講演会のお知らせと今日の夕日

今日の夕日です。

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柔らかな感じのする夕焼けです。

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まさに海も空もオレンジ一色。空に広がる黄金を海が映し返しているんですね。

さて、講演会の告知です。
今月30日、ヒカルランドの宇宙寺子屋で「パン大陸をめぐる16方位線と巨石文明」というタイトルで私が講演いたします。詳しくはこちらのページをご覧ください。
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今後の予定

「新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編)」のシリーズは昨日終了しました。これで6年にわたる地方での記者生活時代が終わり、いよいよ本社経済部記者時代へと突入するわけですが、次の次の作品(次回作品は『留学生のための英語論文・ペーパー作成術』になる予定)の取材に専念したいため、ブログの更新を不定期にさせていただきます。ご了承ください。

次の次の作品では、再び皆さんが驚愕するようなノンフィクションの世界へと誘いたいと思っております。ご期待ください。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編67) 「メディアって何だ!?(185)」

ホピの予言2
緊急集会の目的は、ホピの予言を外部に公開するかどうかであった。とういうのも、石板には、二つの世界大戦と広島、長崎への原爆投下とみられるシンボルが刻まれていたからである。原爆はホピの言葉で「灰のびっしり詰まったクッション」と表現されていた。

このままでは地球が破壊されてしまうことを人類に警告すべきではないか――。精神的指導者「キクモングイ」たちの意見は一致した。三人のメッセンジャーがその会議で選ばれ、ホピの予言に込められた教えと警告を世界に伝えていくことになった。宮田さんが1978年に出会ったのは、その三人のうちの一人バンヤッケであった(三人の中で最後まで残っていたバンヤッケも1999年に90歳で死去した)。

ホピの聖地は当時から、莫大な量の石炭や石油、それに地球最大級のウラニウム産地として開発が急激に進んでいた。ホピの聖地から採掘されたウラン鉱石が核兵器など核開発に使われていたのである。日本の原発に使われるウラン鉱の一部も、ホピの聖地で採掘されたものであるという。しかも聖地は、核廃棄物の巨大処理場に変貌してしまった。

ずさんな核廃棄物処理のせいで、ホピやナバホの人たちの中からは「被爆」するものも現われた。聖地は開発の名の下に破壊され、ホピは汚染に苦しむことになった。それは人類が直面している危機そのものであった。

宮田さんはバンヤッケによって語られるホピの予言を通じて、ホピの聖地が現在どのような危機に直面しているかを映画の中で訴えた。「文明が母なる地球を被爆させ、その呼吸を困難にさせているのだ」と、宮田さんは言う。「ホピの生き方こそが、この地球の病を治す唯一の道である」

宮田さんはその後、89年から6年かけて日本とアメリカを頻繁に行き来し、第二部の制作に取り組んでいたが、95年3月編集作業に入る直前、米国滞在中に脳内出血で倒れてしまった。一命はとりとめたが、重度の後遺症が残り、現在療養生活を続けているという。

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編66) 「メディアって何だ!?(185)」

ホピの予言1
当時埼玉県に住んでいた映画監督宮田雪さんに会うまでは、ネイティブ・アメリカンのホピのことはほとんど知らなかった。何のきっかけで宮田さんと出会ったかはよく覚えていないが、宮田さんがちょうど『ホピの予言』というドキュメンタリー映画を完成させて、自主上映を始めた1987年の7月ごろ取材、予言の話を8月の広島原爆の日に併せて出稿した。

『ホピの予言』は、核兵器を開発し、地球の環境を破壊し続ける人類に対するホピからの警告のメッセージを伝えるドキュメントであった。宮田さんがこの映画を作るきっかけとなったのは、1970年代にインドで仏教僧から「大地と生命を敬い、創造主への信仰のもとに生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが近代物質文明を変えるだろう」という言葉を聞いたことであった。

宮田さんはその後、1978年に訪米。ネイティブ・アメリカンによる権利回復運動「ロンゲストウォーク」に参加した際、「ホピの予言」のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカと出会い、映画の製作を決意した。

ホピ族はアメリカ南西部、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドの4つの州が一つに交差する「フォー・コーナーズ」周辺、コロラド高原とグランド・キャニオンなどの巨大渓谷に囲まれた地に住むネイティブ・アメリカンである。

多くのネイティブ・インディアンたちがヨーロッパからの侵略者によって祖先伝来の聖なる地を追われていく中、ホピ族は少なくとも二000年以上、マーサウという偉大なる精霊(グレートスピリッツ)から与えられた土地を守ってきた。そして、多くの差別と迫害に耐えて、その伝統的な生き方と、偉大なる精霊から与えられたという予言の石板を死守してきたのだという。

バンヤッカによると、もともと予言の石板は門外不出の古くからホピ族に伝わるメッセージで、宇宙の計画としてホピに与えられたものであった。「第三の世界」と呼ばれるこの世界の始まりから、浄化の日を経て、「第四の世界」と呼ばれる新しい世界が始まっていくまでのことが印されているのだという。ホピは常に、ホピ族自身に起こる変化とこの地球上で起こる変化を、その石板と照らし合わせながら見つめてきた。

転機は1948年にやってきた。ションゴパビ村の地中の集会所「キバ」に、ホピの8つの村の精神的指導者「キクモングイ」が集まり、緊急会議を開いたのだ。
(続く)

新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編65) 「メディアって何だ!?(185)」

浦和支局の三年間
結局、私が埼玉県政を担当している間は一度も国政選挙がなかった。取材して原稿にしたのは統一地方選と浦和市長選だけである。1988年秋の埼玉県知事選も、その年の春に本社経済部に異動になったので担当しなかった。畑和に対抗する自民党の候補が自治省出身の官僚に決まったことを、はるばる埼玉から東京・平河町の自民党本部まで出向いて原稿にしたぐらいであった。その後本社勤務では、平河町の自民党本部には足繁く通うようになるのだが、それは経済部編のシリーズで詳述することにする。

埼玉県政は、成田―大宮リニア構想以外に全国ネタになるような動きもなく、極めて平穏であった。それでもヒマネタは書かなければならないので、埼玉大学と理化学研究所が提携する話などを独自ネタで原稿にしたこともある。

変わったところでは、埼玉県北本市に住む自営業の男性が「幽霊探知機」を製作したという情報を得て、取材を試みたが、本人が試作機に自信がもてないということでボツになった思い出もある。映画『ゴーストバスターズ』が流行っていた時代でもあり、原稿にしたら大きな反響を呼んだのではないかと思うが、残念であった。

岐阜県で恐竜の化石が見つかったというので、管轄外ではあったが休みを取って日帰りで岐阜県高山市まで取材に行ったこともあった。行く前には古生物の専門家に恐竜の化石の見分け方を簡単に教わったが、現場で見たものは残念ながら素人の私にも恐竜の化石ではないとわかるものであった。

このようにして、殺人事件や日航機墜落事故といった社会部的大ニュースの“洗礼”を受けて始まった浦和支局での三年間が過ぎ去っていった。明日は「ホピの予言」について書いた原稿の話を紹介して、それで浦和支局編のシリーズを終えようと思う。

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