ハーバード経済日誌(その58) 「あなたの旅行記はどんな感じ??(24214)」

大晦日の思い出

雪だるま

クリスマスと同様、1996年の大晦日はワシントンで一人淋しく過ごしていたから、あまりいい思い出がない。というか、何をしていたかも覚えていない。おそらく、テレビでくだらない番組でも見ていたのだろう。記憶はちょうど、消去されたカラのテープのようになっている。

クリスマスと違って、大晦日に一人でいることのほうが、私には寂しく感じることがある。私は少々、変わった家で育ったので、小学生だったころの正月といえば、決まって家族マージャンをしていた。その年のお年玉も、マージャンの勝敗で決まるという下克上。兄であろうと、負ければ弟よりもお年玉の額が少なくなる。

そのような騒がしい正月に慣れていたため、静かな正月だと正月を迎えた気がしない。しかし、これまで何度か海外で正月を過ごしているが、日本の正月と比べて静かな正月が多いような気がする。

私が初めて日本国外で正月を迎えたのは、1981年。場所はフランス・ボルドーから東に15キロ離れたブリーブという小さな田舎町だった。

当時私は、イギリスのカンタベリーにあるケント大学に在籍していたが、イギリスの冬はあまりにも暗いので、一ヶ月の冬休みを利用して独りで南仏に行くことにした。行きはスイスのジュネーブまでのチケットを買い、帰りはフランスのボルドーからカンタベリーまでのチケットを買った。では、ジュネーブからボルドーまではどうしたのか? なんと無謀なことにヒッチハイクで移動したのだ!

夜行列車で到着したジュネーブから“冒険”を開始。雪が降りしきるスキー場地帯をヒッチハイクしながら進み、フランスのアネシーとラ・クルザでスキーをして1週間過ごした。その後、再びヒッチハイクして南下。スコットランド仕込みのヒッチハイクテクニックを駆使して、並み居る他のハイカーを押しのけ(別に物理的に押しのけたのではありません。念のために)、快調に南仏へと向かった。

南仏ニースは思っていたとおり、夏のように暖かかった。ビーチではなんと、水着姿のお姉ちゃんやお兄ちゃんがビーチバレーをしている。冬の国から南国に来たような雰囲気だ。太陽も日本と同じようにちゃんと午後5時ごろに沈む。午後3時に沈む冬のイギリスとはまるで別世界だった。

気候はよかったが、南仏は金持ちが多いので、ヒッチハイクには苦労した(金持ちは強盗が怖いので、基本的にヒッチハイカーを乗せない)。途中の話は飛ばして、コート・ダジュールのユース・ホステルでクリスマスを過ごした後、ボルドーへ向かった。

ところが、夏のように暖かかった南仏をいきなり寒波が襲い、何十年ぶりという大雪に見舞われ、再び凍えながらのヒッチハイクとなった。寒さや飢えと闘う過酷な環境の中、時々はめげそうになりながら、ようやくブリーブに到着したのは、12月31日だった。

ブリーブでは、ユース・ホステルに泊まれば、誰かほかにもバッグパッカー(貧乏な旅人)がいるだろうと思ったが、午後4時時点で私一人だけ。なんと、ベッドがたくさん並んだ、このだだっ広い宿泊所に一人で泊まるのか、それも大晦日に! そう意気消沈としているところへ、もう一人、チェエクインした女性がいた。

この地方に遊びに来ていたパリジェンヌで、彼女もユース・ホステルならばパーティーなどでにぎやかなのではないかと思っていたという。一人よりも二人のほうが楽しい、ということで、二人で夕食を作り、二人だけのディナー。

夜も10時ごろになり、ちょっとロマンチックな雰囲気になってきたな、と思っていたら、そこへアメリカ人のバックパッカーの団体(5~6人)が入ってきた。彼らは疲労困ばいしているようで、我々がそばで大晦日のディナー中であることには目もくれず、ベッドに寝袋をセットすると、瞬く間に大いびきをかいて寝てしまった。

ロマンチックなムードもこれで台無し。気分直しに二人で外に出て、新年は近くのカフェで迎えた。

元旦には、彼女は公共交通機関を使ってパリに戻り、私はヒッチハイクでボルドーに向かった。しかし、元旦からヒッチハイクをするのは、はたから見れば異常な行動だ。私が郊外に向かって歩いていると、警官が二人やって来て私に職務質問を始めた。私は別にやましいことは何もしていないので、私が英国の大学の学生であることや旅行中であることをちゃんとフランス語で話した。彼らも納得して立ち去ったが、おそらく近所の人が、元日早々から怪しげな東洋人がふらついていると通報したのではないか、と思った。

ボルドーには、その日の午後2時ごろには着いた。ボルドーのような大きな町でもお正月は静かで、お年寄りたちがいつものようにペタンクに興じていた。元旦の緩やかな日差しの中で、時計はゆっくりと時を刻んでいた。

それでは皆様。よいお年をお迎えください。
2005年が素晴らしい年でありますように!

大晦日・雪の東京
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ハーバード経済j日誌(その57) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

学生割引

日本でも学割はあるが、アメリカほど多くの割引や優遇措置はないように思う。学生証を見せて料金が割引になるのは劇場だけではない。博物館、美術館、運動施設、ケーブルTV契約、それにちょっとした観光ツアーが学生であるという理由だけで安くなった。

特に私が気に入ったのは、新聞購読の大幅割引だ。新聞社にとって若い学生は、将来の大事なお得意様。大出血サービスで安くしても、それは「未来への投資」であるわけだ。

たとえば、ウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズといった経済紙が学生特別料金として年間30~40ドルぐらいで購読できたと記憶している。日本の新聞料金の約10分の1。破格の安売りだ。ボストン・グローブなど地元紙も学生に対して50%引きは当たり前。日本でも、学生向けに割引料金を導入すれば、少しは新聞離れ・活字離れが食い止められるのではないだろうか。

このようにアメリカでは、学生証はまるで打出の小槌だ。こまめに学割を使えば、年間でも相当節約できる。提示しないと損をすることが多いので、何かを購入するときは、必ずといっていいほど学生証を提示する癖が付いてしまう。

私の友達でフィリピンから来たお茶目なビクター(実はフィリピン政府の局長クラス)は、銀行に行き、試しに窓口でいきなり学生証を出して見せた。すると、窓口の銀行員はその学生証をしげしげと見つめた後、こう言った。「すみません、お客さん。ハーバードのすばらしいカードであることは認めますが、銀行ではこのカードで何も差し上げることはできません」――。

確かに、銀行にとってハーバードの学生証は一銭の値打ちもない。当然、担保にもなりようはずがない(ビジネススクールの学生ならともかく、ケネディスクールの学生では担保リスクが高すぎる)。打出の小槌にも、多くの例外があるようだ。

ハーバード経済日誌(その56) 「【演劇】何か見に行きますか? 行きましたか?(21316)」

『レント』

『オペラ座の怪人』以上に私が気に入ったのは、ロック・ミュージカル『レント』だ。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を下敷きにして、ドラッグやエイズが蔓延するニューヨーク・イーストビレッジで生きる若者の苦悩と希望を描いた。

この作品をより感動的なものにしているのは、皮肉なことに作者ジョナサン・ラーソンの死であった。ラーソンが長年、夢に描いていた「画期的なミュージカル」の舞台初日の前日に、大動脈瘤破裂で35歳の若さで急死したのだ。

ラーソンは1960年生まれ。幼いころから芝居やミュージカルに夢中になり、大学卒業後はニューヨークに渡り、ウェイターや皿洗いのバイトをしながらミュージカルの作曲や脚本を書き、成功するチャンスをうかがった。ラーソンの目指したのは、既存のブロードウェイの枠を打ち破る新しいスタイルのミュージカルの上演だった。

しかし、その夢は一向にかなわない。ラーソンは三〇歳になって苦悩する。このまま夢を追い続けて、皿洗いのバイトを延々と続けるのか、それとも夢を捨て、もっと割りのいい仕事につくか(ラーソン作『チック・チック・ブーム』)。ラーソンは前者を選んだ。彼は一年かけて『レント』の骨格を練り、さらに一年かけて初稿を完成。その後も手直しに手直しを重ねた。おそらくは「レント」(家賃)もちゃんと払えないような貧乏生活に耐え、バイトの回数を減らしてでも時間を捻出、作曲に心血を注いだ。

1996年1月。とうとう、その夢がかなうときが来た。リハーサルを終え、後は初日を迎えるだけだったのに、その前日に、この世を去ってしまった。『レント』に出てくる売れないミュージシャン・ロジャーは歌う。「偉大な曲を書くんだ。ひとつの曲、栄光。たった一曲でいい、死ぬ前に本当の曲を残したいんだ」――。ラーソンは死して『レント』を残した。

産みの親がいないまま、ニューヨークのオフ・ブロードウェイから始まった『レント』は、瞬く間にヒット。3ヵ月後にはブロードウェイに進出、その年のうちにはボストンのウィルバー劇場でも演じられることとなった。『レント』はその年のトニー賞(ミュージカル部門)、ピューリツァー賞(ドラマ部門)、オフ・ブロードウェイの作品を対象としたオビー賞などを総なめにする。

ニューヨークの若者のスラングも混ざっているため、最初は聞き取りづらくわからない部分もあったが、CDを買って聴きこみ、2回、3回と劇場に通ううちに、細部のやり取りもわかるようになってきた。もちろん、それだけ『レント』の魅力は増していった。

シンプルだが胸に迫る歌詞が、小気味良いリズムに乗って高らかに歌われる。同じプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を翻案したといわれるミュージカル『ミス・サイゴン』よりも、はるかに切実であり、感動的だ。

(雪が降ってきました。ハトさんも寒そうです。)
雪 ハト

ハーバード経済日誌(その55) 「【演劇】何か見に行きますか? 行きましたか?(21316)」

「オペラ座の怪人」

私は学部でフランス文学(しかも不条理劇)を専攻していたこともあり、行く先々で暇さえあれば演劇を観に行った。劇が好きになったのは、はるか昔の高校生のときで、劇団四季のシェークスピアものをよく天井桟敷(いちばん安い最後列の席)から眺めていた。

1975年夏にはロンドンでアンドリュー・ロイド=ウェバーの『ジーザス・クライスト・スパースター』を鑑賞、その迫力に感激し、ますます観劇に浸っていった。


さて、私がボストンで二度観た『オペラ座の怪人』も、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲によるミュージカルだ。ウェバーはご存知のように『ジーザス・クライスト・スーパースター』のほかに『キャッツ』、『エビータ』などの名作ミュージカルを世に出した。

『オペラ座の怪人』の舞台は1880年ごろのパリ・オペラ座。ワシントンDCでも『オペラ座の怪人』を観たが、ケネディセンターというモダンな劇場で観るよりは、ワング劇場の古めかしい雰囲気で観るほうがはるかに感動する。

『オペラ座の怪人』の初演は、1986年10月のロンドン(由緒ある「Her Majesty’s」。イギリスで大ヒットした後、アメリカのブロードウエイでも大好評を博し。今でもロングランを続けている。イギリスの初演で主役のクリスティーヌを演じたのは、ウェバーの二番目の妻(後に離婚)で世界的な歌姫サラ・ブライトマンだ。

『オペラ座の怪人』には、よりミステリアスに描かれたケン・ヒル版があるが、サラがそのオファーを断ったことをきっかけに、ウェバーがサラに合わせてロマンチックなミュージカルに仕立て上げたとされている。私は原作のガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』は読んでいないが、劇場で配られたパンフレットを読むと、ケン・ヒル版のほうがまだ原作に近いようだ。

これまでこの作品は何度も映画化されており、私が持っているハリウッド初期の映画ビデオでは、登場する「怪人」はフランケンシュタイン扱い。まるでホラー映画に出てくる怪物のように描かれており、ロマンチックな要素など一つもない。しかし、このウェバーのミュージカルでは、「怪人」の苦悩や葛藤を浮き彫りにし、見事なまでに感動的な作品に仕上がっている。

中でも「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」「ファントム・オブ・ジ・オペラ」「ザ・ポイント・オブ・ノーリターン」は秀逸。日本でも、ウェバーのロマンチック版を基にした映画が一月に封切られる予定だ(別に宣伝しているわけではありせん。ただ、劇場で観られない人にはお薦めかも)。

ハーバード経済日誌(その54) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

ボストンの下町1

ボストンの下町にはワング劇場、シューベルト劇場、コロニアル劇場、ウィルバー劇場といった素晴らしい劇場が建ち並ぶシアター・ディストリクト(劇場地域)があり、よくミュージカルや劇を見に行った。

郷に入れば郷に従えで、私もクリスマス・シーズンにはワング劇場でバレエの「くるみ割り人形」を観た。私はバレエのことはあまり詳しくないが、一緒に見たバレエ経験者によると、何ヵ所か失敗があるなど、それほどトップレベルのダンサーは出ていなかったと話していた。まあ、季節モノということで上演すれば人が集まるので、全米中でダンサーが引っ張りだこになり、どうしても全体のレベルが落ちてしまうのかもしれない。ただ、舞台装置は素晴らしかった。

ワング劇場は、大理石の柱に支えられた大きなホールやその中央に大きなシャンデリアがあるなどフランスの宮殿やオペラ座を思わすようなロココ調装飾を施した、いかにも由緒あるような、つまり格式の高そうな劇場に仕上がっていた。1925年に有名な建築家クラレンス・H・ブラックオールが設計して建てられた。メトロポリタン劇場として親しまれてきたが、1983年に芸術や劇場運営などに多大な貢献をしたドクター・ワングの名前をとって、現在の名称になった。ニューヨークやワシントンDCの劇場に比べても、実に歴史と風格を感じさせる劇場だ。

当時、ワング劇場で大好評を博したのは、ミュージカル『オペラ座の怪人』やアイリッシュ・ダンスの『リバーダンス』。ボストンに限らずアメリカは、貧乏な学生に優しく、劇場のチケットも大幅な学生割引があった。60ドルぐらいのチケットも、空席が出たときには20ドルぐらいで買える場合もあった。

安いこともあり、『オペラ座の怪人』は2度。ワング劇場の斜め向かいにあるシューベルト劇場でやっていた、エイズをテーマにしたロック・ミュージカル『レント』は3度も観に行った。ほかにも新しい演目が上演されるたびに、金曜や土曜の夜は劇場通いをしていた。

(ところで昨日は、ラグビー大学選手権の二回戦を観に行きました。早稲田と対戦した大東文化大学には、監督と同様トンガから来たとみられるロックのマヘとナンバー8のフィリピーネがおり、大活躍。早稲田のディフェンス陣を脅かし、スタンドからは「大トンガ文化大学」との声援?も聞かれました。試合は早稲田がけが人を出しながらも49対12で勝利しました。記念に試合後の清宮監督の写真を貼っておきます。)清宮監督

ハーバード経済日誌(その53) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

キリストの嘘、ハーバードの嘘

昨日の日記では、キリストを白人のように描くのは誤りだと書いたが、クリスマスはキリストの誕生日ではないということも、よく知られた「ウソ」だ。

キリストの誕生日には諸説があり、当初定まらなかった。イエスが誕生したとき、羊飼いが野宿していたと新約聖書の「ルカ伝」に書かれていることなどから、本当は冬ではなく、初夏に生まれたのではないかとの説が有力だ。

ところが、ローマ教皇リベリウスは354年、キリストの誕生日を12月25日と決めた。これは当時、イランのゾロアスター教を源流とする民間の太陽信仰(ミトラ教)に基づき、冬至に関係する太陽神の祭りを12月25日に行っていたことと関係がある。この民衆の祭りの日をキリストの誕生日にすりかえることにより、ミトラ教を衰退させ、国教としてキリスト教を民衆に浸透させようとした狙いがあったとみられている。

キリストの話はこれぐらいにして、実はハーバード大学にも「歴史のウソ」がある。ハーバード大学の正門(ジョンストンゲート)から入ってすぐ正面の建物(ユニバーシティホール)の前にある「創設者」ジョン・ハーバードの銅像には、三つのウソが隠されているのだ。

第一に、創立年月日が間違っている。1638年と書かれているが、正しくは1636年(なぜ2年も後になっているかは不明)。

第二に、ジョン・ハーバードは「創設者」ではない。アメリカ最古の大学であるハーバード大学は、マサチューセッツ・ベイコロニーという地域の最上級委員会の評決により創設されており、特定の創設者などいないのだ。しかしジョン・ハーバードは、当時名前もカネもなく困っていた大学に多額のカネと本を寄付した初代後援者でもあった。その貢献を称えて、ハーバードの名前が付けられた。

第三に、なんと銅像の顔が間違っている! ジョン・ハーバードの栄誉を称えて銅像を造ることが決まった時、すでに彼が死んでから長い年月が過ぎていた。17世紀には写真もなく、彼の肖像画も残っていなかったため、誰も彼がどういう顔だったかを知らない。そこで、当時学生(特に女学生)の間で人気があったシャーマン・ホアという男子学生をモデルにして銅像が造られたという。

これらのウソは、別にハーバード大学に在籍したから知っているわけではなく、キャンパス・ツアーに参加した観光客なら誰でもガイドから聞かされる。夏の間、学生はアルバイトでキャンパス・ツアーのガイドを務めて、学費の足しにするのが常になっている。

ハーバード経済日誌(その52) 「海外生活(107238)」

真実のキリスト

キリストの誕生日(本当は誕生日ではない)ということなので、キリストの人種について少し触れたい。キリストは有色人種(今のアラブ人のような褐色)のセム系ユダヤ人であるはずだ。しかし、その後の西洋文化の中に現れるキリストは、まるで白人のように描写される場合が多い。

とくに欧米の絵画などで描かれるキリストは、ヨーロッパ系白人そのもの。しかし、これは全くの間違いだ。ナザレのイエスが生きていた時代には、白人のユダヤ人などいなかった。今のシャロンのような「白いユダヤ人」はアシュケナージ系ユダヤ人と呼ばれ、後の世に政治的に生まれた可能性が強い。そのいきさつは次のようなものだ。

八世紀ごろ、イスラム勢力とビザンチン・キリスト教勢力との板ばさみになった黒海北方のトルコ系白人国家「カザール王国」は、イスラム、キリスト両勢力との争いに巻き込まれないようにするために両宗教の「ルーツ」ともいえるユダヤ教に国家単位で改宗、王国の保身を図った。しかし11世紀になると、うまく立ち回っていたカザール王国も、ビザンチン帝国とモンゴル帝国に相次いで攻められ、13世紀には滅亡。難民となった「白いユダヤ人」は西に逃げ、ヨーロッパ各地でユダヤ人として生き延びた。

これが、現在のユダヤ人に白人が多く存在する最大の理由だとみられている。この説を唱えたのは、ハンガリーで生まれたアーサー・ケストラーというアシュケナージ系ユダヤ人思想家(ニューサイエンスの『ホロン革命』で有名)だった。

現在のイスラエルでは、アシュケナージ系ユダヤ人が大半を占めている。ケストラーが正しいとすると、民族的にはパレスチナの地とは縁もゆかりもない白人のユダヤ教徒人が、「ここは祖先の土地である」などと称して、パレスチナ人を追い出したに等しいことになる。

さて、ご存知のように多くの西洋キリスト教徒は、キリストを殺したのはユダヤ人だと考えているので、ユダヤ人を別の人種とみなす傾向がある。そのためイエスという「神の子」がセム系の有色人種では都合が悪いので、白人のように描いた可能性が強い。同時にアシュケナージ系ユダヤ人にとっても、キリストを白人のように描くことは、自分たちの正当性を主張することでもあったわけだ。

白人は、実際には地球規模でかなり野蛮で残虐なことをしてきた。未開(非キリスト)の地を「侵略」することが神から与えられた使命であると考え、キリスト教布教の名の下に、世界中で数え切れないほどの人命を奪い、言語を含む文化を破壊してきた。ところが歴史小説や芸術を含むさまざまな分野(とくにハリウッド映画)において、白人は多くの場合、「野蛮人に文明をもたらした正義の味方」として描かれてきた。キリストが白人のように描かれるのも、こうしたイメージ戦略上にあるとみるべきだ。

クリスマス・シーズンになると、全米各地の劇場では必ずバレエの「くるみ割り人形」を演じる。日本でいえば、「忠臣蔵」のような定番だ。ボストンの「くるみ割り人形」では、「美しい王子」役をアフリカ系アメリカ人(黒人)が演じることになり、新聞で話題になったことがある。

ハリウッドに代表される白人至上主義的文化に浸りきっている人(洗脳されている人)は、美しい王子様やキリストが有色人種だと、がっかりしたり、違和感を覚えたりするはずだ。「くるみ割り人形」の黒人の抜擢はおそらく、リベラルな風土で比較的まともなアメリカ人が多いボストン(!?)だから可能だったのだろう。有色人種に対する偏見が依然根深く、キリスト教原理主義がはびこる南部では、まずありえないのではないだろうか。

(重くてシリアスな話になりましたが、これもジャーナリストの性なのでご了承ください。)

ハーバード経済日誌(その51) 「海外生活(107238)」

一人きりのクリスマス

夕日

クリスマスの日には、それほどいい思い出がない。別にキリスト教徒でもないし、個人的にキリストの誕生日を祝う義理もない(少なくとも今生の記憶にはない)ので構わないのだが、1996年のクリスマスも一人で過ごした。

ボストンに残っていれば、テニス仲間やクラスメートも大勢いたので、ワイワイガヤガヤ騒いでいたと思う。だが個人的な理由で、12月20日ごろから約2週間、友人も誰もいないワシントンDCに一人で滞在しなければならなくなった。とりわけ何かをすることもなかったので、映画館へは足繁く通った。

アメリカでは、映画が安い。午後五時以前の昼間の部(マチネ)だと、新作でも3ドル75セント(当時の料金。今は4ドル50セント以上するらしい。夜の部は当時で7ドル)で見ることができた。日本の約4分の1の料金だ。これも実に「ミクロ経済101」を忠実に守っている現象だ(101については11月30日の日記を参照)。需要が高い夜間は高くなり、人があまり来ない(需要の少ない)昼間は安くする。

当時、何の映画を見たかはよく覚えていないが、マドンナの『エビータ』を見たことだけは覚えている。マドンナの歌唱力にはいつも感嘆させられるが、娼婦のように描かれたエビータはアルゼンチンの人から見れば「国辱もの」だと、アルゼンチンからきた留学生が怒っていた(このテーマについては、いずれまた触れます)。

ハーバード大学ケネディスクールでは、12月中旬に秋学期最後の授業があった後、1月1日まで冬休みに入る。1月2日から13日ごろまでは、リーディング期間といってファイナル試験前最後のレビュー期間がある。そして1月14日ごろから10日間の日程で、秋学期のファイナル試験がある。

私はファイナル試験の準備のため、1月2日にはボストンに戻った。ボストンはワシントンよりはるかに寒く、キーンと凍った空気を吸うと肺の中でチリチリと響いた。チャールズリバーも、一面に氷が張っていた。

ラグビー雑感+ハーバード経済日誌(その50) 「ラグビー情報投稿してください。(4550)」

ラグビーの歴史

本日行われた関東大学ジュニア選手権は、早稲田大学Bが関東学院大学Bを31対17で破り優勝した。
電光掲示板
ジュニア選手権は、一軍(Aチーム)のレギュラーを除いた二軍(Bチーム)の試合。ただ、準レギュラーの若手が多いため、来年度の各校の実力を測るうえでは大事な試合ともいえる。早稲田は前半、モールで押し込みトライを上げるなど体格で上回る関東のフォワードとも互角以上の戦い。ただラインアウトは、関東の右ロックにかなりやられていたなとの感じがした(遠くでよく見えなかった)。
攻防


さて、ラグビーの起源については、1823年英国のパブリックスクールであるラグビー校のフットボールの試合中に、当時16歳のエリス少年が興奮してボールを拾い上げて走り出してしまったことが始まりだといわれている。サッカーの試合中にボールを手に持って走り出したからだと覚えている人もいるかもしれないが、当時はサッカーというスポーツはなく、それぞれの学校で独自のルールをもったフットボールが行われていた。

そこでそのルールを統一しようということになり、アソシエーション(協会)が創設され、アソッカー、サッカーと略して呼ばれるようになったのだそうだ。だからサッカーは、正式にはアソシエーション式フットボールという。また、エリス少年の「勇気ある試み=トライ」の後、ボールを手で運んだほうが面白いのではないかということになり、ラグビー校式フットボール、つまりラグビーが誕生したのだ。

今では米国式(アメリカン)フットボールなど、世界中で多くのルールの異なるフットボールが行われているが、フットボールということなら、日本の蹴鞠(けまり)も日本式フットボールであるといえるかもしれない。

私がなぜ、ラグビーにこんなにも熱くなるかについては、おいおいこの日記で紹介します。
優勝した早稲田B



ボストンの冬と停電

ボストン郊外だけでなく、都心部でも雪や冬の嵐のせいで送電線が切れたりして停電が起きることがある。ハーバード大学とか、病院など公共の建物は自家発電施設で「自己防衛」しており、私が住んでいた寮も停電したことはなかった。だが困ったのは、信号機も停電で消えてしまうことだ。

街中を走っても、信号機は休業中。すべての交差点では一時停止し、左右の安全を確認しながら注意深く運転しなければならない。それでも交通渋滞や事故・トラブルがほとんど発生しないことには感心した。交差点で4方向から車が鉢合わせになっても、最初に来たドライバーから順々に交差点を渡っていく。交通整理のおまわりさんなどまったく必要ない。誰が自分より先に交差点に到達したかをちゃんと確認して、自発的に道を譲るわけだ。その順番を破る人は、私が経験したかぎり誰もいなかった(日本ではよく見られる)。

写真をお見せできないのが残念だが、道路上に駐車された車が、雪に埋まって団子のようにゴロゴロ転がっている風景も見ものだった。雪が降ると、除雪車が夜中のうちに主要道路の雪を脇へと掻き分けるため、道路わきに停めてあった車はその雪の中にすっぽりと埋まってしまう。そんなところに停めておくほうが悪いというわけだ。とにかく除雪車は有無をいわさず、決められた道路の除雪をする。

この雪で、いちばん落ち込んでいたのは、アフリカのガーナから来た留学生エマニュエルだった。夏季コースやミクロ経済学のコースで一緒のクラスになり、仲良くしていた。

エマニュエルは雪を初めて見たらしく、「雪は好きになれない。早く春にならないかな」と、いつもぼやいていた。コロンビアから来たヘンリーや私は、これでスキーができると喜んでいた。ニューイングランド地方には、サンデーリバーなど日本では考えられないような広大なスキー場もあり、この日記でも紹介していきたい。

ハーバード経済日誌(その49) 「海外生活(107238)」

ボストンの冬、富山の冬

冬の停電の話で思い出したが、ボストンの冬の寒さは生半可ではなかった。私は富山で「59豪雪」(昭和59年の豪雪。本当にすごい豪雪は56年だった)を経験したこともあり、雪国の冬には慣れていたつもりだった。だがボストンの冬は、風が強いので体感温度がマイナス30度ぐらいにまで下がる。この寒さは、富山でも、日本やヨーロッパのスキー場でも、味わったことのないものだった(一度だけ、樹氷で有名な山形蔵王でこれに近い温度を体感したことはある)。

ボストンに比べ富山の冬は、雪が降ってしまえば町全体がかまくらのようになり、意外と暖かかった。私の家は富山市芝園町にある一軒家の社宅(本当は支局長宅だったのだが、支局長が嫌がって入らなかった)で、なんと北西の角地にあった。夏は西日で家自体が天然サウナのようになり、冬は太陽が当たらないうえ、隙間風が北から吹き込み、天然の冷凍庫(あるいは、太陽の届かぬ穴蔵のような状態)となった。

冬場の夜間、社宅から外に出たときはホッとした。家の中よりも外のほうがずっと暖かかったのだ! しかし雪が降り積もると、あちこちの隙間が雪で埋まるため、風が入らなくなり、少し寒さが緩んだのを覚えている。それでも、屋根雪下ろしは重労働だった。屋根の雪を下ろさないと、重みで障子が開かなくなるし、夜は天井がミシミシと鳴ることもあった。

さて、ボストンの冬だが、マイナス30度といえば、バナナでクギをたたくこともできる寒さ。車を運転していてもガンガンに暖房でフロントガラスを暖めないと、大気中の水分が凍りついて結晶がフロントガラスにへばりつく。きれいな雪の結晶が見えるなどと悠長なことは言っていられない。雨や雪が降っていなくとも、フロントガラスが凍って、みるみるうちに見えなくなってしまうからだ。

夜間、人気のない田舎道を車で走っていると、すべてが凍り付いているような錯覚に陥る。この寒さの中では、空気も、音も、時間や色彩さえも沈黙する。あたりは深く沈んだ暗闇と静寂に包まれ、まるで異次元世界に迷い込んだようだった。

ハーバード経済日誌(その48) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

テニス仲間

テニスクラブのいいところは、地元の人と知り合え、仲良くなれることだ。イギリスでも富山でも埼玉でも、すぐに友達がつくれた。

ボストンでは、ポーランド系アメリカ人のローマンとよく遊んだ。ローマンは私がこのクラブで最初に試合したプレーヤー(つまり最初の犠牲者。6-1、6-0で私が圧勝した)で、そのとき以来、親しくなり、テニス帰りにはバーでよくおしゃべりをした。ローマンは地元の世界的な音響機器メーカー、ボーズ(本社・マサチューセッツ)の社員で、非常に「チャーミング」なポーランド訛りの英語を話した。

ローマンは、私と最初に対戦したときは、4・3のレーティングだったが、その後、レーティングの見直しがあり、4・5になったと大喜びしていた。憎めないキャラで、クラブの人気者だった。

中国系アメリカ人のピーター・リュウとも仲良くなった。レーティングは4・7。サウスポーで、オーソドックスなテニスをした。ピーターは、ボストンに来る前はニューヨークで金融関係の仕事をしており、ボストンでは郊外の大きな家に住んでいた。何の会社かは忘れたが、もらった名刺によると、アダムズ・ハークネス・ヒル社の副社長という肩書きだった。

ピーターの「邸宅」には食事に呼ばれたこともあった。猫と犬を飼っていたが、近くの森にはコヨーテが出没するので、なるべく家の中で飼うようにしているのだと話していた。ボストン郊外は冬場、豪雪で送電線が切れたりするため停電が多く、私がお邪魔した日も、途中で停電になった。しかし慣れたもので、すぐに幾つかのキャンドルに火をともすと、部屋の中は暮しに支障がないくらいには明るくなった。「暖炉の火もあるし、もう慣れっこになっているよ」と話していた。

ハ-バード経済日誌(その47) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

初の敗戦

忘れもしない1996年12月17日。秋学期最後の授業が終わったその日に、実に二週間ぶりにテニスをしたときだ。

とにかく学期の終わりの二週間はペーパーや論文の提出期限、場合によってはファイナル試験が重なるため、非常に濃密なスケジュールになる。どのぐらい濃密かというと、この二週間はひたすら授業が終わるとすぐに家に帰り、勉強する。食事時間も惜しみ、電子レンジで温めて食べる冷凍食品やレトルト食品が急増する。週末の外出も買出しに行く程度で、ほとんど家にこもって勉強。気が狂いそうになるほど忙しい。

当然、今まで週3回やっていたテニスも断念せざるをえなかった。そして、その悪夢の2週間が過ぎて、開放感に浸っていたとき、電話が鳴り、夜テニスをしないかとテニスフロントからリクエストが入った。「久しぶりにテニスでもやるか」と、私はすぐにOKの返事をして、テニスクラブへ。

いつものようにアップをして、試合が始まった。ところが、いつもと感じが全く違う。ちょっと走るとすぐに息切れ。「ゼイゼイ、ハーハー」。私の体力はかなり落ちていた。普段なら取れるはずのボールも、私の脇をただ抜けていく。足が重い。相手のレーティングは4・7と私より低かったが、とてつもなく強く思えた。結果は3-6と惨敗。なすすべもなく、やられた感じだった。二週間、運動をしなかった「つけ」が回ってきたわけだ。

しかし、一年間このクラブで試合をして、負けたのはこの一度だけ。クラブ員の評価も、私がほぼ実力ナンバーワンであるとのことだった(「ほぼ」というのは、ほかにもう一人、5・3クラスのすごく強いプレーヤーがいたらしいのだが、一度も対戦しなかった)。

そのため、新年会だったか何かのパーティーのエクスビションマッチ(模範試合)のダブルスに、クラブ員代表として参加した。相手は、コーチのB.J.と、アルバイトでコーチをしていたボストン大学テニス部の学生(一応、世界ランカー。といっても800位とか、かなり下の方。全仏を制したこともある女子プロ選手ピエルスとは、「かなり親しい仲」だとか、本人は言っていた)。これに対し私のパートナーは、クリスというもう一人の専属コーチだった。

試合は白熱。一進一退の攻防が続き、6-4、3―6、7-5で我々が勝利した。四人の中ではクリスが一番うまいように思った。さすがにこのクラスでは、私もアップアップ。クリスのおかげで勝てたようなものだった。

ハーバード経済日誌(その45) 「テニス(28045)」

テニスのレーティング2

昨日も書いたように、私はテニスが「本業」なので、六月末にボストンに来てすぐにテニスクラブを探しまわった。10ぐらいのテニスクラブに電話したり、実際にクラブを訪れたりしてリサーチ、私にとって最適のクラブを選んだ。

私が入ったテニスクラブは、ハーバード大学から西に車で30分ほど行ったところにあるウエストン・ラケット・クラブだ。郊外の閑静な場所にあり、周りは森で囲まれていた。

そこには、人工芝のコートが10面ほどあった。このテニスクラブに決めたのは、日本でも慣れ親しんだ人工芝で比較的膝にも優しいコートであること。それに冬場は特殊な覆いを膨らましてドーム状にするため、雪が降ってもプレーができるからだ。ボストンの冬は長いので、運動不足を解消するためにも、インドアのテニスコートが必要絶対条件だった。

人工芝は、日本ではオムニコートと呼ぶが、アメリカではクレイマーコートとメーカー名で呼んでいた。アメリカではハードコートが主流であるため、人工芝のコートを見つけるのは苦労した。

さて、4・5のレーティングをもらった私に対して、次から次へと「マッチング」が行われた。マッチングは、クラブ員同士で、そのレーティングが妥当なものかどうかをチェックする意味合いもある。試合をしてみたが、どうも4・5のレベルではないとわかると、その旨が非公式にコーチに伝えられる。自分のレーティングを維持するためには、おちおち負けてもいられない。

私の場合は最初、4・5レベルのプレーヤーと試合をしていたが、相手は私から1ゲームも取れないケースが続いた。私は別にそれでも構わなかったが、レーティングしたB.J.のところに苦情が殺到した。「あいつは4・5ではない。早く5・0に上げてくれ」という。つまり、私が4・5であり続けると、自分たちの4・5が危うくなるわけだ。

ほどなく私は、5・0に「昇格」した。

ハーバード経済日誌(46) 「ラグビー情報投稿してください。(4550)」

テニスのレーティング3(文末にラグビーの写真を追加)

5・0のレベルでも、私を打ち負かすプレーヤーは出てこなかった。たいていの場合、6-2とか6-1で勝ってしまった。一応、留学する前までの7年間、日本でシングルスのクラブチャンピオンを保持した面目は保ったわけだ。ただし5・0のレベルの選手は、私には十分すぎる相手だった。とにかくアメリカの選手は背が高いし、パワーがある。サーブも速い。

それでも勝てたのは、人工芝コートがハードコートに比べてボールのスピードが落ちるからだ。私は足が速い(今からすると速かった)ので、相手のウイニングショットも返球することができた。すると、向こうが根負けする場合が多かった。多くのアメリカのプレーヤーは、力任せに攻めるばかりで防御が弱い。車社会で足をあまり使わないせいか、上半身は強いが、足腰が弱い人が多かった。

「お前は勝ってばかりいて、つまらないだろう」などとよく言われたが、とんでもない。5・0レベルの選手は、私が気を抜くと負ける相手であるとわかっていたので、本当は暑い炎天下できついシングルスの試合はしたくなかった。

レーティング5・2の選手にも勝った後、あるとき、コーチのB.J.とも2回だけ試合をさせられた。たまたま同じレベルの人がいない場合には、コーチも登場することになる。試合は激しい応酬となった。一回目は6-4、2-1(時間切れ)で私の勝ち、二回目はロングゲーム(タイブレークなしのこと)で行われ、これも9-7で私が辛勝した。紙一重の差だった。

私はいつも、シングルスよりもダブルスをやりたいとリクエストを出していたが、アメリカ人はとにかくシングルスが好きで、なかなかダブルスをやろうとする仲間が集まらない。おそらくアメリカ人は子供の頃から、一対一の勝負ばかりやらされてきたのだろう。ダブルスだと、勝ち負けの責任が分散され、あいまいになる。勝つか負けるか、白黒をはっきりつけたがる国民性や、アメリカ自体が個人主義的勝負社会であるということも、シングルス重視の背景にあるようだ。

リクエストするときは、フロントに何曜日の何時から何時までの間(通常シングルスで一時間。ダブルスで90分間)にテニスをやりたいなどと電話で申し込めばいい。するとフロントの人が、同じレベルの人に電話をかけて人を集めてくれる。私はいつもダブルスをやりたいと申しこんだが、ダブルスをやりたい人が集まらず、9割以上はシングルスをやらされた。

私が強いということがわかると、私を指名してシングルスをやりたいというプレーヤーが殺到した。毎日のようにテニスクラブのフロントから電話がかかってきて、断るのに苦労した。

しかし、連戦連勝だった私も、ついに敗れるときが来た。

(今日はこれから、ラグビーの早大ー流通経済大戦を見に行ってきます。私が負けた話は明日の日記で・・・)

難しい角度からコンバージョンを決める早稲田の五郎丸。早稲田が84対13で流通経済大学を破った。
早稲田・五郎丸

試合後、コーチと話をする早稲田の清宮監督
早稲田・清宮監督

法大と近畿大の試合。法大が100点ゲームで圧勝した。決勝は早稲田と法政の戦いか?
法大vs近畿大

ハーバード経済日誌(その44) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

テニスのレーティング1

私は象牙の塔に入る(博士課程に進む)つもりはなかったし、それほど勉強の虫でもなかったので、ハーバード大学院時代の週末は、土日のどちらかは朝から遊びまわり、どちらか一日は朝から晩まで勉強した。遊びまわるといっても、中古で買ったトヨタのカローラで、マサチューセッツやその周辺の歴史(といってもせいぜい三百年)のある街々を訪ねて回った。気分転換をしないと、勉強の能率も下がる。モールなどへの買出しも、いい息抜きになった。

実はそうした息抜きとは別に週3回、私の本業(!?)であるテニスもしていた。私のテニス暦は大学時代のテニス部から始まる。その後、イギリスや富山、埼玉など行く先々で地元のテニスクラブに入った。留学前に東京にいるときも、テニスは最低週2回しており、完全に生活の一部になっていた。

アメリカでは、テニスにも「成績」を付ける。正確にはグレード(成績)ではなくレイティング(等級)だ。だいたい、そのクラブのトップクラスで5・0の等級をもらい、プロの選手なら6以上。私をレーティングしたB.J.というコーチは「ピート・サンプラスなら8をやるよ」と話していた。もちろん、サンプラスクラスをレーティングする必要はない。実質的に意味を持つ最高のレーティングはおそらく、6・0前後ではないかと思う。

レーティングの仕方は簡単で、クラブ専属のコーチと数分打ち合うだけ。その間にコーチは、こちらのフォアハンドストロークやバックハンドストローク、ボレーなどの技術を試す。最初は低めにレーティングされるため、私は4・5をもらった。するとクラブ側は、4・5クラスのプレーヤーと私をマッチングする。同じレベル同士がプレーできるように試合を組んでくれるのだ。

私はそれまで、日英7つのテニスクラブに入部・入会したが、数字でレーティングされたのは初めてだった(Aクラス、Bクラスぐらいはあった)。何事も優劣や白黒明確にしたがるアメリカ流の合理主義に出会った感じがした。

ハーバード経済日誌(その43) 「留学準備中♪(1588)」

願書提出と授業料

さて、推薦文、エッセイ、TOEFL、GMATのスコアがそろったら、いよいよ願書提出だ。私は冬になっても、依然としてビジネススクール(GMATとTOEFLが必要)に行こうか、政治・経済系の大学院(TOEFLのほかにGREという試験を受けなければならない場合もある)に行こうか迷っていたので、両方に出願した。

今、手元にハーバードの願書(注:願書は早めに取り寄せる。電子願書を受け付ける大学も多いので、ホームページでチェックを)がないので、政治・経済系の大学院であるSAIS(ジョンズホプキンズ大学)の願書を参考にして話す。

SAISの秋学期入学の願書締め切りは1月15日(年によって違うかもしれないのでご注意を)。願書審査代(当時は50ドル)、願書フォーム(いくつかの質問がある)と500語以内のエッセイ、学部時代の成績表(大学から直接送らせる)、推薦状3通(うち一人は必ず大学関係者、つまり教授や講師でなければならない)、英語の実力を評価できる人による評価書面などが求められた。SAISの場合はGREを受ける必要はなく、TOEFLだけでいい。ハーバード・ケネディスクールもGREは特に必要なかったと記憶している。

とにかく3つもの推薦状を手に入れるのは、本当に大変だった。会社を辞めるので、上司は最後の最後にして、大学時代の教師や取材先の人に頭を下げて、推薦状のサインをもらった。「なかなかよく書けているよ」とほめてくれた推薦人もいたが、「ちょっと書きすぎじゃないの」と苦言を呈する推薦人もいた。

いずれにせよ、願書を提出してしまえば、後は「果報は寝て待て」。二月ごろから四月ごろにかけて、続々と「合格通知」や「不合格通知」が届く。

私の場合は幸運なことに、全部で五校(うち3校はビジネススクール)に願書を提出して五校とも「合格通知」が届いた。しかも、頼んでもいないのに、特待生として「2年間で1万2000ドルの奨学金を出す」と書いてあったビジネススクールもあった。

結局、ビジネススクールで「金儲け」を勉強するのは私のキャリアに合わないと判断、ハーバードとSAISを選んだ(そのせいで今でも「金儲け」とは縁の遠いことをしている)。SAISには一年間の遅延入学手続きをして、2年の修士号コースではなく一年の修士号コースに変更してもらった。

以上、入学までの道筋を簡単に説明したが、本当に大変なのは、年間2万ドルという授業料をどのように工面するか、かもしれない。私の場合は14年間も働いていたので蓄えが十分にあった。93年の円高局面(一時1ドル=79円までなった)では、せっせとドル預金して800万円で9万ドルを買った。1ドルを89円で買った計算だ。その後96年の1ドル=130円のレートで9万ドルを手に入れるためには1200万円近くかかっただろうから、400万円近く余計な出費をしなくてすんだわけだ。

二年目の授業料2万ドルを払う当てがないまま留学した人もいた。しかし、その学生も無事、二年間で卒業できた。「アメリカにはいくつもの奨学金制度があるので、なんとかなるものだ」と、その人は話していた(熱意と交渉能力があれば、意外とうまくいくときもあるらしい)。奨学金制度ではなく、学生のための低利ローン(基本的に、将来働くようになったときに返済する)もあり、多くのアメリカ人学生が利用していた。

ハーバード経済日誌(その42) 「留学準備中♪(1588)」

入学願書と推薦文

TOEFL、GMATでまずまずの点を獲得したならば、次に仕上げるのはエッセイと推薦文の作成だ。推薦文(社会人の場合)は、直属の上司(今の仕事の内容をよく知っている人)や大学時代に教わった教授(アカデミックなパフォーマンスを評価できる人)を選ばなければならないケースが多い。

推薦文も、恩師や上司に「お願いします。英語で推薦文を書いてください」などと頼んでもやってくれるはずがない。英語で書いた推薦文をたいていは自分で書く。つまり、上司用、教授用、だれだれ用と自分で書き分けるのだ。当然、サインだけは当人にしてもらう。場合によっては、書き直しを求められるケースもあるだろう。複数の推薦文を一人で書くため、同じ文体や内容にならないよう結構、気を使う。

エッセイでは、自分の欠点を踏まえながら、その欠点を補うような長所を強調するのがコツだといわれている。推薦文もそうだ。あまりにも美辞麗句でほめたてる、あるいは自慢する一方の(歯が浮くような)推薦文やエッセイだと客観性が疑われる。英語のネイティブに相談するのもいいが、あまりにも完璧な英語だと、逆に勘ぐられる場合もあるようだ。適度に日本的な英語で、しかし完璧に通じる英語であればいいように思う。

大体、完璧な人間などいないのだから、自分がすごく立派な人間であるように描くのはまずい。大学側はむしろ、人生で多くの失敗をして、それをどのように乗り越えたかといった具体的な話を聞きたがるようだ。実際に、そのようなテーマのエッセイを書かされる場合が多い。

「具体的」というのは、英語でも日本語でも文章作成のキーワードだ。おそらく学生の人はこれから、入社試験などで作文を書かされるのではないかと思うが、抽象論ではなく自分の体験に根ざした具体的な作文を書くと評価される。作文の書き方については、毎日新聞の元記者が提唱した有名な「カンカラコモデケア」の原則を含め、この日記でも取り上げたいと思っている。

カンカラコモデケアについては、次のページなどをご参照ください。http://blog.livedoor.jp/up_down_go_go/archives/862186.html

ハーバード経済日誌(その41) 「英語のお勉強日記(53376)」

入学願書とTOEFL、GMAT

昨日、入学願書の推薦文を書く話に触れたので、今日はその続きで、アメリカの大学院に入学するためには何が必要かを簡単に話そう(ただし9年前の話)。

必ず受けなくてはならないのは、TOEFL。95年当時、TOEFLは667点満点でいわゆるアイビーリーグ(蔦に覆われた建物があるから)と呼ばれる名門大学院に入るためには、最低600点必要だとされていた(現在はTOEFLも点数方式が変わったらしい)。

この600点というのは意外と難しく、私も最初に受けたときは583点止まりだった。これではいけないと、参考書を買って勉強を開始、準備万端で二回目の試験に臨んだはずだった。そして、今度こそ600点を超えただろうと思ったら、なんと590点だった。

3回目も590点で、このままでは願書の締切日までに600点を超さないのではないかと焦った。この話をコロンビアから来た同級生であるヘンリーに話したら、やはりTOEFLには苦労したと話していた。ヘンリーも何回か受けた後、ようやく600点に達したという。どこの国の留学生も結構、苦労しているのだ。

私の場合は、ひょんなことから600点を超すことができた。当時私は、会社を辞めるつもりだったので、再就職がより楽になるビジネススクールに行こうか、それともジャーナリズムの職業とも関係のある国際問題や経済を勉強する大学院に行こうか迷っていた。それで一応、ビジネススクールの願書を出すために、GMATというビジネススクール専用の試験を受けることした。

GMATも当時、名門大学のビジネススクールに入るためには600点は必要だとされていた。私も問題集を買って勉強し、受けてみたが、結果は540点しか取れなかった。GMATは、毎月のようにあるTOEFLと違って、年に2回しか試験が開かれない。しかも英語の読解は本当に難しい。春のGMATで600点に達しなかったということは、秋の試験では確実に600点を超さなければならない。背水の陣を敷かなくては・・・。

そこで生まれて初めて、大学受験でも通ったことのなかった予備校なる所に行くことにした。予備校の名前は忘れてしまったが、御茶ノ水にあるGMAT専門の予備校に約10万円を払って入学。毎週土曜日計8回通った。

実は、これがよかった。GMAT用の読解や文法の問題をパターン別に演習していくうちに、TOEFLの点も上がりはじめ、600点を楽々突破して630点に到達。願書提出前最後のチャンスだったGMATも、たった8回の予備校通いで100点もアップ、640点を獲得した。

TOEFLとGMATで600点を超したということは、米国のトップクラスのビジネススクールに入学できる可能性がかなり高くなることを意味していた。確かにネイティブに近い真の英語力があれば、いい点数が取れるだろうが、それだけの英語力がなくても予備校で受験テクニックを学ぶことで、試験でいい点を取ることができることを知った。GMAT予備校恐るべし。10万円の価値はあったかもしれない。

ハーバード経済日誌(その40) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

成績3

私はそんなに優秀な学生ではなかったが、要領がよかったので、GPA(11月26日の日記参照)で3・52とソコソコの成績を残した。つまり、選択した9科目のうち5科目がAマイナスで、4科目がBプラスだった。最初の秋学期は4科目がAマイナスで1科目がBプラスだったので、後半失速した(化けの皮が剥がれた)ことになる。

ハーバードで修士課程を修了した後、次に学んだジョンズ・ホプキンズ大学国際高等問題研究大学院(SAIS)では、保守的な教授と闘いながらも(「極左」扱いされたこともあった)GPAは3・58だった(一科目がA、四科目がAマイナス、三科目がBプラス)。大学の学部時代のGPAが3・18だったことを考えると、各段の「進歩」だ(前にも述べたが、一年コースの場合、卒業するには8科目でGPAが3・0あればいい)。

日本での学部時代の私は、専攻したフランス文学では、ほとんど落第生といってよかった。私が通っていた大学では、フランス文学を専攻した学生は少なく、別にセミナーでもないコースなのに、学生が私一人だけというクラスもあった(本当はもう一人、事前登録していた学生がいたのだが、夏休み期間中に自殺してしまった)。一回約3時間、マンツーマンで講義してくれるので、予習をするのは当然で、遅刻・欠席することもできなかった。おかげで今でも、アポリネールやボードレールの詩がスラスラ出てくる。出来の悪い学生にもかかわらず、唯一の学生ということで、よく我慢して教えてくれたものだと感謝している。

私が本当に「落ちこぼれ」だったのは、もう一人のフランス人女性講師のクラスだった。そのクラスを取った学生は四人。授業はフランス語で行われたが、私だけ何を言っているのかさっぱりわからず、いつもフランス語で怒られていた。不思議なことに、怒られていることだけは、フランス語であったにもかかわらず、よくわかった。

その講師の授業は通算で3回取ったが、もらう成績はCばかり。完全に「落第生」のレッテルを貼られていた。このままやられっぱなしではいけないと、卒論だけは力を入れて書いた(卒論もフランス語で書かなければならなかった)。当時からペーパーを書くのはそれほど苦にならなかったので、地道に調べながら、辞書と格闘しながら、当然独力で卒論を仕上げた。自分で言うのもなんだけれど、理路整然としたいい卒論だった(卒論タイトルは『サミュエル・ベケットの演劇におけるゲームとプレイの概念』)。

これに驚いたのは、件の女性講師だ。これまでの授業中における私の「実力」から判断して、このような論文は書けないはずだと、邪推された。その邪推のせいか、最初は「Aマイナス」と言っていたグレードが、難癖をつけられ「Bプラス」に下げられた。その大学ではAマイナスはAと、BプラスはBに分類されるため、私の卒論はBとなった。それでもようやく、CというレッテルからBに「格上げ」になった。

ハーバード大学ケネディ・スクールへの入学願書では、大学時代の恩師らの推薦文が必要になる。そのような推薦文を頼めるのは、卒論の担当だった女性講師(現在は教授)しか思い浮かばなかった。電話で推薦文を依頼すると(推薦文と言っても、実は自分で勝手に英語の推薦文を書き、内容を了承してもらいサインをもらうだけ)、卒業して10年以上も経っていたが私のことを覚えていた。そして私にこう言った。「あの論文は今でもよく覚えているわ。本当にあなたが書いたの?」

私に対するレッテルは、月日が流れても、剥がれていなかったわけだ。

ご要望があれば(ベケットに興味があれば)今度、その論文(和文要旨付き)をネットで公開します。あくまでもご要望があればですが・・・。

ハーバード経済日誌(その39) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

泥棒とアメリカ文化と関西人

アメリカも泥棒が多い。同級生で中国から来た実業家のニューは、夏休みの間だけで自転車を相次いで二台も盗まれた。フィリピンから来た留学生で、アキノ政権下で閣僚として働いていたラフィーは、アメリカの泥棒について、街で面白いものを見たと言って次のような話を披露した。

ボストンの下町。路上に止めてあった車に目立つように張り紙がしてあるので、なんだろうと思って覗き込んだところ、Sorry. The radio has already been stolen.(残念でした。ラジオはもう盗まれています)と書かれていたというのだ。つまり、泥棒にわざわざ「もう盗まれているよ」と張り紙を出さなければならないほど車上荒らしや車泥棒の被害が多いということらしい。

私自身は自転車や車を盗まれた経験はないが、厚かましいアメリカ人がいるのには、びっくりしたことがある。新聞泥棒だ。アメリカの新聞配達は大雑把で、寮やアパートの入り口のところに山積みにしておいたり、寮の中まで配ってくれたりしてもドアの前の廊下に置いてあるだけ。うっかり寝坊して10時ごろ新聞を取り込もうとすると、なくなっていることがよくある(新聞社に電話すれば再配達してくれる)。10時までに新聞を取り込まないやつが悪いんだと言わんばかりだ。ちゃっかり者の泥棒の中には新聞本体は盗らないで、織り込みチラシの中にある、モールなどのクーポン券(これを持って行くと20%引きなど安く買い物ができる)だけを持っていってしまうやつもいた。

こんなことを書いたらおそらく関西の人からは怒られるかもしれないが、アメリカ人の厚かましいメンタリティーは関西人に通じるものがあるような気がする。又聞き(確か「天声人語」にも書いてあったと思う)なので正確ではないかもしれないが、大阪で開かれた花の博覧会での話。花博も好評のうちに終わり、最終日に事務局も後片付けに追われているとき。ある関西人が、展示が終わった花を見て「もう、花は必要ないんやろ。持って帰ってもいいんとちゃうか」と言って花を取ったのをきっかけにして、回りにいた人がわれもわれもと、それまで展示されていた花を根こそぎ持ち去ってしまったという(もし事実関係が違っていたらごめんなさい。もちろん関西の人が皆、このように厚かましいとは思っていません。責任転嫁するわけではないですが、次のようなサイトもあります。「あきれた関西人」http://blog.goo.ne.jp/ahochaimannen/e/db72176ec948ffc1f1958154fca2dab4。ご参考までに)。

このメンタリティーがアメリカ人の厚かましさに似ていると思う。朝の10時になっても新聞を取り込まないのだから、持って行ってもいいのではないかとばかりに、新聞を失敬するからだ。もちろん犯人を捕らえたわけではないから、本当にアメリカ人がやったのか、あるいは留学生がやったのかは定かではない。しかし、次に引っ越したワシントンDCのマンションでも、同じことがたびたび起こったところをみると、アメリカ社会の中ではこうしたことは常態化しているのではないかと思わざるをえなかった。

ハーバード経済日誌(その38) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

成績2(フリーページに「驚異のガラパゴス2」をアップしましたので、興味がおありでしたらお読みください。メモ2「フロレアーナのミステリー」がお薦めです。)

中間試験が終わると、学生たちは初めて、それぞれの試験や論文・ペーパーに対するグレード(成績)というものを受け取る。ミッドキャリアの学生にとっては、社会人として培ってきた「知恵」と「力量」を試されるわけだ。

その成績をめぐっては、学生と教授の間でもめることもある。特に設問に答える形式の試験ではなく、ある程度自由に書くことができる論文やペーパーだとなおさらだ。もめるときはたいていの場合、なぜこんなに低いグレードなのだと、教授に食ってかかることが多い。とくにミッドキャリアの学生はプライドも高く、教授とほとんど対等か、もっとえらそうにしている人もいる(実際、年齢も上回っているケースが多い)。

そういう場合、教授側は「これは相対評価であり、もっといい論文やペーパーがあったのだ」などと説明するようだ。きっちりと点数と成績の関係を明記して、成績の分布グラフも公開することが多い。学生の参考にするために、Aを取ったペーパーを張り出す場合もある。

英語文化に慣れていないと、教授側の論文やペーパーに対するコメントを誤解するケースも出てくる。ペーパーに対する論評を教授がする場合、アメリカでは俗に言う「サンドイッチ・メソッド」を使う(もちろん例外はある)。つまり、身(肉)の部分をパンで挟むように、本当の言いたいこと(身の部分)を真ん中にもってきて、最初と最後(パンの部分)はどちらかというと社交辞令的なコメントを持ってくるのだ。

たとえば、「あなたのペーパーはよく書かれている」と、最初は通常ほめる。ところが、教授が本当に言いたいことは、次に来る「だが、この点とこの点が分析不足だ」とか「議論が十分でない」であることが多い。それでも最後は「努力を認める」「よくまとまっている」などとほめて終わる。

すると、最初と最後だけを見た学生は、「教授はほめてくれているのになぜBしかくれないのだ」と勘違いすることがある。イスラエルから来た学生は、まさにそう言って、教授に食って掛かっていた。

ただ所詮、成績は記号や数字。その人の人間としての価値を決めるものではない。客観的な論評部分だけを参考にして、あとは「何を勝手なことを言っていやがる」ぐらいに思っておけばいいのではないか。

成績1は11月26日の日記を見てください。

ハーバード経済日誌(番外) 「アイヌの歴史(4)」

アイヌの歴史4(最終回)

アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。

ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。

こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。

さて、時代を少し遡る。
アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。1788年、1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。

ちょうど和人がアイヌに対してやったように、白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。

インディアン、アボリジニ、アイヌといった誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたわけだ。

現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、アイヌの歴史を知っているなら、北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。

アイヌの虐げられた歴史については、ホームページ「アイヌと日本人」http://www.tcn-catv.ne.jp/~ikenobunko/sub2.htmが詳しい。今回の「アイヌの歴史」に関しては、花崎皋平の『島々は花綵』やブリタニカ大百科事典などを参考にした。

明日からは再び、ハーバードでの学生生活の話に戻ります。

ハーバード経済日誌(番外) 「アイヌの歴史(4)」

アイヌの歴史3

18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。

1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。

事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。

これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。

当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。そのほか貴重なアイヌ見聞録としては、菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記2』の中の「えぞのてぶり」がある。

アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった。(続く)

ハーバード経済日誌(番外) 「アイヌの歴史(4)」

アイヌの歴史2

豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。

松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。

こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。

この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。

18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。(続く)

ハーバード経済日誌(番外) 「アイヌの歴史(4)」

アイヌの歴史1

おそらくアイヌの歴史を知らない人が多いと思うので(私も最近までよく知らなかった)、ニューイングランド(アメリカ)の血塗られた歴史を紹介したついでに、アイヌに対する血塗られた歴史についても触れておこう。

658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)。

『吾妻鏡』などによると、13世紀ぐらいまでは、北海道(夷島)は流刑地扱いされていたようだ。15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。

移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。

1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。

つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。(続く)

ハーバード経済日誌(その37) 「USの真実と人種・社会問題(95)」

ニューイングランドの紅葉と血塗られた歴史

ニューイングランド地方とは、ハーバード大学があるマサチューセッツ、アケイディア国立公園で知られるメイン州、1905年に日露戦争の講和会議が開かれたポーツマスのあるニューハンプシャー、『サウンド・オブ・ミュージック』で有名なトラップ一家が移り住んだストウのあるバーモント、富豪たちの大邸宅が多いロードアイランド、マーク・トウェインが暮していたコネティカットの六州を指す。そのニューイングランド経済の中心地がマサチューセッツ州ボストンだ。

1620年、メイフラワー号で「新大陸」を目指した清教徒の一行は、現在のマサチューセッツ州プリマスに上陸、この地に新たな英国を築こうとした。この地方がニューイングランドと名づけられたのはこのためである。

当時のニューイングランドには、もちろんネイティブアメリカン(インディアン)が居住していた。彼らはイギリスからやって来た白人たちに、食料を分け与えるなどで多大な援助をした。白人たちは11月第四週の木曜日に、その「収穫」を祝う感謝祭(サンクスギビング)をするようになった。ネイティブアメリカンは野生の七面鳥の捕り方なども白人たちに教えたので、感謝祭には七面鳥を食べるようになったのだという。

ところがやがて白人たちは、ネイティブアメリカンたちを追い払いはじめる。彼らの居住区を奪い、最後はご存知のようにインディアンに対する大量虐殺が始まる。恩を仇で返すとはこういうことをいうのだろう。

私がハーバードで取った授業では、アメリカのこうした血塗られた歴史を取り上げなかったが、私のクラスメートのフィリピン人留学生が歴史のコースを取り、そうした歴史の現実に触れ「白人たちはこんなにひどいことをやっていたのか」と、がくぜんとしていた。いつか詳しく触れるつもりだが、アイヌが和人にどのように殺されていったかを考えるとき、インディアンの歴史と同様、悲しくなる。

そうした歴史はさておき、ニューイングランドの紅葉は素晴らしい。マサチューセッツ州には、モホーク・トレイルという東西に伸びる紅葉街道もある(かつてはネイティブアメリカンのモホーク族が暮していた)。飛行機で上空を飛んだことのある人ならわかると思うが、ワシントンDCからニューヨークまでは建物が立ち並ぶ灰色の景色が続く。ところがひとたびニューイングランドの上空に入ると、眼下にはざわざわと緑の海が広がる。それが紅葉すると、それはもう夢のような世界だ。

ただそこに、かつて血塗られた歴史が展開されたことを考えると、紅葉の赤が悲しみと怒りに満ちた血の色に見えてしまうこともある。

ハーバード経済日誌(その36) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

試験

前にも述べたが、9月10日ごろから始まった授業も10月中旬頃になると、「待ちに待った」中間試験が始まる。「久しぶりの学生(ミッドキャリアの学生)」にとっては、本当に久しぶりに学生の緊張感を体験することができた。

試験といっても、コースによって様々だ。ファーストフード店のように、教室の中で試験問題を解く「インクラス試験」、問題を受け取り、家に持ち帰って決められた時間内に問題を解く「テイクホーム試験」がある。試験の代わりに決められた数のペーパーや論文を出す場合もある。

テイクホーム試験なら、友達と相談して解けるだろうと思われるかもしれないが、それはしてはいけないことになっているし、事実上できない場合も多い。とにかく問題の量が多く、論文を書く場合が多いため、友人と相談する暇もない。たとえば朝の9時に試験問題が配られて翌日の午後5時に提出しなければならない試験では、家に帰って必死に関連する資料を読み、夜を徹してそれに対する論文を書き上げなければならない。資料を読むだけでも一苦労だ。

インクラス試験では、英和・和英辞書や計算機の持ち込みが認められた。といっても、辞書をあれこれ使う暇はあまりない。インクラス試験には、教科書を持ち込んで試験中に読むことができるオープンブック試験や教科書は持ち込めないクローズドブック試験がある。多くの場合、その場で問題が示されるが、1週間ぐらい前に問題が10問提示され、実際のインクラス試験では、その中から3問出すような試験もあった。学生は10問すべてに対する答えをクラスメートと一緒に考えて事前に作っておき(ただしそれがいい答えなのかどうかはわからない。教授も学生に考えさせることを優先させるので明確な回答を示さない)、それをある程度暗記して臨むことになる。

インクラス試験は短時間で終わるが、出来は体調にも左右される。テイクホーム試験はマイペースでできるが、長時間拘束される。私の場合、いちばんやりやすかったのは、インクラスでもテイクホームでもない、かなり自由なテーマで論文を書き、提出できるコースだった。一発勝負的な要素がなく、緻密に論文を書き上げることができるからだ。

こうして10月末までに中間試験が終わると、ほどなくニューイングランド地方には、世界でも最も美しいといわれる紅葉の季節が訪れる。

というところで、本日はラグビー早明戦を見に行ってきます。

ハーバード経済日誌(その35) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

統計学と超能力

(フリーページの「驚異のガラパゴス」第一回目をアップしましたので、興味のある方はどうぞ訪ねてみてください。)

ライト教授の統計学のコースを取ったおかげで、私も統計学に対する理解が深まった。1990年ごろに取材した防衛大学校の大谷宗司教授(当時、専門は心理学)が「超能力(の存在)は統計学的にはもう証明されている」と語ったことも、よく理解できるようになった。

つまり、厳密な条件のもとでエスパーカード(波型、丸、三角、四角などの5~6種類のカードで、裏から読み取るためによく使われる)を使って超能力実験を行って統計を取った場合、超能力が存在しないならカードが当たる確率は5分の1ほどだ。もちろん実験の回数が少なければ、まぐれで全部当てたりするが、実験の回数を増やせば、その確率は五分の一にかぎりなく近づいていく。ところが、何度やっても5分の2以上の確率でカードを当てるグループなり個人が出てくる。その場合、実験回数が多くなればなるほど統計学的には、カードを裏から読み取れるという特殊な能力をもったグループなり個人が存在する可能性が強まると判断する。

大谷教授の実験では、それが起こったという。何百回、何千回とやっても5分の2以上の確率でカードを当てる人は統計学的には「超能力者」である。仮に5回のうち3回はずれても、いつも2回当てることができるならば、その人は普通の人とは異なる特殊な能力を持っていると判断せざるをえない。そういう特殊な能力を持っている人は確実に存在する(ある意味で、超一流のスポーツ選手も超能力者といえる)。ただ問題は、まだそのメカニズムがよくわかっていないというだけだ。

しかしこんなことを書いても、世の中には依然としてテレバシーなどの超能力が存在しないと思い込んでいる人がいるのは、私には驚きでもある。

20年ぐらい前に、NHKの「サイエンスQ」という番組で超能力を取り上げたことがあった。NHKにしては珍しくまともな番組で、中国の気功師が風などを遮断したケース内に立てられたろうそくの炎を、「気」を入れることにより交互に右と左に倒していく実験や、天井からぶらさげたCD(LDだったかも)を気の力で動かすなどの実験を実施してみせた。気を送った被験者と施術者の気功師の脳波パターンが同調する実験もあり、画期的な番組ではあった。

しかしNHKができるのもせいぜいここまで。最後に司会者(たしか山川静夫)は「あなたは超能力を信じますか」と番組を締めていた。自ら厳密な実験をしておいて、それを「信じますか」と問いかけるのはどういうことか。科学的に考えれば、超能力は信じるか信じないかの問題ではないはずだ。

頭から超能力を否定する人には、是非、ライト教授の統計の授業を取ることをお薦めしたい。少しは科学的な思考を身に付けることができるかもしれない。

ハーバード経済日誌(その34) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

授業アレコレ5

リチャード・ライトの統計学がどのような内容だったか、その一部を紹介しよう。

ライト教授の統計学のクラスで、最初に出された宿題9問のうち最初の問題は次のとおりだ(カッコ内は私の解説)。

米国の教育当局は、すべての小学生について失読症(本がまともに読めないジョージ・W・ブッシュは「重度の失読症」であることはよく知られている。失読症は、アメリカでは深刻な問題になっているらしい)であるかどうかを調べることにした。そこで当局は、特別に訓練された心理学者に、すべての小学生を対象に失読症を見分けるためのテストを実施させた。その結果、当局はすべての小学生の10%が失読症であるとみなすことができた。ただし当局は、心理学者の誤診の割合は5%ではないかとみている。

問1 すべての小学生をテストした結果、心理学者に失読症であると診断された小学生の、実際に失読症である小学生に対する割合はいくらか?

答え 0・1×0・95(失読症と診断された小学生)を0・1×0・95+0・9×0・05(実際に失読症である小学生)で割る。つまり0・679。

日本語で書かれていれば、そんなに難しい問題ではないが、英語をちゃんと理解しなければならないから、結構難しくなる。ただ日本人は、数学では一般的なアメリカ人よりかなり優れているから、記号や方程式があると理解度が増すようだ。

逆に数学が得意でないアメリカ人の友達は「英語で書かれているのに何が書いてあるのかわからない。まるで外国語を読んでいるようだ」と話していた。

明日は少し脱線して統計学と超能力について書きます。

ハーバード経済日誌(その33) 「アメリカ生活のあれこれ・・・(31030)」

授業あれこれ4

統計学のリチャード・ライト教授も、学生による総合評価が4・75というスーパースターだ。教育機関の評価など統計学的に分析・解析するのが専門。95年には科学的解析手法に多大な貢献をしたとしてポールラザースフェルド賞が贈られている。

ライト教授のすごいところは、難しい統計の分析法を本当にわかりやすく講義してくれることだ。別の大学で統計を履修したことのある経済学の修士号を持っている学生も、「あのように難しい統計を、こんなに簡単にわかりやすく解説する教授を見たことがない」と舌を巻いていた。

ライト教授の手法は、徹底的に例題で統計学を覚えさせることだ。基本的な法則を教えた後、あらゆるパターンを想定した問題を学生に解かせる。学生たちは多種多様な問題を解いていくうちに、自分の疑問点が整理されて、いろいろな対処法を自然に覚えてしまう。ロールプレーイング・ゲームでいえば、問題をこなすうちに「経験値」がいつしか上がってしまうのだ。

唯一問題があるとしたら、学生たちがあまりにもよく理解してしまうので、成績に差がつかず、逆にわずかな点差でグレードに差が出てしまうことだ。たとえば、100点満点中95点までがAで、92・5点までがAマイナス、90点までがBプラス、85点までがB,80点までがBマイナスなど、たった五点差の中に大勢の学生がひしめき合うことになる。ちょっとしたミスがグレードを分けるから気が抜けない。

学期中に3回試験があり、その総合点でグレードが決まった。私は最初の2回はかろうじてAをキープしていたが、最後でBプラスを取り、結局Aマイナスで終わった。BプラスとAの差はわずか5点ほどだった。私のクラスメートで韓国から来ていたジャーナリストの学生は、ちょっとしたミスから最後はBマイナスを取ってしまったと、嘆いていた。80点も取って、Bマイナスは厳しい。

しかしこのコースを取った学生は、統計学的な考え方の基本をしっかりと身に付けることができるようになる。このため毎年大勢の学生が、ライト教授の授業に詰め掛けるのだ。

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