カストロが愛した女スパイ11 「アメリカ外交史(230)」

(前回までのあらすじ)
ドイツ生まれの19歳のマリタ・ロレンツ。1959年2月、父親が船長を務める豪華客船で革命直後のキューバを訪れた。そこでフィデル・カストロと出会い、恋に落ちる。やがてロレンツは妊娠。当時、キューバで賭博場を仕切っていたCIA工作員フランク・スタージスにスパイとしてスカウトされ、数奇な人生を歩むことになる。1978年5月、そのスタージスのせいで、米下院ケネディ暗殺特別委員会の証人として、証言することになった。

▼宣誓
 議長が口を開いた。
 「我々のきょうの証人は、マリタ・ロレンツ女史である。証人は立って、宣誓をするよう求める。あなたは、あなたがこの小委員会に提供する証言・証拠が真実であり、真実そのものであり、真実以外の何ものでもないことを神に誓って、正式に誓いますか?」

 ロレンツは立ち上がって右手を挙げ、左手を聖書に置き「誓います」ときっぱりと言った。

 「ありがとう。ではまず、証人の弁護士は記録のために自分自身について述べなさい」と、議長はロレンツの弁護士に向かって言った。

 「議長。私の名前はローレンス・クリーガーです。私はロレンツ女史の弁護士です。私の事務所は、ニューヨーク州ニューヨーク市パーク街二三〇にあります。私はニューヨーク州法曹界とワシントンのコロンビア特別区法曹界のメンバーです」

 「ありがとう。クリーガーさん。ところで、委員会の規則が書かれたコピーが既に証人に手渡されたと思いますが」
 「その通りです。議長」
 「ありがとう。ここで議長として、この委員会の調査目的について簡単に述べておきたい。これはいつも、それぞれの証人に対して述べることである。
 この委員会に与えられた権限は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺と暗殺にまつわる状況について、最大限かつ完全な調査、検討を実施することである。委員会の調査には、大統領を守るということに関する現行の米合衆国の法律、司法権、それにCIAなど省庁の能力が、条款や法律の執行面で適切であるかどうかを決めることも含まれる。また、合衆国政府の省庁や機関が証拠や情報をすべて公開したかどうか、政府機関が関知していない情報や証拠の中に、暗殺の調査に役立つものがあるのかどうか、もしあれば、なぜ、政府機関にそうした情報がもたらされなかったのか、なども調査対象になっている。そして、この特別委員会がもし、現行の法律の改正や新しい法律の制定が必要であると判断した場合、そのことを下院議会に推薦することも我々の仕事である。

 議長はトリプレット氏の証人に対する質問を認める」
 議長の承認を得たトリプレットは早速、質問に入った。
 「ロレンツさん。生年月日を教えていただけますか?」
(続く)
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本ができるまで6(本ができました!) 「本のある暮らし(27045)」

本が完成し、出版社から本が送られてきました。

2005-07-30 23:12:54

筆者に送られてくる本の冊数は、出版社によって違うかもしれませんが、1000部に付き10冊の割合です。今回の『超能力者・霊能力者に学ぶ不思議な世界の歩き方』は初版第一刷で3000部ですので、30冊いただけるようです。

以前紹介した本のカバーとは、やはり帯の文言が少し違いますね。でも基本的なデザインは変わっていません。カバーのデザイン案では次のようなものもあったんですよ。冗談で作ったものですが。

本

さて、本の作者としては、これで終わりではありません。これから、お世話になった方々へ、本をお送りしなけらばなりません。本は独りではできませんから、いろいろな人の協力や助けを得て出来上がります。そのような方々へのお礼は必須ですね。

本を出すことによって新たな出会いが生まれることもあります。前作の『「竹内文書」の謎を解く』でも、出版後多くの出会いや再会、反響がありました。さて、今回はどのような出会いや発見があるでしょうか。本を出す楽しみの一つでもあります。

カストロが愛した女スパイ10 「アメリカ外交史(230)」

委員会始まる
 三揃えのパリッとした女性用スーツを着たロレンツが、二人の子供、それに小犬2匹を伴って首都ワシントンの議事堂に面したロングウォース・ハウス・オフィス・ビルに着いたのは、一九七八年五月三十一日午前九時半の少し前だった。このビルの一三一〇号室で委員会が開かれるのだ。正式名称は、下院暗殺調査特別委員会(HSCA)のケネディ暗殺に関する小委員会。議長はリチャードソン・プレイヤー。ロレンツにとって初めて出会う委員ばかりで、それがよけい不安を募らせた。

 ロレンツの証人としての権利を守るため、弁護士のローレンス・クリーガーがそばについていた。

 部屋には議長のプレイヤーのほか、二人の議員と九人のスタッフらが席に着いていた。ロレンツとクリーガー、それに子供二人は部屋の後ろの席に腰掛けた。開会前の重々しい緊張感が部屋に満ちていた。

 午前九時三十三分、議長がおもむろに口を開いた。
 「委員会を開会する。バーニングさん(編注:委員会スタッフの一人、事務官)、きょうの委員会に選任された議員の名前を読み上げて下さい」

「議長であるあなたのほかに、ソーン氏、バーク氏、ドッド氏がケネディ小委員会の常任委員です。フィシアン氏はソウヤー氏の代理です」

「議長は、きょうの聴聞会を執行部の委員会(編注:非公開の委員会)とするという動議を認める。というのも、委員会にもたらされた情報に基づけば、きょうの証言が他の人々を誹謗中傷したり、有罪にしたりする可能性があるからである」

 ここで議員のフィシアンが口を挟んだ。
「そのように動議します。議長」

 議長に促されて事務官のバーニングが採決を採った。
 「プレイヤーさん」
 「賛成」
 「ソーンさん」
(返答無し)
 「バークさん」
(返答無し)
 「ドッドさん」
 「賛成」
 「フィシアンさん」
 「賛成」
 「賛成三名です。議長」
 「これにより委員会は非公開とする。証人の準備はできているかね」
 議長が委員会スタッフのトリプレットの方を向いて聞いた。トリプレットは「待ってました」とばかりに「はい」と短く返答。後方で待っていたロレンツとその弁護士のクリーガーに対して、前の証言席に歩み出るよう促した。ロレンツは子供二人小犬二匹を後ろの席に残し、弁護士のクリーガーを伴い、ゆっくりと踏みしめるように進み出ると、証人席に腰を下ろした。
(続く)

カストロが愛した女スパイ9 「アメリカ外交史(230)」

キューバ革命(下)
 アメリカ国内で大統領選挙が戦われている最中にも、カストロ政権と米政権の間は悪化していった。誕生直後はアメリカと敵対的な関係になかったカストロ政権も、アメリカの反カストロ政策に対抗して、反米宣伝を開始。同時に共産圏諸国とのいっそう緊密な経済関係を樹立していった。

 一九六〇年七月には、米国議会がキューバに対する砂糖輸入割当を他の国に回すことを承認した。これに対しカストロ政権は60年末までに、約10億ドルに達する在キューバのアメリカ資産を接収した。この一連の動きが、1961年にカストロ政権打倒のためにアメリカが仕掛け、大失敗に終わったピッグス湾事件へとつながるのである。

 カストロ政権誕生で影響や衝撃を受けたのは、キューバ国民や米国政府だけではなかった。バティスタ政権と癒着して甘い汁を吸っていた米マフィア関係者も後に多大な被害を被った。したたかなマフィアの大半は、カストロ革命軍がバティスタ政権の政府軍と戦っている最中から、カストロ革命軍が勝っても利権を損なうことのないよう、カストロに武器を売って恩も売り、いわば保険をかけていた。

 その保険は少なくともカストロが政権を取った直後は効果があった。マフィアは賭博場を運営できたし、カストロは自軍のために武器を調達したフランク・スタージスを事実上の“賭博大臣”に指名。短期間ではあるが、マフィアは前政権のときと同様に利益を上げることができた。

 ところが、反米色が強まり、カストロがソ連寄りの路線を鮮明に打ち出すにつれ、腐敗した資本主義の象徴である賭博やマフィアを締め出す動きが強まった。ロレンツがスタージスと出会ったのは、このころである。

 そしてカストロは1961年9月までに、すべてのマフィア関係者を国外追放した。ニューヨーク・タイムズによると、マフィアがキューバの賭博場から得ていた収益は年間三億五〇〇〇万ドルから七億ドルだったというから、このときのマフィアの打撃がいかに多大であったかがわかる。

 こうしてマフィアとCIAの利益が一致、マフィアはCIAによるカストロ暗殺計画を手伝うことになるのである。
(続く)

カストロが愛した女スパイ8 「アメリカ外交史(230)」

キューバ革命(中)
 約2年にわたる内乱の末、フィデル・カストロの革命軍は1959年1月1日、悪名高いバティスタ政権を打倒、ハバナの目抜き通りを凱旋した。20年以上にわたり権力を欲しいままにしていたバティスタは国外へ逃亡した。

 カストロの革命は当初、アメリカでは好意的に受け止められた。しかし、アイゼンハワー政権内では意見が分かれた。国務省のラテンアメリカ担当者の多くは、カストロ政権を早急に承認するよう主張したが、CIAのアレン・ダレス長官らはカストロが共産主義と結びつかないことがわかるまで承認すべきではないと反対。当時のリチャード・ニクソン副大統領もダレス長官と同様、カストロ政権の承認に反対した。

 ニクソン本人は自伝の中で、カストロ政権について触れ、次のように書いている。
「カストロ政権誕生の皮肉な結果とその悲劇は、キューバ人民がやっと右翼の独裁者から解放されたと思ったら、それよりもはるかに悪いと後でわかる左翼の独裁者を受け入れてしまったことだ。米国から見れば、バティスタは少なくともわが国に友好的であった。これに対し、カストロは和解しにくい、危険な敵であることが判明したのだ」

 ニクソンとダレスの意見を聞き入れたアイゼンハワー大統領は翌1960年はじめまでに、カストロ政権は合衆国にとって脅威で由々しき政権であると判断、キューバ国内外で反カストロ活動を支援することを容認した。ニクソンとダレス、それに反カストロのキューバ人の関係は、これにより緊密化した。
(続)

カストロが愛した女スパイ7 「アメリカ外交史(230)」

キューバ革命(上)
 ここで、ロレンツがカストロの愛人だったという1959年当時のキューバ情勢と、キューバの歴史について簡単に触れておこう。

 キューバの近代史は圧政と腐敗の歴史でもある。19世紀の終わりにようやくスペインの抑圧から解放されたと思ったら、20世紀のキューバには、腐敗政治と圧政とアメリカの干渉が待ち受けていた。1902年に誕生した共和制初代大統領トマス・エストラダ・パルマ(1835~1908年)の政権では、退役軍人の年金をめぐる不正と政治改革の失敗により、各地で反乱が起こり、アメリカが介入することになった。

 暫定的なアメリカの統治が終わった1909年から25年にいたるゴメス、メノカル、サヤスの3政権は、いずれも腐敗政治の代名詞となり、内乱や暴動が後を絶たなかった。

 1925年に誕生したマチャド政権は、最初は改革の旗手を標榜したが、すぐに独裁政権へと変貌した。マチャドは反対勢力を押さえ込み、言論や出版、集会に制限を加えるなど徹底的な恐怖政治を展開した。マチャド政権は1933年に、反対勢力の台頭で崩壊するが、そのときに軍部の実験を握った軍人のフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバル(1901~1973年)は新たな独裁政治を敷いた。軍部の力を背景に政治を意のままに操ったのだ。

 そのバティスタの独裁に立ち向かったのが、1953年に蜂起したフィデル・カストロだった。一時メキシコに亡命していたが、57年に帰国してからは革命軍を率いて山間部でゲリラ戦を展開、勢力を拡大していった。
(続く)

カストロが愛した女スパイ6 「アメリカ外交史(230)」

証言までのいきさつ
 ロレンツにとって、あの忌々しい一九六三年十一月のケネディ暗殺事件以降、スタージスとは手を切ったはずだった。ジャック・ルビーのようなマフィアとかかわりをもつようになったスタージスのグループには、二度と戻るまいと決めたのだ。実際、その後約十四年間はグループとのつき合いはなかった。少なくともスタージスがロレンツのことを、マスコミを通じて非難し始めるまでは、彼のグループとは縁が切れたと信じていた。

 スタージスはロレンツのことを共産主義のスパイだと非難した。ロレンツは同じ共産主義のシンパであるオズワルドと仲がよく、ダラスでも一緒だったと吹聴し始めた。スタージスはあたかも、ケネディ暗殺の背後には共産主義の陰謀があるかのように新聞記者たちに話し始めたのだ。

 ロレンツにとって、共産主義のスパイだなどというのは全くの濡れ衣だった。もちろんカストロの愛人だったのは事実だ。しかし、愛していたのはカストロであって、共産主義が好きだったわけではない。たまたま共産主義者となったカストロと愛し合っただけだ。

 ロレンツはこの謂われのない共産主義スパイという噂を打ち消さなければならなかった。スタージスに対する反撃だ。ロレンツにはスタージスこそケネディ暗殺実行犯グループであるとの確信に近い疑いを持っていた。それが九月二十日のニューヨーク・デイリー・ニューズの記事になったのだ。

 ここまで騒ぎになれば、CIAの暗殺団も簡単にはロレンツを殺せまい。ところが、この一連の騒ぎのせいで、ロレンツに注目が集まり、下院の特別調査委員会から呼び出しをもらったのだ。
(続く)

カストロが愛した女スパイ5 「アメリカ外交史(230)」

スカウト
 困惑しているロレンツに向かって、スタージスは更に続けた。
「わかっているのか?」

 ロレンツはますます、困惑した。このキューバの軍服を着た男は、明らかにカストロのことを嫌っていた。キューバ軍服を着ているのに、カストロの部下ではないのか。この胡散臭い男は誰なのか。敵か、それとも味方か?

 ロレンツにはそのとき、この男が敵に思えた。「ねえ」とロレンツは言い返した。「誰だか知りませんが、余計なお世話だわ」

 その男はそれ以上、何も言わず、静かに立ち去った。ロレンツはカストロの側近から、その男がフランク・フィオリーニ(スタージス)であることを初めて聞いた。

「うるさくつきまとうあの男、何が目的かしら。どうも信用できない」と、ロレンツは護衛の一人につぶやいた。

 これは後からわかったことだが、スタージスはカストロの愛人だったロレンツをキューバでスパイとしてスカウトしようとしていたのだ。ロレンツはカストロに近づくことができる。情報を盗み出すことぐらいわけないはずだと考えた。

 そして、ある事件をきっかけにしてスタージスは、ロレンツをだまし事実上CIAのスパイとして利用することに成功する。カストロがロレンツを裏切ったと思い込ませたのだ。やがてスタージスはロレンツを訓練し、カストロ暗殺の刺客に育て上げた。ロレンツがカストロ暗殺に失敗した後も、スタージスはロレンツの上司として、ロレンツをキューバ侵攻計画に参加させるべく訓練したりもした。これがロレンツとスタージスの出会いと、ロレンツがスタージスの下で働くようになった簡単ないきさつだ。詳細はおいおい、明らかにされる。
(続く)

カストロが愛した女スパイの写真 「アメリカ外交史(230)」

いまブログで連載している『カストロが愛した女スパイ』の主人公マリタ・ロレンツの写真を公開しましょう。本を接写したのでちょっとフラッシュなどが写り込んでいますが、美人スパイの素顔がうかがえますね。もちろん、ひげを生やしていないほうですよ。ひげを生やしている方はカストロです。

2005-07-24 23:46:25

次の写真は、ちょうどCIAにスカウトされたばかりのころのマリタ・ロレンツ。右の写真の右側の人物が、「角張った顔をした」闇の世界の住人であるフランク・スタージスです。ケネディ暗殺団の一員とみられています。

2005-07-24 23:50:58

ちょっとわかりづらいかもしれませんが、左のページの女性は17歳のマリタ。カストロの写真を間に挟んで、右にはキューバの軍服を着た26歳のマリタが写っています。その上の写真でカストロと談笑しているのがマリタの父親、豪華客船「ベルリン号」の船長ですね。1959年ごろの写真と思われます。

2005-07-24 23:58:13

カストロが愛した女スパイ4 「アメリカ外交史(230)」

闇の世界
 フランク・スタージスは、後にCIA工作員となった闇の世界の住人だ。アメリカで教育を受けたのか、完璧なアメリカなまりの英語を話した。キューバ革命当時、カストロに武器を調達した功績でカストロ革命政権では事実上の“賭博相”をしていたが、カストロが米国マフィアや賭博を取り締まり始めると、一転、反旗を翻しCIAの工作員として反カストロ工作に携わるようになった。ロレンツに近づいたのも、それが理由だった。

 当時ロレンツは、カストロの子を身ごもっていた。だが、カストロになかなか会えず、いらいらする毎日を送っていた。そういう事情を知っていたスタージスは、ハバナのヒルトンホテルに滞在していたロレンツに近づいた。ロレンツがコーヒー・ショップのロビーにいるとき、スタージスはメッセージを書いたテーブル用の紙マットをこっそりと渡した。そこには「おれはあんたを助けることができるよ、マリタ」と書かれていた。このときは、ロレンツの護衛が間に入り込み、スタージスはすぐに退散した。

 二度目は、1959年八月下旬、ハバナの高級ホテル「リヴィエラ」のロビーだった。カストロ政権が豪華ホテル群のギャンブル経営を査察しているときだ。査察といっても、目的は最初から決まっていた。アメリカのマフィア絡みのギャンブル利権を一掃することだった。カストロの弟のラウルは部下に命じて、スロットマシーンを接収させたり、カードテーブルやルーレットのテーブルを使えないように横倒しにさせたりした。

そのときだ。「キューバの軍服を着た、角張った顔の男」、すなわちスタージスがロレンツに近づいてきて、こうささやいた。
「やつ(カストロ)はとんでもない間違いを犯している」
(続く)

カストロが愛した女スパイ3 「アメリカ外交史(230)」

美貌と罠
 ロレンツは目が大きく、目鼻立ちのくっきりとした美しい女性である。いつも快活で、笑顔もチャーミングである。半面、妖艶な美しさもそなえている。カストロがすぐに恋に落ちたというのもうなずける。ただこの美貌ゆえに、ロレンツは波乱の人生を送ることになったのも事実だ。

ロレンツがケネディ暗殺事件解明の重要証人として注目されるようになったのは、七七年九月二十日。ニューヨーク・デイリー・ニューズがケネディ暗殺事件にかかわったとするロレンツの話を載せたためだ。ロレンツはその中で、ケネディ暗殺の直前、リー・ハーヴィー・オズワルドや後にウォーターゲート事件で逮捕されたCIA工作員、フランク・スタージスら暗殺集団とともに車でダラスに行ったと語った。この記事がきっかけとなって、ロレンツは米下院の暗殺調査特別委員会に召喚され、この日を迎えた。

 しかし、その証人として召喚されるきっかけとなった記事は、ロレンツの望んだものではなかった。「フランクがあんなことを言わなければ・・・」ー。ロレンツはこんなにも騒がれたことに関して、フランク・スタージスことフランク・フィオリーニを恨んでいた。

 ロレンツは、あの忌々しいスタージスとの最初の出会いを思い出していた。それは1959年の革命直後のキューバ。ロレンツはまだ20歳になったばかりのころだった。
(続く)

本ができるまで5 「本のある暮らし(27045)」

本のカバーができました。

本のカバー

ただし、帯の文言が少し変更されるかもしれません。近日中に出版社から最終稿が送られてきますので、それと比べてみると面白いかもしれませんね。本ができるのは、来週の金曜日(7月29日)。書店に並ぶのは、さらに先の八月八日ごろです。

アマゾン・コムなどで予約を受け付けております。

カストロが愛した女スパイ2 「アメリカ外交史(230)」

証言の朝
 一九七八年五月三十一日水曜日の早朝、米国の首都ワシントンDCで目を覚ましたロレンツは少し憂鬱だった。この日、ジョン・F・ケネディ暗殺事件を調査している下院暗殺調査特別委員会に呼ばれ、証言することになっていたからだ。委員会のメンバーはどのような人物なのか。彼らはロレンツの証言をどう受け止めてくれるのか。ケネディ暗殺の真相究明がこれで進むのか、あるいは止まってしまうのか。いろいろな不安や思いがロレンツの頭の中を駆け巡っていた。

 ロレンツは別に証言したいとは思わなかったのだ。実際、子供たちを無事に育て上げ、自分自身と家族が一日一日生きていくのにやっとだった。証言をすることで世間の注目を浴び、マスコミの餌食となって、それに対応していく余裕などない。それでも一度証言すると決めたのだからもう後には引けなかった。何もかも話して自由になりたいという気持ちもあった。証言さえしてしまえば、あの煩わしいマスコミの群からも解放されるかもしれない。いや、証言した結果、もっとマスコミに追われることになるのか。ロレンツに再び不安がよぎった。

 証言の行われるアメリカ合衆国議事堂のあるキャピタル・ヒルの周辺は青々した芝生の臭いが立ちこめていた。丘の上にそびえるドーム型の議事堂が、手前にある池にくっきりと映し出され、時折風で波紋が立つ以外は美しい絵のように静止していた。

 このキャピタル・ヒルこそが、歴代合衆国大統領が就任演説をした場所でもある。ケネディ大統領が「アメリカ人のみなさん。国があなたに何をしてくれるかを問うてはいけない。あなたがあなた方の国に何ができるかを問いなさい」と国民に呼び掛けたあの有名な大統領就任演説もこの場所だった。

そのケネディは若くして暗殺者の凶弾に倒れた。凶弾を発したのは、ウォーレン委員会が結論づけたように、リー・ハーヴィー・オズワルドという精神を病んだ男の単独犯行だったのか。それとも背後に巨大な陰謀が存在したのか。それを見極めようとする世論が七〇年代後半になってようやく高まってきていた。そのため、一九七六年に米下院に暗殺調査特別委員会が設置された。ロレンツは、ケネディ暗殺の背後にある暗黒の闇を知る数少ない生き残りの一人であったのだ。
(続く)

カストロが愛した女スパイ1 「アメリカ外交史(230)」

はじめに
 マタ・ハリとはマレー語で太陽という意味だ。太陽の光で敵の目を欺くという意味もあるのだろうか、第一次世界大戦前夜、パリのムーランルージュで人気を博したオランダのダンサー、マタ・ハリが実はドイツのスパイだったことから以後、女性スパイの代名詞となった。

 事件の陰に女あり。一九六三年十一月二十二日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の背後にも“マタ・ハリ”がいたのをご存じだろうか。CIAが未だかって公式に認めようとしない、CIAのために働いた、ドイツ生まれの女スパイ、マリタ・ロレンツだ。

 キューバ首相、フィデル・カストロの愛人だったロレンツは、ひょんなことからCIAによりスパイとしてスカウトされ、アメリカ合衆国のためにカストロの部屋から手紙を盗み出す仕事を手伝った。その後ある事件に巻き込まれ、キューバを一時脱出。CIAに洗脳されつつ、CIA傘下の殺し屋集団で各種殺しのテクニックを学び、今度はカストロ暗殺の刺客となった。

 しかし、暗殺計画は失敗、米国に戻ると、六一年のピッグズ湾事件で知られるキューバ侵攻計画に加わり、訓練を受けた。訓練で非情なまでに優秀な成績を残したロレンツは「冷たいドイツ人」と呼ばれるようになった。ロレンツにとって幸いだったのは、この訓練中に怪我を負い、キューバ上陸作戦に参加せずにすんだことだ。参加していたら、おそらくピッグズ湾事件で生き残ることは難しかっただろう。作戦は多くの犠牲者を出し大失敗に終わったのだから。

 カストロ暗殺計画など反カストロ工作にかかわったことさえ、ロレンツの波乱の人生にとって序の口にすぎなかった。ベネズエラ元大統領、マルコス・ペレス・ヒメネス将軍に近づき、CIAや反カストロ分子のための情報収集を命じられたのだ。ロレンツは間もなく将軍の愛人となり、しかも将軍との間に女の子をもうけた。やがて、将軍が本国送還となり、子供のための基金も悪徳弁護士により取り上げられると、途方にくれ、再びCIA傘下の殺し屋集団に助けを求めた。

 ロレンツはそこで、ケネディ暗殺直前、リー・ハーヴィー・オズワルドを含む暗殺集団がダラスに暗殺用の武器を運搬するのに立ち会った。ダラスではオズワルドを殺したジャック・ルビーやウォーターゲート事件で国中に悪名を馳せたCIA情報部員、ハワード・ハントがその暗殺集団と接触するのも目撃した。

 ケネディ暗殺事件後、あまりに真相に近付いたロレンツに危険が迫った。その危険から逃げるようにロレンツは赤ん坊を連れてベネズエラに将軍の後を追った。ベネズエラ政府当局に捕まった挙げ句、ヤノマノ族が住むジャングルの奥深くに、赤ん坊と二人きりで取り残されたロレンツは、そこで死にそうになりながらも驚異的な生命力で生き残り、一年後に母親が依頼した捜索隊により救出された。

 その後も何度か危機を脱出したロレンツは一九七八年五月、ようやく重い口を開き、ケネディ暗殺の真相を下院の特別委員会で語ったのだ。

 ロレンツの波乱万丈の人生は、冒険とロマンスとドラマに満ちている。ロレンツは何度も危険をかいくぐり、幾度も修羅場を経験、そのたびに強烈な個性と前向きさで、幾多の障害を乗り越えてきた歴戦の女戦士だ。そしてもし、彼女の衝撃的な証言内容が本当なら、ケネディ暗殺にはCIAが絡んでいたことになるのだ。

 刺客だと知りながらもカストロが愛したというCIAの元女スパイ、マリタ・ロレンツの証言から、謎と神話に満ちたケネディ暗殺事件や、スパイが暗躍した1960年代の世界情勢の真相がみえてくる。
(続く)

誰がケネディを殺したか48(最終回) 「アメリカ外交史(230)」

▼暗黒の時代から今へ
 米国の首都・ワシントンDCの春は美しい。3月下旬ともなれば、ホワイトハウス北側にあるラファイエット広場では、ドッグウッド(ハナミズキ)が赤みがかったピンクの花を満開に咲かせ、市民がベンチや芝生の上で、しばしの憩いの時を過ごす。ジョンソンがスミスにケネディ暗殺の話を打ち明けたのも、ちょうどそのような、のどかな春の一日だったに違いない。

 一般の国民はおろか、大統領すら知らないところで、その国の政府に仕えるはずの人間が、他国の首脳の殺人計画を実行に移したり、ついには、自国の大統領暗殺にまで手を貸したりしてしまう。そして、目的のためには手段を選ばす、無実の人間を罪に陥れ、口封じのためとあらば都合の悪くなった人間をどんどん消していく。これを恐怖、暗黒社会と言わずに何と言えばいいのか。

もちろんケネディだけが汚い仕事をせず潔白だったと言うつもりは毛頭ない。マフィアのボスと愛人を共有していたのは周知の事実(メモ44参照)だし、CIAのマフィアを利用したカストロ暗殺計画についてもロバート・ケネディから当然、聞いていたはずだ。

62年の議会選挙を有利に進めるため、キューバにミサイル基地があることを2年近く国民に知らせず、選挙前にミサイル危機を“演出”、自らヒーローを演じることで政治的勝利を手中にした疑いもある(メモ45参照)。それでも思うに、南部勢力や右翼の反対にもかかわらず市民権運動を強力に進め、政府による不正を極力排除しようとしたケネディは、暗黒の時代における一筋の光明だったのかもしれない。

 暗黒の時代は、その後も続き、ヴェトナム戦争、ウォーターゲート事件という米国民にとっての苦難の道を経てようやく薄日が射してくる。しかし、暗黒時代は本当に終わったのだろうか。国民をウソの情報で操り、無実の人を陥れ、必要とあれば抹殺してしまうような、そんな時代は過去の話なのか。少なくとも、ケネディ暗殺事件が真に解決するまで、我々はまだ、果てしなく暗いトンネルから完全に抜け出せることはできないのだ。
(了)

(メモ44=ケネディの愛人)
 1960年3月、ケネディが歌手フランク・シナトラの紹介で、離婚歴のある25歳の美人、ジュディス・キャンベル(後にジュディス・キャンベル・エクスナー)と出会ってから、愛人の関係になるまで、そう時間はかからなかった。ケネディが大統領になった後の61年から62年にかけて、キャンベルは頻繁にホワイトハウスに出入りしたり、ホワイトハウスのケネディに実に約70回も電話したりしている。この二人の関係はすぐに、フーバーFBI長官の知るところとなる。しかも、マフィアに対する電話の盗聴などから、キャンベルがケネディの愛人であるだけでなく、マフィアのギアンカーナやロセッリの愛人であることが分かる。マフィアと大統領の関係を懸念したフーバーは62年2月27日、ロバート・ケネディ司法長官に、キャンベルがマフィアとつながりがあることや、そのマフィアがCIAのカストロ暗殺計画に加わっていることをメモで知らせる。さらにフーバーは3月22日、ケネディとの昼食の席上、おそらくキャンベルとの関係を絶つよう忠告。ケネディはそれ以降、キャンベルとの密会をしていない。

(メモ45=キューバのミサイル基地建設をめぐる政府内の死闘)
 ケネディ暗殺を調査した下院選別委員会の初代委員長を務めたトマス・ダウニングの報告書にも、キューバでミサイル基地が建設中であることを米政府は1960年から知っていたことが記されている。それによると、60年1月、英国の偵察機がキューバに奇妙な軍事施設が建設されつつあるのを発見、同年3月までにそれがミサイル基地であることを突き止める。同4月、英国政府は米政府にキューバのミサイル基地建設のことを報告。これを受けて米政府は諜報活動を開始、駐ハバナ米国大使館員も友人からミサイル基地建設の話を聞き込む。同9月、反カストロキューバ人の地下組織が、キューバのミサイル基地が米国も射程距離に入る中長距離ミサイル基地であると米政府に報告。これにより亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦が具体化する。61年4月にはキューバの反カストロ地下組織からミサイル基地が存在することの動かぬ証拠がCIAにもたらされ、ケネディ大統領にも報告。CIAはピッグス湾事件最中の極秘の作戦によりそれを確認する。
 もしそうなら、ケネディは何故62年10月まで、そのことを秘密にしていたのか。その秘密を解くのが、ピッグス湾事件から約1週間後の4月24日にCIA局員、トレイシー・バーンズとCIA工作員、ロバート・マローとの間で交わされた会話だ。マロー自身が自著「ファースト・ハンド・ノレッジ」(S・P・Iブックス社、1992年)で一部始終を書いているので、ここでその要旨を紹介する。

 マロー:大統領は、米国の目と鼻の先のキューバにミサイルがあることを知っておきながら、我々にキューバに侵攻するなと命令し、しかも、そのミサイル情報を秘密にしろと命じたのか。何故だ。
 バーンズ:おそらくケネディは、このミサイル情報を将来の政治的武器として使いたいのだろう。できれば、この情報を政治的推進力のてこの力として応用できるまで、具体的にいえば、62年の議会選挙結果に影響を与えることができるまで、とっておきたいのだ。この種の策略は他の政権でもよく使われた。フランクリン・ルーズベルトがこの種の策略の天才だったのは、ロバート、お前も知っているだろう。

 この会話の後、二人はチャールズ・キャベルCIA副長官とリチャード・ビッセル計画局次長にCIAのキャベルの部屋で会う。その席でマローは、リンドン・ジョンソン副大統領からキャベル副長官に宛てられたメモを見せられる。そのメモには、ケネディ大統領が極秘にロバート・マクナマラ国防長官に対し、どのような手段を使ってもいいからCIAの権力を骨抜きにし、最終的にはCIAに替わる新しい情報機関を設立するよう命じたことが書かれていた。さらに大統領のシークレットサービスの一人からCIAが手に入れた、ロバート・ケネディに宛てたケネディ大統領のメモには、CIAが大統領の命令に反してキューバペソ偽造計画を進めていることを憂慮した上で、キューバ政府にこのことを漏らしてみたらどうかと勧めていた。
 マローはこれらのメモを見て、憤慨する。CIAの通貨偽造計画をキューバ政府に伝えるのは反逆的行為に値すると考えたからだ。これに対しキャベルは「外交戦略上、正当化されうることもある」とマローをなだめる。
 さらにキャベルはマローに、弁護士のマーシャル・ディッグスの紹介で、午後にはロバート・ケネディと“事実上の亡命キューバ政府大統領”マリオ・ガルシア・コーリーの会談が予定されており、その場で、コーリーがキューバのミサイル基地の写真などの証拠をみせることや、もしその時の司法長官の反応が否定的だった場合は、コーリーがテレビに出て、ミサイル基地の存在をばらすことになっていることなどを伝えた。そして同時に、既に進展しているコーリーらによる通貨偽造計画を手伝うようマローに要請。マローは大統領の命令に反することを知りながらも、これを受諾する。
 その日の午後、ケネディ司法長官とコーリーの会談が実現したが、司法長官はコーリーの話はデタラメだと激怒、キャベルにコーリーを捕まえるよう命令する。キャベルは命令に従うふりをして、マローと一緒にコーリーの逃亡を手助けする。こうして、CIAの支援を受けた、マローとコーリーの通貨偽造計画がスタートする。
 このマローの話が真実だとすると、ピッグス湾事件の失敗で失われた信頼を回復すべくミサイル危機という国家危機すら政治的演出の道具にしようとするケネディと、国家安全保障の名目なら大統領の命令さえ無視し、同時にケネディの粛清を何とか逃れながら組織を死守しょうとするCIA強硬派の間で、食うか食われるかの死闘が演じられていたことになる。その長い暗闘の末、63年11月にケネディは暗殺されるのだ。
(了)

誰がケネディを殺したか47 「アメリカ外交史(230)」

▼壁
 米国民や米マスメディアにとって、アメリカ国家、あるいはケネディ家は、神聖にして冒してはならない領域にそそり立つものだ。そのイメージを傷つけるような報道はいつも慎重で控え目な姿勢でいた。これこそが、ケネディ暗殺の真相解明を難しくしている壁なのだ。

 しかし、911テロ後のアメリカ人の好戦的な反応や一方的な報道姿勢に見られるように、理想の国のイメージは既に壊れている。いつまでもイメージを守ろうとして、真相に迫らないのは、世界との溝を広げるだけで、明らかに間違っている。

ケネディ暗殺の背後にCIAの陰謀があったことは明白だ。その明白な事実から目をそらすことは、一時的にはその国の体裁を保つことになるかもしれないが、長い目でみれば、その国の信頼をおとしめる。国民やマスメディアが、真の歴史、真実の歴史を直視しなければ、自らが標榜している自由や正義を手に入れることもできない。

呪われたケネディ家というのは実は、米国民がケネディ家に神話を求めているからにほかならない。その神話の厚いベールを剥いだとき初めて、真相も明らかになるのだ。その意味で、ケネディ暗殺で問われているのは、実はその国民とマスメディアの姿勢といえるのだ。
(続く)

梅雨明け、そして本ができるまで4

梅雨明け

関東地方は梅雨が明けました。上の写真は、渋谷の代々木公園で日光浴をする人たち。今日は暑かったですよ。

本の最終校正は午前中に終わり、出版社へファックス。出版社から2,3の問い合わせがありましたが、それにも返答して、今日で原稿は完全に私の手を離れました。あとは出版社のほうで最終チェックして、印刷へ回すだけですね。

書いたものが活字になるのは、わくわくするものです。思考が形のある作品として誕生する、そんな感じですかね。本のタイトルは『超能力者・霊能力者に学ぶ不思議な世界の歩き方』(成甲書房)です。『四次元世界の旅人たち』という案もあったのですが、軽く読める感じを出すため、ちょっと変わったタイトルにしてみました。八月八日に発売される予定です。

と、一息つく暇もなく、次の本のための準備をしなければいけません。

今、計画があるのは、『留学のための英語論文作成術』(仮題)というノウハウ本です。ジャンルがガラッと変わります。最初はアメリカの歴史もの、二番目は超古代史もの。今回は超能力者について書いた本ですが、次は実用書ですね。語学書の出版社の社長が私の高校時代の同級生で、書かないかと言われて書いているものです。まだ10分の1ぐらいしか書いていないので、夏にはドンドンと書き進まなければなりません。締め切りが年末までなので、まだのんびりモードです。

このほかにも引き続き、日本の古代史ものなども取材や研究を続けてまいります。面白い話があれば、ブログでも公表していくつもりですので、ご期待ください。

誰がケネディを殺したか46 「アメリカ外交史(230)」

▼再現7
 口封じを含む証拠隠滅工作は続いた。60年代にはCIAによる反カストロ活動にかかわった者たち、あるいは、反カストロ亡命キューバ人による恐るべき計画を知ってしまった人たちが次々殺される。

 64年10月に殺されたメアリー・メイヤーもその一人だ。彼女は偶然、もう名キューバ人とCIAによるケネディ暗殺計画の存在を知ってしまったために、ロバート・マローから連絡を受けた亡命キューバ人の手によって殺されたのだ。マローがそのように証言している。

 やがて70年代になって、CIAがマフィアを使ってカストロを殺そうとしていたことがわかると同時に、CIA自身が米国内で犯罪組織による非合法活動にかかわっていたことがわかり始めると、マフィア関係者を殺し始めた。関係者がこれほど露骨に、かつ大量に抹殺されていったケースも珍しい。

しかし、これほどCIAの関与を示す状況証拠がそろっているにもかかわらず、米国のメディアはCIA陰謀説を真剣に取り上げてこなかった。ハワード・ハントが民事訴訟で敗れ、CIAの関与が公になったときでさえ、マスメディアの取り上げ方は慎ましいものだった。その態度からは、まるで臭いものには蓋をするかのように、「もう陰謀説はうんざりだ」とする米国民のため息が聞こえてくるようだ。

それは事件の真相を知ろうとすればするほど米国社会の暗部が浮き彫りになってしまうからだ。自由社会のリーダー、自由と正義の国を標榜する米国民にとっても、、また米マスメディアにとっても、暗部が明らかになることにより米国の威信が失墜することを望まないという深層心理が働いている。
(続く)

誰がケネディを殺したか45 「アメリカ外交史(230)」

▼再現6
 オズワルドは確かに、犯行グループの一員ではあったのだろう。ただ、自分は操作を霍乱させるためのおとりであると思っていた。教科書倉庫二階にずっといることで、アリバイもあるはずだった。

 ところが、犯行グループの真の狙いは、オズワルドとカストロを結びつけ、オズワルドを犯人に仕立て上げ、逮捕する際に殺してしまうことであった。オズワルドは、あやうく殺されそうになり、さらには犯人として逮捕されて驚いたに違いない。「誰も殺していない」「私はかもにすぎない」と記者団に語ったのも、正直な感想だった。

 犯行グループがいちばん恐れたのは、オズワルドがグループのことをばらすことであった。「私はかもにすぎない」と口を割り始めたオズワルドを黙らせなければならなかった。ジャック・ルビーがその役目を果たした。

 だがそのルビーも、最初は「陰謀は全くなく、私憤からやった」などとうそぶいていたが、死刑判決が下されると、気が小さくなり、段々と真相を語りはじめるようになった。その矢先の67年1月、都合よくガンで病死した。あるいは、これも口封じのために、何らかの方法で殺されたのかもしれない。
(続く)

本ができるまで(3)

今回はあまりビジュアル面のことを考えていなかったので、出版社から「最低でも写真を20点付けたい」と言われて、困ってしまった。「わかりました。何とかしましょう」と返事したものの、使えそうな写真といえば堤裕司さんぐらい。「ああ、ちゃんと写真を撮っておけばよかった」と後悔しても、後の祭りだ。

ちょうど清田益章さんから「家に遊びにおいでよ」と言われていたので、すぐに電話をかけ、写真撮影を兼ねてお邪魔した。自宅で「おのり」をする清田さんを激写した。翌日は私の家から自転車で15分ほどのところに事務所を開いている秋山眞人さんにアポを取り、速攻で写真撮影。秋山さんには水晶を持ってポーズしてもらった。

龍神恵比須様の写真撮影の話は既にブログで書きましたね。

恵比須様の撮影の途中でドッペルゲンガーの写真撮影にも成功! 幽霊やUFOの写真も撮って(!!)、北川恵子さんや横尾忠則さんの本のカバーを写真に収めた。それでも足りないので、昔撮った写真からイメージ写真として使えそうなのをピックアップ、何とか二〇数枚の写真を用意して出版社にメール送信した。

中にはちょっとこじつけ気味の写真もありますが、大目に見てくださいね。さて、どんな写真の載った本になるでしょうか。

誰がケネディを殺したか44 「アメリカ外交史(230)」

▼再現5
 オズワルドは銃撃のあった間中、おそらく教科書倉庫ビル2階の社員食堂にいたのだろう。少なくとも12時15分までは同僚と一緒にその場所にいたことがわかっている。そして12時33分には、駆けつけた警察官とビルの管理責任者が同じ食堂でコークを飲んでいるオズワルドを目撃している。

ウォレン委員会の報告では、オズワルドがこの18分の間に、2階から6回に駆け上がり、ケネディに向けて3発ライフルを発射、狙撃後すぐに階段を駆け下りて再び2階でコークを飲んだことになってしまっている。しかもオズワルドはそのとき、息を切らした様子もなく、まるで何事もなかったかのように落ち着いていたのだ。

オズワルドはただのおとりであったことは明白だ。これはロレンツの証言の通りである。

ダラス警察が見つけたとするライフルについていたオズワルドの掌紋の一部については、犯行グループもしくはオズワルドを単独犯に仕立て上げようとしたFBIによって、でっち上げられたのだろう。確かなことは、実際にライフルを射撃したら残るはずの硝煙反応はオズワルドの頬から検出されなかったということだ。犯行に使われた凶器とみられるライフルと銃を携行した有名な“証拠写真”も、犯行グループもしくはFBIによって合成されたインチキ写真であることも自明であった。
(続く)

本ができるまで(2)

原稿を出版社に送り、出版が決まっても、それで終わりということはない。必ずやらなければならないのは、校閲・校正だ。時間が経ってから自分の原稿を読み返してみると、「ああ、あそこはこう書いたほうがよかったな」とか「あんなことは書かなければよかった」という部分が必ずと言っていいほど見つかる。ほかにも漢字の間違いがあったり、表現がおかしかったりする部分にも気づく。それを正すのが校閲・校正だ。

私も一年くらい前まである出版社に勤務していて、校閲・校正をやっていた。すると、書いている本人が気づかないミスや誤りをよく見つける。その出版社は米国のニュース週刊誌の日本版を出していた。まず英文を翻訳者が翻訳し、それを編集担当者が普通の日本語にする。つまり、直訳調の日本語ではなく、意味を斟酌した上で日本語に意訳するわけだ。行数が決められているのでかなり苦労する。

さらにその原稿をデスクがチェックして校閲に回す。校閲では少なくとも二人の校正の専門家が同じ原稿を読み、それぞれが校正を行う。校正の専門家とは別に意味がおかしくないかなどをチェックする校閲担当者もいる。その校閲担当者が最終的に見出しを決めゴーサインを出す。私がやっていたのは、デスク業務とその校閲業務であった。

アメリカから送ってくる英文そのものに間違いがあることもある。あるとき私が二日前にメールをやり取りした米国の著名な経済学者が故人として扱われている原稿にお目にかかったことがあった。あれ、二日前まで元気そうだったのに、あれから亡くなったのかなと思ってアメリカに問い合わせたら、向こうの返事は「おや、まだ死んでなかったのですか。もうとっくに亡くなられたのかと思っていました。訂正します」だった。まだ死んでいないのに原稿上殺してしまったり、死んでいるのに生きているように書いたりすることは、実は時々起こるミス(もちろんあってはいけないミス)である。

さて、今回の私の本の校正でも、重大な誤りを早くも二つ見つけた(願わくはもうありませんように!)。一つは出版社側の指摘でわかったもので、指摘されるまでまったく気づかなかった。もう一つは、昨日やっと自分で気づいた誤り。

この場を借りて、お詫びと訂正をさせていただきます。
(正)政木和三 (誤)正木和三
(正)堤裕司  (誤)堤祐司

(明日か明後日へ続く)

誰がケネディを殺したか43 「アメリカ外交史(230)」

▼再現4
 実行犯グループは、自分たちの犯行を隠すため、手の込んだ証拠隠滅工作をした。まず「芝の丘」では、銃撃後に駆けつけた警察官や目撃者の前に、ガイ・バニスターが立ちふさがり、シークレット・サービスの身分証明書を見せ、彼らを煙に巻いたとみられている。

その間に、実際の射撃犯はライフルと使ったばかりの薬きょうともども現場から姿を消した。元FBI捜査官で、当時はCIA工作員クレイ・ショウと犯カストロ工作に携わっていたバニスターにとって、シークレット・サービスの偽造身分証明書を携帯することも、警察官をだますことも訳のないことだった。

教科書倉庫ビルのそばでは、犯行グループの一人が、実際には狙撃が行われたダルテックスビルではなく、教科書倉庫ビルに目撃者らの注意が向くように仕向けたはずだ。教科書倉庫ビルにはオズワルドが「おとり」として配置されていた。ビルの6階にはマローによって購入されたライフルと薬きょう3発が狙撃現場に見せかけるため事前に置かれていた。ライフルはオズワルドのものだと推測できるように「ヒデル」名義(ヒデルはフィデル・カストロのもじりだと思われる)で購入されていた。
(続く)

誰がケネディを殺したか42 「アメリカ外交史(230)」

▼再現3
 一斉射撃は、現場を混乱させるのに十分であった。現場にいた目撃者は、それぞれ自分が聞いたり見たりした場所を素直に唯一の射撃現場だと思ったのだろう。だからこそ、前方から撃たれた、いや後方からだと、目撃証言が真二つに割れたのだ。

 このため発射された銃弾の数も誰もわからなかった。ウォレン委員会は3発としたが、おそらく最低四発は発射されている。車に同乗していたコナリー・テキサス州知事が証言したように、ケネディに最初に当たった弾はコナリー本人に当たったのとは別の銃弾だ。ケネディに致命傷を与えたとみられる銃弾は、ザプルーダーフィルムが物語るように、前方から発射された可能性が強い。

 これと似たような手口は、その後も繰り返される。ロバート・ケネディ暗殺の際は、サーハン・サーハンという“犯人”がロバートに向かって銃を発射したドサクサに紛れて、おそらく本当にロバートに致命傷を与えた犯人が同時に至近距離から銃を発射した疑いが強い。

 調整役としてのハントは、その後も健在だった。あのウォーターゲート事件では、ハワード・ハントが亡命キューバ人を使って民主党本部に進入させ、ハントは近くのビルから無線などで指示していた事がわかっている。
(続く)

誰がケネディを殺したか41 「アメリカ外交史(230)」

▼再現2
 暗殺約1週間前の11月16日、CIAに雇われたガイ・バニスターの一行が狙撃用ライフルを積み、ニューオーリンズからダラスへ、ロレンツと“オズワルド”を含むフランク・スタージスの「オペレーション40」の一行が大量の武器を車に積み込み、マイアミからダラスに向けそれぞれ出発。スタージスの一行は、ダラス郊外のモーテルに泊まり、暗殺の前日までには、そこでCIAのハワード・ハントとマフィアのジャック・ルビーと落ち合い、最終打ち合わせをする。

ロレンツにはどのような計画が進行中か知らされなかったが、ロレンツは何か大きな暗殺計画が進行中であることを察知。やがてグループ内で仲たがいが起こり、まさに暗殺事件の前日にロレンツはグループと決別、マイアミに戻る。そしてケネディが暗殺されたことを知る。

 ロレンツは状況証拠から判断して、自分がかつて所属していた暗殺旅団「オペレーション40」がケネディ暗殺にかかわったのは間違いないと言う。オズワルドを「使い捨て要員」にして、“オズワルド”と「オペレーション40」の狙撃班がいっせいにケネディに向けて引き金を引いた。

 おそらくマフィアの狙撃手も参加したのだろう。後にケネディ殺害を自白した、シカゴのマフィア、ジェームズ・ファイルズや、他のマフィア、亡命キューバ人に武器が分配された。ファイルズは前方の「芝の丘」に、もう一人は教科書倉庫ビル、さらにはダルテックスビルなどにも人員を配置し、マローが製造した無線機を使って、タイミングを計った。

 最後の合図はそれぞれの配置から見える場所に陣取ったハワード・ハントが行った疑いが強い。つまり快晴の広場で、こうもり傘を持った不審な男がハントではないかというのだ。ハントによる傘を使った合図により、やや不揃いではあったが、一斉射撃が始まった。
(続く)

本ができるまで

本を出版したいなと思っている方も大勢いらっしゃるのではないかと思い、今日は本の出し方について触れます。と言っても、私もこれまで二冊しか出していないので、どれだけご参考になるかわかりませんが。

私の場合は、まず雑誌用に原稿を書いて、月刊誌に掲載してもらいました。次にそれを膨らませて一冊の本に仕上げたのが一冊目の『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』(近代文芸社)です。

元々、原稿を書くのは私の仕事(共同通信社、記者暦14年)でしたが、一冊の本のように長い原稿は書いたことがありませんでした。普段のニュース記事はせいぜい長くても900字ぐらいですから、本を書く構成力とかは自分で身につけるしかありませんね。アメリカの大学院では結構長い論文を書かされていましたので、そこである程度の構成力がついたようです。

さて、一応一冊の本になるぐらいの分量が書けたら、大変なのは出版社探しです。だが、そう簡単には見つかりません。自ら営業活動をしなければなりませんね。出版社に電話をかけまくって、「こんなに面白い本を書いたのですが、読んでいただけませんか」と自分の書いた本のPRをする必要があります。

大手出版社がすぐに興味をもってくれることは、まずありません。一ヶ月に一回の出版会議にかけるなどかなり時間がかかるため、忍耐力が必要です。中には持ち込み原稿不可の大手出版社もあります。文字通り、門前払いですね。

中堅出版社ならかなり融通を利かせてくれます。どういう出版社を選ぶかは、自分でリサーチして自分が書いた本に合ったところをリストアップするといいでしょうね。どういう本を出しているかで、その出版社の性格がわかるはずです。たとえば私の場合はノンフィクションですから、ノンフィクションをたくさん出している出版社を探しました。

いずれにしても、出版に踏み切ってくれるかどうかは、書き手の熱意を相手に伝えることだと思います。もちろん書いたものにも熱いものがないと出版社は動いてくれません。

最初の本は、3社に当たって、2社が興味を示してくれて、その中でいちばん早く出版してくれるところを選びました。原稿を書き終わってから、出版社が見つかるまで4カ月ほどかかりました。

二冊目の本は、結構営業が大変でした。自信作でしたが、テーマが竹内文書ですから、戸惑う出版社も多かったですね。サンプルを送って、10社ぐらいと話をして、好感触を得たのが2社、原稿を送ってすぐに興味を示してくれた出版社に頼みました。それが『「竹内文書」の謎を解く』(成甲書房)です。原稿を書き終わってから、出版社が見つかるまで1カ月ほどかかりました。少し短くなりましたね。

もちろん、いつも出版社が見つかるとはかぎりません。私が書いたもう一つの原稿は二社で、自費出版と企画出版の中間(出版費用を折半するもの。通常100万~200万円かかります)に位置づけられ、ペンディングになっています。二社とも外交辞令かもしれませんが、内容(史料価値はありますが、かなり地味です)を高く評価してくれているのですが、商業ベースにはなじめないというのが、出版してくれない理由のようです。でも本当に出したい本であれば、自費出版でもなんでも出すべきであると思います。私のペンディングになっている原稿は、私自身まだ改善の余地があると思っているので、あえて出版をしませんでした。

さて、ここからはご報告です。1月に急に思い立ってブログで書き始めた「不思議な世界」のシリーズが本になり、八月八日に出版されることになりました。本日、ほぼ校正も終え、後は写真を組み込んでキャプションを入れるだけの段階です。出版社は二冊目と同じ成甲書房です。

今回は書き終わってから出版が決まるまで三日でした。ささやかでも実績があると、次から本が出しやすくなるわけですね。

思えば「不思議な世界」のシリーズは、自分でもいつまで続くかなと思いながらブログで書いていましたが、あれよあれよという間に110回以上続いてしまいましたね。これも皆さんのコメントやご訪問のおかげです。とても励みになりました。ありがとうございました。最終校正が終わった段階でタイトルとともに、またご報告します。

誰がケネディを殺したか40 「アメリカ外交史(230)」

▼再現1
 ケネディ暗殺計画は用意周到に行われた。おそらくCIA強硬派が最終的に決断したのは、ミサイル危機の直後であっただろう。

 暗殺の五ヶ月前、ロバート・マローはCIAから7・35口径マンリシャーライフル四丁の購入と、市販の機器では傍受できない無線機四台の製造を依頼された。マローは購入したライフル四丁と製造した無線機四台を1963年八月上旬、CIAの運び屋のデービッド・フェリエに手渡した。後にマローは、このときのライフルと無線がケネディ暗殺に使われたと、亡命キューバ人コーリーの弁護士、ディッグスから聞かされた。

 同時に八月ごろから、オズワルドをカストロと結びつける工作が始まった。元FBI捜査官、ガイ・バニスターが作成した親カストロ・共産主義賛美のパンフレットをオズワルドが配っている。

九月から一〇月にかけては、オズワルドを名乗る男がメキシコシティのソ連大使館とキューバ領事館にわざわざ顔を出している。このオズワルドを名乗る男の怪しげな行動のために駐メキシコ米国大使のトマス・マンはケネディ暗殺事件後、暗殺の背後に共産主義者がいると信じ込んでしまい、それを本国に報告。逆にジョンソン大統領やフーバー長官から疎まれることになった。
(続く)

誰がケネディを殺したか39 「アメリカ外交史(230)」

▼暗闘
CIA強硬派が、ケネディに恨みを持つ亡命キューバ人とマフィアを使ってケネディを殺させたのは、間違いないであろう。ただし、その背後にある勢力は依然として謎のままだ。ニクソンや南部の石油勢力、武器産業勢力が存在した可能性はある。わかっているのは、CIAの一部勢力がかかわったこと、実行部隊に亡命キューバ人やマフィアを使ったことだ。

CIA強硬派にとってケネディは、それほど邪魔な大統領であった。すでにはるか前からキューバにミサイル基地があることをわかっていながらその事実を隠し、中間選挙に利用するため「ミサイル危機」を演出、ヒーローを演じたケネディ。ピッグス湾事件の責任をCIAに押し付け、CIAを解体・骨抜きにしようとしたのもケネディであった。

着々とヒーローという虚像をつくり上げていくケネディと、組織を死守しようCIA強硬派の間で、お互いの存在意義をかけた暗闘が繰り広げられていただろうことは想像に難くない。

その暗闘の目撃者であり、間接的だがケネディ暗殺に関与した生き証人ともいえるのが、先に紹介したロバート・マローとマリタ・ロレンツである。お互い面識はないが、二人の証言は矛盾しないばかりか、真実を指し示し、なおかつ補完し合っているように思える。

その彼らの証言を基にケネディ暗殺というCIA強硬派の犯行を再現してみよう。
(続く)

誰がケネディを殺したか38 「アメリカ外交史(230)」

▼亡霊2
 ハルデマン:本当の問題は捜査がウォーターゲート以外の問題に及ぶことです。我々はウォーターゲートの捜査など心配ではありません。

 ニクソン:その通りだ。
(中略)

 ハルデマン:・・・彼ら(編注:ウォーターゲートビル侵入事件に関係した者)が、ずっと以前の別の活動、つまりピッグス湾事件にも関係していたことを我々は知っています。(略)ヘルムズ(CIA長官)は、ピッグス湾事件は何も心配はいらないと言ったことに私は驚きました。というのも私はあなた(ニクソン大統領)からCIAはピッグス湾事件にことが及ぶことを心配しているとの印象を持ったからです。(中略)後でヘルムズが言ったことは真実でないことが分かりました。CIAはピッグス湾事件のことを大変心配しているのです。だからピッグス湾事件に関するとみられる捜査の過程で、重要なメモが、おそらくCIAか誰かの仕業で、消えてなくなった。そのためにピッグス湾事件で本当は何が起きたのか知ることが難しくなったのです。
 とにかく、我々は、捜査が行き過ぎて、ピッグス湾事件の問題などCIAがかかわっていることにまで及ぶことについて懸念を提起しました。それにCIAのメキシコマネーの問題も提起したと思いますが。

 ニクソン:そう、その通りだ。

 これらから推測できることは、ニクソンは、ケネディ暗殺の遠因になっているピッグス湾事件に自分がかかわっていたことを知られるのを気にしていた。ケネディに、前年のニクソン、CIA、コーリーの密約を引き継がず、うやむやにしたために起きたともいえるピッグス湾事件の大失態。意図的であったかどうかは別にして、結果的にケネディを“裏切り者”にしたことが、“負い目”として常にニクソンの頭の中にあったのではないか。あるいは、それ以上の負い目があったために、密約に調査が及ぶよりは、大統領を辞任した方がましだと考えたのかもしれない。
(続く)

誰がケネディを殺したか37 「アメリカ外交史(230)」

▼亡霊
 リチャード・ニクソンはどうだろうか。自分が手塩にかけた、密約の当事者でもあるマリオ・コーリーなどキューバ人の反カストロ右派の動きは気になっていたのだろう。コーリーが通貨偽造で捕まったことを知ったニクソンは64年3月、自ら地方裁判所判事に手紙を書き、コーリーの刑期を短くできないかどうか嘆願している(メモ43参照)。

 ニクソンの大統領就任後も、いたるところでピッグス湾事件の影がちらついていた。ちょうどウォーターゲートの忍び込み事件が発覚してから約5週間後の1972年7月23日、今後ウォーターゲート事件の捜査が進んだときの対応についてニクソンは、ホワイトハウスで録音されたテープの中で、部下のハルデマンと次のような会話を交わしている。

 ニクソン:・・・ハント(編注:前出のCIA情報部員、ハワード・ハント)のやつは知りすぎているし、関係しているからな。気を付けなければいけない。もし、これがすべてキューバのことと関係していることが分かったら、キューバのことは大失態だったことが分かってしまう。CIAが悪者になってしまうだろう。ハントも同じだ。このままでは、まずいことにピッグス湾事件のことまでばらされてしまいそうだな。それはCIAにとっても、我が国にとっても、この時期、米国の外交政策にとってもまずいことになる。何とか止めるようにやつらに言ってくれ。

 ハルデマン:確かに、それが我々の行動の拠り所です。そこで止めておくべきです。
 ニクソン:やつらにはこちらが何を企んでいるか知られたくない。我々の関心は政治的なものだからな。

 それから約10ヶ月後の73年5月18日には、次のようなやりとりも録音されていた。
(続く)

(メモ43=ニクソンの嘆願書)
 これも国立公文書館に保存されている資料の中に見つけることができる。ただ、1ページ目の表書きの日付が1965年3月9日となっているが、2ページ目には64年3月9日とある。コーリーの刑期が1年であったことなどを考えると2ページ目の64年が正しく、1ページ目の65年はタイプミスとみられる。以下は、ニクソンによる嘆願書の内容全文。
「エドワード・ウェインフィールド地方裁判所判事殿
 外国の通貨を偽造した罪で1年間の禁固刑を言い渡されたマリオ・コーリーのために、彼の弁護士の依頼で、この手紙を書いています。私は裁判内容に関しては詳しく知りませんが、私の知る限りでは、コーリーは評判の良い人物で、今回の有罪につながった行為も、彼個人の利益のためではなく、彼の国のためにやったことであると信じています。
 キューバ問題を身近に感じている一人として、私は、現在の困難で、危険で、かつ変化しやすい情勢を鑑みると、カストロ政権に対する米国の政策の複雑さが、特にコーリーのような亡命キューバ人にとって、誤ってはいるが、真摯に、今回のような犯罪行為が米国の利益にも反しないと信じさせてしまうような雰囲気を作り出してしまったことも十分あり得ると思っています。キューバの共産化以来、米国における亡命キューバ人の置かれた状況というのは、多くの点で、我々の歴史の中でも特異であります。彼らが米国にいることは、カストロ政権の米国に対する敵対行為や、米国民やマスコミ、それに米国政府がカストロに抱きつつある反抗心と無関係ではありません。結果として、亡命キューバ人は時として、閣下もご存じのように、米国の激励や支援を受けながら、キューバ政府を打倒するために努力してきたのです。そうした努力は、ことの性質から、秘密であったり、時には法律の範囲を逸脱したりしたものもあったのです。こうした反革命の機運を高めようとする亡命キューバ人の愛国心、勇気、それにエネルギーは、過去においても、また未来においても、キューバの利益になるだけでなく、米国の利益になると見なされてしかるべきです。
 私には、公共の利益に反しない限り、これらの特異な状況が、コーリーに下された懲罰の程度を決めるに当たって、考慮されるべきであると思われます。
 私がこの手紙を書いている目的は刑の執行停止か減軽を申請している弁護側の意向を裁判所に考慮していただくことであると、閣下に理解していただけると信じております。
リチャード・ニクソン」

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