新聞記者の日常と憂鬱29 「メディアって何だ!?(185)」

▼拉致未遂事件と秋田の記憶喪失男1
あなたは恋人と一緒に海岸を散策しているとしよう。あるいは岩場で独り釣りをしているかもしれない。すると背後から、見知らぬ男があなたに近づいてくる。なるべく気づかれないように、忍び足で。そしてあなたはいきなり、後ろからクロロホルムを嗅がされ意識を失う。次に気がついたときには、あなたは両腕を縛られたうえ袋をかぶせられ北朝鮮に向かう工作船の中にいるわけだ。

これは、実際に富山でも起こりえた拉致事件である。
事件の少ない平和な富山でまさか、と思われる方もいるかもしれない。だが富山でも、1978年8月15日に北朝鮮工作員によるとみられるアベック拉致未遂事件が起きている。

その日の夕方、同県高岡市の雨晴海岸を散歩していたアベックが四人組の男に襲われ、林の中に連れ込まれた。アベックは縛られた上、頭から頭巾を被せられた。体の自由を奪われた状態でその場に寝かされたアベックは、恐怖で体が引きつっていただろう。殺されるかもしれない。

そのときだ。近所の犬が怪しげな雰囲気を感じ取り、四人組に向かって吠え立てた。四人組は逃走、残されたアベックは命からがら近くの民家に助けを求め、難を逃れた。

現場に残された袋や猿ぐつわなどの遺留品は、日本では手に入らないものばかりであった。特に猿ぐつわは、北朝鮮製の可能性があるとされた。ちなみに蘇我ひとみさんと母親のミヨシさんはこの三日前、佐渡で拉致されている。

しかもこの年、7月7日に福井県で地村保志さんと濱本富貴惠さんが、曾我さん親子が拉致された8月12日には鹿児島県で市川修一ら二人がそれぞれ拉致されており、事件前後に近海で不審船の目撃情報が寄せられていた。

富山での北朝鮮絡みとみられる事件は、1981年3月にもあった。富山湾岸の無人駅でウイスキーを飲んでいた男に、張り込み中の捜査員が近づいて職務質問をした。その男は、偽造の外国人登録証を持ち、腹巻に200万円を隠し持っていた。さらに事情を聴こうとしたら、男は逃げ出し、高岡市内の8階建てビルから飛び降り自殺した。

これらの事件は私が富山に赴任する前に起きた事件であった。実はほとんど知られていないが、私が富山に赴任した1982年にも北朝鮮工作員絡みとみられる事件があったのである。
(続く)
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新聞記者の日常と憂鬱28 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女6
私が法廷で目撃した宮崎知子被告は、華奢で病弱に見えた。公判の過程で自律神経失調症と診断され、体調を崩し公判に出席できないときもあった。

いったい知子の細身な体のどこに、自分の手で二人の人間を絞殺し、うち一人は雪の壁の向こう側に投げ捨てるほどの力があったのか。K氏に対する情念、カネに対する執念、生まれながらにして非嫡出子として差別された社会に対する怨念が、狂気の力を生み出したのだろうか。

一方K氏は、愛人と長野へフェアレディZで旅行をしていながら、その旅行中に愛人がOLを誘拐して殺害、身代金を要求していたことを知らなかったことになる。一緒にラーメンを食べたとされる女子高生が、その4、5時間後に愛人に殺されていたことにも気づかなかったことになる。

気づかないことは別に犯罪ではない。K氏は誘拐殺人には関与していなかったことが、裁判で証明されたのだ。だが、知子を追い詰めたのかもしれない道義的な責任は残る。K氏にとって知子は、金蔓となる都合のいい年上の情婦にすぎなかったのだろうか。

1992年3月31日に開かれた名古屋高裁金沢支部の控訴審判決でも、一審の判決どおり、宮崎被告に死刑、K被告には無罪の判決が下った。

1998年9月4日、最高裁判決で宮崎被告の上告は棄却され、死刑が確定した。

晴れて無罪となったK氏のその後も、それほど幸せなものではなかったようだ。公判中に妻とは離婚。無罪判決後は、再就職もままならない。無実の罪を着せられたとわかっていても、渦中の人物であったというだけで、世間の目は冷たいからだ。一目を避けるような人生を送っているとも聞く。

K氏にとって宮崎知子との情事は、軽い火遊びだったのかもしれない。だが、その結果失われた時間と人生は、とてつもなく重いものだったことは確かだ。

新聞記者の日常と憂鬱27 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女5
公判では、K被告、宮崎知子被告、検察の三者の主張が入り乱れ、多くの点で証言や陳述が食い違った。K被告は完全無罪を主張。検察は、主犯がK被告であるとして譲らない。宮崎被告は主張をころころ変えながらも、検察側のK被告主犯説に話をあわせようとする。

公判は三すくみ状態のまま長期戦へと突入した。ちょうどそのころである。私も裁判を担当し、この稀に見る凶悪事件の公判を取材した。宮崎知子被告には国選弁護士が、K被告には冤罪を信じる富山県内屈指の有力な弁護団がついていた。

一回一回の公判が終わるたびに、K被告の弁護団は記者団に対しK被告の無罪を訴えた。確かにK被告と犯罪を結びつけるのは、誘拐事件が発生した当時、宮崎被告と一緒に行動をしていたという状況証拠と、宮崎被告の自白、それにK被告自身が半ば強制されて判を押した自白調書だけであった。

突然、膠着状態を脱しようとするかのように検察が動いたのは、1985年3月のことだった。その日の公判で富山地検は、K被告が主犯、宮崎被告が従犯であるとした冒頭陳述と起訴状の一部を変更、宮崎被告が主犯でK被告が従犯であったとする主張に切り替えたのだ。文字通りの本末転倒とは、このような事態を言うのだろうか。

だれが主犯であるかという冒頭陳述の重要な部分を、初公判から4年半も経った時点で変えるのは異例の事態であった。K被告の弁護団は色めき立った。冤罪事件への光が見えたからである。冒頭陳述の変更は、K被告の罪を証明する手立てがないことを示す検察側の敗北宣言に等しかった。

1988年2月9日、富山地裁で出された判決では、宮崎被告に死刑(論告求刑同)、K被告に無罪(論告求刑は無期懲役)が言い渡された。閉廷後ただちに、K被告は無罪放免となった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱26 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女4
連日深夜まで続く事情聴取。しかし二人は口を割らない。後に判明するが、K氏は本当に何も知らなかった可能性が強い。そうであるならば、執拗な警察の調べにも口を割らなかったのは、当然といえば当然であろう。

一向に逮捕されない犯人。尻尾がつかめず焦る警察。心証はクロだが、確かな証拠はない。殺された女子高生の自宅への電話と、赤いフェアレディZの目撃証言だけである。シロともクロともつかない宙ぶらりんの日々が続いた。

二人の重要参考人に対するマスコミの取材もいよいよ過熱する。二人の過去が洗い出され、ほとんど犯人扱いする社も出てきた。

警察庁からも犯人を早期に逮捕するようプレッシャーがかかる。これ以上は長引かすことはできない。富山・長野両県警の特別捜査本部は3月30日、富山の女子高生を誘拐した容疑で知子とK氏の逮捕に踏み切った。

3日後の4月2日には、誘拐され行方不明になっていた長野県のOLの死体が発見される。やがて知子はポツリポツリと部分的に自供を始めるが、K氏は落ちない。

検察は知子が単独で犯行に及んだはずがないと決め込み、知子の愛人であるK氏を厳しく尋問。そのころ知子も検察の尋問に対して「年下のK氏に捨てられたくなかったので、言いなりになった」と述べる。検察に「男の責任を取れ」と追求されたK氏は、半ば強制的に自白調書に判を押した。

二人は、富山・長野連続女性誘拐殺人事件の犯人として起訴された。しかし、これで事件が解決したわけではなかった。本当に二人の犯行なのか。K氏は何も知らなかったのか。知子だけですべての犯罪を実行できたのか。

1980年9月11日から富山地方裁判所で始まった公判では、検察側は両事件の実行行為者をK被告、誘拐は宮崎知子被告、死体遺棄は両被告の犯行であると主張(検察側冒頭陳述)した。検察にはめられたことに気づいたK被告は一転して全面否認、宮崎被告は長野事件の共謀だけ認め、富山事件を否認した。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱25 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女3
1979年暮れには、いよいよ北陸企画の経営が立ち行かなくなる。借金返済に追われた宮崎知子は1980年2月、北陸企画の閉店準備を進める一方、最後の手段として身代金目的の誘拐を思いつく。

2月23日、知子は富山駅前で女子高生にバイトをしないかと声をかけ、北陸企画に連れてゆく。

女子高生は翌日、家族に「アルバイトに誘われ北陸企画にいる」と電話。その後、岐阜県まで連れ出され、26日には女子高生がK氏と岐阜県の飲食店でラーメンを食べたところを目撃されている。その4、5時間後、女子高生は絞殺され、雪深い岐阜県の山中に棄てられた。

犯行には赤いフェアレディZが使われた。知子は殺害前日の25日、女子高生宅に電話して身代金を取ろうとするが、電話の応対に出た被害者の祖父が頼りなさそうだったので計画を断念した。

知子のカネに対する執念は、これで終わることはなかった。3月3日、「いい儲け話がある」とK氏を誘い、二人でフェアレディZに乗って長野に向かった。二人は途中、複数の女性に「お茶を飲みませんか」と声をかける。

決行したのは、知子であった。フェアレディZに乗って、獲物を物色する。3月5日、長野市内のバス停でバスを待っていたOLに「このへんに店を出す予定なので、若い女の子の意見が聞きたい」と声をかけ、食事に誘う。

知子はOLに睡眠薬を飲ませ、フェアレディZの中で絞殺。被害者の財布からカネを抜き取り、死体を聖高原に遺棄した。その間、K氏は何も知らずにホテルで待機していたという。

前述したように、知子はOLの自宅に身代金を要求したが、計画が杜撰であったこともあり結局失敗したのである。

岐阜、長野の事件現場近くで頻繁に目撃された赤いフェアレディZ。殺された女子高生がバイトに誘われたという富山の北陸企画。この異なる二つの点が確かな線で結ばれ、知子とK氏が重要参考人として浮上した。

3月8日、富山に戻ってきた知子とK氏を待っていたのは、警察の事情聴取であった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱24 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女2
宮崎知子は1946年2月14日、富山県上新川郡月岡村(現富山市)で生まれた。夫に先立たれた母親が、所帯持ちの男と通じて生まれたのが知子であった。

父親は知子が13歳のときに実子として認知、知子を溺愛した。ところが母親は兄二人ばかりをかまい、知子は疎外感を味わっていたらしい。

知子は頭がよく、成績もトップクラスだった。東京の私立大学に受かるが、学費の工面がつかず進学を断念、地元の保険会社で働いた。その後、上京して化粧品会社に就職、23歳で結婚して子供をもうけた。

しかし、知子の幸せは続かなかった。1972年に卵巣摘出手術を受け闘病中に夫の不祥事と浮気が発覚、離婚する。失意の知子は子供を連れて故郷の富山に戻ってくる。ところが再び病に冒され、再手術。退院すると今度は、知子が慕っていた父親が死去する。

老母と幼子をかかえ、知子は途方に暮れた。生活保護でかろうじて暮らす毎日。最初は再婚目的で通っていた結婚相談所で紹介された相手に体を売って、小遣いを稼ぐようになった。

1977年、知子は知り合いの売春婦の仲介でK氏と出会う。K氏は知子の頭のよさと都会的なセンスに惚れ、やがて付き合うようになる。当時知子は31歳、K氏は新婚間もない25歳であった。

1978年、二人は100万円ずつ出資して贈答品販売会社「北陸」企画」を設立。業績は振るわず、苦しい資金繰りが続いた。

カネさえあれば、大学へも行けた。カネさえあれば、体を売ることもなかった。薄幸の人生を恨む気持ちが、やがて知子を狂気へと走らせたのだろうか。

金策に困った知子は1979年8月、結婚相談所で知り合った男性に9000万円の保険金をかけ、殺害しようと計画する。男に強精剤と称してクロロホルムを嗅がせ、眠らせてから溺死させるつもりであったが、男が眠らなかったため計画は失敗した。

その後も知子は、結婚相談所で知り合った男から金を借りたり、サラ金から借金をしたりして、金策を続ける。カネがないにもかかわらず、赤いフェアレディZを購入したのも、このころであった。
(続く)

円陣、独走、試合終了 「ラグビー情報投稿してください。(4550)」

この一年、数々の輝かしい戦績を残した早大ラグビー部佐々木組。しかし、栄光にもいつかは終わりが来ます。

22日は、佐々木組最後の行事である佐々木組追い出し試合が上井草のグランドでありました。

試合前に円陣を組む四年生。選手は32人(1人欠席?)、トレーナー2人、マネージャー1人の計35人です。この後4年生全員で北風を歌いました。

円陣

この4年生のチームが、15~20分のマッチでAチーム、3年生チーム、2年生チーム、1年生チームと次々と試合をします。2年生チームと1年生チームとの試合では、四年生のトレーナーやマネージャーも参加。

最後は恒例となっている女子マネージャーの独走トライで終わりました。

独走

早稲田は19日の日本選手権準決勝で東芝府中に完敗しました。前半はディフェンスで健闘しましたが、結局、接点で圧倒され最後は点差が開きました。

来年は、打倒東芝(あるいはサントリー)を目指して欲しいですね。何度か対戦して相手の圧力に慣れれば、勝機があるようにも思えました。

最後の公式戦

試合終了。佐々木組最後の公式戦が終わりました。

試合終了

21日には監督と主将の交代がありました。新監督と新主将は96年度に主将だった中竹竜二とフランカーの東条選手です。清宮前監督はサントリーの監督に就任します。

清宮

サントリーには佐々木組の三代前の主将だった山下大悟選手がいますね。怪我で昨シーズンは活躍できませんでしたが、青木、前田、佐々木の各選手が加われば、トップリーグにも早稲田魂が宿るかもしれません。

新聞記者の日常と憂鬱23 「メディアって何だ!?(185)」

▼赤いフェアレディZの女1
富山支局での仕事の中で、サツ(警察)回り、大学回りのほかに裁判所回りというのもあった。地方支局では、サツ回り記者は裁判も担当する。

私はそんなに熱心なほうではなかったが、一週間に一度は民事と刑事の期日簿(公判日程が書かれたノート)をチェックしに行く。凶悪な刑事事件の裁判日程をチェエクするだけでなく、民事裁判では国や自治体を相手取った損害賠償訴訟がないかどうかを調べなくてはならない。

しかし、地元紙や県版のある全国紙はたいしたことのない訴訟や裁判でも記事にするかもしれないが、共同通信が全国に配信するような裁判はほとんどない。

その共同通信でも毎回必ず傍聴し、原稿を配信していた裁判が当時あった。警察庁広域重要指定第111号事件と称された富山・長野連続女性誘拐殺人事件の公判である。月二~四回の公判は必ず取材した。朝一〇時ごろから一時間ほどの休憩を挟み夕方五時近くまで、しきりにメモを取った。

富山県の事件史上稀に見る凶悪事件であったが、公判も波乱含みであった。ご存知のない方のために、あらましをお伝えしよう。

1980年3月6日、岐阜県の山林で若い女性の死体が発見された。約2週間前から行方不明になっていた富山県内の女子高生であった。

同じ日、長野市では銀行員の女性が誘拐され、女の声で身代金を要求する電話が自宅にあった。女性は前日から行方不明であった。身代金額は三〇〇〇万円。金額は二〇〇〇万円に減額されたが、受け渡しに失敗、その後連絡が途絶えた。

同時に発生した二つの事件。やがて点と点を結ぶと、二人の容疑者が浮上してきた。富山の女子高生が消息を絶つ前に、「アルバイトに誘われて北陸企画にいる」と家族に電話で伝えていたからだ。

その北陸企画の共同経営者が、日産の最高級車である赤いフェアレディZを乗り回していた宮崎知子とK氏だった。K氏には家族がいたが、宮崎とは愛人関係にあった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱22 「メディアって何だ!?(185)」

▼ヒマネタ探し2
富山支局に赴任して一年目は、ヒマネタ探しは地元紙が頼りだった。それはそうであろう。まったく見知らぬ世界で、知っている人も皆無。ゼロから取材をスタートするには、北日本新聞は情報の宝庫であった。

新聞記者は、新聞の折り込みチラシにも注意を払う。富山では何が流行っているのか。経済活動や社会現象――チラシの向こうに富山の姿がすかして見える。

さて、富山といえば薬である。ある日、面白い記事を北日本新聞に見つけた。富山市内の薬屋さんが、漢方薬の処方をコンピュータが教えてくれるソフトを開発したというのだ。読んだ瞬間、これはいけると思った。いまだに神秘的な要素のある東洋医学と、目に見える数値を重視する西洋医学の融合ではないか。

直ちにその薬屋さんを訪ね、仕組みなどを聞くと非常に面白い。漢方薬の処方は、その人の体質によって異なる。その体質を見分ける問診表をソフト化し、自己診断。自分にはどの漢方薬がいちばん適しているかを知ることができるというのだ。

これも全国配信のヒマネタになった。その薬屋さんの取材をする過程で私は、富山医科薬科大学和漢薬研究所の荻田善一教授(当時)とも親しくなった。同研究所も漢方薬と西洋医学の融合を目指す研究を続けている国立の研究・教育機関である。

荻田教授からは最新研究を多く学んだ。漢方薬の効果を遺伝子工学的に解明していく研究は斬新であった。ヒマなとき(大概はヒマであったが)は、大学院のセミナーにも参加させてもらった。大学院生とも仲良くなり、週末はテニスをして遊んだこともある。

こうして一つの取材から、ドンドン取材先や仲間が増えていった。独自の情報網が富山中に広がっていくわけだ。

三年間の赴任期間中には、富山医科薬科大学の研究ネタを何本も書かせてもらった。全部は覚えていないが、「喘息の原因にはユスリカが影響していることがわかった」とか「毛根からある種の遺伝病が判明できる」などの原稿であった。いずれも独自ネタで全国配信された。ちょっとした科学記者の誕生である。これもヒマネタ探しのおかげであった。

新聞記者の日常と憂鬱21 「メディアって何だ!?(185)」

▼ヒマネタ探し1
富山のように暇な支局では、文字通りヒマネタ探しが行われる。新聞記事には、事件・事故のようにその日のうちに原稿を仕上げて配信・掲載しなければならない発生モノ記事とは別に、何日間か取り置きができるヒマネタ記事というのがある。

ヒマネタ記事は、事件・事故が少なく紙面が薄いときに使われる、いわば紙面対策上のストックである。とくに発生モノが少ない支局には、支社や支局からヒマネタを出せとの催促が来る。

かといって、すぐに出せるものでもない。どうやって探すか。いちばん手っ取り早い方法は、北日本新聞など地元紙を丁寧に読み、そこに全国ネタがないかどうかチェックすることだ。

地元の情報網に関しては、全国紙も地元紙に遠く及ばない。富山支局のように小さな支局の場合、全国紙でも記者は3~4人(共同通信は当時外勤記者2人)だが、地元紙の記者はその数倍から10倍はいる。当然、地元紙の情報量は多くなる。

問題は、地元紙に載った記事の中で、全国的な話題性があるものがあるかどうかである。たとえ地元紙の一面トップを飾った記事でも、ローカル性が強いとヒマネタにならない。むしろ小さな記事で、地元紙の記者が気づかない点に焦点を絞って再取材すると、全国的な話題性のある記事になる場合が多い。

たとえば私は、次のような3段ほどの記事を北日本新聞の第二社会面に見つけた。滑川市の農家がマイロの収穫に成功したというものだ。何の変哲もない農業記事だが、どうもマイロの本格的な収穫は全国的にも初めてではないかという。さらに調べると、全国の農家はコメの減反政策に対応するため、当時転作を強く求められていた。マイロはそれまで、日本の気候風土ではうまく収穫できないのではないかとされていたが、それを富山県の一農家が転作作物として収穫に成功したのだ。

「カンカラコモデケア」的に言うと、苦労して収穫に成功したという感動と物語性がある。転作作物として注目されるという今日性、全国の減反面積拡大というデータ、これは全国ネタになるという決意もある。何よりも明るい話題だ。

早速、滑川の農家を訪ねて取材。後日、ヒマネタとして写真付で全国に配信した。少し工夫をして視点を変えれば、小さな記事も全国記事に変身するのである。

新聞記者の日常と憂鬱20 「メディアって何だ!?(185)」

▼明るい新聞記者、暗い新聞記者
「ア」の明るさで思い出したのが、共同通信社の入社試験だ。1980年代前半は、マスコミの入社試験も変換期にあった。ちょうど私が入る前年から、共同通信もそれまでの筆記試験重視から面接重視に変えた。その理由が明るさであった。

それまで新聞社や通信社は、ほぼ筆記試験一辺倒で人材を採用してきた。常用漢字表(当時は当用漢字表)には決して出てこない、あの難しい漢字の書き方や読み方の試験をパスした人だけが、次の面接に進めたのだ。

ところが、超難関の筆記試験にパスした人はガリ勉タイプで、性格も暗い人が多かった。新聞記者は人と会って話をする職業である。社交的で明るい性格のほうが望ましい。そこで、筆記試験の前に面接をするようになったのだ。

他社の青田刈りに対抗するため、ジャーナリスト講座も開設、そこで作文のうまい学生を事前に面接でつばをつける方法も始めた。私はジャーナリスト講座に出席しなかったが、やはり試験前の面接で内定を出してくれた。結局その年採用された記者は、三分の一がジャーナリスト講座後の面接で、三分の一が会社訪問解禁後の面接で、残りの三分の一は筆記試験後の面接で内定を出したのだという。

幸運であったなと思う。作文には自信があったが、筆記試験一辺倒ではまず受からなかった。面接重視への方向転換は追い風であった。というのも性格だけは明るかったからだ。

富山県警を回っているときも、警察官から明るい性格であるとよく言われた。お世辞なのか呆れていたのか真意はわからないが、私が部屋に入ってきただけで部屋全体が明るくなると、ある警察幹部から言われたこともある。さすがに今は、数々のつらい体験をしてきたせいで20代ほどの無邪気な明るさはなくなった。

暗い性格の新聞記者でも悪いわけではない。それはそれで味があるといって取材先から好まれることもあるし、雄弁よりも朴訥がいいときもある。惨劇の取材では明るさも不要であろう。もっとも、性格が明るかろうと暗かろうと、コミュニケーション能力だけは必須であることはまちがいない。

新聞記者の日常と憂鬱19 「メディアって何だ!?(185)」

▼カンカラコモデケア
先日恐喝罪で起訴された“一夫多妻男”は、女性にもてる呪文を使ったそうだが、おそらく新聞記者志望者なら誰でも知っている呪文。それがカンカラコモデケアだ。これは入社試験の作文に効果を発揮するだけでなく、実際に新聞記者として雑感や企画モノを書くときも役に立つ。

この呪文の提唱者は、毎日新聞の名文記者といわれた故山崎宗次だ。一線を退いた後、マスコミ志望者のための私塾で新聞記者の文章の極意として教えていた。

ご存知ない方のために、簡単に説明しよう。

「カン」は感動。すべてが記者の感動から始まる。それを読者に伝えようと思うのがジャーナリズムの原点である。

「カラ」はカラー、カラフル。鮮明な情景を読み手に伝えるため、原稿に実際に見た色彩描写を入れる。先輩記者の文章を例文としてあげれば、「夜空を焦がす真っ赤な炎」となる。

「コ」は今日性。昔のことを書くにしても、現在につながる話でなくてはならない。過去にこういうことがあって、では今はどうなっているのかに焦点を絞らないと、話題性はない。いかに今日の話題として取り上げるかは、記事を書く上で非常に重要である。

「モ」は物語性。同じ大根でも、畑でとれる大根とアスファルトの道路を突き破って成長した大根では話が違ってくる。道路わきに咲く花でも、何かのストーリーがあればそれでも立派な記事になる。人は物語に感動するものである。結果の裏に隠された一つ一つの真実を掘り起こしてゆけば、必ず物語は生まれるはずだ。NHKが放映していた番組『プロジェクトX』も物語が売りであった。

「デ」はデータ。データや統計があれば客観性が増す。日時などの正確な事実や、誰がそう言っているのかの正確な記録・取材メモもデータだ。信頼のおける原稿にするため、データの引用は不可欠である。

「ケ」は決意。信念や決心をちりばめた文章には説得力がある。それは書き手の気迫のようなものだ。

「ア」は明るさ。暗くていじけたような文章では読み手の心を捉えるのは難しい。

以上が魔法の呪文。いい文章を書く極意だ。あとはこれを実践すればいいだけ。

さあ、今度こそ! これであなたも新聞記者だ! 
(編注:う~ん、かなり明るい締めですね)

新聞記者の日常と憂鬱18 「メディアって何だ!?(185)」

▼原稿がうまくなる方法
新人のころ、原稿がうまく書ける方法を先輩記者に尋ねたことがある。その答えは単純明快であった。「徹底的に取材をすることさ」

本記が書けるようになったからといって、いい記事を書けるようになったとは言えない。実際のところ、原稿がうまいかうまくないかはその記者の取材力で決まる。いくら名文を書く記者でも、取材に裏付けられた内容が伴わなければ何の意味もない。徹底的に取材し事態を把握することは、記者の生命線でもあるのだ。

理想的には「10を知って1を書く」であるが、いかんせん他社との競争が激化すると「知ったことはすぐに書く」になってしまう。書かないでいると、他社に書かれてしまうからだ。

幸い、富山は大きな事件・事故はほとんどない県なので、日々の仕事に追われることもなかった。むしろ問題は、あまりにも事件がなさすぎて、原稿を書く機会も少なくなってしまうことだ。何も書かなければ、原稿を書く腕も上がらない。

ではどうするか。自分でネタを見つけ、取材し原稿を書くのである。
結局、記者は取材にしか活路を見出せない。いかに多くの人々に出会い、真実を発見し、そこで感動するかが、最も重要な記者の仕事なのである。

新聞記事と同様に、入社試験や入学試験で書かされる作文も、実はこの取材力が試されているのだと思う。よく作文の書き方がわからなくて悩んでいる人がいるが、結局作文もその人が自分の人生でどのようなことを見聞し、感動してきたかにかかっている。要はそれだけの経験や取材をしているかである。

感動の引き出しが多ければ多いほど、原稿はうまくなる。

新聞記者の日常と憂鬱17 「メディアって何だ!?(185)」

▼記事の書き方
昨日は雑感の書き方に少し触れたので、ついでに本記の書き方にも触れておこう。本記はだれにでもすぐに書けるようになる。

事故などの発生モノの本記の場合、日時を書き、発生場所を書き、何がどうしたかを書く。次にその事故に対して警察などの捜査・調査機関がどう見ているかを書く。事故の理由は何か、誰が責任を負うのか、どのような影響を及ぼすのかについて書けば、リードの部分は終わる。そこまで要する字数は300字弱(13字で20行が目安。事故の大きさにより長さは異なる)。コンパクトに事故の全容を書かなければならない。

たいていの読者はこのリードを見ただけで、必要十分な情報を手に入れることができる仕組みだ。さらに事故の詳細を知りたい人のために、「警察や消防の調べによると」などの書き出しで別の段落を始める。

最後は大体、目撃者の談話を紹介したリ現場がどういうところであるかを説明したりして終わる。このように最初に重要な要素をすべて書き、後ろに行くほど枝葉の部分を書く文章のスタイルを逆三角形型という。

捜査当局が立件した事件モノの場合、何々事件を調べていたどこどこ警察署は何日、だれだれを何々の疑いで逮捕した、などと書く。大きな事件の場合、その影響などについても言及する。後は事故の場合と同じで「どこどこ警察の調べによると」で始まる事件の詳細を書く。詳細の最後には「~の疑い」と書いて終わる。新聞記者が得意とする体言止である。

日本語的には、「警察の調べによると」で始まった場合は、「これこれこういう疑いがもたれているという」と締めるのが正しいように思うが、新聞原稿ではえてして「疑い」で止める。容疑事実を克明に書いた後は、容疑者の素性や人となりなどを書いて終わる。事件・事故の記事であろうと、経済や政治の記事であろうと、新聞記事のほとんどは逆三角形型である。

さあ、これだけ知っていれば、あなたはもう明日から新聞記者だ。って、本当?

新聞記者の日常と憂鬱16 「メディアって何だ!?(185)」

▼記者の魔法、雑感
新聞記者は時々、魔法を使う。現場にいなくても、まるでいたかのような原稿を書くのだ。それが魔法。「現場にいなかったのに、まるでその場にいたかのような原稿を書くのはウソを書くのと同じではないか」と思われるかもしれない。私も最初はそう思ったので、先輩記者に同じ質問をした。「いや、取材したことを書くのであれば、それはウソではないのだ」との答えが返ってきた。

一年目の秋だったか、庄川温泉のホテルで火事があり、ホテルは全焼、二人が焼死した。そのとき、先輩が書いた雑感記事が「夜空を焦がす真っ赤な炎」という書き出しであった。先輩記者は現場に行って「夜空を焦がす真っ赤な炎」を目撃したわけではない。実は電話取材で消防署員かホテル関係者をつかまえて、当時の様子を詳しく聞いて、火事が起きたときの情景を想像して書いたのだ。確かにウソではない。ただ、違和感は覚える。

これは、雑感というカテゴリーにおいてよく使われる手法だ。記事の種類は大雑把にいって、いわゆる5W1Hの事実関係を書く本記、事件や事故の生々しい様子を描写する雑感、本記に入らないが関連する重要な事実を書くサイド、事件の背景説明や分析をする解説がある。その中で雑感がいちばん文章力に差がでるといわれる。それはそうだ。見てないことを見たように書くには、それなりの表現力が必要になる。

最初は違和感があると言っていた私もいつの間にか、現場にいなくても現場にいたかのような原稿を書くようになっていた。1984年、たしか石川県のイカ釣り漁船が北朝鮮警備艇に銃撃され、拿捕される事件があった。その漁船が石川県に帰ってくるときだ。本来なら金沢支局の管轄だが、銃撃された漁船を上空から撮影した名古屋支社のカメラマンを乗せたヘリコプターが富山に着陸し、富山支局から写真を電送することになった。そこで私に機上雑感を書けという指令がきた。

ヘリコプターに乗ってもいないのに、どうやって書けるのか。もうお分かりだろう。私がカメラマンに取材して、あたかも実際に機上から見ていたように書くのだ(カメラマンは基本的に原稿を書かない)。私は早速カメラマンに話を聞いて、実際に私が空から見たように、銃弾の傷跡が生々しい様子などを原稿にまとめた。もちろん、カメラマンの名前で書くわけだ。出版業界にはよくゴーストライターがいるが、その新聞業界版だと思えばいい。

その出来はかなりよく、カメラマン本人からほめられたのを覚えている。雑感のよしあしの決め手は、いかに生々しく書くか。その場にいなければわからないようなこと、たとえば、臭いとか色とか音とか味とか感触とか、つまり五感で感じることをいかにうまく盛り込むかである。そして、現場に行っていない場合は、想像力という魔法が決め手となることは言うまでもない。

新聞記者の日常と憂鬱15 「メディアって何だ!?(185)」

▼マイカー取材と災難
地方支局では、何かと車があったほうが便利である。

富山では最初、私の足はもっぱら自転車であった。自宅から支局へ行くのも自転車、支局から富山署の記者クラブへ行くのも自転車。新人記者君はいつも自転車で富山市内中を走り回っていた。

しかし、どうも自転車では行動範囲が狭い。新聞記者たるもの、せっかく富山にいるのだから富山のことを知るためにもより多くの場所を訪ねる必要がある。それには車が必要ではないか、と考えた。

そこで夏の補給金(共同通信ではボーナスと呼ばず、補給金という)を当てにしながら、奮発してマイカーを購入した。1400CCの日産の白いパルサーである。なぜパルサーにしたか。答えは簡単。安かったからだ。

パルサーは威力を発揮した。行動範囲は広がり、休みのたびに富山県内だけでなく、隣県へも足を伸ばした。

ところで共同通信社では、マイカー取材が禁じられていた。これは危険や事故を回避するためでもある。たとえば火事が発生した場合、現場へ急行するとなると、かなり車を飛ばさなければならない。当然、事故も起きやすくなる。会社側も労働組合側も、事故の可能性が高まることを奨励することはできないということで基本的に了解していた。

しかし事件発生後にタクシーを呼んで現場に出かけるのと、すぐに自分の車に乗り込み現場に向かうのとでは、5分以上到着時間が遅れてしまう。そこで、自転車通勤時代に私がやったのは、まさに便乗取材であった。仲のよくなった他社の記者の車に乗せてもらうのだ。

私はよく、M新聞の記者の車に乗せてもらった。M新聞の記者と共同通信の記者は、どういうわけか地方支局では仲がよくなる。M新聞の記者はマイカー取材が奨励されており、頼むと乗せてくれた。

M新聞の記者は頻繁にマイカーで現場取材をしているため、慣れたものであった。消防自動車やパトカーの後を猛スピードで追尾する。現場へも一番乗りだ。M新聞の場合、ガソリン代が半額補助されるのだという。会社は全額ガソリン代を支払うべきだと思うが、マイカーはプライベートにも使う。財政事情や税務処理上、半額支給となったのであろう。

マイカーで通勤するようになった私は、さすがに便乗取材は頼めなくなった。そこで社内規則にのっとり、タクシーを使いまくった。だが、問題は冬場であった。冬場は雪のせいでタクシーがなかなか来ない。30分ぐらいかかることもある。

そういう時は、社則を破ってマイカー取材をする。リスクはあるが、背に腹はかえられない。あるとき、富山市内の高校で生徒が屋根から落ちて重傷を負ったという一報が入った。雪が降っており、タクシーは来ない。マイカーで出動だ。

あたりは真っ白であった。事故があった高校に到着する。吹雪のときは視界も遠近感も狂うことがある。校庭に入り、車を止めたときだ。右前の車輪にガクンと違和感があった。あれどうしたのだろうと、ドアを開けて右足を踏み出すと、冷たいシャーベット状の水が長靴の中に入り込んできた。何と、私が踏み出した場所は、校庭の中央にある噴水池であったのだ。

急いでいたせいもあるが、噴水池は雪でカモフラージュされており、まったく気づかなかった。取材の後、レッカー車を呼んだ。当然、レッカー代は自腹であった。

新聞記者の日常と憂鬱14 「メディアって何だ!?(185)」

▼連携プレー
残留孤児と父親の再会のほかにも2枚、私の撮った写真が北日本新聞の一面トップを飾ったことがある。一つは、北アルプスのふもとにある富山県横江村の尖山が古代の祭祀場(ピラミッド)だったのではないかとの記事。これは記事自体が独自ダネだったので、北日本新聞が、私が書いた記事と一緒に使ってくれた。ただし、誰でも撮れるような何の変哲もない山の写真である。拙著『竹内文書の謎を解く』の70ページに掲載されているので、興味のある方は参照されたい。

さて、もう一枚の写真。これは悲惨な災害写真であった。1985年2月15日、富山県境に近い新潟県青梅町で、大規模な土砂崩れがあり、家々が土砂に飲み込まれ10人が亡くなった災害だ。

その日も夜遅く、自宅でくつろいでいると電話が鳴った。新潟で土砂崩れがあったので現場に行ってくれという。普通、新潟県内で起きた事件・事故は新潟支局がカバーするが、新潟市から現場に向かうよりも富山市から向かったほうがはるかに近い。記者の鉄則は、現場にいかに早く到着するかである。とくに写真は1分1秒の違いが明暗を分ける。管轄などにこだわっている場合ではない。

富山からタクシーを飛ばして、新潟の土砂崩れ現場へと向かった。すでに真夜中近い。締め切りが迫っている。現場は真っ暗で何がなんだかわからない状態。だが、どうやら土砂は国道をも埋め尽くしているようであった。災害救助に当たっている救助隊のライトが土砂の輪郭を浮かび上がらせる。すごい光景である。私はそのライトを利用しながら、20枚撮りフィルムを全部撮りきり、タクシー運転手に富山支局に至急届けてくれるよう頼んだ。

支局ではカメラマン出身の支局長が待機していて、フィルムの到着を今か今かと待っているはずであった。撮影者の私と、タクシー運転手と、支局長の連携プレーで写真は締め切り時間内に加盟社に送信された。どんなに素晴らしい写真であっても、締め切りに間に合わなくては意味がない。私が撮った写真は、構図など技術的な点はともかく、現場からいちばん最初に届いた写真として、北日本新聞の朝刊早版(締め切り時間は午前0時ごろ)トップや他の加盟社の紙面を飾った。ただし北日本新聞の遅版(締め切り時間は午前2時ごろ)は、自前の写真に差し替わっていた。おそらく入善町を担当する記者が撮った写真であろう。

さて、ほかの社はどうだったのかというと、連係プレーはあまりうまくいっていないようであった。てんてこ舞いの社もあった。とくにスムーズな取材を妨げたのは管轄主義である。富山は大阪本社管内で、新潟は東京本社管内である社が多い。警察組織などもそうだが、管轄が違うと急に冷たくなる。共同通信は幸い、それほど縦割りになっておらず、横の連携も密であった。大阪採用、東京採用とか、分かれていることもない。

さらに幸運だったのは、共同通信はマイカー取材が禁止されていたことであろう。取材でタクシーを使ったからこそ、フィルムを富山支局まで迅速に運ぶことができたのだ。

もっとも、デジカメや写メールで簡単に写真送信できるようになった時代においては、今は昔の話である。

歓喜 「ラグビー情報投稿してください。(4550)」

ラグビーの日本選手権準々決勝で、早大がトヨタ自動車を28―24で破りました。学生チームが社会人上位チームに勝ったのは1988年以来18年ぶりだそうです。

試合はフォワード戦で早稲田が互角以上の戦いをみせましたね。とくにラインアウトはほぼ完璧の出来。フランカーの豊田選手は大活躍でしたね。

フォワード戦

前半23分には、モールから主将の佐々木選手がトライ。下の写真はそのときのモールです。

フォワード戦

早稲田が終了間際のトヨタの攻撃をしのぎきり、試合終了の笛がなると、スタンドの観客は総立ちです。

勝利の瞬間

スクリーンには佐々木選手がチームメートと抱き合っている場面が映し出されています。ちなみに、中央に写っている髪の毛の薄い人は私ではありません。念のために。

新聞記者の日常と憂鬱13 「メディアって何だ!?(185)」

▼ビギナーズラック
富山支局時代、写真撮影では随分と支局長に絞られた。そのおかげか、私の撮った写真が地元北日本新聞の一面トップを3回飾ったことがある。

これは私にとっては、非常に名誉なことである。なぜなら、北日本新聞には写真部のカメラマンがおり、そのカメラマンが撮った写真よりもよかったということになるからである。と言っても、それはビギナーズラックなようなもの。実は、いい写真を撮るにはたぶんに幸運が必要なのだ。

最初に地元紙の一面を飾ったのは、中国残留孤児が富山空港で富山に住む実の父と37年ぶりに再会したときの写真だ。富山空港では混乱を避けるため、床にテープが引かれ、それ以上前には出て行けない取り決めができた。その場所取りも、公平を期してくじで決まった。私は確か左から3番目ぐらいの場所のくじを引き当て、その瞬間をじっと待った。

残留孤児の乗った飛行機が富山空港に降り立つ。やがて到着出口から出てきた孤児は、父親を見つけ、駆け寄る。涙の対面。いっせいにフラッシュがたかれる。私もその一人。無我夢中でシャッターを押した。しかし、充電が間に合わず、何枚かはフラッシュなしの写真になってしまった。

支局に帰って現像すると、なんとか一枚綺麗に撮れている写真があった。たまたまフラッシュがたけた一枚。その一枚が北日本新聞のカメラマンが撮った写真よりもたまたま、角度的にいい構図だったのだろう。もちろんその角度とは、くじで私が引き当てたものであった。北日本新聞は自社のカメラマンが撮った写真ではなく私の写真を夕刊一面トップに使ってくれたのだ。

いい記念になりました。ありがとう。同時に北日本新聞のカメラマンさん、ごめんなさい。デスクに怒られたりしなかったですよね? もう時効だと思うので、ばらしてしまいました。

決戦前夜 「ラグビー情報投稿してください。(4550)」

今日は雲ひとつない良い天気。
上井草の早稲田大学ラグビーグランドでは、明日のトヨタ戦に向けた試合前練習をしていました。

ラインアウト

負けたら後がない真剣勝負。明日の試合は、5年間にわたる清宮早稲田の集大成でもありますね。どのような試合になるか楽しみです。

下の写真は恒例のタックル練習。手前の坊主頭の選手はスクラムハーフの矢富選手です。試験勉強のしすぎ(?)で体調を崩したため先週の試合は欠場したそうですが、もうすっかり元気です。

タックル

さて気になるのは、スポーツ新聞や写真週刊誌フライデーなどで騒がれている五郎丸選手ですが、あごの骨折から見事に復活しましたね。明日はフルバックで先発出場です。

キックの最終調整をする五郎丸選手。赤いスパイクシューズが鮮やかですね。

五郎丸

ラグビー日本選手権二回戦の早稲田大学対トヨタの試合は明日12日午後2時、秩父宮ラグビー場で行われます。

新聞記者の日常と憂鬱12 「メディアって何だ!?(185)」

▼ポーズ、演出、やらせ
「はい、チーズ」――。写真を撮るときポーズをとる。おかしくもないのに笑顔、笑顔、笑顔。

実は報道写真を撮るときも、「ポーズ」をさせることがある。笑顔、怒った顔、悲しい顔。はい、右手を上げて、左手を上げて。もう一度、同じポーズをとって、はい握手して笑って、などなど。舞台監督の演出のようだ。

政治家などは、こちらが演出しなくても、自分で演出して演じきってしまう。自作自演。本当は腹立たしく思っていても、会談がうまくいったと印象付けるために笑顔を見せる。内心ほくそえんでいるのに、苦虫を噛み潰したような顔をする。

私は共同通信に入る前は、報道写真はすべてあるがままの光景を撮るものだと思っていたので、いい写真を撮るために、こうした演出を頻繁にするのだとは知らなかった。確かに演出なしに撮った写真は、情報量が足りなかったり、迫力がなかったりする場合が多い。だから、もう一度同じような仕草を要求することもある。

ただ誤解のないように述べておくが、事件、事故などの報道写真は演出がないし、演出をする暇もない。その瞬間、その現場に居合わせて、シャッターを押したかどうかが勝負だ。問題となるのは、十分な時間があるときの写真取材である。

富山支局長が写真部出身だったおかげで、写真の撮り方をよく教えてくれた。しかし、どうしても“演出”には抵抗があった。そのせいでよく怒られた。この背景を入れて、こういうポーズをとってもらって撮影すべきだった、とのお叱りをよく受けた。

企画やヒマネタのように、緊急性よりも具体性や詳報性が重視される記事に併用する写真の場合、私もある程度の演出はしょうがないと思う。よりその記事がアピールするための演出が必要な場合もあるだろう。しかし、こと大きな、緊急性のあるニュースの場合、これをやられると受けての方はたまらない。騙された気分になる。いや事実、読者を騙しているのだ。

あるベテランカメラマンは、小笠原での取材の話をしてくれたことがある。戦後アメリカが占領していた小笠原は1968年に日本への返還が決まり、日本中が湧いていた。そのカメラマンと同僚の記者は小笠原に渡り、小笠原の島民が喜びに沸く様子を本土に伝えることになった。

しかし島のどこへ行っても、返還を喜ぶ人などいない。それはそうであろう。小笠原の島民は戦争中に疎開しており、戦後帰島を許されたのは、ハワイ・欧米系の島民だけであったからだ。彼らはアメリカの占領に十分に満足していた。

そこでカメラマンは考えた。日本では小笠原返還を熱狂的に歓迎している。それなのに、お通夜のように沈み込む島民の写真をここで送るわけに行かない、と。カメラマンは記者と激論を交わしたという。どうしたらいいか。

ありのままを撮るか。あるいは、返還にふさわしい写真を撮るか。

カメラマンは考えぬいた末に、島の子供たちに日の丸の旗を渡し、広場を自転車でグルグルと回ってもらったところを撮影した。子供は無邪気だから、喜んで旗を振りながら走り回るわけだ。かぎりなくやらせに近い演出である。「折衷案だったのだ」と、そのカメラマンは弁明する。写真では「喜び」の場面を撮ったが、記事では島民が必ずしも返還を歓迎しているわけではないことを強調した、と。

私はこの話を、バグダッドの広場で巨大な石像が米軍によって引き倒される場面――あの繰り返し流された影像を見ながら思い出していた。あの広場に集まった群衆も、米軍の行為に便乗して喜んでいるようにみえた。だがイラクの国民は、本当に喜んでなどいたのだろうか。

新聞記者の日常と憂鬱11 「メディアって何だ!?(185)」

▼豪雪と社宅
北陸に雪が降るたびに思い出すのが、屋根の雪下ろしだ。本来なら屋根雪下ろしを経験するはずではなかった。神通川左岸の五福あたりに1LDKで家賃4万円(当時)のマンションを借りて住めば、せいぜい自分の車の屋根に積もった雪を手で払ったり、駐車場の前の雪をどけたりすればいいぐらいのはずだった。

だが、新人記者の私にあてがわれた住み家は、神通川右岸の閑静な住宅街・芝園町にある一軒家の社宅であった。本来は支局長が入るべき家だ。ところが単身赴任の支局長は、社宅に入りたくないと言う。

住宅下見でその社宅に案内されて、その理由がすぐにわかった。和室3DKの平屋だが、一人で住むには大きすぎるだけでなく、古くてややガタがきている。東と南は隣家により塞がれ、北側は塀と道路が迫る。西側の庭は洗濯物がかろうじて干せる猫の額程度の庭しかなかった。

「誰かがここに住まないといけないんだよね」と支局長は言う。「家は広いし、家賃(月額2万5000円)も社宅だから安い。それに電話もすでに設置されているよ」。まるで不動産屋のセールスだ。

ハイハイ、新人のワタクシメが入らせていただきます。
こうして半ば強制的に住み始めたものの、住み心地は予想を超えていた。たてつけが悪いおかげで、どこからともなくヤスデさんや団子虫が部屋に侵入、思いもよらず節足動物や昆虫の観察ができる。ファーブルなら大喜びだ。夏は強烈な西日で部屋の空気がゆだるため、わざわざサウナに行く必要がない。冬は太陽が当たらず家中が冷凍庫に変身、冷蔵庫で暖がとれるほどだ。多分、家の中に置いておけばアイスクリームも凍ったままだろう。

夏は暖房、冬は冷房完備の完璧な社宅。実際、夏の夜は外の方が涼しかったし、冬の夜も外の方が暖かかった。

そして極めつけが、屋根の雪下ろしであった。雪が積もると、その重みでふすまや障子は開かなくなり、夜中には屋根がミシミシとなる。ちょっとした音楽会だ。

だが、このままでは寝ているうちに屋根が崩壊して生き埋めになってしまう。翌日は支局長の了解を得て、仕事の途中で雪下ろしをすることにした。南側にある納屋を使ってはしごをかけて屋根に上り、悪戦苦闘の雪下ろしに独り励んだ。若くて力が余っていたからできたが、かなりの重労働だ。下ろした雪はすぐにひさしまで達した。雪の壁が家を覆った。

社宅に入らなければ味わうことのなかったスリルと疲労感、そしてある種の達成感。感謝、感謝。ほかにも、いいことがあった。雪の壁が家のあちこちにある隙間を埋めてくれたおかげで、保温効果のある「雪のかまくら」に社宅をリフォームしてくれたからだ。

1983~84年にかけての冬の大雪は、今でも「59豪雪」と呼ばれ、全国で大きな被害をもたらした。「38豪雪」の231人、「56豪雪」の152人に次ぐ、131人の犠牲者を出した。あのミシミシと鳴り響く天井の音楽は、懐かしいようでもあり、二度と聞きたくないようでもある。

新聞記者の日常と憂鬱10 「メディアって何だ!?(185)」

▼悲劇の伝達者
がん首とって来い、という言葉がある。これは被害者や当事者の顔写真を接写などによりとって来いということだ。この取材はつらい。被害者が子供の場合はなおさらだ。

学校や被害者の友人、あるいは警察が、被害者の写真を接写させてくれることもある。そうでない場合は、被害者宅まで直接出向き、写真を貸してくださいと頼まなければならない。それが通夜の席上であってでもだ。富山でもそういうことがあった。事故でなくなった子供の写真が手に入らない。そこで、ほかの記者と一緒に被害者宅にお願いしにいった。

こういうときは何と言えばいいのか、言葉が見つからない。勇気を振り絞って、事情を説明し、写真を貸してくれないか頼む。貸してくれる場合もあれば、断られる場合もある。それでも、どうしても必要なのですと言って、頭を下げて頼み込む。

こういう経験のある記者なら、誰もが顔写真などなければいいのにと思ったことがあるに違いない。顔写真は本当に必要なのだろうか、と。そのせいか、あるいは肖像権保護が厳しくなったせいか知らないが、最近の新聞には被害者の顔写真が載ることが少なくなってきたような気がする。

なぜ悲劇を伝えるのか、死者に鞭打つようなことをなぜ書くのか、被害者の家族は静かに放っておけばいいではないか――ごもっともな意見である。

私も悲劇を伝えるのは嫌だ。犠牲者の家族に顔写真を頼むのも、根掘り葉掘り状況を聞くのも、気が引ける。明るい話ばかり書いていたいとも思う。そうすればどんなに楽だろう。しかし、本当にそれでいいのだろうか。

むしろ悲劇はできるだけ大きく報じるべきだと、私は思う。悲劇の重みや事実が伝わらないと、同じような悲劇がまた起こる。戦争の悲惨さを正確に伝えないと、安易な気持ちで再び戦争への道へと進みかねないのと同じだ。

悲劇をちゃんと取材しないと、事の重大さが伝わらない。重大さがわからなければ、教訓を学んだり反省したりする気も失せるだろう。

顔写真のない記事と顔写真のある記事を比べてみるといい。どちらがより悲しみが伝わるか。顔写真もなく、短いベタの死亡記事は、無機質な情報だ。まるで、コンピュータが示す株価や役人が発表する統計でも見るような感じに陥る。そこには事務連絡のような数字があるだけ。悲しみや怒りが伝わることはない。

実名を出してほしくない被害者家族もいるであろう。しかし、顔も名前もわからないAさんが死ぬのでは、ゲームの中の死のようだ。心を動かされることはない。

一人の人間の死には、深遠な人生と深い悲しみの顔があるのだ。ああ、この人が亡くなったのか、こんな人が犠牲になったのかとわかるような記事でなければ意味がない。人の心を動かす伝達者でなければ、新聞記者になる意味もない。

新聞記者の日常と憂鬱9 「メディアって何だ!?(185)」

▼悲劇が起きるとき
果報は寝て待てというが、新聞記者の場合にはまったく当てはまらない。寝ているときに悪いニュースが飛び込んでくるからだ。こちらが気持ちよく寝ていようと、お構いなしだ。

その日も真夜中過ぎ。ちょうど寝入りばなであった。いつものようにけたたましく鳴る自宅の電話。受話器を取ると、天の声が一大事を告げるのであった。急いで着替えて、凍てつく冬の夜空の下に飛び出した。

その日の夜勤担当者が真夜中の警戒電話でキャッチしたのは、小学生が不審な死に方をしたという一報であった。場所は新潟県境に近い入善署管内。蓋の閉められた、大きなポリ容器の中で、男子生徒が変死体で見つかったのだ。殺されたのだろうか。警察は殺人事件の疑いもあるとみて、捜査本部を設置するという。

支局からタクシーで現場に向かった。入膳町までは飛ばしても一時間半ぐらいかかる。入善署に到着すると、午前3時ごろになっていた。すでに地元の記者が入善署に詰め掛けていた。普段電話で話をしている次長を見つけ出し、事情を聴く。

ポリ容器は内側から開かないように、外側から止め具がかけられていた。つまり他者が、その少年がポリ容器にいることを知っていて、蓋を閉めたわけだ。死因は窒息死。しかし、争った跡はない。

本部の捜査一課長と入膳署次長が時間を決めて、夜明けまでに何度か会見を開く。次第に全容がわかってきた。

非常にかわいそうで悲惨な事件であった。その男子生徒は隠れん坊をやっていたのだ。たまたまそばにあった、子供が入れるぐらいの大きさのポリ容器の中に隠れることにした。そしてどうやら、近くにいた友達に、中に入った後、蓋を閉めて欲しいと頼んだのだという。

作戦は成功した。鬼に見つかることはなかった。しかし、これが悲劇の始まりであった。誰も見つけてくれなかったせいで、その男子生徒はポリ容器の中に置き去りになってしまったのだ。忘れられてしまった少年。やがてホタルの光が流れ、下校時間が過ぎていく。周りから人の気配が、次第になくなっていく。男子生徒は焦ったに違いない。だが蓋は閉まったまま、うんともすんとも動かない。暴れれば暴れるほど、完全密閉の空間では空気がなくなっていく。

帰宅時間になっても戻らないその子の家族は、学校に連絡を取った。何かあったのだろうか。関係者総出で、捜索が行われた。夜も遅くになって、まさかと思って開けたポリ容器の中に、ぐったりとして動かない少年が見つかった。

新聞記者の日常と憂鬱8 「メディアって何だ!?(185)」

▼突然の悲劇
平穏で暇な富山にも、突然の悲劇はやってくる。それも忘れたころに。
赴任した一年目の夏、大型の台風が愛知県に上陸、中部・北陸地方を縦断する見通しとなった。その夜は、誰かが支局に泊り込み警戒に当たらなければならなかったので、当然新人記者の私に白羽の矢が立った。

真夜中を過ぎて四階にある支局の窓がガタガタと鳴り始めた。富山の真上を通過しているのだろうか。NHKの台風情報をぼんやりと聞きながら時々、通信司令室(110番を処理するところ)や消防署に警戒電話をかけて、様子をうかがった。30分ほど仮眠を取ったが、ほとんど寝ずに夜が明けた。幸い、大きな被害は出なかったようであった。

午前8時ごろには支局長が出社。「ご苦労さん」と言ってねぎらってくれ、富山署の記者クラブで警電をかけた後、家に帰って休んでもいいということになった。午前一〇時ごろ帰宅、眠気でふらふらになりながら寝床に潜り込んだ。「ああ、ようやく眠れる」。深い眠りであった。

しかし、その安らかなひと時も2時間ほどで破られた。けたたましくなる電話に起こされたのだ。何事かと思って受話器を取ると、「すぐに出社しろ」との天からのお言葉。昨夜の台風で黒部川が増水、上流の沢で山登りをしていた登山者7人が鉄砲水に流され行方不明になったというのだ。

7人が遭難するというのは一大事だ。寝ている場合ではない。支局に駆けつけると、先輩記者がてんてこ舞いの状態。状況を把握した上で富山署の記者クラブに出向き、富山県警山岳警備隊から送られてくる情報を次々と支局に伝えた。

夜になると、遭難者の家族が山岳警備隊本部にやってきた。新聞記者の取材で何が嫌かというと、被害者の家族に質問することだ。悲しみにくれる家族から話を聞きだすのはつらい。幸い、幹事社が代表で話を聞いてくれることになり、私もカメラとメモ帳を抱えて、即席の狭い会見場へと向かった。

遭難の報を聞きうなだれる家族――。翌日の共同通信加盟社の紙面には私の撮った写真と被害者家族の記事が掲載された。

翌日朝は早くから黒部署に出向き、捜索隊の取材をした。捜索隊と一緒に黒部峡谷のトロッコ電車に乗り、山奥へと分け入っていく。当時は携帯電話などないから、持って行ったのは、かばんほどの大きさのある重たい携帯無線機。山に入ると感度が悪く、途切れ途切れの電話送稿となった。

何日もの捜索にもかかわらず、遭難者は見つかることはなかった。生存の可能性は日に日になくなっていく。遭難者の家族の希望は絶望へと変わる。結局、黒部川からは何も見つからなかった。死体が見つかったのは、遭難地点から40キロ以上離れた富山湾であった。

黒部川の鉄砲水の様子はこちらをご覧下さい。

新聞記者の日常と憂鬱7 「メディアって何だ!?(185)」

▼夜遊び朝寝坊
実は富山支局にいた3年間、夜討ち朝駆けなど、ほんの数回ぐらいしかやらなかった。それほど富山は何も事件が起こらないところなのである。日々平穏。一ヶ月で15本ぐらいしか原稿を書かない月もあった。

その後私は浦和支局で3年間勤務したが、富山で一年間に起こる事件は、埼玉で一ヶ月間に起こる事件ぐらいの頻度。殺人事件で捜査本部が設置されるのは、埼玉では一ヶ月に一回ほどだったのに対し、富山では一年に一回あるかないかであった。

大津支局もそれほど忙しいところではないらしく、「原稿より健康、仕事より雄琴」とささやかれていた。赴任する支局によって、まったく忙しさが違うのである。

事件の少ない富山だからこそ、夜討ち朝駆けもつい、「夜遊び朝寝坊」となってしまう。夜遊びといっても私の場合、警察官の家に遊びに行ったりする夜遊びであった。とくにキャリアの富山県警本部長の家にはよく遊びに行った。県警本部長ともなると50代で私の父親に近い年齢であった。自分の子供は大学受験ぐらいで、家族をおいての単身赴任。一人寂しく夕食をするのもつまらないので、冬場は鍋料理の夕飯によく誘ってくれた。私はお酒を持参した。

本部長には官舎があてがわれる。大きな官舎で、確かに単身赴任の独り住まいにはガランとしていて寂しい。記者たちを家に呼びたくもなるはずである。鍋を囲んで世間話。あまり仕事の話はしなかったが、そこは新聞記者、頃合を見計らって、気になっている案件について質問をしたりもした。

どこの会社もそうかもしれないが、2月と8月は「ニッパチ」といって、とくに世の中が暇になる。富山の冬は雪に閉ざされてしまうので、何かと運動不足になる。そこで準キャリアの県警本部捜査二課長や友だちを誘って、夜間、体育館のインドアテニスコートを借りてテニスをしたりもした。テニスの後は、深夜近くまで飲み会である。

やがてその二課長は、生活保安課長として滋賀県警に異動していった。送別会の席上、大津支局では「原稿より健康、仕事より雄琴」と言われているようですよと私が話したら、その課長は沖縄出身だったからか雄琴のことを知らなかった。そこで私は、雄琴のソープランドは有名だから摘発すると大きな新聞記事になりますよと、つい口を滑らせてしまった。

それから半年ほど経ったころだろうか。滋賀県警生活保安課が雄琴の風俗店を一斉摘発したという事件が、全国紙で四段ほどの記事として紹介されていた。

新聞記者の日常と憂鬱6 「メディアって何だ!?(185)」

▼夜討ち朝駆け
サツ回りの記者はいつも警察が発表したことだけを書くわけではない。では発表もされていない事柄をどうやって書くのか。

やり方は大雑把に言って二つある。自分で調査して、それを警察に持ち込む。もし、それが立件できそうな事件となれば、警察が動いた時点で記事にする。あるいは何か事件が発生したとき、自分で聞き込みをして、それを記事にする。これらは、いわゆる調査報道の手法だ。

もう一つは、警察官の自宅を訪問する「夜討ち朝駆け」により、発表では話さなかった、あるいは話せなかったような事実を聞き出し、差しさわりのない範囲で記事にする方法だ。夜討ちは夜回りとも呼ぶ。捜査が終わって帰る警察官を自宅でつかまえて、その日の捜査状況や事実を聞きだす。あるいは、独自に調べて情報をぶつけ、感触を得たりする。朝自宅から出てくるところをつかまえるのが朝駆けだ。

警察官にもよるが、夜回りに来た記者を家に入れてくれる人もいる。しかし、たいていは夜遅くまで捜査して疲れているので、玄関先で5分間ぐらい立ち話をして終わる。ただし課長クラスになると、他社も自宅前で張っている。独自の情報を持っている場合は、他社の記者がいるところでは聞けないので、他者の記者がいなくなったところを見計らって再び夜討ちをかけるのである。新聞記者はこうして他社よりも詳しく事件や新事実を書こうとするわけだ。

警察が大きな事件に着手した場合、夜回りをするタイミングというのもある。警察に逮捕された者は48時間以内に送検(検察庁への送致)され、送検後24時間以内に裁判官が被疑者の拘留が妥当かどうかを決定する。妥当とされると、10日間の拘留が認められ。さらに10間の拘留延長もありうる。この節目節目の前には必ず、警察や検察幹部宅に夜回りをかける。

ところで、被疑者の拘置場所は本来、法務省管轄の拘置所であるべきだが、警察の留置場が使われる。これは代用監獄と呼ばれ、自白の強要や誤判による冤罪の温床になっているのではないかとの批判も出ている。

ある日、あなたは違法なビラまきか何かで警察に逮捕されたとしよう。それだけであなたは最大23日間も警察の留置場に拘留され、毎日取り調べを受ける。その間に、別の容疑が浮上すれば、この度はその別件でさらに最大23日間、警察の留置場に拘留され毎日尋問される。国家権力ににらまれた場合、このように自白するまで(もちろん、あなたには“自白”しない権利もある)、あなたに対する尋問が続くのである。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱5 「メディアって何だ!?(185)」

▼警察の壁
マンションの部屋を隔てる壁、ベルリンの壁、バカの壁――。世の中には壁は無数にあるが、壊そうと思えば壁は崩れる。しかし、警察には決して崩れることのない壁がある。

どのような壁か?
それは、キャリアとノンキャリアという厳然たる、組織上の超えられない壁である。

簡単に言うと、地元の警察に採用された警察官をノンキャリア、国家試験一種に合格し、東京の警察庁に採用された警察官はキャリアと呼ぶ。つまり採用時点で、出世できる上限が決まってしまうのだ。富山県警に採用された警官は、富山県警本部長になることはできない。最大限に出世して富山署長である。最後にどこかの署長で終わることができれば、かなり優秀な警察官である。

ノンキャリアは採用後も、警察内部の昇進試験(巡査部長、警部補、警部)に受からないと出世できない。巡査、巡査部長、警部補、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監と続く階級の壁は長く、遠い。制服の襟についた星の数がすべてを物語る。最高位の警視総監は、警視庁の長ただ一人だ。

県警本部の部長(局長)と各警察署長は、ほぼ同じ警視クラス(富山署長などは警視正クラス)。県警本部長は警察庁人事でキャリアが就任、警視長クラスだ。そのほか富山県警捜査二課長と公安課長にも基本的にキャリアが就任する。キャリアの課長は20代の若い上級試験合格者で、最初から警部補の階級をもっている。つまり彼らキャリア組は、入社早々に自分の父親ほどの警察官を部下に従え、命令を下す立場につくのである。

このキャリアとノンキャリアの中間といえる準キャリアという区分もある。国家試験の二種に受かった警察官で、巡査部長からのスタートとなる。

キャリアはだいたい二年で人事異動があり、他県へと赴任していく。私がサツ回りをやっているころの富山県警捜査二課長は、最初はキャリアで、次に赴任してきたのは準キャリアであった。

比較的歳が近いこともあり、私は捜査二課長や公安課長とは仲が良く、よく休みの日にはテニスをしたりして遊んだ。向こうも全国紙の記者とは再びどこかで会うこともあると考え、比較的大事に扱ってくれる。

ノンキャリアはキャリアをどう思っているのだろうと、時々思う。どんなに警察官として優秀でも、ノンキャリアはキャリアを超えて出世することはない。採用時点でキャリアは超えられない壁の向こう側にいる存在になる。ただの試験結果という一枚の紙切れが、キャリアとノンキャリアの間に、とてつもなく大きな壁をつくるのだ。

新聞記者の日常と憂鬱4 「メディアって何だ!?(185)」

▼新米記者の仕事
新米記者君がまずやらされるのは、サツ回り(警察担当)だ。幸か不幸か、私はそれまで警察のやっかいになったことはなかった(バッグパッカー時代、元日の南仏でフランス警官に職務質問されたことはある)。交番といえば、道をたずねるか、落し物を届けるかぐらいにしか思っていなかった。私にとって、それほど遠い存在である警察。それが、今や毎日のように警察にお世話になる世界に飛び込んだわけだ。

富山のサツ回りの一日は、朝の「警電」から始まる。夕刊用に書くべき事件や事故がないかどうか、東は入善署から西は氷見署まで富山県内の全警察署の副署長もしくは次長に電話をかける作業だ。朝9時に富山署の記者クラブに“出社”して、警電をかけ始める。広報のしっかりしている県警では、こちらから電話をかけなくても何か事件が発生したら記者クラブに知らせてくれるシステムがあるが、富山県警の場合はそのようなシステムがなかったので、こちらから頻繁に警戒のための電話をかける必要があった。

副署長もしくは次長と呼ばれる警察官に電話をかけるのは、各警察署の広報窓口を担当しているからだ。記者クラブは富山署の中にあったため、警電が終わると、通路を隔てた隣の建物の副署長室に顔を出す。そこで事件事故がないかどうか聞いた後、雑談をする。いつも顔を出し、富山署の動静を把握するわけだ。

副署長と話しをした後、殺人、窃盗事件を担当する捜査一課、汚職などの知能犯、暴力団事件を担当する捜査二課を回る。最後は少年課や交通課だ。こうして毎日、警察署内を歩き回ることで、何か大きな事件や事故があったときにその変化に気づくことができるようになる。警察署では極秘で進めている捜査もあるわけで、そうした微妙な変化に気づけば、立派なサツ回り記者だ。もちろん警察側は大きな事件を内偵していても、そのような気配を消そうとするので、ちょっとした「化かし合い」があるわけだ。

富山署の各課を回って記者クラブに戻ってくると、昼の時間になっている。富山署の食堂でお弁当定食を買ってきて、記者クラブでテレビのニュースを見ながら昼食、午後は富山県警本部を回る(午前中から回ることもある)。県警本部は県内各警察署を束ねている司令塔のようなところだ。本部には捜査一課、二課、保安課、公安課、警備課、鑑識課などの課がある。ここでも同様に課長や次長と世間話などをして、親しくなるようにする。

私はもともと人と話をするのが好きだったので、たとえ政治的信条や考え方の違う警察官であっても、お友達になるのはそう苦痛ではなかった。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱3 「メディアって何だ!?(185)」

▼他人の褌
「他人の褌で相撲を取っているような会社になぜ入ったのだ」
私は父に共同通信社の記者になると報告したときに、こう言われた。普通の父親なら就職が決まって喜んでくれそうなものだが、私の父は平凡な父親ではなかった。
しかし他人の褌という言葉を聞いて、私は思わず苦笑してしまった。言いえて妙な言葉であったからだ。

ではなぜ、共同通信社が「他人の褌で相撲を取っている」のかを説明しよう。

それを端的に示しているのが、共同通信社富山支局が北日本新聞社の四階にあるということだ。支局が他の新聞社の中にあるというのは尋常ではない。読売新聞が朝日新聞社のビルに中にあるようなものではないか。それでも共同通信社の支局は、ほとんどが地元新聞の中にあるのだ。

理由は簡単だ。共同通信社が他のメディア、とりわけ地方新聞社に経済的に依存しているからである。共同通信社は営利企業ではなく、北は北海道新聞から南は沖縄タイムズまで全国の地方・ブロック新聞やテレビ放送局などに加盟してもらい、その加盟料(つまり他人の褌)で運営されている。加盟社とは運命共同体。加盟社がなければ、活動ができない社団法人なのだ(営利目的の情報サービスを提供する株式会社共同通信社もある)。

かつては朝毎読など全国紙も加盟していたが、国内報道は自前でまかなえるとして脱退、その代わり共同通信の外電(外国のニュース記事)だけ契約している。よく「ワシントン=共同」などのクレジットがついているのが、共同通信社が配信している記事だ。加盟料はそれぞれの新聞社の発行部数や業績によって異なる。大口の加盟社は、NHKや日本経済新聞である。

共同通信の前身は、戦前、戦中と日本政府の宣伝・報道を手がけていた同盟通信社。政府の情報広報機関として強大な力を持っていたが、戦後GHQは同盟通信社を弱体化させるため、一般報道部門を共同通信社に、経済情報部門を時事通信社に、そして広報・宣伝部門を電通に分割した。その際、電通の暴走にある程度の歯止めをかける思惑もあり、共同通信社が電通株の25%を保有して筆頭株主となり、時事通信社がそれに次ぐ24%の電通株を保有した。

後にその電通も上場したが、その際共同通信は保有する電通株の一部を売却、潮留のビルに引っ越したと聞いている。本社はさすがに、虎ノ門にあったころから自社ビルであった。

そのような歴史のある共同通信社の富山支局に赴任したのは、ゴールデンウィーク最中の五月はじめ。長かった冬も終わり、富山にも春の気が満ちあふれていた。JR富山駅南口から放射線状に延びている道の一つをたどりながら10分ほど歩くと、四階建ての北日本新聞社ビルが右手に見えてきた。他社の建物――まさに他人の褌そのものであった。そして、その建物こそ、私がその後3年間の記者生活を過ごす職場となったのだ。

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