいえ、センセーショナリズムに身を置いた自分を恥じる気持ちもあったのだろう。彼の死後、遺言により正義と真実を伝えた優れた報道や文学にピューリッツァ賞が贈られるようになったのも、その反省に根ざしているとされている。

残念なことにいつの時代でも、戦争で新聞は販売部数を伸ばし、政治家は戦争により支持率を上げる。正力もハーストも、そのメカニズムをよく理解していた。センセーショナリズムが部数を増やすことも、手っ取り早いのは他社の優秀な人材を引き抜くことであることも、熟知していた。類は友を呼ぶ。その二人が急速に近づくのも時間の問題であった。

1930年代にその時期が訪れた。当時、戦争の足音は世界中に広がりつつあった。それに対応するため通信網を拡大する必要がある。1933年2月、正力はハースト系のユニバーサル・インターナショナル通信社と提携、あたかも世界的大通信網を構築したかのように吹聴した。だが実際は、他の国内新聞社が提携しているAPやロイターに比べたらかなり落ちる、ハースト直属の二流通信社であったという。

そのころハーストは、全米に広がる排日熱を背景に系列の新聞社に日本人移民の排斥論を書き立てさせていた。だがハーストにとって、排日論を煽るのは部数を拡大する機会にすぎない。自分によく似た正力と手を組むことにも抵抗はなかったのだろう。

実際、ハーストは正力を非常に気に入っていたようだ。読売新聞と提携した際、正力が贈った鎧兜の返礼として天然記念物として保護されているバイソン3頭を贈ってきた。しかも、正力の飛行機嫌いのせいで実現こそしなかったが、ハーストは是非正力と会ってみたいと、カリフォルニア州の大邸宅へ正力を招待しているのだ。

ハーストと正力の会談。実現していたら、さぞ意気投合したことであろう。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱54 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力12(正力とハースト2)
イエロージャーナリズムは、1895年に始まったキューバ独立戦争でますます過熱した。独立を望むキューバと、それを力で押さえ込もうとするスペイン。ハーストの「ジャーナル紙」とピューリッツァの「ワールド紙」は、この独立戦争を善と悪というわかりやすい構図に仕立てあげ、煽り立てた。

両紙は記者を派遣するなどして、スペイン軍がキューバ人に対して残虐な行為をしていると、連日のように書き立てた。キューバに派遣された記者が「ハバナは平穏で、戦争の気配はない」とハーストに報告したところ、ハーストは「戦争は私が作る。お前は記事を作れ」と述べたという逸話も残っているほどだ。

ちょうどブッシュによるイラク戦争の前のような状況だ。イラクのサダム・フセインとその息子たちの蛮行を書き立て、ありもしない大量破壊兵器があると騒ぎ立てたのは、アメリカの政府でありメディアであった。

19世紀末の両紙の報道が政府によって巧みに操作されていたのかどうかは不明だが、両紙の誇張、もしくは捏造された報道は、キューバを支援すべきだとの世論を作り上げた。そしてハバナでアメリカの軍艦メイン号が爆発事故を起こすと、原因がわからないにもかかわらず両紙を中心とするアメリカの新聞はスペイン人による陰謀であると断定、「メイン号を忘れるな(Remember The Maine!」)」「スペインを打倒せよ」というスローガンを掲げながらアメリカ政府に戦争介入を訴えた。

新聞や大衆の圧力の押される形でアメリカ政府は1898年4月、スペインに宣戦布告、フィリピンとキューバでスペイン軍を打ち破った。この結果アメリカは、カリブ海を再び掌握しただけでなく、ドサクサに紛れて太平洋のハワイ諸島も手中に収め、パナマ運河を建設する権利も手に入れてしまうのである。皮肉な見方をすると、新聞と政治の見事な連携プレー。新聞がつくり上げた、政府のための戦争であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱53 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力11(正力とハースト1)
勝てば官軍負ければ賊軍である。読売新聞の経営に成功すれば、自分の汚点は過去に消えると考えたのだろう。東京市長になる夢をあきらめた正力は、名誉挽回とばかりに読売新聞の部数拡大に奔走する。警視庁官房主事時代に政界工作で知り合った近衛文麿の協力を得て、全国の名家に残る秘蔵の逸品を一堂に集めた日本名宝展を開催・成功させ、反撃の狼煙を上げる。

しかし読売新聞の部数増大に最大の貢献をしたのは、1931年9月18日の満州事変によって始まる15年間にわたる戦争であった。戦争を拡販の好機ととらえた正力は、これまで出していなかった夕刊を発行。センセーショナルに書き立てる手法を積極的に導入、確実に部数を伸ばしていった。同時に、他社の優秀な人材を引き抜くなど次々と攻勢をかけた。

1929年に報知新聞から読売入りした務台光雄も、部数拡大に大いに貢献した。務台は後に「販売の神様」との異名をとる、読売に欠かせない人物となった。

この新聞業界の過当競争に起因したセンセーショナリズムは、まさにアメリカで発生したといえるものであった。しかも、米メディアの手法と正力のやり方は非常によく似ている。もっとも有名な事例は、19世紀末のアメリカ=スペイン(米西)戦争のときだ。

当時のアメリカ新聞業界は、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの「ニューヨーク・モーニング・ジャーナル」と、ジョゼフ・ピューリッツァが経営する「ニューヨーク・ワールド」が熾烈な競争を繰り広げていた。ハーストはオーソンウェルズ監督の名作映画『市民ケーン』のモデルとなった俗物的人物で、ピューリッツァはジャーナリズムのアカデミー賞と呼ばれるピューリッツァ賞を設立した人物である。

ハーストはピューリッツァの「ワールド紙」から連載漫画作家をヘッドハンティング、自分の「ジャーナル紙」で人気キャラクター「イエロー・キッド」の連載を強引に始めてしまう。これに対しピューリッツァは模写の上手な漫画家を雇用、意地になって「イエロー・キッド」の連載を続けた。

これをきっかけに両紙は、ちょっとした事件でも扇情的に書き立てて競うようになった。このため世間では、拡販のためにニュースを誇大して伝えるメディアを「イエロー・キッド」の名をもじって「イエロージャーナリズム」と呼ぶようになったのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱52 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力10(京成疑獄事件)
政治家とメディアがタッグを組むと非常にやっかいである。自分が所有する放送メディアを巧みに利用するイタリアのメディア王シルヴィオ・ベルルスコーニ首相の例や、ブッシュとフォックステレビの関係をみれば、それはよくわかるはずだ。

政治家はメディアを使って、大衆を都合よく誘導する傾向がある。そのメディアを所有すれば、鬼に金棒。自分の政策や業績を褒め称え、自分が決断した戦争を正当化・賛美することもできる。その政治家にとって都合の悪いことは報じなくなり、その政治家の美談や自慢話が多くなる。政治を糾弾すべき筆は錆び付いてしまう。その場合、新聞やテレビは権力者の応援団、プロパガンダ機関にすぎなくなる。読売新聞も正力の応援団であったことは否めない事実である。

そもそも正力にとって読売新聞は、ジャーナリズムの高邁な理想もなにもない、大衆支配の道具にしかすぎなかったのだろう。それを如実に示しているのが、1928年の京成疑獄事件だ。

かねてから政界に進出したがっていた正力は、元内務大臣の後藤新平の勧めもあり東京市長選に立候補することにした。このとき、当時民政党市議を束ねていた重鎮の三木武吉と密約を交わす。次の東京市長選で正力が当選した暁には、三木に読売新聞を譲るというのだ。

正力はこれで東京市長になれると高を括っていた。そのような折、正力が東京市長になりそうだとの話を聞きつけた、元読売新聞経済部長で京成電鉄専務になったばかりの後藤圀彦から、京成電鉄の市内乗り入れで便宜を図るよう持ちかけられる。後藤は読売新聞を乗っ取る際に世話になった人物でもあった。正力は頼まれたままに、三木ら重鎮に市内乗り入れを強引に認めさせる。三木ら関係者には謝礼金10万円が正力経由で渡ったのであった。

この裏工作と謝礼金がばれて、正力、三木らは検挙。正力は1928年8月16日、禁錮四カ月執行猶予2年の判決を受ける。正力は東京市長の座をあきらめなければならなくなった。だが正力にとって幸運なことに、評判が落ちたとはいえ、手元には読売新聞という道具がまだ残っていたのだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱51 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力9(大衆支配の道具としての新聞)
メディアにもビフォー・アフターがある。読売新聞は正力前と正力後では、別の新聞である。正力前の読売新聞は不正を暴き政府を鋭く糾弾する急先鋒の新聞であった。しかし正力後は、警察権力などと結びつき巧みに大衆を誘導する娯楽大衆新聞に成り下がったように思われる。

正力の経営は徹底していた。社内では極端な節約による合理化を推進し、社外的には関東大震災後の娯楽に飢えた市民をターゲットにしてイベントを開催、発行部数を増やすテコにしたのである。そして、それは見事に成功する。

最初の成功は、1924年7月1日に東京・両国の国技館で開かれた納涼博覧会であった。来客が驚くような幽霊や化け物の人形を陳列し、氷や水を巧みに使って涼んでもらおうという企画。読売新聞購読者や下町一帯に無料入場券を配って人気をあおり、新規購読者を開拓した。その後も囲碁の対局をセンセーショナルに取り上げたり、日米野球開催というショーを開催したりして拡販につなげた。

強引な売り込みもお手の物だったらしい。販売員には警視庁の刑事あがりを使い、彼らにすごませて購読を迫った。後に販売マニュアルのような指導法が確立したようで、それによると、景品の出刃包丁を客に見せるときには、必ず刃を相手に向けて畳に突き刺してみせることになっていたという。

紙面改革では、ラジオ版を創設。さらには競馬欄、麻雀欄などを新設し、大衆化路線を驀進した。大衆迎合による利益の追求に血道を上げたのである。

そもそも正力にとって新聞は、自分が政治家になるための道具にすぎなかったのだろう。大衆に娯楽を提供する一方、経営者や指導者としての伝説をつくり上げ、自分に都合のいいイメージを作り出す。まさに大衆操作の天才であった。正力はつまるところ、大衆を支配することができる新聞という誠に好都合な道具を手に入れたのであった。
(続く)

野球、キューバ、カストロの息子、アメリカの横暴 「今日の出来事(965959)」

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)決勝で日本に破れ、準優勝となったキューバのチームドクターはフィデル・カストロの息子である。名前はアントニオ・カストロ・ソト・デル・バジェ(37歳)で、専門は整形外科。カストロには正妻との間に5人の息子がいるが、アントニオは二番目の妻の3番目の息子である。「カストロが愛した女スパイ」に出てくるロレンツの息子アンドレは正妻の子ではないので、公式の記録には息子として登場しない。

ところで今回のWBCは、いろいろな意味で多くの教訓を残した。とくに面白かったのは、米国人審判デービッドソンのジャッジだ。あれには笑えた。あからさまな米国びいきのジャッジは、シロをクロと言いくるめるブッシュを髣髴とさせて非常に興味深い。審判の思惑で、セーフの判定もアウトに覆り、明らかなホームランも二塁打になる。

ブッシュも、ないものをあると言って戦争をしかけた。理由はどうでもよく、とにかくフセインを倒したかったのである。デービッドソンの誤審は、まだ人間が死なないだけ笑って済ませることができるが、ブッシュのウソは大勢の人間を殺した。しかし、もっとも忘れてはならないのは、誤審やウソはその意図とは逆の結果を生み出すことだ。デービッドソンの誤審は逆にメキシコのやる気に火を付けた。不利な判定をものともせずメキシコは豪腕クレメンスを攻略、米国を打ち破ったのだ。

同様にブッシュのウソで破壊されたイラクでは、反米感情が消えることはないだろう。むしろ反米の炎は燃え広がり、いつかもっと大きなテロが起きる可能性すらある。

WBCでは、米国を勝たせるために意図的な組み合わせにしたり、思惑的なジャッジをさせたりしたように思える。世界はそのような思惑を打ち砕いた。力とカネで世界を屈服させようとするアメリカのやり方は、どう考えても終わらせる時期に来ている。

約1週間前には理不尽な判定に声を荒げて批判した王監督が、今日の勝利では心からの笑顔をみせた。世界もそのように微笑むときが来ることを祈るばかりだ。

新聞記者の日常と憂鬱50 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力8(新聞乗っ取り)
関東大震災後の混乱は、新聞の業界地図にも大激震をもたらした。

文字通りいちばん揺れたのは、当時大正デモクラシーの流れを汲むリベラルな社風で知られた読売新聞であった。完成したばかりの銀座の新社屋が大地震で被災、天井と外壁だけの残骸となり使用不能となったのだ。何と不運なめぐり合わせであったか。まさに9月1日の大地震当日の夜、新築落成祝賀会が開かれることになっていた。

大打撃を受けた読売新聞を尻目に、被害を免れた東京日日新聞と、被災したが大阪本社の支援ですばやく復旧することができた東京朝日の大阪系2紙はここぞとばかりに販売攻勢をかける。このため復旧の遅れた読売新聞はどんどん読者を失い、震災前に13万部あった発行部数は5万部台にまで落ち込んだ。

正力が懲戒免官となり浪人生活を送るようになったとき、読者の流出に歯止めがかからない読売新聞の経営はいよいよ行き詰まっていた。読売の身売り話が浪人中の正力のところに舞い込むと、正力は内務大臣を務めた後藤新平から一〇万円の融資を受けて読売新聞を買収。1924年2月25日に同新聞社7代目社長に就任した。

警察出身の正力が社長に就任したことにより、社内は大混乱となった。このままでは警察新聞、もしくは御用新聞になってしまう。多くの記者が正力社長就任とともに次々と辞職を表明した。

正力は社内の穏健派で人望のある千葉亀雄を編集局長に据えて動揺を最小限に抑え、残った社員には「辞めたいものは今すぐ申し出てくれ。残るものは全員部長とする」と迫り、事態を収拾した。

同時に警視庁特高課長の小林光政を総務局長に、警視庁捜査課長の武藤哲哉を販売部長に、警視庁警部の庄田良を庶務部長に据えるなど警察人脈で周りを固め、読売新聞社内に揺るぎない基盤を築いたのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱49 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力7
軍と警察の事実上の連携による中国人の大量虐殺と王希天の殺害は、政府によって緘口令が発せられ、徹底的な隠蔽工作が行われた。一部始終を知っていた正力も決して口外することはなかった。

歴史の真実を隠そうとする政府と、事実を世間に知らせようとする新聞社の戦い。その中で、関東大震災後の一連の虐殺事件の真相と責任を厳しく追及したのが、皮肉なことに、後に正力が社長・社主となる読売新聞であった。同新聞の小村俊三郎は事件発生から2ヵ月後、王希天虐殺事件の政府責任を問う社説を書いた。だが、事前の検閲により鉛版を削り取られ、無残な引っかき傷だけが紙面化された。この後約50年間にわたり、この事件は権力により封印されたのであった。

当然のことかもしれないが、正力の偉業をたたえた『読売新聞百年史』(一九七六年発行)には、この歴史的な鉛版削除事件のことは一言も触れられていない。歴史の真実よりも教祖様のご遺功のほうがはるかに大事だったのだろう。

それでも悪運もいつかは尽きるものである。

正力は一九二三年一〇月、警視庁警務部長に就任。同年12月27日、摂政官(裕仁)が襲撃された虎の門事件が起こると、皇室警護の最高責任者であった正力は責任を取らされ、翌年1月7日に警視庁を懲戒免官となったのだ。

正力は経歴に傷がつき、栄光の舞台から降りなければならなくなった。将来は県知事間違いなしと目された正力は、この懲戒免官により知事はおろか官途に再び就く道も閉ざされたのであった(ただし皇太子の結婚で特赦された)。

新聞記者の日常と憂鬱48 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力6
亀戸事件が公になるまでには一ヶ月かかった。だが、次に紹介する中国人・王希天虐殺事件の全貌が明らかになったのは、事件後実に半世紀以上経った1975年だった。王希天を殺害した部隊に所属した兵士の日記がようやく公開されたからだ。

中国人に対する虐殺は、亀戸事件と同じ9月3日に始まった。やはり亀戸署管内の大島町(現・江東区大島)で、放火の嫌疑で3回にわたり中国人(一部朝鮮人)約300人を捕まえては銃殺または撲殺した。主に手を下したのは軍隊と自警団で、それに警察も加わった。

当時大島町周辺には1000人以上の中国人労働者が暮らしていた。王希天はそうした労働者のリーダー的存在で、日本人ブローカーによる賃金の不当なピンハネ行為から中国人労働者を守る組織を設立した人物でもあった。

当時日本人の間では中国人排斥運動が起こっていた。中国人は安い賃金で働くので日本人労働者の仕事口を奪っているという不満が渦巻いていたのだ。一方、王希天らの運動により、これまでのように中国人労働者から搾取できなくなった日本人ブローカーも、邪魔な中国人リーダーを疎ましく思っていた。彼らにとって震災後の混乱は、まさにこうした邪魔物を消したり、鬱積した不満を解消したりする絶好の機会であったわけだ。

約300人の中国人を意図的に抹殺するという、この狂気の犯行に人々を駆り立てたのが警察であったことが、当時の証言や警察の内部文書から浮かび上がってくる。警察官は中国人や朝鮮人は見つけ次第殺せと盛んに宣伝していたというのだ。当然、このことは正力も知っていたはずである。

大島町で多くの中国人労働者の安否がわからなくなっていることを聞きつけた王希天は、殺害が実行された6日後の9日、大島町に行き中国人の消息を尋ね歩いた。まさに、飛んで火に入る夏の虫である。直ちに捕らえられ、亀戸署に連行された。

3日後の12日午前午前3時、保護のため習志野に護送するという名目で連行する途中、王は野戦重砲兵第一連隊第六中隊の垣内八洲夫に斬り殺されたのである。軍と警察による抹殺の連携であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱47 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力5
正力は大杉虐殺には加わっていないが、心中は実行犯に同情する面が多分にあったに違いない。正力は大杉が虐殺される2日前の9月14日に陸軍が大杉を殺すと言ってきたと、後に認めているのである(読売新聞記者安政二郎による「正力談話」)。

正力は陸軍が大杉を殺すと言ってきても、何の行動も取らなかった。16日に憲兵隊が大杉を連行したとの連絡が淀橋署から入ったときも、正力は「殺したな」と思っただけで、黙殺した。

正力が警視庁総監に報告を上げたのは、7歳の子供も一緒に連行されたとわかったときであった。しかも、子供まで連行すれば、犯行が必ずばれると思ったので報告したようだ。つまり、陸軍が大杉一人を殺すのであれば容認できると正力は考えていたと解釈できるのである。

朝鮮人虐殺と大杉栄虐殺との間で起きた二つの虐殺事件でも、正力の影がちらつく。最初は9月3日に起きた亀戸事件である。

この日の夜、南葛労働会に所属する労働者10人が亀戸署に連行され、習志野騎兵隊第3連隊の兵士によって斬り殺されるなどして虐殺されたのだ。同労働会は、正力が事実上指揮した第一次共産党事件で検挙された人物が指導する集団であった。当然、正力はこの事実を知っていた。

当時は言論統制が敷かれていたので、この事件が明るみに出たのは、事件から1ヶ月ほど経った10月11日であった。その際正力は、警察は手を下していない、軍隊がやったのだと弁明している。

ちなみに亀戸事件の後、正力官房主事名で「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」との命令が出された。警察は亀戸事件を契機にして、弾圧を弱めるどころか社会主義者たちを次々と検束していくのであった。
(続)

新聞記者の日常と憂鬱46 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力4
大杉栄は「要視察人」として警視庁から最重要視されていた社会主義者である。警視庁警務部刑事課長時代の正力も1919年、大杉を何とか挙げようと躍起になっていた。だが、執拗な特高の尾行にもかかわらず、なかなか証拠がつかめない。

そこで正力は一計を案じた。大杉が過去に家賃を滞納していた件を蒸し返し、家賃を払う意志なく居座ったのは家宅侵入容疑であるとし、さらに味噌、醤油を取り寄せて代金の支払いが遅れたことを取り上げ、これは詐欺容疑であるなどと言いがかりをつけて、大杉を送検、起訴に持ち込んだのである。

やはり“英雄”のやることは違う。逮捕するためには、過去のちょっとした案件をこじつけにより犯罪容疑に摩り替えてしまうやり方は、まるでウソの言い分でイラク侵略戦争を開始したブッシュを思わせる手口だ。

どうみても言いがかりに過ぎない罪状であったが、大杉は懲役3ヶ月の実刑判決を受ける。

しかし大杉の本当の悲劇は、大震災の後にやってきた。地震発生から2週間以上が経った9月16日夜、大杉栄と妻の伊藤野枝、7歳(6歳説もある)になる甥の橘宗一は、淀橋の自宅から麹町憲兵隊に拉致され、3人とも甘粕正彦憲兵大尉ら軍関係者により殺害されたのである。3人の遺体は古井戸に投げ捨てられた。

7歳の子供まで殺す残忍さの背景には、大杉が軍人の家庭に生まれながら、名古屋の陸軍幼年学校を中途退学するや、人間の自由を圧殺する軍隊制度を公然と批判するようになったことがあるとみられる。軍隊を批判するような人物は国賊であり、甘粕らにとっては憎んでも憎みきれないような人物に映っていたのであろう。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱45 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力3
注目すべきは、震災後、警察電話が回復した地区から順に流言蜚語が広がっているという指摘である。多くの研究家もデマが警察の連絡網を通じて広まった可能性を認めている。少なくともこのデマに対して、官憲側が過剰ともいえる警戒態勢や治安行動を取ったことがデマの信憑性を増大させ、虐殺を増長したことは疑う余地はない。自警団は、警察の行動や情報を基に判断して、蛮行に及んだと考えられるのである。

ではそのときの正力の役割はどうであったか。
正力の幾多の伝記を読むと、積極的にデマを打ち消したように描かれているものが多い。しかし世に出ている正力伝は、美談や武勇伝ばかりを羅列した歯の浮くようなものがほとんど。その中で佐野眞一の書いた『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』だけは異彩を放っている。

佐野が東京朝日新聞営業局長の証言として紹介したところによると、正力はデマを打ち消したのではなく、むしろ新聞記者に対して朝鮮人が謀反を起こしている噂があるから気をつけるよう、行く先々で触れ回るよう働きかけていたというのだ。もちろん、朝鮮人が謀反を起こそうとしているなどという話は悪意に満ちたデマであった。

正力が震災後の混乱に乗じて、やっかいな朝鮮人や中国人、社会主義運動家を意図的に根絶やしにしようとしたのかどうかはわからない。だが民衆の怒りの捌け口を朝鮮人や社会主義運動家に向けさせ、虐殺を黙殺したのではないかとの疑いは消えない。

その正力の冷酷で黙殺的な態度は、大杉栄虐殺事件でも顕著に見受けられるのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱44 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力2
1923年9月1日に関東地方を襲った大地震は、死者行方不明者が13万人を超えるという未曾有の大災害となった。しかしその後に起きた虐殺事件は、人間の悪意から発生しただけに、それよりもはるかにおぞましい出来事であった。

その発端となったのは、流言蜚語。最初は「富士山が爆発した」「東京湾に大津波が押し寄せてくる」といった根も葉もない噂が、次第に「不逞朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「社会主義者たちが放火して回っている」など悪意に満ちたデマに変わった。

この噂を聞いた青年団、在郷軍人、消防団などから構成する自警団は、刀、竹やり、鳶口、鎌などで武装、朝鮮人を駆り立てて迫害を加えた。具体的には要所々々に検問所を設け、さらには周辺を探し回り、顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉がおかしい人物を見つけ出すと、寄って集ってリンチを加え、のどや腹を切り裂くなど残虐な方法で殺害したのであった。ナチスのユダヤ人狩りをほうふつとさせる日本人による朝鮮人狩りである。

虐殺された被害者は、内務省警保局の発表だけでも、朝鮮人231人、中国人13人、日本人59人に上った。だが、実際に殺害されたのは、その一〇数倍でないかとみられている。

問題はこの悪意あるデマの出所である。
官憲側が意図的に流したものなのか、それとも自然発生的に生じたものなのか。正力はどのような役割を演じたのか。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱43 「メディアって何だ!?(185)」

▼富山の正力伝1
昭和の政商や政財界の黒幕、闇将軍が出てきたところで、富山とは切っても切れない大物について触れておこう。表の顔は、「プロ野球の父」「テレビ放送の父」「原発の父」「読売中興の祖」。裏の顔は、社会主義運動弾圧の指揮者であり、政界裏工作の達人であり、大衆操作の天才であった。富山県出身の怪物、正力松太郎である。

ジョージ・W・ブッシュが多くのアメリカ人にとってヒーローであるように、正力松太郎も多くの富山県民にとって郷土が誇る英雄である。

正力は1885年4月11日、富山県射水郡大門町(現射水市)に土建請負業を営む父・庄次郎、母・きよの次男として生まれた。青春時代は柔道に打ち込み、東京帝国大学卒業後の1913年警視庁に入る。当時東京帝大卒で警視庁に入るものは少なかったこともあり、正力は重用され、とんとん拍子に出世する。

早稲田大学の学園騒動や、富山から全国に波及した米騒動を鎮圧。こうした功績により警視庁内で不動の地位を築いた正力は1921年に警視総監の懐刀とも呼べる警視庁官房主事に就任、潤沢な機密費を使って政界の裏工作で辣腕を振るうようになった。同時に早稲田大学にスパイを送り込むなどして学生運動をかく乱、多くの社会主義者や共産主義者を弾圧した。

しかし正力の名前は、官房主事時代の1923年の関東大震災後に発生した4つの虐殺事件において、最も深く記憶に刻まれることになった。朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、中国人・王希天虐殺事件、大杉栄虐殺事件である。いずれも正力が直接手を下したわけではないが、重要な役割を演じたのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱42 「メディアって何だ!?(185)」

▼ロッキード事件の闇(下)
「記憶にございません」を連発して一躍時の人となった小佐野賢治も、児玉に劣らぬ闇の世界の住人であった。

小佐野は1917年、山梨県の農家に生まれた。1940年に東京で自動車部品業・第一商会を創業、1945年にはホテル業に進出し、熱海や箱根、山中湖のホテルを次々と買収した。ハワイの観光価値にも早くから注目し、有名ホテルのオーナーになっている。

バス事業も手がけ、1947年には社名を国際興業に変更。不動産事業、タクシー事業、旅行業など業務を拡大していった。

しかし小佐野がどうやって、ホテルなどの買収資金を調達したのか、外為法により通貨の持ち出しが制限されているなか、どのような方法で海外投資を進めたのか、具体的にはわかっていない。わかっているのは、小佐野と田中角栄は「刎頚の友」の仲であり、いつしか小佐野が「昭和の政商」と呼ばれるようになったということだけだ。

もうお気づきだろうが、「知りすぎた男」のMさんは政商の下で働いていたのである。Mさんの証言から、刎頚の交わりによって得た機密情報を利用して次々と資金を増やしていく政商の姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。外為法により為替取引が規制されていた時代においては、大金や重要書類をブリーフケースに入れて海外に運び出し、外国の別荘に貯蔵・隠匿しておくことは、一つの有効な手段であったのだろう。

ロッキード事件発覚から6年後、まさか富山で、事件とかかわりのある人物と出会うとは思わなかった。もっとも脛に傷を持つ人やいわくありげな人が最果ての北陸まで逃れてくるというパターンは、松本清張の小説にも出てきそうではある。

児玉は1984年1月17日、被告のまま死亡。小佐野は1986年10月27日、心臓発作で亡くなった。田中角栄には1983年10月12日に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が東京地裁で下ったが、田中は即日控訴。その後も「闇将軍」として政治の裏世界に君臨したものの、やがて自ら築いた深遠なる闇の中で光を失い、1993年12月17日に死去した。

新聞記者の日常と憂鬱41 「メディアって何だ!?(185)」

▼ロッキード事件の闇(中)
ロッキード事件は、今なら流行語大賞を受賞するような言葉を次々と生み出した。すでに紹介した「記憶にございません」は、今でも悪徳政治家や商人の常套句として一種の金字塔のように輝いている。「ピーナッツ」、「蜂の一刺し」、「よっしゃ、よっしゃ」、「フィクサー」なども大流行した。

検察の調べで判明したロッキード社の裏金ルートは三つあった。
ロッキードから丸紅を経由して田中首相に5億円が渡った丸紅ルート、全日空から政界へばらまかれた全日空ルート、ロッキードから児玉を経由して小佐野へ渡った児玉ルートである。

東京地裁での丸紅ルートの公判では、元首相秘書官・榎本敏夫被告の元夫人・榎本三恵子さんが検察側証人として出廷、榎本被告が「5億円の受領を認める発言をしていた」とする決定的な証言をした。榎本三恵子さんは証言後の記者会見で「蜂は一度刺すと自分も死ぬという。私もその覚悟はしています」と語ったことから、「蜂の一刺し」は流行語となった。

渡された現金が「ピーナッツ」という暗号のような言葉で呼ばれていたことから、このときの賄賂は「黒いピーナッツ」と呼ばれた。ピーナッツ一個は100万円を意味した。田中角栄はピーナッツ500個を受け取り、「よっしゃ、よっしゃ」と言いながらロッキード社製トライスター購入の要請を応諾したとされている。

政財界の黒幕、フィクサーという言葉もメディアを賑わした。その名を冠されていたのは、児玉誉士夫であった。児玉は1911年に福島県の没落した士族の家に生まれた。8歳のときに親戚の家に預けられるなど各地を点々とした後、工場労働者となった。

最初は労働組合活動に走るが、やがて右翼に傾斜。閣僚の暗殺未遂事件などで懲役に服した。1937年に出所後、中国にわたり外務省の情報活動に従事。1941年11月、国粋党総裁笹川良一の仲介で海軍航空本部嘱託となり、上海に軍需物資調達のための組織「児玉機関」を作る。調達と言っても、中国人を脅してタングステンやコバルトといった戦略物資をただ同然で買い取っていた一種の略奪であった。

児玉はこの略奪により、当時の金額で200億円(現在の額で7兆円)という巨額の富を得たとされている。戦後この富を密かに日本に持ち帰り、東久邇宮内閣参与となったが、間もなく戦犯の疑いで占領軍に逮捕された。

だがアメリカ軍や情報機関に協力を約束したためか、無罪放免。その後、自民党の前身である自由党の結成資金を出すなど政界に影響力をもつようになるとともに、ヤクザを支配下に置き、巨額の利権に絡む政財界の黒幕になったのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱40 「メディアって何だ!?(185)」

▼ロッキード事件の闇(上)
小説家松本清張のような世界が実際にあるのだな、と思う(もちろん松本清張は、現実社会を参考に小説を書くのであろう)。右翼のフィクサー児玉誉士夫など、まさに松本清張ワールドには不可欠な人物。政商と呼ばれた小佐野賢治もいる。それに丸紅会長、全日空社長といった名立たる名士や、元運輸大臣、政務次官といった政治家が“出演”する大捕り物劇が実際にあった。ロッキード事件である。最後は田中角栄前首相も登場し、お縄となって退出した。

ロッキード事件は、裏の世界に存在する闇が垣間見えた貴重な事案であった。記憶が薄れている方もいると思うので、事件をおさらいしてみよう。

発端は、1976年2月4日に開かれた米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会。ロッキード社が自社の航空機を売り込むための対日工作として1000万ドル(当時のレートで約30億円)を使い、うち21億円分を児玉誉士夫に手渡していたと同社幹部が証言したのだ。さらにその二日後、ロッキード社のアーチボルト・カール・コーチャン副会長が「児玉に支払った21億円の一部は、国際興業の小佐野賢治と、ロッキードの正式な代理店である丸紅の伊藤宏専務を通じて、日本政府関係者に支払われた」と証言、日本中に衝撃が走った。

この重大証言を受けて、日本の国会が動き出す。2月16、17の両日には、国際興業の小佐野賢治、丸紅の伊藤宏専務、全日空の若狭得治社長らが証人喚問された。ただし、証人は「記憶にございません」を連発、一向に疑惑の解明は進まない。

一方、国会とは別に捜査を続けていた東京地検特捜部は6月22日から、丸紅の檜山広会長、伊藤専務、全日空の若狭社長らを次々に逮捕。7月27日にはとうとう、田中角栄前首相を外為法違反容疑で逮捕に踏み切った。

米議会の小委員会の発言に端を発した疑惑が、前首相逮捕という日本憲政史上、稀に見る大疑獄へと発展したのであった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱39 「メディアって何だ!?(185)」

▼知りすぎた男
私は転勤や留学など行く先々でテニスクラブに入ってきた。富山では富山市郊外にある武内ローンテニスクラブの会員になった。武内プレス工業が経営するクレーコート7面ほど(当時)のクラブだ。健康を維持するためにテニスをするのだが、もちろん目的はそれだけではない。情報収集も兼ねている。

あるとき、そこの会員から面白い話を聞いた。便宜上Mさんとしておこう。Mさんは某大学のスキー部で学生日本代表のスキー選手として活躍。卒業後、ロッキード事件で悪名を馳せた会社に就職した。就いた仕事は社長のかばん持ち。たいした仕事はしないのだが、当時の大卒の給料の二倍以上に相当する1000万円以上の年収があった。

あるときMさんは、会社で東北地方のある場所の詳細な地図を手渡された。社長からの指示は、「この地図に記されている土地を買いまくれ」であった。意味もわからず、言われたとおりに指定された土地をカネに糸目をつけずに買いあさった。後日わかったのは、その地図で指定された場所が東北新幹線の予定地であったことだ。新聞発表のはるか前に、その会社は予定地の図面を手に入れていたわけだ。

そしてばれないように、関連不動産会社間で書類上の土地売買を繰り返して価格を吊り上げていく。国がその土地を買い上げるときには、かなりのマージンが手に入る仕組みだ。政治家と企業が組めば、このようにいくらでも儲けることができる。当然政治家にはキックバックがいく。共存共栄の闇のメカニズム。濡れ手で粟の錬金術といえよう。

Mさんはもう一つ、面白い仕事をしたという。社長から突然、フランスまでこのブリーフケースを届けてくれと言われ、その日のうちに日本を出国、南仏に向かったというのだ。自分のものはほとんど何ももたず、何が入っているかわからないブリーフケースを携えてMさんは南仏の別荘に到着、指示された関係者にそのブリーフケースを渡した。

その別荘は改築中か新築中で、見学したMさんは地下室に外からではわからないようになった二重構造の隠し部屋があるのを目撃したのだという。Mさんはブリーフケースには多額の資金や重要書類がはいっており、地下室の秘密の部屋に保管されたようであったと述べている。

海外の別荘の秘密部屋に隠された謎のブリーフケース。資産隠しの古典的な手口ではあるのだろう。

やがてロッキード事件が発覚、その会社は非難の矢面に立たされる。「知りすぎた男」であるMさんは、取材が及ばない地方に飛ばされた。四国の山奥である。身の危険すら感じる危ない仕事が待っていた。Mさんはその会社を辞め、故郷の富山に戻ったのである。

新聞記者の日常と憂鬱38 「メディアって何だ!?(185)」

▼裏切り者か、社畜か
串岡さんのように不屈の精神をもっている人は少ない。私が取材した医療機器販売会社の社員のように、たいていのサラリーマンは会社が不正を働いていても、見て見ぬ振りだ。会社を公に批判すれば、自分の身が危なくなる。見ざる、聞かざる、言わざる、である。

新聞記者をやっていると社会の仕組みや構造がよく見えてきてしまう。新聞に出るヤミカルテルや汚職事件など、本当に氷山の一角だ。今日もどこかで、賄賂が飛び交い、談合が行われ、不正な取引が続いている。新聞記者の憂鬱な日常が続くわけだ。

会社は、会社の利益を守るために不正を見逃す社員を可能な限り守る。守るだけでなく、優遇すらする。たとえば、ある汚職事件で贈賄をしていた営業部長が逮捕されたとしよう。会社は当然、個人の仕業であると営業部長を非難する。営業部長は起訴され、有罪となる。しかし後々、その営業部長は関連会社への栄転などが待っていることもあるのだ。会社のためにくさい飯を食ったのだからという慰労の意味を込めてである。暴力団風に言えば、「お勤め(務所暮らし)ご苦労様でした」となる。

こうした企業風土や防衛庁の天下り・談合事件をみると、民間企業や官僚組織も、暴力団組織と似たり寄ったりだなと思う。しかし、そのようなシステムで、組織として不正を容認した社員を守らないと、串岡さんのような内部告発者が次々と現われてしまうと、会社側は危惧する。愚かなことに、内部告発者が出ることは組織を維持するために絶対避けたいと考えるのだ。反対に、組織に属する者は甘い蜜を吸いたければ黙るしかない。それが嫌なら辞めるだけだ、となってしまう。

私の大学時代の同級生は卒業後、大手石油会社に就職して石油業界のヤミカルテルにかかわっていた。カルテルを破ろうとする業者を24時間張って、証拠をつかむ仕事だ。徹底的な張り込みで業者を割り出し、営業できないようにする。裏切り者は消せ、だ。

そのかつての同級生は、何年かその部署を務めた後、慰労の意味でアメリカの大学へ社費留学をさせてくれたという。今は嫌気がさして、その大手石油会社を辞めている。

新聞記者の日常と憂鬱37 「メディアって何だ!?(185)」

▼内部告発者
2005年2月23日、内部告発者に関する画期的な判決が富山地裁であった。ヤミカルテルを公的機関に訴えた社員が、その報復として嫌がらせをした会社に勝訴する判決が下ったのだ。勝訴したのは、大手運送会社トナミ運輸の社員串岡弘昭さん。トナミ運輸とは、あの代議士の綿貫民輔が社長(のちに会長)を務めていた会社である。

串岡さんは1946年、富山県に生まれた。70年に明治学院大学を卒業後、地元のトナミ運輸に入社。岐阜営業所に勤務していた73年、当時運輸各社が過当競争を避けるため談合して違法な割増運賃を取っていた業界のヤミカルテルを撤廃するよう会社側に直訴。それでも会社側がカルテルを続けたため、翌74年に公正取引委員会に告発した。この内部告発により運輸業界のヤミカルテルが明らかになり、新聞で大々的に取り上げられた。

悲劇が串岡さんを襲ったのは、このときからであった。内部告発をした串岡さんに対して、会社が露骨な嫌がらせを始めたのだ。75年に同社の教育研究所に異動させ、退職するよう圧力をかけた。それでも辞めないと、今度は昇給と昇格をストップ、串岡さんを個室に押し込め、孤立させるという壮絶ないじめを始めた。

串岡さんの仕事といえば、草むしり、布団干し、便所掃除ぐらい。同期の社員は係長や課長へと次々に出世して、給料の格差はドンドン開いていく。家族や親戚も、会社を辞めろと言い出す始末であった。

だが串岡さんは辞めなかった。自分は正しいことをしたのだから、辞める理由はないとの不屈の信念を持っていたからだ。

会社側はとうとう、暴力団を使って脅してきたと、串岡さんは言う。串岡さんの兄の職場にも、トナミ運輸から「弟を辞めさせろ」と直接圧力がかかるようになった。

しかしこれを機に、逆に串岡さんの家族は団結する。串岡さんの兄も「会社はこんなことをするのか!」と怒り、弟を応援するようになったという。串岡さんも精神の安定を保つため、ボランティアに参加して社会との接点を積極的にもつようにした。

串岡さんは26年間、会社の仕打ちに耐え続けた。そして、子供たちが大学を卒業するなど大きくなって自分の手を離れた2002年1月29日、26年に及ぶ昇格差別と、人権侵害による経済的・精神的損失として約5400万円の損害賠償と謝罪を求め、トナミ運輸を提訴した。

判決では、「報復として、ほとんど雑務しか仕事を与えず、昇格を停止して、不利益な取り扱いをした」と会社側の非を認め、時効分を除く賃金格差分約千三百五十六万円を支払うようトナミ運輸に命じたのである。

串岡さんは、判決では同社への謝罪要求が認められなかったとして控訴したが、今年(2006年)2月16日に和解が成立。損害賠償金の上積みが認められただけでなく、和解条項に同社が「本件を教訓に適正で公正な業務運営を心がけ、信頼回復に努める」とする内容が盛り込まれたのだという。

私は富山支局にいるときに串岡さんのことを知らなかった。内部告発が私の赴任前であったことや、提訴がそのずっと後であったこともある。知っていたら必ずこの「現代の岩窟王」の取材をしていたであろう。不明を恥じるばかりである。

新聞記者の日常と憂鬱36 「メディアって何だ!?(185)」

▼調査報道
メディアにとって、権力側の発表に頼らない調査報道は理想である。だが強制捜査権もないメディアが、証拠をつかみ裏づけを取り、それを報道するのは、並大抵のことではない。

某国立大学をめぐる製薬会社絡みの汚職疑惑でも、私は多くの製薬会社や医療機器販売会社に取材した。医療機器を某国立大学に納入している業者の一人は、自分の会社も賄賂を渡していることを明らかにした。そのようなことは、業界では常識であるという。

どの医療機器や薬品を仕入れるかを決める職務権限のある教授のところには、業者が群がる。その中で自社の商品を購入してもらうには、生半可な接待では十分ではないともいう。国立の大学病院に自社製品の納入実績があれば、他の病院にも売り込める。そのため、損得を度外視して競争する場合もあるのだという。

しかしそのような話を聞いても、証拠がなければ、記事にはできない。通常、内部告発者が証拠を持ってきてくれないかぎり、日の目を見ることはまずないのである。

共同通信の先輩記者が、調査報道の難しさを教えてくれたことがある。ある会社の悪事を記す書類を、その先輩記者が内部告発者から手に入れた。裏づけを取り、先輩記者はそれを基にスクープ記事を書いた。

当然、その会社から事実無根であると抗議がある。その会社から幹部が数人、なぜ根拠もないデタラメ記事を書いたのかと、共同通信に怒鳴り込んできた。応対に出た先輩記者が「事実無根ではない、これが証拠だ」と言って、内部告発者がもたらした書類を示した瞬間であった。抗議に来た幹部は「わかりました」と言って、きびすを返して帰っていった。

その先輩記者は「しまった」と思ったという。その会社の幹部は抗議に来たのではなかった。いったい誰が会社の情報をばらしたのかを知りたかっただけなのだ。先輩記者が示した書類は、内部告発者が誰であったかを知るには十分であった。おそらく内部告発者は特定され、会社を首になったであろう、と先輩記者は言っていた。

某国立大学に医療機器を納入しているその業者の人も、私にこう言った。「仮に私が、大学教授が賄賂を受け取っている証拠をあなたに渡して、それが記事になったとしましょう。私は会社を裏切ったことになるわけですから、路頭に迷うことになるかもしれない。私には家族もいます。共同通信は私たち家族の面倒をみてくれるとでも言うのですか」

新聞記者の日常と憂鬱35 「メディアって何だ!?(185)」

▼汚職事件2
「権力を持った瞬間に人間は堕落する」と、ある大臣経験者は私に自戒を込めて言ったことがある。それは人によるだろうが、権力を持った瞬間に誘惑が増えることは事実だ。

人の上に立つという優越感。その優越感をくすぐりながら、贈賄者は巧みに誘惑する。飲む、打つ、買う。人間の欲望という欲望を総動員させ、贈賄側は職務権限をもつ権力者を懐柔するのである。

いつも贈賄側が悪いのではない。収賄側がとくに悪い場合もある。
誘惑がなくても、権限を持った途端に業者に賄賂を要求する役人もいるからだ。いずれのパターンも欲望に魂を売ったことに変わりはない。

立件されたわけではないので実名は一切出せないが、某国立大学の幹部が大手製薬会社から賄賂をもらっているとのタレコミがあった。共同通信にタレコミがあるのは珍しい。すでに述べたように知名度がないからだ。

私はその情報提供者とコンタクトを取った。しかし、その言い分を聞いてあきれてしまった。その情報提供者も大学に薬を納入していた。だがあるときを境に、自社の製品を納入しなくなった。調べてみると、大手製薬会社の賄賂でその幹部が寝返ったというのだ。しかもその情報源も、その幹部に賄賂を贈っていた。

自分の贈った賄賂のことは棚に上げて、他社の賄賂を受け取って自社の製品を納入しなくなったのはけしからんという言い分ではないか。その情報提供者は、その幹部を接待した領収書などを見せながら私に説明した。

その情報提供者は続けた。こんなにも賄賂を払ったのに、他社に乗り換えたのは納得がいかない。絶対証拠をつかんでやるので、協力してほしい、と。盗人猛々しいとは、こういうことを言うのであろう。私は協力してもいいが、そのときはあなたも逮捕されることになるんですよ、と忠告した。

結論から言うと、この話はそれ限りになった。後日、聞いたところによると、その情報提供者と幹部の間で“和解”が成立、再び情報提供者の製品を購入することになったからだという。

情報提供者である贈賄者が収賄者と再びよりを戻したので、贈収賄の事実がわかっていても書けなくなった。永田メールではないが、証拠や裏づけがないと新聞記者も手が出せないからだ。そこに調査報道の難しさがある。

新聞記者の日常と憂鬱34 「メディアって何だ!?(185)」

▼汚職事件1
石川五右衛門風に言うならば、砂の真砂は尽きるとも世に汚職事件の種は尽きまじ、となるのだろうか。汚職事件はいつの世も決してなくなることはない。警察用語では、「汚」の偏がサンズイなので、汚職事件はサンズイと呼ばれる。

富山県でも一年に一度は汚職事件が摘発された。私が最初に遭遇したサンズイは、国道の改修工事に絡み建設省管轄の土木工事出張所の役人が、便宜を図った謝礼として業者から賄賂をもらっていた事件。これは単発的な犯罪で発展性はあまりなかった。

富山刑務所の刑務官が、元囚人から賄賂をもらっていた事件も発覚した。暴力団が警察に通報したり被害届けを出したりした人を脅すという、卑劣な「お礼参り」というのがあるが、この場合は本当の「お礼」であった。つまり刑務所に服役中にお世話になったといって、出所後その刑務官に飲食接待し、現金を手渡していたのだ。律儀な服役囚である。だが、贈賄者の出所後という事後であっても囚人を管理する職務権限をもつ刑務官が現金をもらえば、立派な収賄になるのである。

ちなみに服役囚のために便宜を図って、受刑者同士や受刑者と外部の人間の連絡を無断で取り持つ行為を、伝書バトの意味を込め「ハト行為」という。このハト行為も禁じられており、賄賂を受け取っていなくても諭旨免職などの処分対象になるそうである。

どこかの市役所の役人が、品物の納入をめぐり業者から賄賂をもらっていたサンズイもあったが、これも単発の事件であった。汚職事件の面白いところは、もっと構造的に汚職をしている場合があることだ。そういう事件に発展すれば、どんどん上の役職の公務員へと芋づる的に逮捕され、最後は県知事まで収賄で逮捕されるケースもある。

富山ではそのような大きなサンズイはなかった。しかし、表沙汰になってはいないが、根の深い汚職事件が富山にはあった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱33 「メディアって何だ!?(185)」

▼スポーツの取材
共同通信の一般的な知名度は低いが、ことスポーツ関係者の間での話になると、グ~ンと知名度が上がる。逆にスポーツ関係者で共同通信を知らないなら、もぐりの関係者ではないかと疑ってしまう。それほどスポーツ記事の配信では絶大な評価をえているからだ。

スポーツ関係者は、共同通信に一報すれば、ほとんどの新聞社やテレビ局に配信されることを知っている。非常に便利なのだ。

そのため、支局に配属された共同通信の記者はスポーツの記録配信に追われることが多い。私もよく、大会関係者から送られてくる北信越大会や中部地区のスポーツ記録を書き取って送稿した。

国体や高校総体、オリンピックの記録の配信でも共同通信は大活躍する。国内の大会の場合、全国の支局の記者にも召集がかかる。私も1983年に開かれた群馬・赤城国体を取材するため応援出張した。

私がそのとき担当したのは軟式野球。硬式野球と違って人気はあまりない。この種目を取材する記者も確か私一人であった。完全独占取材。私が間違えれば、すべての新聞にその間違いが載る。といっても試合記録を送信し、面白い話があれば、20行ぐらいの原稿にまとめればいいだけの気楽な取材であった。

ただ花形種目の取材はそうはいかない。そういう取材は運動部の記者が担当する。共同通信は普通の記者職とは別に運動専門記者を毎年1~2名採用する。彼らはサツ回りをすることもなく、ひなびた地方支局に赴任することもなく、初めから都会でスポーツだけを担当する。

ただでスポーツ観戦ができて、しかもお金をもらえるなんてうらやましいと思う人もいるかもしれない。だが、運動部記者にそう聞くと、そうでもないと口を揃える。重要な試合は必ず土日にあるため、家族サービスがまったくできないのだと愚痴をこぼす。一年や二年の話ではない。運動部の記者であるかぎり、そうした生活が続くのだ。

赤城国体の取材チームが宿泊したのは、赤城温泉街にある旅館であった。サツ回りの毎日が続く富山支局の日常から離れた、しばしの休息のような取材でもあった。

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